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8月/TRENTE

安岐野一星

 百日紅の花が水銀灯に青白く照らされる下を絢子はセカンドバッグを胸に抱えるようにして帰宅した。混んだ電車を乗りつぎながら都内に持っていくその中身にむろんそれほど高価なものは入ってはいない。だが春先からこのあたり一帯でひったくりの被害が続いているという噂があった。小奇麗な家々の立ち並ぶ夜道を早足で歩きつつ背後から近づいてくる自転車の轍の音を聞くたびわれ知らず絢子は洒落た黒い布製の、しかし少々くたびれたシャネルのバッグをしっかり胸に押し当ててしまうのだった。
 そのひったくりの噂を絢子は隣室の主婦から聞いた。結婚して3年目という彼女は絢子よりずっと年下のくせに若い母親同士のネットワークを持つ強みからか地域社会をめぐるその種の情報に何かと詳しかった。早朝出社し帰宅も遅い独り暮らしの女性にとってそうした話題に触れることができる機会は少なかったから、たまの休日マンションの洗い場で子供のスニーカーを洗っている隣人の姿を見かけたりした時など、買い置きの雑貨を詰めたスーパーの袋を小脇にかかえたまま絢子も出来るだけ世間話をすることを心掛けていた。生意気に青年達が履くのと同じ凝ったデザインのカラフルな小さな靴は母親の掌にすっぽり隠れてしまいそうで、まるでお人形の靴のようだ――と近くのアパートに集団で住みはじめたという“外国人”の話題にうわのそらの相槌をうちながら絢子は思った。

 コンビニのビニール袋をテーブルに置き、汗ばんでまといつくワンピースを果物の皮をむくように脱ぎすてた絢子は手早くシャワーを浴びてお気に入りのタオル地のショーツとTシャツに着替えた。帰宅にあわせタイマーセットしたエアコンがすでにほどよくきいていて冷蔵庫から取り出したバドワイザーと幾種類かの惣菜のパックを前に絢子はようやく人心地がつくのを感じた。そんなとき自分が昼間どれほど気を張り詰めていたかがわかるような気がした。
「……お疲れさま」
 ふ……なんてありきたりな独り言。
 芝居がかった手つきでビールをグラスにそそぎながら彼女は苦笑した。以前トレンディドラマのなかで女優がそんな台詞を喋るのを嘘っぽい演出だなと思って見ていた自分だったのだけれど。
 冷えたビールを一口あおり口元についた泡を化粧くずれを気にする必要がない今を楽しみつつ拭ったあと、惣菜の入っていたビニール袋を勢いよく丸めた絢子はその感触にどこか妙なものを感じて手をとめた。
 ……何かまだ品物買ったの忘れていたっけ?
 くしゃくしゃになった袋の中を探ると確かに手ざわりがあった。逆さに振るとビニールクロスの上に小さな影がころがった。
「え? 何……、これ?」
 思わずそんな言葉が出たのはテーブルの上にあるのがおよそ考えられない品物だったからだ。しばらく呆然と眺めたあと絢子は恐る恐る手をのばし……そうしながらそんな自分をひどく滑稽に感じてもいた。それは危険などとはおよそ無縁なもの……女の子向けのお人形セットに付属してくるような小さな玩具のティーカップだったのだから。
 ……なんで、また?
 考えるほどに不思議だった。この惣菜は駅前にあるいつものコンビニで買ったものだ。顔見知りのアルバイト店員がきちんと折りたたまれた新しいビニール袋を広げそれらのパックを重ねて入れてくれたのを覚えている。店を出てじきに絢子は人通りの少ない住宅街のなかを通る道に折れ、それからこの部屋までの夜道をひったくりを警戒しつつ早足で歩く彼女の数メートル以内に近付いた者は誰もいない。……なのに一体どうしてこんなものが入っているんだろう?
 唯一考えられるとしたら道筋に並ぶ家々の窓のひとつから投げ捨てられたものが偶然入ってしまったことぐらい……。しかし日が暮れてからわざわざ家の前を通る人に向かって玩具を投げすてる子供(?)がいるとは思えない――いや、仮にそうであったとしても、そんなことがあれば暗い道を緊張して歩いている絢子に感じ取れないはずはないのだ。カーテンが引き開けられ部屋の窓が開けばどうしたってそちらに目がいくだろう。……それともその“少女”は明かりを消した真っ暗な窓辺で音も立てずじっとこちらをうかがっていたとでもいうんだろうか……?
 絢子はぞっとして思わず小さなおもちゃを投げ出した。
「ああ……やめてよ。そういうの、ダメなんだから!」
 思わず口に出して言わざるをえないのは何といっても一番弱いところだから。夏場の怪談は独り暮しの女にはご法度だ。
 勇気づけるようにグラスのビールを一気に飲みほし、ため息をつきながら転がったカップをこわごわ眺めていた絢子は、しかしやがてはっとしたように今度はためらうことなくそれを手にとった。
 ……見覚えある! この傷。
 小さなカップの小さな取っ手に微かに傷があった。目を近づけて子細に観察するとジグソーパズルの捜していた一片がしっくりと填まるような安堵感があった。
「これ……。わたしの、だわ」
 小学校低学年……そう、確か三年生の夏休み。デパートに家族で買い物に行き“リカちゃん”の喫茶店セットをねだって買ってもらった記憶がある。妹と……喧嘩をしながら遊んでいるうちにひとつ、またひとつとセットの付属品は消えていき、やがて彼女が中学校の真新しいセーラー服に袖を通すころ、薄汚れた“リカちゃん”自身をのぞけば何一つ残ってはいなかった……。
 間違いない。これだわ。でも……いったいどうして今になって?
 飲み干したビールの炭酸とは別に何か喉元に込み上げるものを感じながら絢子はそれを……今度はいとおしげにテーブルクロスの上にそっと置きなおした。
 ……ありえない。とても考えられないわ!
 彼女たちが住んでいた四階建の公営団地は今では建てかえられ高層住宅に姿を変えていた。両親は退職後地方都市の郊外に家を買い……まもなく父が死に、せっかくの新居を人に貸したあと母は結婚した妹とその亭主と一緒に狭い社宅で暮らしている。気詰まりなら――と会うたびに自分との同居を提案する絢子だったが、見知らぬ土地で昼間一人きりで過ごすことの辛さを理由に母は今だにその話に乗ろうとはしなかった。
 ……おまえが専業主婦で家にいるならいいんだけどね。
 絢子は頭をふった。……何かの拍子に家具や荷物の隙間にまぎれ込んでいたのだとしても、はるか昔なくしたティーカップが今この瞬間、築五年のマンションの一室で絢子の買い物袋から突然現われる経緯はまったく説明できそうにもなかった。
 ……やはり何かの“超常現象”ってこと?
 そう考えてもしかし今度はまったく恐怖は感じなかった。懐かしい少女の頃の思い出の品物が思いがけず戻ってきてくれた。その事実が嬉しく心が高鳴って、その出現にまつわる謎はどうでもよい些細なものに思えた。
「そうか!」
 突然霊感がひらめいて絢子は背後の壁のカレンダーをふり向いた。
「今日は十三日じゃない!」
 盆の初日だった。古来死者たちの魂が家族の元に戻ってくる、とされる日。幼かったころ、今ではほとんど顔も忘れてしまった祖母が勝手口で迎え火をたく姿が、ふと遠く思い出された。
 ……絢ちゃん、けぶいから離れてなさいね。
「そうなの? ――それで帰ってきてくれたの?」
 絢子は安っぽいテーブルクロスの上に鎮座した小さなティーカップに向かってつぶやいた。それから少し生ぬるくなったビールを缶からゆっくりとグラスに注ぎ、深い想いをこめて目の前にかかげた。
「遠い、遠い旅から帰ってきたのね。……お帰りなさい」
 ティーカップが戻ってきた。そう……このティーカップが戻ってきたのだから、同じ場所から別のものたちも帰ってこれるはずだ。絢子は思った。喫茶店セットの別の品物たち。泣く泣く捨てにいったあの小さな三毛猫。夜店で買った風鈴。懐かしいあの家。そして幼馴染みたちと遊んだ日々。何時かは失われたものたちも必ず戻ってくる……そんな果敢ないメルへンも今夜だけは信じられるような気がして、彼女はほんとうに久しぶりに自分自身の目頭が熱くなるのを許した。
「ありがとうね」
 今夜妹たちも父のために迎え火をたいているだろうか?
 ……そうよね。今度の休みにはみんなのところへ行って一緒に食事しようかな。そう言えば姪っ子たちにもずいぶん会っていないし……大きくなったろうなあ。
 やがて微笑みながら頬の涙をぬぐった後、絢子は茄子の古づけを糠床からつかみ出す決意とともに立ち上がった。
 ――夏休みまでまだちょっと間がある。

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