睦っちゃんはふと足下に目をやった。去年の落ち葉になかばうもれて見慣れない白い石がある。ふいに胸がざわついた。落ち着かない気分で意味もなくあたりを見回してみる。もちろんだれもいない。ときおり葉擦れの音だけが聞こえる昼下がりの切り通し――かたわらを錆びた線路が木漏れ陽のなかにどこまでもつづいていた。 「これは……ほら、あの石じゃないかな?」睦っちゃんは自分に問いかけるように呟いた。このごろ何かにつけ独り言が増えたなと思う。歳のせいだろうな。そういえば再来年には睦っちゃんも還暦なのだ。 「鉱物図鑑で見たことがある――たぶんこれが」 、しゃ……。 身をかがめてひろいあげると掌にあまる石は思いのほか軽い。軽いこともその証だ。『音石』は内部に微小な空洞をたくさん持っているのだ。なにかの作用でその空洞に音が刻みつけられる、と――以前どこかで確かに読んだ記憶があるのだが、肝心の内容を睦っちゃんはすっかり忘れてしまっていた。 両手で丁寧に土をぬぐい目の高さにつくづくかざしてみる。石というより釉薬をかけるまえの陶器のような肌触りなのだ。珍しいものを見つけた子供のころの喜びが心の奥でかすかに蘇る。唇をとがらせそっと息を吹きかけてみた。 りょるるる……。 それは嵐の日のすきま風に似た微かな音をたてた。 「『音の石』か……」睦っちゃんは久かたぶりににっこりと微笑んだ。
山影が店先の三和土に落ちるころになると河原から風が這い上がってくる。そんなとき戸口に立って『石』を耳に押しあてると通り抜ける風の強弱や方向によってさまざまな音が渦巻くように響いてくるのだ。最初のうちは茫漠とした砂のうえを吹き渡る風のような、こーっとした耳鳴りのような音だけ。それが当てる風の強さや角度をわずかに変えるとがらっと違った音色になる。封じ込められた音を選り分けるには微妙にそれらを工夫しなければならないのだった。 しゃわり、ざゆら、しゅら…… だれでもまず簡単にひき出すことができるのは梢をわたる風。ざわめく樹冠の葉の音。でもそれ以外はあまりに微妙で儚くてなかなか聞きとれない。それでもいろいろ試してみるうち睦っちゃんはようやくこのごろ通り過ぎる列車の音らしいものを選り分けることができるようになった。 かちゃたん、しとん、ととん、かちゃたん、しとん、ととん……。 レールのつなぎ目を踏む鉄輪の規則正しいリズム。 きょーっ、るるるるっ! 遠い微かな汽笛。睦っちゃんは目をとじる。感じとれるぎりぎりのあたり、つかみとれることとすり抜けてしまうぎりぎりの境に、そうした場面にふさわしいいろんな音たちが集っている気配がする。急峻な峠を越えるため重連されたディーゼル機関車の唸り声の二重奏。下り貨物を待って退避線から動き出すときの連結器の長い将棋倒し。どれもこれも遙か昔に山にこだまし消えていった音たちだった。そんなたまゆらの響きを『音石』は、人間が録音機械を創り出すずっと前から無心に吸収しつづけ、また時折の風に乗せ奏でていたのだ。だから睦っちゃんは耳を研ぎ澄ませて、まるで薄れかけた記憶をたどるようにして、そんな木霊たちを捜すことについつい没頭してしまう。
ふと我にかえると向かいの嶺の上に星がまたたいていた。店の中もすでに薄暗い。柱時計を見あげると五時を二十分以上すぎている。いけない――睦っちゃんは家にひとりいる聡ちゃんのことを思い出した。残りごはんは昼でてくるときに食べてしまったから帰ったらすぐに飯を炊かないと……長年連れ添った妻が寝込んでしまってからここ数年、睦っちゃんがひとりで三度の食事の支度をするようになっていた。 ほそぼそとつづけている畑の世話を午前中にかたづけて、昼からは睦っちゃんは四キロ離れた隣村にある雑貨屋の手伝いをしている。一時から五時まで――以前は釣り人や河川敷のキャンプ場を訪れる家族連れでそれなりににぎわったこともあったけれど、いまではまるでその面影はない。とはいえ缶詰やら調味料やら乾物やらをわけてもらえることもあって、べつに辞めてくれとも言われないのを幸い、そのまま何となく店番をつづけているのだ。 「……それじゃあ、お先に」 袋にいれた鯖の味噌煮の缶詰と小瓶の醤油の代金をレジがわりのティッシュの空き箱にじゃりりといれ、睦っちゃんはいちおう奥に声をかけると返事をまたずに店の表へでた。
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ぱりぱりぱりぱり……。 仕事がえりの山道を睦っちゃんはバイクでひたすら登っている。お義理にかぶったヘルメットを前方に傾け、ハンドルを握った肘を両側につきだし――自転車でここを登っていた頃のクセでついそんな格好をしてしまう。そうして一心不乱にとばしていると乾いたエンジン音が谷向こうに木霊する。 っぱぱぱぱぱぱぱ。 なんだか山全体がざわついているような感じがしてくる。静かな山の黄昏の時間を自分ひとりがかき乱しているようで少し気がひけるのだが、かといってやめるわけにもいかない。葛だの笹だのが道際まではびこってきて森そのものも荒れてきている。最近あちこちで熊だの猪だのの足跡をよく見かけるのだ。少し喧しいぐらいなほうが安全なのだった。なんとなく自然に追い立てられているようで睦っちゃんはますます身をかがめ甲高くエンジンを吹かす。 たたたら、たらたら、たらっ! たまにふっと弱気になる時がある。正直いつまでこの土地でがんばれるか自信はない。いまはまだいいけれど十一月をすぎるとこの峠道にも雪がつもるようになる。ここ数年はなんとか乗り切っているけれどまたいつかの年のような大雪が降ったら……。 カーブを曲がった拍子に夕日とはちあわせしそうになって睦っちゃんは思わずブレーキをくいっと握った。古びた隧道の真向こうから尾根に沈む太陽がまぶしい光をまっすぐに投げ送ってきていた。一瞬何も見えない。ヘルメットをまぶかにかぶりなおすと気をとりなおし、ゆっくり走り出して峠を越える。 「しばらく降りそうもないなあ」 家の裏の井戸の水位を思い出してついそうつぶやいてしまう。今年はとにかく雨が少なかった。 そのさき道は蛇行する渓流沿いにいっきに下り、防砂屋根の半トンネルをひとつ、そしてふたつ抜けた先、山肌に段々畑ごとへばりつくように睦っちゃんの家が見えてくる。 睦っちゃんの家は古い農家を改装したもので屋根は唐茶に塗ったトタンに変わっているけれど柱や土台は昔のままだ。入り口を入ってすぐの土間はいまは物置として使われていて手押しの耕耘機や漬け物樽や燃料のドラム缶などが雑然と並んでいる。敷居にわたした板きれは雨の日にバイクを土間に入れるために睦っちゃんが手作りした。とはいえもう一月以上キーも抜かず外に停めたままにしている。 「いま帰ったよ。今日はどうだった? 塩梅は?」 座敷と土間の境のガラス戸をすこし開いて睦っちゃんはそう尋ねてみる。雨戸を半分閉めた奥の部屋に寝床が敷いてあって膨らんだ掛け布団がわずかにみえている。 「……寝てるのか」 睦っちゃんはそっと戸を元通りにしめると裏にまわり発電機の燃料を点検してから始動する。 ぅーん、くおっ、くおっ。 通電すると井戸のポンプが咳き込むような音をたてて動き始めた。 それから睦っちゃんは裸電球の下でしゅじゃら、しゅじゃらと米をとぎ電気釜をセットする。炊ける間に裏山で採れたウドをじょとじょと刻んでキンピラをつくる。茄子をぱちっと炒め鍋に水を足して煮る。キュウリの古漬けをつとつと薄切りにしてしゃらと水にさらす。それから買ってきた味噌煮缶をごいごいと開けて裏返して皿にくぽんと盛る。 手早く支度を整えてしまったので飯が蒸れるまでが手持ちぶさたになった。睦っちゃんは茄子の鍋に味噌をこもっと溶きプロパンを弱火におとすと、上がり框にやれやれどっかりと腰をおろし一服つける。それから胸のポケットから『音石』をとりだして目尻にいっぱい皺をよせながらしばらく眺めた後、ゆっくり耳にあてる。 とたんに月日を飛び越えて睦っちゃんはこの土地にまだ活気のあった時代の森のなかにいる。 しゅさわーっ はじめは風の音かと思った。でもやがて葉にあたる雨音だとわかった。幹を流れくだる雨水が根方に溜まり、そこに落ちる滴が不規則なリズムを刻んでいるのもわかる。 ちぽ、ぽ、……ぽつん、ぽしょ、……ぽっち。 そのうち気まぐれな風が枝枝をたわめ、葉の表面の水滴がいっきに落ちてくる。 ずざーっ……。ぽぽぽぽ、ちっぽ、ちぽん。 不思議なことにただ音だけ聞こえているだけというのに、まるで湿った土と苔の強い香りがあたりいっぱい漂っている気になる。ほんとうに錯覚なのだろうか、と疑心暗鬼にとらわれて睦っちゃんは手にしたタバコを灰皿でもみ消してみる。鼻をならしてみるもののあるのは紫煙の残り香だけ。それがなければたぶんいつもの黴臭い土間の匂いだけのはずだ。 ――まさかね。自分を笑って睦っちゃんはひとり唇をひきゆがめる。 そのとき何の前触れもなく、不意に『石』の中から雨ににじみ木々の反響で幾重にもぶれた音色が微かに流れてきてはっと胸をうたれ、睦っちゃんはわれ知らず背すじをのばした。もみ消した吸い刺しが指からぬけでて落ちたのも気づかない。ここ十年以上も聞いていない音。日々の暮らしからもすっかり抜け落ち、忘れ去ってしまっていた音――それは麓の分校で下校時間をつげる『トロイメライ』の旋律。 不意に睦っちゃんの目の前に薄汚れた樺色の校舎の腰壁がありありと浮かび、同時に黒光りする鉄棒の堅く冷たい手触りが蘇った。ひびわれたパテと曇りガラス――コークスを入れたバケツとだるまストーブ――校庭の真鍮色の蛇口から迸る水……。そして甲高い笑い声――。 睦っちゃんは夢中になって『音石』をいろいろな角度に傾けて一生懸命に懐かしい音たちを探りだそうとした。下校のオルゴールが聞こえるのなら学童たちが校庭で遊ぶはしゃぎ声も入っているだろう。ひょっとしたらそのなかには自分自身やクラスメイトの声があるかもしれない……。 ぱりぱりぱりぱり……。 「おっと、いけない……」 睦っちゃんは思わず顔をしかめた。きゅうにけたたましいエンジンの音が『石』のなかから響いてきた。特徴ある咳こむような排気音。どうやらついさっきバイクを走らせていたときの音が胸ポケットにしまっていた『音石』にしっかり記録されてしまったらしい。何十年も昔の音を保存しつづける一方でひょっとした弾みに新しい音が『石』のなかにはいってしまうことがたまにある。 「うっかりしたなあ。こりゃあ、まずいことを」 大事な音たちを損なってしまった慚愧と自分への怒りを感じながら憮然と白い石をながめていた睦っちゃんは……こ、こ、こ、という囁くような音にふと我に返り、そしてみそ汁の鍋がかなり前から煮たっていることに気づいてあわてて火を消しに立ち上がるのだった。
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幾重にもまきつけた布をほろほろほどいて、睦っちゃんは大切なものをあつかう手つきで『石』を取り出す。羽虫をよけて出た河原には夏の陽射しが強く照り返していたけれど小楢の葉陰に腰をおろして森からの風を背中に受けていれば涼しかった。『音石』はいまでは睦っちゃんの毎日に欠かせないものになった。畑仕事がすこしずつきつくなり、このごろは目だの膝だのに不具合がでたりで何かと苛立つこともある。そんな時その内部に閉じこめられた懐かしい音たちに耳をすませると気持がやすまる。 耳にあてるとまるでそよ風なかから濾しとるようにして『石』は過ぎた日々の音たちを聞かせてくれる。 みっちゅり、へっちゅり、へっついのよめさん、すましてへをこきよる……。 そんなふうにミソサザエの囀りが聞こえる春。 おろん、おろん、おろん、……ごおん。 夕立を告げる雷声が嶺々にこだまする夏。 り、り、り、り、り、り、り、り……り、り、り、り、り、り、り、り…… あらがうなとヒグラシに静かに諭される秋。 ……。 ごくまれに、とさっ、と枝先からの落雪の音だけが聞こえる冬。 そしてどんな季節でも最後に聞こえてくる懐かしい音はトロイメライの旋律……。 ふ、ふ、ふふふ、ふふ。 気がつくと睦っちゃんは子供のように無心に鼻歌を唄っていた。いつの日だったか娘ざかりになった聡ちゃんがそうして見せたように――。ちょっと顔を赤らめ『石』を耳から離すと、目がくらんだような思いであたりを見渡す。以前渓流釣り場だった河原には鳥の鳴く声もなく、ただ瀬音だけが虚しく響いている。
段畑の下のほうに小さく見える黒いワンボックスを睦っちゃんは訝しんだ。降りていくと横っ腹に県の防災課とある。われ知らず眉をしかめる。 「――宮本さん」 影と日なたの境に立っていた県職員がヘルメットを脇にかかえ頭の汗をふきふき声をかけてきた。何度か見た顔だ――たしかカワカミとか……あるいはカワハラだったか――。見ると戸口が開いているので睦っちゃんはちょっと腹をたてる。留守だからって勝手にあがりこんでいいという法はなかろう……。 「今日は娘さんにごいっしょしてもらってますよ」 文句を言おうと開きかけた口のまま睦っちゃんは惚けたように沈黙してしまい。相手が指さすのにつられるように身をこごめ家のなかをのぞき込んだ。 「――佐代……が?」 「さきほどからお待ちになってます」 恐る恐る家に入ってみると座敷に不穏な顔つきの佐代子が座っている。ちょっときつそうにジーパンで正座した横に朝洗濯して干していった睦っちゃんのシャツがえらくきちんとたたんである。 「来てたのか――」 そう言ったなり睦っちゃんはあとの言葉につまってしまう。ずっと昔からどうも娘と話すのは苦手だった。 「今日は仕事は休みなのか?」 「土日にスーパーが店閉めてどうするの? わざわざ無理言っておとうちゃんのために休みもらったんじゃない」 「おれのため?」 「説得してくれって言われたの」 「ええ……申し訳ありませんが、わたしどものほうからお願いしてご足労をおかけしたわけなんです」 睦っちゃんの背後に立っているカワカミだかカワハラだかが場をとりつくろうように言わずもがなの弁明をする。 「このあたりで残っているのは睦夫さんおひとりだってことはご存じでしょ? いくら距離が離れているといっても風向きによっては危険がないとは言い切れませんよね。確かにご迷惑かも知れませんが、われわれとしても県の勧告にはすなおに従ってもらわないと困ってしまうんですよねえ。このとおり、お願いしますよ」 大柄な相手に頭をさげられてもむしろ睦っちゃんは慇懃無礼に脅迫されているような気がする。 「しかし……ねえ。前から幾度もいってるけど、ここがおれの家なんだし。べつに誰にも迷惑をかけているわけじゃないと思うし……」 「かけているじゃないの! こうして実の娘のわたしにっ!」 押さえていたものがはじけるように唐突に叫び立ち上がると佐代子は睦っちゃんの前につかつかと歩み寄って父親の二の腕を痛いほどの力でつかんだ。 「ね、おとうちゃん。わがまま言ってないで、いますぐ表の車でいっしょに来てちょうだい! 身の回りの荷物はわたしがまとめておいたからね――ね!」 睦っちゃんの返答はすでにしどろもどろだ。 「――いやいや、待てよ。そうはいかないよ。佐代――。だって……。おれが出ていってしまったら寝たきりの聡子はどうなるんだ?」 そう言ってから睦っちゃんは他のふたりがはっとたがいの顔を見やり、すぐにばつがわるそうに視線をそらせあっていることに気づくのだった。 「ねえ……おとうちゃん」 妙にしずかな口調で、しかしそう言う佐代子の手は睦っちゃんの身体を異常な力でゆすっていて、しまいにむなもとから『音石』の包みが畳にこぼれおちてしまったほど。睦っちゃんは慌てて拾い上げようとするのだが、娘は血の気がなくなるほどきつく胸ぐらを握る手をてこでもはなそうとはしない。 「しっかりしてよ! おとうちゃん。え? もうすっかり忘れちゃったの? おかあちゃんの七回忌、一昨年に終わっているじゃない――」
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遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。空の彼方までつきぬけるような甲高い笑い声。鬼につかまりそうになった女の子の悲鳴。大人を真似た男の子の唐突な胴間声。なにやらさかんに文句を言っている子もいる。ひとりひとりの声は聞き取れないけれど全部がとけ込んだその音はどんな時代でもほとんど変わらない。囃し言葉も数え歌――細部は違っても基本のリズムは同じ。不思議だがなぜか子供というのはそういうものらしい。 ようやく見つけだしたその音を聞くにはなかば包んだ掌の形で『石』のほんの一部にだけ風があたるようにしなければならない。風の息にあわせて石を微妙に傾けるのも忘れちゃいけない。そして意識をぎりぎり集中して耳をすませる。でも年とった睦っちゃんの指はだんだんしびれてきて残念ながら長くその姿勢を保持していることはできない。 しまいには『石』を取り落としそうになり、あわてて持ち直すと今度はあたる風の方向がすっかり変わってしまい聞きたくもない別の音が引き出されてきた――。 「……今年でもう七十二なのよ? ほら……畳にあちこちタバコの焦げ跡があったり……。娘として心配でとてもひとりにしておけないのよ」 あのとき座敷に取り落としたために父親を説得する佐代子の大声が『石』のなかに染み入ってしまったのだった。 「鈴木商店の品物を勝手に持ち出した件はここにいる上川さんが話をつけてくれて――。ねえ、おとうちゃん。お金を払えばいいってものじゃないでしょう!」 それでももういちど子供たちの声を聞きたくて睦っちゃんは『石』を耳もとで懸命にひねり回してしてみる。 「……ときどき記憶があいまいになられるようですよね。やはりこの歳で一人暮らしというのはご無理があるんじゃ――」 「ほら! 見て。誰も寝てなんかいないでしょ?」――乱暴に雨戸をひきあけ、かけ布団をはがす音――。 「だれだって避難所暮らしは辛いの。それでも行く場所もなく仕方ないから我慢しているのよ――なのに、せっかくわりあててもらった仮設住宅を出て来ちゃうなんて……」 ぱたらぱたらぱたら……。耳障りで甲高いエンジン音。 しまいにがっくりした様子で睦っちゃんは手をおろす。 ――もうだめだな……。 ため息をついて掌の中の白い石を見つめた。 持ち歩いていると嫌でも消えていってしまう。いっときは楽しませてくれる音たちもやがては……。 しばらくそうして朽ちかけたベンチでじっとしていた睦っちゃんは、やおら立ち上がると草のしげった校庭をつかつかと眼下に谷川の流れが望める錆びたフェンス際まで行った。その間中決然と背筋を伸ばしていたのが、いざその場所に来るとやはり未練を捨てきれないのかふたたび数分のあいだ立ちつくし――やがて最後にいよいよ決心をかためたようにくしゃくしゃに歪めた顔をあげた。 「懐かしい音をため込んでいつかまた聞かせてくれ、な……」 入れ歯をくいしばり、腕を背後にそらし、鬼のような形相で睦っちゃんは老いた身体の力いっぱい『音石』を空になげる。それは青のなかに一瞬きらりと銀にひかって、そして盛夏の暗いニガナの茂みに音もなくすいこまれていった。しばらく放心したようにその軌跡をなぞったあと、川に背をむけるとまるで病みあがりのようなぼうっとした表情で睦っちゃんは、校庭ごしに傷みが目立ちはじめた廃校の校舎をながめた。 ――ふたりしびれをきらしてるころだ。そろそろ行かないとな。 そのとき山の木々をぞわっとさわがせながら風が通り抜けた。フェンスわきの古い桜の葉たちがいっせいにたてる涼しげな音のなかに、睦っちゃんはもういちど遠い昔の音たちを聞いた気がした。 了 |