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魔女の家

安岐野一星

 町に一軒しかない床屋のかどでひび割れた舗装道路を北に曲がり、すこし頭のおかしいハンク爺さんのボロ小屋を左手に見ながら枯れかけた楓の小さな木立ちを通り抜け、蛙一匹住まない小川を渡るとそこはもうアンビル・バレイの鉱山跡だ。雑草と赤茶けたガレキで埋め尽くされた数千エーカーの荒れ地を小一時間も登って両側の岩崖が迫ってきたところ、細い坂道のどんづまりにその魔女の家はあった。
『魔女』は――すくなくともノックスビルの子供たちには――気も遠くなるほどの年寄りで、伝説の『エム・アンド・ケイ・スチール』が健在であった遥かな昔からこの地に住みついていると信じられていた。……もっとも彼らのうちで、老人たちが郷愁とともに語るその『古き良き時代』がいったいどれぐらい前なのか、はっきり知っている者は一人もいなかったのだが。……中央駅舎に数十分ごとに大陸横断の長距離列車が滑り込み、石だたみを早足に歩く何百もの靴音がホールに響いていたというその時代。いま週に一度オークス雑貨商のトラックが埃をたてて走るメインストリートには雑草が膝のたけほども生えて、この見捨てられた町に過去の繁栄の名残りはもうどこにもない。

「ちょっと、あんた。いったいどこまでついてくるつもりよ?」
 アンは振り向いて不機嫌そうに言った。
「せめて今日だけは悪戯はやめてよね!」
 トムはにやにや笑うだけで何も言わない。少女は弟の汚れた顔をせいいっぱいの威厳をこめてにらみつけた。
「まさか、またカロンをからかうつもりじゃないでしょうね」
「……さあね」
「あのね、今日は遊びじゃないんだから。……絶対に邪魔したら承知しないからね。あんた前歯の隙間が馬鹿みたいよ。にやにや笑ってないで帰んなさい」
 三日前に抜けた門歯のことを指摘されて不機嫌そうに舌を出すと、トムはまわれ右して両腕を回しながら石ころだらけの小道を飛ぶように駆け下って行った。
「まったく……。いつまでたってもガキなんだから」
「あまり邪険にしたらかわいそうだよ」
 フレディがかばうように言った。
「寂しいんじゃないのかな。だって来週の初めだろ、きみが町出るの」
「そんなんじゃないわよ、あいつ」
 アンは溜め息をついた。
「ほんと、ガキなだけ……」

 姉の一行が岩影に隠れて見えなくなるところまで降りるとトムは道を外れ、ざらざら落ちる乾いた砂礫の急坂を広い歩幅で登り始めた。ベイカー・ヘッジの露天掘り跡を通りぬければ姉たちの先回りが出来る。……血のように赤い汚水を溜めた深い縦坑がいくつも口を開けている岩場はこの上なく危険な場所だったから、大人たちは子供たちにそこへの立ち入りを厳しく禁じていた。しかし結局のところ少年たちは遅かれ早かれひとり残らずその魅力的な遊び場を知り尽くすことになるのだった。
 遊び仲間に入れてもらって間もないうちはトムも、そうした血溜まりの中から不意に腐敗したゾンビでも現われるんじゃないかとびくびくしながら、年長の少年たちの後ろをすがるように歩いたものだった。しかし今ではなんのためらいもなく、迷いやすい土地を彼は確実な足取りで一人歩いた。『生き埋めになった坑夫のさまよう屍体』なんて……つまりは大人たちの例の嘘のひとつなのだ。

 崖を下る急な岩場の獣道は魔女の家の裏手に続いている。そしてそこにあの洞窟もほの暗く口を開いていた。背後の山から流れ下る地下水が小さな泉となって崩れかかった母屋の脇に湧き出ている。そこにはまるで取り残されたように樫の古木たちが涼しげな葉影を落としていた。家の前のわずかな庭には晩い夏の風に吹かれてカモミールの茂みがわびしげに揺れている。
 トムは物音ひとつ立てないように用心深く母屋の横にあるニワトリ小屋の後ろにまわりこむとウォータークレスの葉影に身を潜めた。卵を抱いて目を閉じていた雌鶏たちのうちの数羽がびくりと身を起こしかけたが、少年がそれ以上近づく気配を見せないとやがて再び不満気に藁のなかに腰を落ち着けた。
 ひんやりとした湿り気が心地好い。どこからかものうく甲高い羽音が聞こえる。虻だろうか、それとも蜂か。周囲の荒涼とした荒れ地のなかでここにだけ自然が残っていることをなぜか知っているのだろう、残り少ない夏を惜しむように虫たちは山向こうの遠い沼地から小さな羽ではるばる飛んでくるのだった。
 かすかな水音が殺風景な廃坑の跡をひとり歩いてきた少年の心をやさしく和ませる。そうだ、あの『呪われた土地』を無事に通り抜けた勇者はあそこに見える泉で喉の渇きを癒す立派な資格があるはずだった。しかしそれは禁じられた泉でもあるのだ。トムはいままで幾度もその泉の水を盗み飲もうと試み、そしてその都度いじわるな『魔女』に乱暴に追い払われていた。
 厳重に守られた泉とその背後にある洞窟。ここ一年あまり、そうしてつまみだされる度に少年は、かえって洞窟の奥にある謎に心ひかれていくのだった。……そこにはいったい何があるのだろう? 知っているかぎり、子供たちのなかで誰ひとりそこへ入ったものはいない。魔女はまるで他人に知らせたくない大切な何かを守るように、いつだって家の窓から注意深く外を見張っているのだ。
 トムには勇敢な――どこか彼自身に似た――ひとりの少年の姿を想像することができた。彼はそうした抜け目ない魔女との知恵比べについに勝って魔法の泉の水を飲むことに成功するのだった。その水の不思議な力に守られて彼は魔物たちの住む洞窟の奥へと果敢に進んでいく。そうしてその暗闇は、いつしか別世界へと少年を導いていくのだ。しじまのなか時おり奇怪な鳴き声のかすかにこだまする暗い森。さらには半ば草木に埋もれた古代の廃墟へと……。そこにはきっと素晴らしい謎の答えがあるに違いない。それは失われたいにしえの王家の財宝だろうか? それともそれを手にした者に超人的な力と使命とを授ける聖なる剣? ――なんであろうとその秘密は勇敢な誰かをずっと待ちつづけているのだ。

 ……木漏れ日のなかの夢想から覚め、トムはしばらくそのままの姿勢で泉に近づく新たな算段を考えていた。やがて何かを思いついたらしく、少年はそっと身をずらし鳥小屋の割れ目ごしに泉の縁の黒い姿をうかがった。……カロン。魔女の飼い犬。真っ黒い獰猛な悪魔だ。トムはこいつのためにいままで幾度となく涙を飲んでの敗退を余儀なくされていた。しかし、今日こそは……。
 少年は頭上のハシバミの葉の動きをちょっとのあいだ観察した。……風向きはいつもの通り山からだ。彼はかがんだまま足許を探り、そら豆ほどの小石を幾つか、古着を仕立て直したぶかぶかの半ズボンのポケットに入れると静かに鳥小屋を離れた。
 母屋の陰をつたいながら風下へとまわり込み、茂みの後ろで慎重に距離を計る。それから彼は息をつめて小石を放った。
 最初の石はその背後に大きく逸れて落ち、眠っている犬を目覚めさせた。カロンは尖った耳を立て、音の聞こえたあたりを不審げにうかがっている。二番目はすぐ脇に落ち、カロンは狼狽ぎみに立ち上がり身構えた。犬の目には暗い陰から投げられる小石は見えないのだ。
 少年の狙い澄ました次の一投が脇腹を直撃して番犬は小さな悲鳴を上げ飛び上がった。たちまち戸口が開いて魔女が舞台に登場する。頭巾からはみ出た玉蜀黍のような髪。鋭い眼光と疣のある鍵鼻。手に持つ古びた菷もお定まり……。
「誰だい……」
 彼女は人影のない庭に向かって怒鳴った。
「カロンに悪さをしているのは? ……出ておいで」
 手についた粉をしきりに前掛けになすりつけているのはどうやらパン生地を捏ねていたためだろう。
「……やれやれどうせまたノックスビルの悪餓鬼だ。わかっているよ、トム! ……お前だろ?」
 もちろんトムは身動きひとつしない。ひとしきり悪態を並べたてているものの彼女にはどうすることもできない、ということが彼にはわかっていた。うっかり戸口を離れて探しに出ようものなら洞窟への道を隠れている少年に開け放ってしまうことになるからだ。
「なんて性悪な小僧だろう」
 あらかた歯の抜けた口でそう言い捨てて魔女は再び家のなかに戻っていく。
 トムはふたたび石を投げた。
 ――キャン!
 老婆は間髪を入れずに飛び出してきた。
「いいかげんにおし! ……ようし、それなら目にもの見せてやろうか」
 彼女は番犬のところに行きそれを繋ぎ止めている白茶けた皮紐を首輪からはずした。
「さあ、カロンや。悪さをするやつを見つけて思いっきり噛みついておやり」
 カロンは一声吠えると走り出した。しかしその方向はトムの隠れている茂みとは逆、町からの登り道の方角だ。……どんぴしゃり! 思った通り。トムは欠けた前歯を見せてにやりと笑った。
 魔女は腰に手をあて、家の前に仁王立って犬の行方を見送っている。その間に少年は素早くしなやかな動きでふたたびニワトリ小屋へと這いもどった。彼女が目のすみにかすかな動きを捉えて振り返ったときにはもう遅かった。
「まあ、なんてことを……。やめなさい!」
 しかし、すでにトムは鳥小屋の金網の戸を開け放って中に飛び込んでいた。
「そうら! 走れ。走れ!」
 たちまち鶏たちは庭中に走り出す。魔女はそれをあわてて追いかける。二羽の雌鶏が彼女の足許をすり抜け、よろけた腕の下をかいくぐった少年は泉へとつっぱしった。すばしこさなら老女などトムの敵ではない。彼は栄光のゴールへと突進し、あの清く秘めやかな水音はすぐ彼の鼻先にあった。
 しかし、腐った羽目板が思わぬ罠を作っていたのだ。石造りの流しに渡されたそれを彼の足は踏み抜き、もうちょっとのところで確実だった勝利は少年の手から奪われた。トムは顔を歪め湿った大地へと崩おれていき、その手はすぐ脇を摺り抜けていったとどかぬ素晴らしい未来へと伸ばされていた。……流しの縁にいやというほど顎をぶつけ、彼は目がくらんでしばらくは動くことができなかった。
 重々しい足音が背後から迫り、太い腕が彼の衿首をむずとつかんだ。荒々しく引き立てられ戒めに振り動かされる彼の目に、晩夏の木漏れ日がぶれた残像を描く。
「なんて悪い子だ! おまけに流しを壊しちまって!」
 それからすこし心配そうに付け加える、
「どうした、見せてごらん。……怪我はなかったかね」
 屈辱感と自己憐びんに打ちのめされた少年は答えることができなかった。
「まあ、トム……! あーあ、何てことなの!」
 甲高い声が聞こえ、老婆と少年は振り向いた。そこには花束をかかえたまま庭の惨状に立ちすくむアンと、黒い小さなムク犬に吠えたてられて困惑しているフレディの姿とがあった。

「まったく、まったく……あきれて物も言えないわ!」
 帰り道の姉の説教は正しく彼の予想どおりだった。
「ガキだ、ガキだと思っていたけれど、それにくわえてさらにこんなに大馬鹿だったとは! ああ、フレディ。なんでよりによってこんなできそこないが私の弟なのかしら!」
 幼馴染みのボーイフレンドはただただ苦笑を浮かべるだけだ。
「ペンフィールドさんみたいな立派な方を困らすなんて、とんだ恥曝しだわ。あんたいったい何のつもりなの?」
 顎に見事な青アザをつくり、トムはぶすっとしている。
「何度、説明してもあんたのからっぽ頭を素通りするだけなのかしらね? いい? ペンフィールドさんはご主人に先だたれてからずっとあの小屋に一人住んで、子供たちがあの付近で遊ばないようにああして番をして下さっているの。……洞窟の奥に大昔の『発電所』から出た危険なゴミが埋めてあるからだわ。あなたも聞いてるでしょう!……小さな子があの岩穴の奥に入ったり湧き出ている泉の水を飲んだりしたら、大きくなって病気になったり子供が出来なくなったりするのよ! そうして何十年もあの方はノックスビルの子供たちを守ってくださっているの。だからわたしたちは無事に街に働きにでられるようになったお礼に、今日クッキーと花束でささやかなお茶の会を開こうとしたのに――あなたのおかげで万事ぶちこわしじゃないの!」
 姉の怒りがふたたび高まってくる兆候を敏感に感じとったトムは、心の耳をふさいで夕暮れの景色をながめることにした。
 地平線に積み重なった茜の雲と、赤黒く錆びた一条のレールのほか何も見えない青灰色の大地を背景に、山裾に埋もれたように瞬くわずかな家々の明りが寄り添っている。……いつもと同じ単調な風景だ。
 しかしなぜか今こうして見るノックスビルの町はしばらく前までの彼の慣れ親しんだそれではなかった。まるで何かが――その寂れはてた町並みを内側から照らし出し輝かせていた何かが――突然失われてしまったような妙に空ろな感じがあった。不意にそれに気づいてトムは、自分がどうしようもなく心細くなっていくのを感じた。……そんな気分は一昨年の冬、愛犬のピートが死んで以来だ。
「あんたが逃がしたニワトリを集めるのに忙しくてお別れの挨拶もろくに出来なかったじゃない。来週わたしは町を出ていくんだからもう二度とチャンスはないっていうのに……」
「そうなんだ。あの婆さんは……」トムは不意にどうにもいたたまれない気持ちになった。
「わたしの言ってることわかってるの? ペンフィールドさんはあんたの思ってるような『魔女』なんかじゃないの……」
「わかってるさ! あの婆さんは……」
 湧きあがってくる衝動に身をまかせ坂を駆けくだりながらトムは叫んだ。
「……ただのつまらない糞ババアさ!」
 弟の言葉にショックを受けてアンは沈黙した。
「まあ、」
 しばらくして彼女は言った。
「……あきれた。なんてことでしょう! もう許さないわ。父さんに言ってこっぴどく叱ってもらわなくちゃ」
 しかしフレディは何も言わなかった。彼は背後の『魔女の家』の方角を振り向いていたのだ。このごろ父親によく似てきたその目は少し悲しく、そしてどこか寂しげだった。

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