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イエロー・サークル

羽野 蒔実

 

「それ」は、旅の末に落下した。
 到着するまでに、さまざまなものを突き抜けたり、さまざまなものに弾き返されたりした。
 短くて遥かな旅だったが、この旅において時間と距離は重要ではなく、たったのひとりきりで道連れはいない。

「それ」は突然、突き抜けも弾き返されもせずに、質量を持つものに収まった。
 どろりとして気分が悪いが、違和感は瞬時に消え、「どろり」そのものが自己になる。
 次に、他との境界を知覚する。他と自己との境界は鈍い重さの膜で覆われ、だからどろりとしている。さらにその表面は無数の細長く柔らかいもので包まれている。「それ」が知っている境界のありようとはずいぶん様子が違っていた。
「それ」は困惑した。もとより旅立ったその時から困惑していたのだった。何が起きているのかさっぱりわからない、と。
 困惑うちの半分は、自分の身に起きた出来事がさっぱりわからないことが原因だった。
 どこから来てどこへ行くのか、皆目わからない。だいたいこれまでだって、わかっていたことがあったろうか。愚問だ。
 残りの半分は、わからないにもかかわらずわかっていることがある、ということに起因していた。境界の向こうにあるものに、自分が何かを伝える。それを今から始めるのだ。

 差し込んでくる。
「それ」が閉じ込められている狭くてどろりとしたものをめがけて、鋭い情報が次々と痛いほどに差し込んでくる。
 しかしすぐに馴染んだ。
 差し込んできたのは一面の光だ。濃淡があり、固まっているものもあれば動いているものもある。濃淡はそれぞれ特有の刺激をまとっていて、ことさら濃くて動く影が発する刺激は、「それ」にとって最も好ましいものだった。
 濃くて動く影に同調した。とたんに「それ」は、見知らぬ場所で見知らぬ生命体として存在していることを知り、さらに馴染んだ。
 身体。
 その全体が動かせる。突き出た器官から絶えず流れ込む物質の刺激が圧倒的だった。強い刺激は「どろり」としたこの生命体が活動するためには欠かせない指針だ。
 におい。
 この生命体のありように、ますます「それ」は馴染んだ。初めからこの生き物として生まれてきたかのようだった。
 着点してからこの段階へ来るまでに、地球でいうところの約0.000258秒を要した。長くもあり短くもある。
 するととつぜん「それ」は、この生命体特有の動作で身体を動かし始めた。しかしやはり、動作はどこかが圧倒的に間違っており、でも間違いには気付かない。

 イメージを放出する。
 この旅の間に少しずつ蓄えられた、イメージ。
 始めと終わりがぴったりと繋がった、光り輝く、何か。
 放出を終えると、「それ」は収まっていた「どろり」からものすごい力で抜き出され、来た道と寸分違わぬ旅を逆戻りした。
 旅の記憶は消えた。
 そもそも旅などなかったかのように。

「ママ! ママ! たいへん!」
 マイラはすっとんで行った。途中で、宙を眺めて伏せているラブラドール・レトリーバーの背中を飛び越えた。しゃがんで庭仕事をしていた母は振り返って立ち上がり、まぶしそうにマイラを見る。
「鼻水を拭くのも忘れるくらいたいへんなことなんて、そうめったに起きないものだけどね」母は自分のティーシャツの裾を引っ張って、マイラの鼻をぬぐった。母の袖と子供の鼻はちょうど同じ高さだ。「いったい何事なの? 隣の耄碌じいさんが嫁でももらったのかい」
 「違うの! 見て、これ!」マイラは画用紙を両手で高く掲げた。握っている部分は手のひらの汗でよれている。「ラスティが描いたんだよ、これ!」
 母は移植ごてを持った手を腰にあて、どの角度で見たものかと首を左右に傾けながら、画用紙を眺めた。どの角度から見ても、それは円形だった。
 白い画用紙にちょうどいい大きさでぐるりと描かれた、黄色い円。
 線はところどころ震えるように歪み、出っ張ったり引っ込んだりしているが、四角でも星型でもなく、円だった。7才の子供が描いたにしては歪み過ぎで、犬が描いたにしては……いや描くはずがない。母はあっはと笑って、さも愉快そうに首を横に振った。
「犬が絵を描くなんて初めて聞いたね。テレビ局に電話して来てもらおうか。ほらあの番組さ、"びっくりアニマルショウ"」
 母は先週の放送でラストを飾った"ツイストする犬"の真似をして肉付きの良い体を揺すり、さっさと庭仕事の続きを始めた。
「ほんとだよ。ほんとにラスティが描いたんだってば。こうやって、こうやって描いたのよ」
 マイラは芝生の上に画用紙を置き、左手の人差し指をクレヨンに見立てて、ラスティがしたように歯で噛んだ。口の右端に突き出た爪がクレヨンの先だ。マイラは犬のように地面へ伏せると、爪先を画用紙にあてた。そして頭をかくかくと不器用に動かして絵を描く真似をし、すくっと立ち上がる。
「こうやって描いたの」
 実際、ラスティはそのように描いたのだった。

 犬のお絵描きは突如として始まり、その後1分以内に終了した。
 おとといの朝から少し風邪気味だったマイラは、遊びに出かける気分になれず、学校から帰ってくるなり、真っ白い画用紙と、幼い頃に使っていたクレヨンセットを用意した。
 床にぺたんと座る。リビングのソファの前。退屈だった。
 ラブラドール・レトリーバーのラスティがぼそぼそ現れ、その隣でねそべる。5才のおとなしい雄犬は、自分まで風邪でもひいたかのように退屈そうな顔をし、投げ出した前脚に鼻先をくっつけていた。絵を描くより外で走り回っている方が好きなマイラの画用紙は、しばらくのあいだ真っ白のまま床に伸びていた。描くよりも、クレヨンをひとつひとつ手に取り色の具合を確認するのに余念がない。中でもオレンジ色と濃い緑色がきれいだった。
「きれいだと思わない、ラスティ? 食べたちゃいたいくらい」ほとんどひとりごとだった。「あ、でもラスティは緑色とかわかんないんだよね。こないだアマンダがさ、そう言ってたの。犬は色がわかんないんだって……」
 この時まさに、ラスティの身体に別の生命体の意識が宿ったのだが、画用紙にひじをついてどこから描きだそうかと考えていたマイラが知るよしもなかった。
 雄犬は4つの脚でむっくりと立ち上がり、マイラがゆらゆら動くのを見つめた。好ましい。それからクレヨンの揃った小さな箱に鼻をつけた。心地よいにおいがする。左の前脚を伸ばした。ちんまり並んだクレヨンを箱の外に掻きだす。マイラはあわてて箱をひったくり、あらかたのクレヨンも奪還した。
 「ちょっとなにしてんの、ラスティ。いけない子ね。パパに言いつけるよ」
 しかしラスティは、吟味を済ませていた。色とりどりの棒を箱に並べ直そうとするマイラをよそに、ラスティは画用紙を占拠する。口に、1本のクレヨンを口にくわえて。前脚で画用紙をしっかりと床に押さえつけ、片頬を下げた不自然な恰好で頭を沈めていく。よだれが歯と毛並みを伝って落ち、画用紙がてらてら光った。
「だめよラスティ! 食べちゃだめ!」
 ようやく気付いたマイラが両手を広げて襲いかかったが、ラスティは首をねじり倒してうまく避けた。くわえていたクレヨンの先端が、首尾よく紙に当たった。
 そこからは、およそ犬とは思えない動きが展開された。器用に首を回転させ始めたのだ。力点は紙の中央に固定され、まるでコンパスの針でも刺さっているかのようだ。マイラはクレヨンを奪い取るのも忘れ、よつんばいのままその様子をじっと見つめる他なかった。口を開けていたので鼻水が垂れてきたのだが、それすらも気付かなかった。
「……あんたって」
 白い画用紙の上には、黄色いクレヨンで円が象られていた。ところどころぶれているが、まさに円だった。
「……絵が描けるの?」
 仕事を終えたラスティは魂が抜けたように立ちすくむと、噛んでいた黄色いクレヨンをぽとりと落とした。
「ねえ、これなに? グレープフルーツ? ビーチボール? 太陽? ねえ、どうして描いたの?」
 もちろん犬が答えるはずもない。ラスティは黒い瞳で少しだけマイラを見つめ、申し訳なさそうに部屋の隅へ歩いていく。そして再び退屈な様子でねそべった。
 そしてマイラは、まだ犬のよだれが乾いていない画用紙をつかむと、「ママ!」と叫びながら庭へ走って行ったのだった。
「ここがラスティのよだれの跡だよ」マイラは画用紙の真ん中の、紙がたわんだ部分を指差した。
「あっは。けったいなことを思いつく娘だこと。明日のラスティは、喋る犬になってるかもしれないねえ。あっは」
 母は大げさに笑って、地面を這う黒い毛虫を、頑丈なゴム長靴で踏みつぶした。鼻から信じていなかった。子供にはよくあることだ、と。

 そのことがあってからしばらくの間、マイラはわざとクレヨンと画用紙を見せびらかしてラスティを誘ったが、雄犬いっこうに興味を示さなかった。数日経つと、マイラはラスティの奇妙な行動のことをすっかり忘れてしまった。
 ラスティはそれ以降、絵を描くこともなく、まさしく犬らしい犬として生き、5匹の雌犬とつがって22匹の子供を作り、14才と94日で死んだ。

「そんな話は初めて聞いたよ。君の子供時代のエピソードの中でも群を抜いて面白い」
 ロッドはおかしいのと嬉しいので、顔に皺をたくさん作って笑った。他の人間から聞いてもこうは面白くないかもしれない。その声、その表情、その話しぶり、その存在。別の人間ではだめなのだ。なにもかも、うまくいっている。
「そんな面白いことを今まで忘れていたなんて、ずいぶん損した感じじゃないか」
 ロッドは少し辛い味付けのチャイニーズ・ヌードルを食べながら、テーブルの向かいに座る女に言った。女は右手に持った箸をリズミカルに揺らしながら、やはり堪え切れずに笑っている。
 マイラ。ロッドが完全に惚れ込んでいる女性。4ヶ月と16日前に結婚したばかりだ。彼女の腹には赤ん坊がいて、もうすぐ生まれてくる。なにもかも、うまくいっている。赤ん坊は文句のつけようがないほど健康に育っていると、医者が太鼓判を押した。きっと外の世界に出てくることを心待ちにしていることだろう。外の世界は素晴らしいぞ。おまえは腹の中にいたから見なかっただろうけど、結婚式もこぢんまりとしていたが素晴らしかったんだ。ママはチャーミングで頭もいい。それに、おまえのママとパパはお互いに愛しあっている。素晴らしい。
 マイラは左手を突き出してから大げさに胸に当て、瞳をくるりと動かす。
「さっきこの指輪を見ていたら、とつぜん記憶が降ってきたの。今まで思い出したこともないのに。実際にあったことかどうかも、今はもうわからないわ」
「ラスティが描いた絵は残っていないの?」
「残念ながら。あれって私の妄想だったのかしら。それとも夢とか記憶違いとか……」
「いや、子供ってそういうものじゃないかな」
「そうよね、そう。子供ってそういうことを言い出すものなのよ。子供ってそう。私も覚悟しとかなくちゃ」
 マイラはえんじ色のセーターに包まれて大きく張った腹を、指輪のある手で愛おしげに撫でた。
 48日後、マイラは女の子を産んだ。そして29歳と少し経った頃に男の子を生み、48才と103日めに偶然の交通事故で死んだ。

 バーナードは普段どおりにくまなく新聞を読み、老眼鏡をはずすと、きのう巻き込まれた渋滞を思い返した。
 タクシー・ドライバーという職業上、事故渋滞は日常茶飯事だ。そのたびに新聞やラジオのニュースで、既に起きた渋滞の原因を後追いに再確認する。死んだり怪我をした人がいたと知ると、それなりに気の毒に思う。本人も気の毒だけど、家族も気の毒だ。
 きのうの事故では、頭のいかれた男がバスの運転手を撃ち殺して暴走し、対向車をひとつはねとばし、その車に乗っていた女も死んだ。本人も気の毒だけど、家族も気の毒だ。 バーナードはテーブルに広げた新聞を不器用にたたみ、車いすに座ったままテレビを観ている老婆に大声で言った。
「母さん、僕は仕事に行くよ。午後にヘルパーが来るからね。わかった?」
 薄汚れたニットの膝かけをかけた母は、ゆっくり振り返ると、酔っ払いでも見るかのようなしかめっ面をして、二度うなずいた。
 父はバーナードが子供だった頃にどこかへ行ったまま帰って来ず、それ以来ふたりで暮らしてきた。若いころの母は社交的で美しく、建築家としてそこそこ成功し、律儀に貯蓄をしてきた。そしてひとり息子をただ育つように育てていった。放っておけば自然と生えてくるパンの青カビのように。その結果、凡庸で、いや凡庸以下でひたすら穏やかなだけの人間ができあがった。
 バーナードは51才と7カ月になる今も独身で、母の面倒を見ながら車の運転を生業としている。母の重力場に捉えられ、これまでも、そしてこれからもそこから出ることはない。なにかが歪んでしまった。他の人生をつかむチャンスがあったかもしれないと考えたこともあるが、中年を過ぎた今では、考えることすら諦めた。あったかもしれないのになかったということは、最初からなかったのだ。なかったのなら残念だが、仕方がない。
 その日3番目に乗せた客は若い女で、健康な頬をしているのに目の縁にはずっと涙が溜まって潤んでいた。しかしよけいなお喋りはしない主義だ。というより性質だった。バーナードはバックミラーに映った女の目元をたびたび凝視したが、女の瞳が宙をさまようのを確認しただけで、ひたすら黙ってハンドルを握った。
 女がリタという名の大学生で、事故で死んだ母のために268マイル向こうからやってきたことを、数日後に行われる葬儀には家族のほかにも生前に親交のあった大勢の人間がかけつけることを、バーナードが知るよしもなかった。
 女を降ろすと、バーナードはありきたりな渋滞にはまった。次の信号で迂回しよう。客を乗せなければ仕事にならない。
 歩道に目を向けると、子供みたいな顔をした黒髪の女が、リュックを背負って歩いていた。ご丁寧に胸と腹のベルトまできっちり締めている。女が小柄なせいで、30リットルほどのリュックは不釣り合いなほど大きく見えた。重いのだろうか。だとしたら、重さに負けてタクシーを止めるかもしれない。そう期待したが、女はバーナードの車を無視して、意外なほど軽やかに歩いて行った。
 まるで宇宙服を着ている宇宙飛行士みたいだな、とバーナードは思った。宇宙服の背中にはやたらと重たそうなものがくっついているが、無重力の宇宙ではちっとも重くないんだ。だからふわふわ浮いている。あの娘はまだ若くて地に足がついていない。リュックの中身は、まだほとんどからっぽだ。
 前で停まっていたバンがぐずぐず動き出すと、バーナードはハンドルを握りなおしてブレーキを踏む足を緩めた。そして予定通り、次の信号を迂回して渋滞を抜けた。
 予定通り。
 全能の神は僕の人生を予定していた。なにも起こらない、取るに足りない、意味のない人生を。神の計画とやらは、まったくもって想像力に欠けるじゃないか。
 こういうことを口にすると信仰深い母は怒り、まだ子供だった頃には尻が腫れあがるほどにぶたれたこともある。だから考えてはいけないと自分を律してきたが、なんの脈絡もなくふと湧きあがる瞬間がある。まさに今、この時のように。
 僕はどこから来て、どこへ行くのだろう。

 バーナードはそれから7年と35日後に湖へ釣りに出かけ、彼の人生には到底似合わない死に方をした。長い桟橋の端で釣り糸を垂れてぼんやりしていると、子供の叫びが聞こえたのだ。
「パパ! ホセが落ちちゃったよ!」
 バーナードは、ためらいもせず水へ飛び込んだ。見も知らぬホセのために。まるで神の大きな手が、彼を突き落としたかのようだった。あらかじめ予定された行動だったようにも見えた。
 小さな子供が水の中で、目を開けたまま手足をばたつかせている。バーナードは水に潜ると、子供の後頭部を手のひらに載せ、渾身の力で腕を伸ばした。そう暴れるな、ホセ。じたばたすると、人生はよけいに難しい方向へ進むもんだ。おとなしくしているに限るんだよ。これは僕の生きてきた中で得た教訓。
 ふっと手のひらの重みが消え、誰かが子供を運んでいくのがわかった。神様かな。いや、子供の父親だろう。ホセの兄らしき子供が、父親を呼んでいた。神様といえば、さっき僕を桟橋から突き落としたものこそ、神様だったのかもしれないな。いや違うぞ。僕の意思だ。何も起こらない人生を変えるチャンスを、ずっと僕は待ち望んでいた。今こそ、その時じゃないか。
 しかしバーナードは思い出した。
「僕は泳げないんだ」
 肺が縮まり、かっと燃えた。水深はわずか7フィートほどだったが、バーナードのひ弱な肉体はさっさと魂を手放した。
 なんのとりえもない息子でも、母にとって失った衝撃は計り知れなかった。いっそ自分の名前すら忘れてうろつきまわる呆け婆さんにでもなってしまいたかったが、皮肉なことに彼女の考える方の脳は明晰で、体を動かす脳は衰え続けた。だから母親は今まで以上に盲信した。バーナードの行いを、そして私たち親子を、神は祝福してくださるだろう。これほどの幸せがあるだろうか。
 息子亡きあとも母親はさらに生き続け、90才まであと2日というところで、白く薄くなった前髪に神の温かい息を感じた。そして、テレビの前で車いすに座ったまま死んだ。

 仕事帰りにスーパーマーケットに立ち寄る。
 出来合いの総菜と缶ビールを買った。完璧な手抜きの夕食。ひとりで過ごす週末というのは、里佳にとってなかなか魅力的だ。夫は隣の国へ出張に出かけ、帰ってくるのは4日後の火曜日だった。夏はビールに限る。なにもしないで、いや、やりたいことだけをしてだらだら夜じゅう起きていよう。朝は腰が痛くなるまで寝ていよう。
 ひとりでゆっくり観るつもりの映画も何本か用意した。昔、外国で観た映画だ。1年間だけ留学をしたことがある。たいした語学力はつかなかったが、それでも字幕なしで映画を観られるくらいにはなった。留学先で知り合った友達とは、しばらくはメールのやりとりをしていたが、今ではひとりとして行方も知れない。帰国後は外国語とは無縁の仕事に就いた。職場の同僚に紹介された男性と結婚したのは29才の頃だった。故郷が同じだったこともあり、話が合った。子供はいない。なりゆきに任せたまま4年が過ぎたが、もしかしたら夫婦で病院へ行ってみた方がいいのかもしれないと、近頃は考える。
 しかし今日は、不妊検査のことなど忘れている。さっと簡単にシャワーを浴びると、くすみ始めた肌を念入りにマッサージし、鏡で成果を確認した。まあまあ許せる出来。それからだらしなくソファにもたれた。リモコンのボタンを押す。映画が始まる。汗をかいている缶ビールを手に取り、リングプルを傾ける。

 直後に、里佳は旅立った。
 この旅は無作為に発生する。
 兆しも、きっかけも、適正も、なにもない。

 里佳は高速で回転しながら落ちていった。
 しかし目が回ることはなく、まるで自分が小さな弾丸にでもなったかのように、感覚には無理がない。安定している。
 気付くと回転は終わり、はるか彼方に地図が見えた。国際線の飛行機から見下ろしているのと違い、地図は水平移動をせずに縮尺ばかりが変わっていく。まるでグーグルアースみたいだ、と里佳は思った。グーグルアースはすぐに地球儀になり、次の瞬間にはところどころに白い綿切れが渦巻く青い玉になった。
 青い玉の周囲はどこまでも黒い。今まで知っていた黒とは比べられないほどに。まぶしいくらいの黒。こんなに深くて艶やかな黒を目にしたことはない。写真でも映像でも。
 玉の周囲に広がる漆黒があらゆる感覚器を支配した頃、意識はひととき、恐ろしいほど鎮まった。
 そうだ。あれは地球だ。
 落ちたのではない。強い力に引っ張られて、上昇したのだ。
 思い至ったとたん、里佳の内部で耐えがたい轟音が響き渡った。
 困惑、不安、苦痛。轟音はそれらの化身だった。
 ここはどこだろう。夢でも見ているのだろうか。違う、死んでしまったのかもしれない。
 そうだ、きっと死んだのだ。突然死。どうして? 今年の定期検診ではどこも悪くなかったのに。なにか悪いことをした? 悪いこと。仕事が忙しかった。お酒はよく飲む。煙草とドラッグは若い頃にちょっと試しただけ。食べ物。特に思いつかないけれど、きっと添加物はたくさん身体に入れていたいはず。アレルギー。スギ花粉と動物の毛。親戚で突然死した人。いない。この夏が暑すぎた? 暑いのはいつものこと。だったらどうして? 夫の出張を喜んだから。後輩の女の子を厳しく叱りつけたから。赤い羽根募金を無視したから。怒りっぽいから。信仰がないから。中学生の頃いじめられていた多加子ちゃんを助けなかったから。まだ小さかった頃、こっそりチョコレートバーを万引きしたから。低体重児で生まれて親に心配をかけたから。
 ありとあらゆる、思いつく限りの悪いと判断できる所業を並べあげた。そうすることで、なぜか意識の平衡が保たれる。
 身体はさらに縮んだ。少し前までは弾丸サイズだと感じていた身体感覚は収縮し、砂粒ほどになる。それに呼応して、視界に映る地球のサイズも収縮していく。
 悪行を数え上げられなくなった。悪。善。なによ、そんなもの。意味なんてない。

 里佳は里佳という名前を失った。
「それ」に、里佳はなった。

 旅の間に「それら」は、質量を持つさまざまなものを突き抜け、質量を持つさまざまなものに弾き返されるが、その差異を作りだす要因は、観測個体にとっても明らかではない。また「それら」の知覚する時間と距離、したがって速度は、あるステージ未満の生命体には未知のものだ。この宇宙に存在し、存在した、これから存在する、ほとんど生命体はあるステージを超えてはいない。観測個体により若干の誤差はあるものの、過去そして未来のデータから導き出すと、全体の98.528%はあるステージ未満であり、すべての「それら」は98.528%の中から創り出される。

 里佳だった「それ」は未知の力により翻弄されていた。「それ」自体の身体的苦痛はない。「それ」の身体らしきものは、もはや失われているからだ。

 ゆっくり進んでいると感じた時間は何度か訪れた。止まっていると錯覚するくらい、ゆるゆるとしていた。遅く流れる時間で、里佳だった「それ」は、目の前に広がる暗黒の中に、どこまでも奥につながる網目のような、薄らぼやけた線の重なりを見つけた。夜空に立つ桜の大樹の、こまかい枝々と花びらの重なりを眺めているみたいだった。
 目を凝らすと、網目はひとつひとつの染みでできていた。染みに近づいていく。それぞれの染み自体が点だった。点のひとつに近づいていく。点はさらに小さな点の集まりだ。太極図のように腕が流れている銀河。近づいていく。集まりは刻々と大きくなる。近づけば、さらに細かい、さまざまな色と明るさと影を持つ光の集まりだとわかる。光と影の泡が視界を覆う。泡のひとつが、とつぜんゆらめく壁となって目前に迫った。
「それ」は矢のように細長く変形させて、この銀河で3番目に大きな中性子星を貫通する。そして次の瞬間にはまた、薄らぼやけた染みだらけの暗黒に放りだされた。
 一連のつながった流れが、里佳だった「それ」を移動させていた。見えない上流から下流へ。急流や溜まりが繰り返され、早くなり、遅くなる。もはや身体の感覚は消え去ってただの点になり、目も耳も肌も存在しないことを知っているのに、里佳だった頃の細胞たちは働き方を今でも覚えていた。あらゆる刺激を知覚している。見え、聞こえ、味わい、自分の境界を取り巻く表面に圧力を得る。
 里佳の意識は、無視されているようで存在し、存在しているようで無視されている。
 この身が近づき離れていくのだろうか。それとも、すべてものもが来て去って行くのだろうか。

 時間という概念があったのかどうかも定かではないほどにスピードをあげた時期には、宇宙の最果てを見た。これが届かない最果てであると感じたのは、「最果てである」という力が働いたからだ。「最果てである」というささやきを聞いた気がした。なにかに近づくと細長く変形してきた「それ」だったが、最果てでは微小な点のままだった。最果てを象っている境界は、里佳も含めた「それら」を上回る速さで遠のき、ひとつとして追いつきも追い抜きもできない。まるで、卵子の細胞膜に到達できない多くの精子細胞。しかし精子細胞とは違い、里佳だった「それ」を含めた「それら」は力尽きることない。そして、何にも衝突していないもかかわらず、それぞれがばらばらのタイミングで弾き返された。
 その中にはラスティにどろりと着点した「それ」もあったが、里佳だった「それ」が知るよしもない。

 この旅において、時間と距離は重要ではない。そのうえ、常にひとりきりだ。
 ラスティと里佳は、ある時は同時に最果ての間近で向きを変え、ある時は34光年の隔たりをおいて弾き返された。
 そして、なんの前触れもなく、突き抜けも弾き返されもせずに、質量を持つものに収まった。

 着点した場所は「ひやり」として気持ちが悪かったが、「ひやり」自体が自己となる。
 自己の境界線の中に、いくつか別の意識がある。着点した生命体は7の意識を持っていて、「それ」は意識のひとつになった。複数の意識で形成されている自己の在りようを、「それ」は地球でいうところの24.5946分で受け入れたが、この生命体にとっては一瞬の出来事だ。
 7の意識はユニットとしてぎくしゃくと働き、それぞれの係数を用いて緩慢な演算を行っている。「それ」が着点したひとつは最も未成熟の意識で、演算の術を完全には知らされていない。しかしそれなりの係数は与えられていた。
 他の6は、最年少の意識にちょっとした異変が生じたのを察知し、わずかにどよめいた。どよめきは初め、境界の内部で起きたが、6の意識はありきたりな演算を介して、境界の外にさらなる大きなどよめきとして伝えた。つまり、地球とは生成の違う大気に、ある波形を作りだしたのだ。その波形を受け取ったのは「ひやり」に最も接近した位置にある23の意識を持つ生命体だった。

 地球でいうところの13.42時間を使って「それ」は境界の外を探った。生命体を構成する意識の最低数は3だが、拡大するごとに5、7、11と数を増やし、最大ユニットの3011は97個体存在している。それぞれが、この惑星に97つ存在している集合体の首長を勤めていた。
 生命体達は、赤々と肥大化してゆく恒星から逃げるために、その時々で持てる知識を総動員して移住を決行してきた。何度か惑星を渡り歩くうちに姿も変えた。星の重力や気温、大気といった環境に合わせるために、ある部分は意図的に変え、ある部分は彼らも意識しない間に変わってしまった。効果的に変わった彼らだけが、この惑星に生息している。かつては短い命をつないで種を残していく生命体だったが、今は個体自体が数億年の時を乗り越えることができる。はかない生き物だった時代は遥かに遡る時代に終わった。それでもいずれ逃げ切れずに、いつかは終わりが来るだろう。しかしそれは、今ではない。
 この星系と銀河でも「時間」は圧倒的な権力を持って君臨していた。過去から未来へと。遥かに先送りした時間において現れるはずの終焉のシナリオは、現実味のないシミュレーションとなっている。したがってこの惑星の生命体は、彼らなりの落ち着いた「今」を過ごしている。今はまだ、大丈夫なのだ。
 境界を探り終えると、「それ」は「ひやり」に馴染んだ。居心地は悪くない。このままずっと居続けても構わない。
 ところが、そうはいかないのだ。
 着点した「それ」は焦燥感に駆られていた。
 自分の身に何が起きているのかさっぱりわからないが、わかっていることがある。境界の向こうにあるものに、自分が何かを伝える。それを今から始めるのだ。

「それ」は、複数の意識を内包したこの生命体特有の動作を、既にすみずみまで知っていた。しかしやはり、動作はどこかが圧倒的に間違っており、でも間違いには気付かない。
 イメージを放出する。
 この旅の間に少しずつ蓄えられた、イメージ。
 すべてを包み込む、輝かしく艶やかな、漆黒。
 放出を終えると、「それ」は収まっていた「ひやり」からものすごい力で抜き出され、来た道と寸分違わぬ旅を逆戻りした。
 旅の記憶は消えた。
 そもそも旅などなかったかのように。

 様子のおかしくなった最年少の意識が発したのは、その係数を持つ意識としては異例の形を持つ電位変化だった。他の6の意識は戸惑い、そのうちのひとつは地球でいうところの185.24時間の演算ループに陥ったものの、その惑星に住むひとつの生命体としてはほんの瞬時の決断だった。いや、決断というよりも衝動に近かった。「それ」を含め全部で7の意識を持つ生命体が放出した波形は、彼らにとっては不自然に途切れながら空間を渡り、最も接近した位置にある、23の意識を持つ生命体に伝わった。
 23は驚いた。もともと他者とのコミュニケーションに消極的な性質の23だったが、今回はさすがに演算を開始した。7は23にとって再至近に位置していたが、演算過程の凡庸性ゆえに馬が合わないと感じていた。しかし今の7は何かが違う。波形自体はありきたりだが、何かがおかしい。何かが歪んでいる。
 波形は、23の意識を持つ生命体の硬い皮膜を、流れるように刺激していった。
「すべてを包み込む、輝かしく艶やかな、漆黒」
 その漆黒は、彼ら生命体に脈々と刻まれてきた記憶の中にもあった。
 遠い先祖たちが惑星移住の中で見た、宇宙の漆黒。
 彼らが強制的に持たされている古い記憶は、地球でいえば伝説のようなものだ。知ってはいるが、実際には見たこともない。もはや彼らは、体内ではぎくしゃくとした演算を繰り返し、身体は大地をゆっくりと転がる生き物である。物理的に大気圏の外に移動する術など、とうの昔に失っている。だからこそ、赤く膨張する恒星に浸食される前に移住する方法を、早急に見つけなければならない。それを模索することが、彼ら全体としての、もっかの課題でもある。このままでは惑星もろとも心中するしかないのだ。
 23の意識を持つ生命体は、自らの持つ最高速度ではあったがのろい演算を続け、この波形を再伝播するための仲間を選び出した。硬質な皮膜で覆われた岩石様の身体を、わずかずつ移動させて転がる。早くこのニュースを伝えなくては。彼に伝えよう。彼は19だけれど演算に安定感がある。きっと面白がるに違いない。なにせ伝説にある漆黒なのだから、面白がるはずだ。

 19の意識を持つ、演算に安定感のある生命体は、不自然に途切れる波形を律儀に演算するふりをした。伝説にはまったく興味がなかったからだ。
 しかし、地球でいうところの1万8460年と少し経った頃に、19は激しい後悔の念に陥ることとなった。あの奇妙な波形にこだわり続けた23は演算能力を上げ、3万2963年という短い間に、今や2957もの意識を持つ有力者となった。
 19は絶望した。この様子では極限まで増えたとしても、277止まりだろう。もはや頭打ちだ。自暴自棄になった。意識を増やすなんてくだらない。19は277まで増えたところで、自ら199にまで減らし、じょじょに係数群も曖昧になった。そして大地をゆっくりと転がるだけのささくれた生き方を選んだ。
 ときどきは気まぐれな演算にふけった。この宇宙には、かつての我々のような生命体が数多くいるんだろうなあ、などと。せわしなく生き、またたく間に死に、種を残すために他の種を駆逐し、気温が少し変わっただけで絶滅してしまう。かつての我々ような未発達の生命体が、どこかにいる。そいつらは何を考え、何をして時間を過ごしているのだろう。

 波形の生み元となった7は変わらず7のままで、彼らにしては短い2億年少しの生涯を終えた。もともと皮膜が薄く、各意識も脆弱だった。
 彼ら生命体は大慌てで代わりの生命体を創り出した。この生命体にとって、ひとつのユニットが失われるのは大変な出来事だ。その時8023861個存在していた彼らの選択肢は、骨の折れる作業をして1個のユニットを補填するか、簡単な作業で24個を抹殺するかだった。次の8023877 個に進みたいものの、16個ものユニットを増殖するだけの余力はない。
 素数で在らなければならないことが遥かなる記憶に刻み込まれ、縛られ、それは彼らの生態そのものになっていた。彼らが知的生命体であるという、愚直な信号。何者かが受信して、先の見えない移住の運命から救い出してくれるかもしれない。素数であることは、生存にかかわる重要な信号なのだった。
 ひとつのユニットを失った生命体は、24個を抹殺するよりも1個を創り出す方を選んだ。
 まずは志願者を募る。対象は、2つの意識を抜き出しても素数であるユニットだ。志願者から抜き出された2つの意識はひとつのユニットにおさめられる。2ではまだ不安定で、完全な生命体とは言えない。最低数の3になるまで、仲間すべての演算を介して、過去の記憶と未来への処世術を伝えなければならない。膨大な力が必要だ。
 しかも、意識を2つ抜き出されるという苦痛をいとわない者など、そういるものではない。身体は衰弱して演算能力も低下するし、意識数を失うと激しい虚無感に襲われる。それでも、民主的であろうとする彼らは、あくまで志願者が現れるまで、数千年でも待つのだった。
 ところがたったの32日で志願者が現れた。
 199だ。
 277から199まで、自らの意思で意識を減らした彼にとって、199だろうが197だろうがもはや関係ないのだった。
 199はうすら笑いを浮かべながら197となった。

 2957はのちに2999にまで意識を拡大したが、首長の座を狙うには才覚が足りず、地球でいうところの36億年後に惑星ごと消滅した。197も消滅した。恒星の肥大とともに移住を続けた彼らだったが、ついには逃亡もかなわず、力に飲みこまれてしまった。
 2999は最後まで、逃げのびるための演算を、律儀だが緩慢に繰り返した。
 197は最後のゆっくりとした演算で、逃げのびることは不可能だという結果を出した。
 そもそも逃げのびることに意味があるんだろうか。
 だいたい、どこへ逃げるというんだ。
 そもそも、どこから来たというんだ。
 我々はいったい、何者だったんだ。

 最後の惑星に到着してから消滅までの時間に、広大な暗黒へ旅に出かけた「それ」は、意識ではなく生命体ごとの換算で332個あったが、どれもが旅を終えると同時に、その記憶は消えた。

 里佳も旅の記憶をかき消され、地球に戻ったのは、リングプルを押し倒したばかりの缶ビールにまさに口をつけている瞬間だった。詰め合わせの予告編に続き映画の本編が始まると、ひとりでソファにもたれているのが少し寂しくなった。さっきまではひとりでのんびりできると清々していたのに。
 子供は生涯できなかったが、夫とはつかず離れず仲良く過ごした。夫が事業を起こして彼女が補佐役になった時も、適度な距離があるからこそうまくいった。次第に増えていった従業員からは、仮面夫婦とさえ呼ばれ、それをふたりしてそれを面白がったりもしたが、あながち間違ってもいなかった。夫は死ぬまでに3回浮気をした。そのどれもを里佳は知っていたが、責めも問い詰めもせず、夫は気付かれていることに最後まで気付いていなかった。里佳の浮気は2回だ。夫が気付いていることを知っていたが、ふたりは変わらずに朝食のテーブルにつき、よく働き、同じベッドで眠った。
 夫は、自分が膵臓がんになったことを知ると、別の企業への推薦状を書いたり新たに独立する資金を与えたりして、その時には40人ほどになっていた従業員すべての行く先をみごとにさばいた。
「潔く何も残さずこの世を去ろうじゃないか」それが、この夫婦の落ち着ける場所だった。「里佳が生きるぶんはちゃんと残してあるから、安心して死ぬまで生きたらいいよ」
 痩せて目ばかりぎょろついている白髪の夫の手を握り、もうどんなマッサージをしても目じりの皺を取り除くことはできない年齢になった里佳は、笑ってますます皺を浮き出させながらうなずいた。夫の遺志で墓は作らず、遺骨は既に見知った者もいない故郷の川に流した。
 里佳も同じ症状で76歳になったばかりの頃に死んだ。積極的な延命措置はしなかった。ふたりを知る人々は「似た者夫婦だった」と言って別れを惜しんだ。彼女の遺言で葬儀はせず、焼かれたリン酸カルシウムは夫と同じ川に流された。残った僅かな金は生前に夫婦が取り決めた慈善団体に寄付された。

 里佳の生存中に地球から広大な暗黒へと旅に出かけた「それ」は50万2938個あったが、どれもが帰郷すると同時に、旅の記憶が消えた。

 旅の間に「それら」は、質量を持つさまざまなものを突き抜け、質量を持つさまざまなものに弾き返されるが、その差異を作りだす要因は、観測個体にとっても明らかではない。また「それら」の知覚する時間と距離、したがって速度は、あるステージ未満の生命体には未知のものだ。この宇宙に存在し、存在した、これから存在する、ほとんど生命体はあるステージを超えてはいない。観測個体により若干の誤差はあるものの、過去そして未来のデータから導き出すと、全体の98.528%はあるステージ未満であり、すべての「それら」は98.528%の中から創り出される

 観測個体のひとつが激しく振動し、眠に入ろうとしていた。
 個体42。42番目に生まれたというわけではない。すべての時間を見渡せる場所にいる彼らに、順番というものはない。彼らは宇宙の誕生と同時に在り、宇宙の終わりにも在る。最初から42であり、この先も42で在り続ける。地球でいえば、ロシアのノリリスクもチリのコピアポも同時にそこにあるのと同じだ。観測個体にとっては、宇宙の誕生も終わりも、同時にそこにある。
 振動はあまり心地のよいものではない。「それら」がさらに絡みついてくる錯覚。ただでさえ「それら」は絡まった糸のような無軌道さであたりを覆っている。錯覚は振動のせいだ。糸の密度はいつだって一定なのにもかかわらず、振動のせいで濃かったり薄かったりと勘違いしてしまう。
 42はいやいやながらも不快を受け入れる。集めた情報を隣接する宇宙へ排泄するために、眠は不可欠だ。心地よくはないが不可欠だという違和感を、眠に入る際に感じることそのものが、この個体が眠に入る際の状態だった。
 同時にあらゆる状態にいた。眠を終えた状態にも、仲間の個体と思考を交わしている状態にも、自分の存在に気付いたばかりの状態にも。
 それは蓄積された記憶ではない。同時にあらゆる瞬間が存在している彼らにとって、時間ごとに「蓄積する記憶」などないのだ。
 観測個体は、この宇宙のすべての時間を見渡せる。それはただの奥ゆきに過ぎない。流れてはいない。
 つまり、1.472%に属していた。
「それ」になることはなく、だから旅をすることもない。固定したまま流れることのない時間に生息している観測個体には、「それら」は絡まった糸として映り、この宇宙は糸で埋め尽くされている。「それら」はこの宇宙に存在する生命体の思念で、時間に左右されないエネルギーのひとつだ。
 観測個体は「それら」を観測するが、生み元である生命体自体には、観測するほどの価値はない。時間とともに誕生して消滅してゆくすべての事象は、観測個体にとっては霧のような影のような、実体のないものだった。しかし在りようはわかっている。この宇宙を生成する元素が集まり、多くはおとなしく従順な星々となり、星々からは歪んだ生命体が偶発的に生まれる。影の正体は、その星々や生命体だ。星々も生命体も、組成自体は彼ら観測個体と変わらない。
 違うのは、立っている場所。見えている世界。
 そして観測個体が必要としているのは、時間に支配されていない糸だけだった。

「それら」は多くの情報に満ちている。情報の在りようは似通っており、3層もしくは2層で構成されている。
 まずはひとつの大きな力が中心にある。観測個体が必要としているのは、実質的に1層目だけであり、デコードすると、あるスペクトルを持つ2次元の円形の平面だったり、だらだらと広がる3次元空間だったりする。個体42が実際に観測している、観測した、そしてこれから観測するのは、円形と空間だった。これだけの数の糸が絡まっているにもかかわらず、42自体が観測なし得るのはたったのふたつで、他の個体にしても同じようなものだ。だからこそ仲間なしに、全体の観測は成立しない。観測行為自体がエネルギー代謝の一部である彼らにとっては、仲間とのやりとりは重要だった。自らの観測できない情報を受け取り、与え、すべてを共有する。観測結果は消費して排泄するが、隣接宇宙から同等のエネルギーが還元されるので、エネルギー自体は決して無くならない。
「それら」の中心にある大きな力の周囲には、62.98006%の確率で中程度の力が取り巻いている。
「どこから来て、どこへ行く」
 これが2層目の情報で、デコードはできるものの、観測個体には消費できない。ある種の生命体特有の思念か、もしくは代謝活動と考えられている。観測個体によって意見は分かれていて、これからも別れ続けるのだが、約89.4872%は代謝活動であると考えていた。
 個体42は思念と考えている少数派のうちのひとつだ。俗に「思念派」と呼ばれている。時間線を一方向に動く生命体ならではの思念に違いない。「どこから来るのか」も「どこへ行くのか」も、時間が川のように流れて経過してゆく中でしか至らない着想だ。
 なんという無邪気さ。本当は時間など固まったままそこに在り、今までもこれからも在るというのに。薄ぼんやりとした影のごとき哀れなものたちは、決してその現実を知ることがない。あらゆるものがずっとそこに在り続けていることをわからないのだ。意味のない思念という他ない。
 しかし42は決して無慈悲ではなかった。「意味のないことを62.98006%もが考えているなんて、哀れなものだ」と、心底、哀れんでいた。「62.98006%は、なにもわかっていない、無邪気な生き物だ」
 3層目は100%の確率で存在する。しかしあまりに小さすぎる力であるため過去にも未来においてもデコード不能で、これもまた消費できない。いわば無駄なノイズ。なぜこのような営みが自然現象として在るのか、過去でもそして未来においてもわからない。時間というものに支配されているものは不可思議なのだ。

 42は観測し、眠に入る。
 観測は観測個体の生態だ。1層目は代謝に欠かせない要素である。だから観測することに疑問はない。
 観測結果は隣接する宇宙へ排泄する。そこは未知の世界だった。なにが在り、どんな振動があるのか想像もつかない世界。隣接宇宙へ接続することができるのは、眠の間だけ。眠を通じて、情報を送りだした手応えは感じられる。しかし隣接宇宙の様相を、観測個体が観測することはできない。計り知れない世界への畏怖の念が、観測個体それぞれの中には根付いている。

 今まで絶え間なく観測し続け、これからも観測を続ける42は、眠に入ろうとしていた。
 消化した情報を、これから隣接する宇宙へ排泄する。
 あまり心地のよいものではない振動が続いていた。

 しかし何かがおかしい。強すぎるのだ。おかしい。様子がおかしい。
 これは異常事態だ。
 振動は痛みをともなうほどに激しくなり、42を混乱させた。
 この時間を、知らない。

「知らない時間だ」
 着火したその思考は、短い導火線を伝って個体42を襲った。42は身も砕けるほどの動揺の中で、必死に考えた。
この異常事態について、誰も教えてはくれず見せてもくれなかった。つまりはどういうことだ? 我々は知り得るすべてを共有してきた。にもかかわらず知らないということは、この事態を誰も見ていないのだろうか。新しい事象なのだろうか。
 いや、もしかしたら。もしかしたら、見た者がいない……?
「見た者が"いない"」
 そうだ。この状態になるまで誰も気づかない。気付いた時にはもう遅いのだ。知らない時間へ引き込まれる。そこから戻ることはない。誰も教えたり見せたりできなかったのは、そのせいだろう。知らない時間に入ったが最後、戻る者は"いない"。だから見た者も"いない"。

 自分も仲間も、常にそこに在った。無くなった事象はひとつもない。
 だとしたら、おそらく。
 個体42は、弱まる振動の中で、ぼんやりと考えた。

「おそらく」
 おそらく、代わりの42が42として、あらゆる時間に在り続ける存在となる。思考と観測結果を保持した、42とぴったり一致する42が現れる。仲間が数を減らさず常に在り続けたのは、そういうことなのだろう。自分の知らないところで仲間は異常な眠に入り、同時に入れ替わりを行っていたのだ。入れ替わりがあまりにも速やかすぎるせいで、誰も気づかず、だから誰も伝えない。個体42は個体42に入れ替わる。ということは、故郷の宇宙で確かに42は存在しているということ。
 しかしそれが自分であると言えるのだろうか。
 自分はここにいるのだ。知らない時間へ引き込まれようとしているのだ。

 その時、突然、個体42は、これこそが観測個体の死であることを理解した。

「どこから来て、どこへ行く」
 そういうことだったのか。
 時間の支配とは関係なく、生命体は消滅に至るのだ。2層目の意味が、ようやく理解できた。それならば3層目は、あの微細すぎるノイズは何だったのだろう。我々が消化できない情報。もやのような星々や生命体たちが100%の確率でまとっていたのは、いったい何なのか。

 観測個体42は、絶えだえに考えた。

 故郷の宇宙では自分の代わりに、思念と観測結果を保持した別の自分が、過去も、そして未来も在り続ける。そして、何度となく入れ替わったであろう仲間と思考を交わし、同時に別の場所と時間ではうるさく絡まった糸を観測し、同時に凝縮された宇宙が解きほぐされる衝撃にじっと耐え、同時に広さを増す時空を物見高く楽しむ。

 でも、それを思う今の自分はどこへ行くのだ。
 前の自分はどこへ行ったのだ。
 入れ替わる前の仲間はどこへ行き、入れ替わった仲間はどこから来たのだ。

 そもそも始まりはどこにあるのだ。

 最期の瞬間に観測個体42は、滑らかに黒光りする空間に浮かぶ、黄色い輪を見た気がした。

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