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追いかけっこ
花村慈雨

0. from a stop

 追いつけない。何に、という声が停留所のベンチから聞こえる。あらゆるものに。何が、という声がさっきより高い位置から聞こえる。寝坊した男が、という声に追いつけないままバスに乗り込む。

1. other days

 世の中の人々は「後悔」というものに驚かない。ごくありふれた振舞いであるかのように、後悔する。悲嘆に暮れる他人に向かって、「どうしてあんなことしたんだ、お前は何を考えているんだ」なんて恐ろしい言葉をかける人はいないのに、なぜその言葉を己に向けられるのか。みんな自分に厳しいのだろうか。同じ、あるいは別の条件下で、望ましくない結果を招く選択をしないでいられた、とでも思うのか。不可能な世界を真剣に、ごく普通に希求することなんかできるのだろうか。仮定法なるものがある以上、おかしいのはこちらのようだ。人は、何事も有りえたかのように後悔する。
 ある日、そんな僕にもついに後悔がやってきた。為す術など無かったはずだけれど、それでも別の選択をすべきだったと強く、強く思うようになった。不可能な定言命法が聞こえるのは、これが最上級の悲嘆であるが故、なのかもしれない。だとすると、世の人々はこれほどまでに痛切な出来事との遭遇を繰り返しながら生きているということになる。one of the 最上級。人は、何事も無かったかのように後悔する。
 こちらにおわす人モドキはというと、一回きりのその出来事に遭遇してしばらく、ほとんど嘆くことさえできなかった。念のために言っておくと、いわゆる喜怒哀楽の獲得(の経験!)に戸惑うことができるほど晩成型ではあったものの、この頃にはしっかりと分化していた。ただ単に、正面から向き合うことができない、という人間らしい反応を見せていたのだ。とはいえ、とてもじゃないが無視はできないわけで、平坦な道に躓いたり、足を踏み外して美しく着地したり、死角から屈折した影響を受けて困っていた。そしていつのまにか目に見えない何かでコーティングされたソレは、胸のド真ん中に落ち着くことになった。物語はここで終わり、ここから始まる。この胸に後悔を撃ち込んだトリガーは、(つい先程は「ある日」と述べてしまったものの)実は複数形であり、後悔の対象そのものとは無関係な苦悩の日々だった。あるいは、鈍く輝く四次元構造物の単数形。
 ある日々、見たくないもので溺れそうになり、藁をも掴む勢いでソレを掴んでしまった。甘くて苦い思い出。その行為は非常に理性的な判断の結果であり、「しまった」というのは件の後悔の余韻を表現している。他に為す術があったわけではないし、後悔もしていない。後悔を招くトリガーに後悔していられるほど理性は暇ではない。しかもこの理性は後悔と初対面なのだから尚更である。このヒューマノイドに理性が搭載されているかどうか疑わしいという報告もあるが、理性以外のものに比べればほとんど難癖のような兆候しか検出されていない。問題は、理性は非理性的な行為をも評価せねばならない機構だと言うことにあり、むしろ人間用の理性を搭載していることが孕む危険性をこそ懸念すべきであった。
 理性そのものには実現できない現象として、これまた面倒な話になるのだけれど、世間の人々は「気晴らし」というものの存在を信じている。見たくないものから目を背けて右やら左やらにある何か目に優しいものをしばらく見ると、正面にある見たくないものが消えたり変形したりするとか。言葉は実物の存在証明にならないが、この魔法を使う魔法使いが存在する以上、やはりこの魔法は存在するのだろうと思わずにはいられない。そして自分にもできるはずだと信じたかった。信じてはいないが必要だった。
 原理的には、理性に不可避的に遅れることで魔法は発動する。可避的に遅れても魔法は使えないのだが、可避的な遅れを可能にしているのはやはり不可避的な遅れであり、ある意味では魔法と言えなくもない。魔法使いでなければ魔法に失敗することもできないのだ。魔法が魔法を可能にしているのならば誰も魔法を使えないはずではないか、と思われるかもしれない。しかし、使わずとも魔法はやってくる。不可避的に。そうして誰も彼もがトリガーを引く。
 銃声に遅れて、透明なカサブタが剥がれ落ち、ドーナツの穴が後悔で埋まる。かと思いきや、素通りしていく。そこには決して埋められない穴がある。その穴を通過する全てが後悔と呼ばれ、不在を否応無く告げている。だからもう引き金を引いても引かなくても同じことなのだが、その瞬間がいつ訪れたのかは分からなかった。気がついたら、気づいていた。不可避的に遅れて理解した。
 不可避的な遅れは、遅れつつも理性に限りなく近い。近すぎて理性には感知できず、その故に不可避なのだ。

2. other stuff

 見たくないものを見ないでいるために、それとは別の見たくないものを見る。なんとも愚かな行為だろう。そんな愚かな子供はいないので、ピーマンを食べさせるために別のピーマンを食卓に並べる親もいない。だが、こう言い換えてみればどうか。見たくないものを見ないでいるために、それとは別の、見たくはないけれど見たいような気がしないでもないものを見る。ピーマンを食べさせるためにピーマンの肉詰めを用意するのだ。ピーマンの匂いや味はそのままだし、ピーマンそのものへの苦手意識は消えないが、それでも「俺はピーマン食べれるよ」とクラスメイトに胸を張って言える。ピーマンを食べたことは事実だ。味覚を即座に変えることはできないし、嫌でも年をとればピーマンの甘さに驚くことになるのだから、その場しのぎの対応だということにも問題は無い。非常に理性的な判断である。いただきます。
 ところが世界はミラクルフルーツで溢れている。「パパのお嫁さんになるの」が不可避的に分泌するタイプの再帰性ミラクリンが重要視されているが、「来週末なら空いてるよ」が不可避的に増強する志向性ミラクリンや、「今日は帰りたくないの」が不可避的に遂行する健忘性ミラクリンも同様に愛好されている。これらの性質は排他的ではない。効能の個人差は大きく、副作用があり、さらには高コストであるため、一般的には、低濃度の汎用性ミラクリンを誘発する、アルコール飲料の少量利用が推奨されている。このように理性に遅れるための「媒質」を変えることでミラクリンの不可避な効果をコントロールしようとするわけだが、結局これは困難な試みであることが判明している。なぜなら、いみじくも上述の具体例が示すように、効果的なものはそれ自体が不可避であり、より不可避な状況へ追い込むものであり、その相関が不可避だからである。医師の推奨がアルコールの「少量摂取」に影響したというデータが存在しないこともそれを裏付けている。そして不可避な連鎖の果てに制御可能な幸福が待っていることはほとんどない。ただそれを愛するより他ないということなのだが、それ故に満足な人もいるし、それ故に不満な人もいる。また、新しい媒質を試す際には可避的に遅れることで抵抗するべきであるが、これも大概は失敗に終わることも忘れてはならない。正確には、抵抗が成功した場合は危険な魔法そのものが失敗してしまうことがほとんどで、次回からは安心して不可避な連鎖に巻き込まれるというわけだ。
 ミラクリン服用者から見ると、ピーマンの肉詰めは不可解な存在である。不可解に遅れている。ほとんど理性そのものであるミラクリンから遅れているということは、理性からも遅れているということである。さて、そろそろ遅れが目に見える頃だろうか。
 お肉を食べたい。あれ、食べたはずなのに。ああ、そうだった。ピーマンの中に隠れてたっけ。でも、あれはピーマンだよ。ピーマンがお肉を台無しにしてる。まあ仕方ない。野菜炒めよりは良心的だ。明日があるさ。男は黙ってサッカー観戦。違う違う、ごちそうさまでした、だね。いただきます。今日こそお肉だね。旨い。でもレンコンって苦手だな。え、肉詰めって昨日のピーマンみたいなやつだよね、それのほうがいいかも。次からはそれでお願いね。ごちそうさま。いただきます。肉ズメって、シイタケもできるんだ、すごいやママ。これなら食べられるかも。うん、おいしいよ、これ。ごちそうさま。トマト。ナス。厚揚げ。肉詰め。肉詰め。肉詰め。ごちそうさま。野菜。お肉。野菜。お肉。野菜。野菜。お肉が食べたい。野菜がお肉を台無しにしている。良心的な明日は無い。野菜を食べなければならない。野菜を食べる。お肉が有る。お肉は無い。ここには無い。お肉だけを食べたい。野菜はいらない。今日は久しぶりにお肉を食べた。明日は無い。きっと明後日も無い。ごちそう様がいない。日曜はあるかもしれない。無かった。月曜も無い。やっぱり無い。いつもあるけど、いつもない。どこにもない。
 焼肉屋で野菜や米を食うことを忌む、肉原理主義者の存在はよく知られている。そのくせにアルコールを注文するため、白米教徒と犬猿の仲にあることも周知の通りであるが、彼らは同じ真実に触れている。つまり、野菜が米に合わないということ。野菜が白米を魅了するのは塩分のおかげであり、塩分過多は慎重に回避されているため、肉との相性には到底敵うべくもない。家庭の健全な食生活は、この真実に遅れてしまっている。この真実自体が肉食の開始に遅れて到来したのだから無理もないことだと言えよう。さらに食育が遅れてしまっている場合、そしてたいていの場合は遅れてしまうのだが、子供は毎食の真実から遅れを取り戻そうと必死になる。遅れてきた者のアドバンテージを発揮し、巧みに理性との距離を縮め、不可避的にふりかけ教徒(後の白米教徒)となり、不可避的に肉原理主義者となるのだ。そして後者は、ピーマンの肉詰めが隠蔽してしまった主菜を求めて、永遠に彷徨い続けることになる。今日の主菜は、明日の主菜を約束しない。未来における不在は既にピーマンに刻まれてしまっている。ドーナツの穴は食べられない。
 気晴らし。それを実現するために理性に遅れる。しかし、どんな媒質も効果が出なかった。媒質そのものは甘いのだけれど、次に食べるものが甘くない。持続性を欠いたミラクリン。右を向いて笑っても、左を向いて喜んでも、目の前の淀みは晴れない。やはり魔法そのものが使えないのかもしれない。いや、そんなことはない、擬似魔法は魔法使いにしか使えない。右を見て、左を見て、さらに右を見て、やっぱり渡れない。これを延々と繰り返すと、もう上を見るのも下を見るのも嫌になってくる。しょうがないから後ろを向いてみた。だるまさんがころんだ。見たくはないけれど見たいような気がしないでもないものが、ピーマンの肉詰めが、音を立てて転がってくる。苦味は残しつつも、涙の後に、世界が晴れる。乾いた空に、湿った銃声が響く。不可避的に遅れて再帰する。何度も何度も。

3. retardology

「お気持ちは分かりますが、私はあなたの友人ではありませんよ」
「しかし、異常だとは思いませんか」
「それを決めるのはあなたではなく、私の友人です。またの名を臨床遅理学会」
「では、正常ということでしょうか」
「遅理学というのは、遅れの理についての学問ですが、理に遅れる学問でもあります」すぐさま言葉を続けてくれたおかげで、失礼な態度を取らずに済んだ。僕は遅れた。「事前のデータから、事後の基準を決定することはできません。あなたを含まない集団はあなたのことを知りませんから、答えようがないのです。たしかに、今日のあなたが正常かどうかを明日には決定することができますが、それは明日のあなたには関係の無いことです。さらに言えば、それは現場つまり私の振舞いの作法という観点からあなたを分類するだけですし、その作法のプロトコルは毎朝9:00に更新されます。臨床データを保存・報告するためのプロトコルです。そもそもあなたに関係の無い話なのです。もちろんその情報を有資格者以外にお伝えすることはできません」
 ここへ来たのはまだ3回目だが、この臨床遅理士がカルテを書いているのを見たことがないような気がする。というか、ずっとこっちを向いている。音声が、あるいはその書き起こしが、もしかしたら映像がそのまま保存されているのだ。患者全てを事細かに覚えているはずはないので、どこかにカルテは存在するのだろうが、そのプロトコルやらの定めで診察中にカルテを書けないことになっていて、僕が帰った後、次の患者を呼ぶ前にカルテを更新するのだろう。それから、次の患者のカルテを復習するというわけだ。あるいは、前時代的な手法とは全く異なった手口で、「今、ここで」カルテが書かれているのかもしれない。医療現場に導入されたという話を耳にしたことは無いが、遅理学用にカスタマイズされた情報圧縮プロトコルを利用している可能性はある。気づいてみれば当たり前のことだけれど、なんらかの方法で「書式」を与える以上、それは情報圧縮のためだけでなく情報共有のためにも役立つ。これまでは、かの国の大統領選で投票率が99%達成だとか、ニュース・ドキュメンタリー・ポルノ等の分野での自動生成ハイライトだとか、そのような偏ったイメージしか持っていなかった。公開されている汎用プロトコルの幾つかを利用した前衛芸術の類も知っていたが、「パラメータによって意味を変える、すなわちインタラクティブな半自動生成ハイライトのための画像や映像を作成する集団、あるいは運動、その名をQuarticubism」という看板がそれっぽいだけで作品の出来は悪いし、湿度によって色を変える「空間塗料」の世界的大流行の前では、ただの天邪鬼にしか見えない。
「なぜ、うまく魔法が使えないんでしょう」
「基本を確認しましょう。まず、理性への遅れは魔法の必要条件です。理性とは何かご存知ですか」
「ええと、正しく判断する能力でしょうか」
「おや、古典文献学に通じてらっしゃるとは。遅理学における定義では、任意の期間における速度の絶対値が最大のものを言います。従来『理性』と呼ばれてきたものと密接な関係が希薄にあることから、この用語が採用されました。多少は反対する声もあったようですが、伝統を持たない新しい学問は死語を再利用すべしというのが15年ほど前から世界的なお約束事になってましてね。遅理学全般がそれに従ったわけです」不可避的に遅れて。
「もちろん人間は常に最大速度で活動しています。同時に、他の速度でも活動しています。あなたなら、『理性的な動物』という古語に思い当たるかもしれませんね。理性に対する遅れを持つものを我々は理性的と表現します。ほとんどの生物は理性的です。ただし、生物学的個体と遅理学的個体は同じではありません」
 お互いの名前は知らされないことになっているが、なぜか彼は名札をつけている。無記名の黒いプレート。
「遅理学的個体とは魔法使いのことです。ちなみに、これも死語の再活用です。いや、あなたが知らないはずはありませんね。生物学的個体に魔法使いを宿す方法が魔法です。あなたの活動を統合し、絶えず再統合しています。理論上は生物学的個体に限りませんが、その実現と安定を支える技術も、確認する一般的な方法も確立されていません。そういうわけで魔法については、最も身近な生物学的個体である人間の研究が現在でも主流です」
 胡散臭い領域であればあるほど、専門家の価値は高くなる。先入観や古い常識と交錯する場合は尚更である。あまり声高に叫ぶと自分まで胡散臭くなってしまうのでこっそり教えておこう。胡散臭いものを胡散臭いまま存在させてしまえるほどの真理や実利がそこにはある。嗅覚に優れた奴が走り出す。動体視力に優れた奴が走り出す。聴覚に優れた奴が走り出す。足の速い奴が走り出す。声のでかい奴が走り出す。手の早い奴が走り出す。それぞれが不可避的に遅れて。誰もが専門家の顔をして喋り出す。見分けがつかない。三人寄れば文殊の知恵。三千人寄れば伝言ゲーム。専門的な知識が無いと、専門家を探せないのだ。どんな分野にも優れた入門書や手引きが存在するのだが、それに出会う頃にはほとんど手遅れなのが世の常である。10ほどの門をくぐって、10ほどの門を蹴り倒し、10ほどの門を素通りし、さらに10ほどの門の向こう側で、10ほどの門に感心した後、かつて必要だったものに出会う経験はそれなりの喜びだが、最初から求めるようなものでは決してない。こうして胡散臭いものは胡散臭いままに敬遠される。敬遠されればまだいいほうで、無害な伝言ゲームの末席に加わることのほうが多い。抜け出すチャンスだ。ここへ来て良かった。
 不思議な印象だ。不満足に終わっても、後悔なんかしないくせに。後悔(ここへ来なければ良かった)とは、存在するもの(ここへ来たこととその帰結)を低く評価するために、存在しないもの(ここへ来なかったこととその帰結)を高く評価することだろうか。逃がした魚は大きい。いや、後悔は相対評価ではない。遅れてやってくる命令だ。汝、殺すなかれ。これは誰の声だ。自分の声か。違う。自分の声であれば、他人に向けることができる。この声が、自分になるのだ。誰のものでもないこの声が、僕の理性を超えて加速し、理性を不可避的に遅らせて、生物学的基盤を獲得する。危うい基盤の上にタワゴトが響いている。何よりもまず専門家の意見に耳を傾けるべきだ。三千と一人目で伝言ゲームがループしている。ここへ来て良かった。
 不思議な印象だ。不満足に終わっても、後悔なんかしないくせに。いや、そうとは限らない。たった一度とはいえ後悔したのだから、もう僕はいつでも後悔できるのかもしれない。ちょっと待て。後悔の数え方が分からない。たしかに後悔したが、今でも後悔している。これは別の後悔なのか。昨日も今日も笑った。笑いは二つ、笑っている奴は一つ、笑われている奴が一つ。後悔もこれと同じか。なんか違う。昨日も今日も感謝した。同じものへの二つの感謝は同じものだ。同じ一つの感謝が二つの手を、そしてもう一つ、また一つと、幾つもの手を伸ばして同じものに触れていく。「最近冷たいね」「ちゃんと態度で示してよ」と、千手観音への民間信仰は篤い。一つの後悔が無数の手で僕の頭を鷲掴みにする。その手を掴み返してループの外へ。僕を手引きしたのは、誰のものでもない自分の手。ここへ来なくても良かった、というのは過言だ。
「速度の方向はアンジヒ変換によって得られますが、そうですね、これは、省略しましょうか。ほとんどの活動は理性に合わせて常に方向を変えていますが、この方向転換の差が『理性への遅れ』と言われます。理性は加速度も最大であることがほとんどで、遅れてばかりだといつまでも追いつけませんが、なぜか理性ベクトルは高速で振動したり、ぐるっと回ったり、そうして平均的な方向を維持しながら他の追随を待ちます。このような調節機能が生物学的個体には備わっているため、ふんわりと統合され、ふんわりと再統合されます。酩酊時には普段とは別の魔法が生じているために、ほとんどの活動が理性に追随できませんが、最低限の活動はしっかり追随してくれるおかげで、自分や他人の家へ帰宅できるのです。遅理学的には別の個体が帰宅するわけですね。ただし、現在この国の法律も、おそらくは倫理も、遅理学的個体の存在を考慮しません」
「気晴らしはどのようなものでしょうか」
「理性にあまり遅れていないものがその地位を安定させると、支配的な効果を及ぼします。不快なものに支配されたくはありませんので、快いものを理性あるいはその平均ベクトルに一致させます。平たく言えば、思う存分に楽しみます。その活動は理性と同調し、不可避的に遅れ、なぜかその他の遅れの序列に影響がでます。何かが遅れを取り戻したり、ますます遅れたり。これが気晴らしです。ちなみに、こうした影響を発生させられるのであれば快いものは必要ありません。それ自身が上位層に持続的に留まったり、あるいは定期的に上位層に現れたり、上位層の一部を遅らせたり、各層での順位変動を引き起こしたり、いろんなパターンがあります。俗に言う、ミラクリン効果です。」
「同調したままだとどうなるんですか」
「それはありえないようです。理性は短期間であれば加速度をゼロにすることもありますが、他の活動と一致すると方向を変えます。ですから、他の活動は不可避的に遅れてしまいます。ただし、これは遅理学的個体の特徴というよりも生物学的個体としての調整機能に由来するものかもしれません。今日はもう、この辺にしましょうか」

4. other ways

 追いつけない。追いついた頃には、別の方角へ走り出している。永遠の鬼ごっこ。シジフォスごっこ。あの本がシジフォスの名を冠している理由を思い出せない。「不条理」の意味なら覚えている。その日本語およびフランス語を知ったのがあの本だから忘れるはずがない。と思ったが、それはシジフォスでも同じはずだった。違いと言えば、僕はその後フランス語を学んだのに対し、神話を学んでいないということだ。もちろんこれは詭弁である。シジフォスと聞いて思い出すべき事柄は分かっているし、absurdという言葉に拘る理由を僕は知らないのだから。すぐに気づいたが故に「もちろん」であり、わずかでも騙されてしまったが故に「詭弁」である。残念ながらジョークではない。困ったものだ。苦悩と格闘する試行錯誤の一環ならともかく、何も問題の無いところで落ち着いて自分を騙すところだったとは。ひょっとして僕の苦悩のほとんどは、自らひねり出す詭弁で編まれているのではないだろうか。そうだとしたら、己の苦悩を言語化して理解できるというのは、名誉というより汚名だ。拾った空き缶の数を自慢するような街に住みたくはない。とはいえ、そこで育った人間は他の街でも空き缶を拾うだろう。まんざらでもない気がしてきた。
「ほんと、ごめん」
「都会人は時間にルーズだから困る。ってのは冗談でさ、間に合うかと思いきや5分遅れってのがいちばんまずい。こんなところで55分も二人で過ごせないでしょ。寒いし、バスを待つために二人揃って一時帰宅ってのも間抜けだし、飯食う時間でもないし、そもそも飯食う場所も無いし。いや、有るには有るんだけど、一見さんな若者には入りづらいんだよね。子供と年寄りのホームタウン。若者のベッドタウン」
「なんで車乗らないの。車に乗せろって要求してるみたいでアレだけど」
「まさにソレだよ。対等じゃないんだ。例えばガソリン代の足しと称して飯を奢ったり、次回は相手に運転してもらったりして穴埋めすることはできるけど、そういうのがね。プレゼントとかもダメ。あらかじめバランスを崩しておきながら、そのバランスを取り戻そうとするなんて滑稽だ。たしかに借りた金を返すのは素晴らしいことだけど、返ってくると分かっている金を貸すのは、ただのビジネスだ」
「返すのもビジネスだよ」
「それは、返すと分かっている金を借りたからだよ。どんな関係にもビジネスは成立する。そこをきっちり分けたいんだ。恩を返そうとしない不届き者だらけならいいんだけど、そんな奴は意外といない。少なくともマイノリティだ。だから車は売ったし、友達には貸しを作らないようにした。先輩や恩師からもらった、返せないかもしれない借りを、いつの日にか後輩に返す。かもしれない。そんな世界が好きなんだ。失敗しないキャッチボールなんか面白くないだろ。つまんない会話しながら思わず力んでしまうから楽しいんだ。つまんない会話も、たまに弾むから楽しいんだよ」
「ギャンブルに身を滅ぼしそうな感性だね」
「返ってこないかも知れない金を誰にでも貸したりしないよ。そこは相手を選ぶ。無駄にしても後悔しない時間しか過ごさない。ギャンブラーってのはおそらく、選ぶべき相手や分野が全く存在しないか、多すぎるんだろう。でも、似てないわけじゃないな」
「じゃあ後悔しないのか」
「うん、しない。いや、そんなことはないか。当たり前のように後悔する。でも、その後悔を楽しんでる」
「後悔してるのに楽しいって変だよ」
「そうかもしれない。でも、変なのはむしろ、期待してないはずなのに後悔するってことだ。」
「ふむ、それはつまり、予想通りの結果に後悔するってことか。気が変わったのかな、その前後で」
「それなら、ずっと気が変わり続けてるって思ったほうが現実的だな。でも、案外そんなところなのかも。ま、ともかく、こんな会話を運転しながらできないだろ」
「ねぇ、これって何だっけ」見覚えのあるアクセサリーを人差し指でつっつく。
「湿度計だ。色が変わる。只今キャンペーン中につき、空間塗料をご購入いただくともれなくついてきます」
「オマケか。名札かと思った」
「うん、実際これは名札になってて、Thomas Xieって文字だけ色が変わらないんだ」
「シャボン・ジー社の社長、かな」
「そう。好きな名前を入れるサービスもやってるけどね。名札型以外にも、いろんなタイプの湿度計に。その販促も兼ねてるってわけだ」
「自分で買うシロモノじゃないなぁ。君には縁の無い贈答用か。あれってさ、人体には無害とはいえ、目に入ったら痛いんでしょ。家の中でゴーグルをつけるのは嫌だな」
「だから空間のほうにゴーグルをつけるんだ。俺はハックした全自動食器洗い機でマーブリングしてる。最初は半信半疑だったけど、シミュレーションより味わい深い。少なくともコストパフォーマンスは抜群だし、あの塗料は55度あれば溶けるから後処理も楽。逆に言えば、55度以下で塗空するためにハッカー様の手を借りなくちゃいけないんだけど」
「サウナなら気兼ねなく塗れるね。あれくらいの空間なら湿度もコントロールしやすいだろうし」
「いつもながら流行に遅れてるな。先週じゃなかったか、健康的な出会いの場であるスチームディスコに法規制が入ったのは。反対運動も盛んに報じられてたし、しかも君はその隣を歩いてるはずだぞ、都会人」
「大衆が流行を追わなくなった時代だからこそ、この大流行は価値があるんじゃないか」それでも法は相変わらず、流行を追いかけているらしい。
「それはそうだけど、ニュースぐらい見ようぜ」
「ハイライトは見てるけど、気づかなかったな」
「おい、ハイライトをぼんやり見ちゃダメだよ」車内で今日一番の笑い声が響く。なぜか人はこんなとき、それまでの平均値を遥かに下回る小さな声に切り替える。「それじゃハイライトのハイライトを見ていることになる。必要なものをちゃんと記憶するためにコンピュータが圧縮してるんだ。君がそれをさらに圧縮してどうする。人間が取捨選択しないための情報圧縮だ」
 小さすぎる声のほうは無害な分だけ恥ずかしさはさらに大きいため、即座に通常の大きさに戻る。この最後の修整が最も恥ずかしく、血の気が引く音まで聞こえてくる。他人事だから恥ずかしくはないのだが、こちらの迷走神経まで刺激されて血圧が下がる。共感と言えば聞こえがいい。
「そうなのか。僕はてっきり、狭く深く知るために、広く浅いきっかけを作るものだと思ってたよ」
「もちろんそういう利用法も悪いわけじゃない。悪いのは、それを笑った俺だ。ごめん。ただ、それなら見出しを作るだけでいいし、効果的な見出しはまだ人間にしか作れない。だから記者は失業しないってわけだ。つまり、喩えるなら、そうだな。いや、やめておこう」
「ん、どうした。思いつかなかったのか。それなら待つぞ。僕はそれほどせっかちな人間じゃない。少なくとも今は」
「喩えなくても、伝わってるだろ。近道があるのに、遠回りしてどうする。もちろん、急がば回れ、ってこともある。比喩を用いない理由を比喩で説明するのは変な気分だけど、迂回路があること自体は興味深いし、慣れない場所で真っ直ぐ近道を進むのは難しい。でも、近道の存在をより確かなものにするために遠回りするのは何かおかしい。今はそれをやろうとした。癖になってるんだ。そんなことしても確からしさは増えない。むしろ、近道の存在を危うくしているような気さえする。真面目な顔して避けてしまう近道っておかしいだろ。何かあるに違いない。そういう近道は繰り返し歩いてみるべきだと思うんだよね。怪我するリスクがあるわけじゃないし。今は必要以上の比喩を避けるだけで精一杯なんだけど」急に立ち止まったら、それを追いかけてる人間にぶつかるリスクがあると思うのだが、僕はうまく身をかわして、地元の近道の話に花を咲かせた。
 それは実際には遠回りなのかもしれない。繰り返し歩くよりも、他の道と歩き比べてみるべきだろう。近道であるはずの科学的説明も、個人が個人を理解するための手段としては避けられている。もちろんこれは非科学的な科学主義のバイアスがかかった観察報告で、現状では未完成で遠回りだから避けられている、というのが正しい分析だろう。しかし、この現状を嘆いてる人間に出会ったことはない。未来の技術や生活ならともかく、未来の愛情に思いを馳せる人間はあまりいない。過去についても同じだ。ここ3000年ほとんど変化していないことになっている。30年も生きれば「より」理解できるようになるというのに。300冊も物語を読めば人間理解は「深まる」し、3ページの寓話でも確実な一歩となるのに。むしろこうした確信が障害になっているのかもしれない。一人一人が確実な一歩を踏み直さなければならないのだ、と。圧縮できない歴史を歩くには、人の一生は短すぎる。悠長なことは言っていられない。そして本当に致命的なのは、短すぎることではなく、どこまで歩いたのか分からないってことだ。
 近道が塞がっていれば、別の近道を探す。もし隣人を理解するために誰かの手を借りるとすれば、時間的および空間的に遠い誰かではなく、やはり別の隣人の手だろう。遠回りすることで新たなルートが開けるかもしれないが、そんな奇跡の大逆転は探して見つかるものではないし、倫理的にも好まれない。目の前の相手から目を離してはいけない。人は特定の誰かを理解したがっているし、同じく理解されたがっているのだ。「ねぇ、今誰を見てたの」「ちゃんと目を見て話して」と、しかしながら現実はさらに厳しく、可能性を目で追うこともできなくなって、不理解を固定化させて、立ち往生する。時間内に辿り着くことができなければゲームオーバー。別ルートを探している暇など無い。再プレイで腕を磨くことはできるが、再プレイは再プレイであり、手遅れなのだ。遠回りだから避けられているだけではなく、それが近道だろうが何だろうが既に手遅れなのだ。名言先に立たず。未来は言わずもがな。
 とはいえ、全くの手遅れな状況であれば、後学のために歩き比べることは有意義だろう。誰も待たせてはいないのだから、何が起こったのかを落ち着いて考えればいい。だが後悔とは、無害なまでに遠い過去だと認識しつつ、手遅れだということに、その遠さに打ちひしがれることだ。歩けない。だから仕方なく、自分を後悔させた出来事やその背景にあった自己理解や他者理解ではなく、その代わりに、後悔という出来事そのものを何度も歩み直している。そしてそれは何の代わりにもならない。ほんの少し己の原理を知るだけだ。いや、それで十分じゃないか。その積み重ねで人は成長するんじゃないか。何が不満なんだ。これは遠回りではない。確実な一歩だ。未来への確実な一歩。大切なこと。でも、どこまで歩いたのか分からない。

5. Toms and Journey

「で、駅へ着いてからどこへ行くの」
「幾つか候補は絞ってある。とりあえず西だ」
「パスポートは必要なさそうだね」
「そこまで準備してきたのか」
「まさか。もしものときに空港まで見送りに行く心積もりだけ」
「ご立派な友情だ」
 手に負えないものはどこにでもある。早起き、満員電車、残業、寝不足。手に負えないままで何とかなってしまうことのほうが多いけれど、だからこそ、何とかならないものに出会う心の準備なんかできやしない。手に負えないものをうまく流すだけで精一杯だ。何とかなっていないのに全然平気な人もいるが、あれは宇宙人か何かと思ったほうがいいだろう。参考になるもんじゃない。どんだけ成長してもネイティブ宇宙人にはなれないし、異世界での探査は油断できない。
 本当は自分に何が欠けていたか分かっている。何を求めていたのかも分かっている。分かろうと努力したことはないし、むしろ逃げようとしてばかりなのだが、それでも繰り返す後悔の打撃を食らっているうちに、ちょっとずつ分かるようになってきた。でも、たしかに分かったけれど、ちっとも成長を感じないのだ。また同じように不可避の連鎖に巻き込まれて、手も足も出なくなってしまうんじゃないかと。未来に怯えているわけではないが、背後の電柱の影で過去が潜んでいるような気がしてならない。こっちはもう永遠に追いつけないのに、あっちはいつでもヒットアンドアウェイを仕掛けてくる。いや、アウェイしてるのはこっちか。何も考えずに全力で走ってみたこともあるが、どうやらこっちが息を切らすのを待っているらしく、あまり意味は無かった。でも、この絵は面白い。逆転した「トムとジェリー」ってところか。僕は愚かなんじゃなくて間抜け。そう思うと楽しいかもしれない。しかも、間違っていない。
「さあ、着いたぞ。やっと出発点だ」

(了)

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