老人は清潔なベッドに横たわり、命が尽きるのを待っていた。
地球生まれのこの老人は、今や火星にまで及ぶ裏ビジネスで大成功を収めていた。各星と各国の法律を潜り抜け、時には他人を陥れながらひと財産を築いてきたのだ。
死後に莫大な遺産を残すことになるが、金に目のくらんだ一族に気前よく財産を与える気などさらさらなかった。
この子を除いては。
「おじいちゃん。死なないでおくれよ」
ベッドの脇で泣いている少年は老人の曾孫だ。月生まれのせいで背ばかりひょろ長いが、まだ10歳。正直なところ頭は悪い。空を駆けるギアに夢中で、勉強をする気配もない。しかし一族の中ではただひとり、少しは好感の持てる人間だ。なにせ金に興味がないときた。
財産のほんの一部だけだが、この子に譲ることにしてある。問題は残りの金だった。
「おまえを男と見込んで頼みがある」
「ぼく、おじいちゃんの頼みならなんだってきくよ」
老人は震える手で金属製の黒いキューブを取り出した。
「私の財産のありかをコードした秘密の箱だ。海中の成分と反応するとステルス仕様になり、逃げ回る。そう簡単にはつかまらん。100年経っても無事に逃げ切るだろう。おまえはただギアで上空へ出て、この箱を海へ落としてくれりゃいい」
「どの海に?」
少年は涙の跡がついた顔をあげてきょとんとする。相変わらずおつむは弱いようだ。
「そんなのどこだって構わん。おまえの好きにしろ。箱のことは私の葬儀で大々的に発表される。金が大好物な豚どものことだ、殺し合いでも始めるかもしれんな。これは見物だぞ」
はっ、はっ、はっ。
老人がなけなしの力を込めて意地悪く笑うと、少年は澄んだ瞳で老人を見つめた。
「おじいちゃん。ぼくには何が面白いのかわかんないけど、ちゃんとやるって約束する」
その瞬間に老人は、自分の愚劣さを思い知った。一族以上に忌むべき人間は自分であることを。願わくばこの馬鹿げた計画を撤回し、数日でもいいから澄み切った人生を送りたいと望んだ。
しかし時すでに遅し。少年の目の前で、老人は息絶えた。
葬儀には欲で肥え太った一族が集まった。
彼らは箱の存在を知るやいなや、我先に太平洋やインド洋へと散っていき、見送りの歌が始まる頃には、葬儀場はからっぽになった。
そのころ少年は、お気に入りのギアで夜空を飛んでいた。老人のことを思い出し、ちょっと涙ぐむ。目的地へ着くと、アームを使って低空からキューブを落とす。
ぽすっ。
ふわりと跳ねてから転がり、ゆっくりと止まる。
遅れて降り注いだ穏やかな砂塵が、黒い表面を撫でてゆく。
「ここね、ぼくの一番好きな海なんだ。ちゃんと約束、守れたかな」
少年はギアを一度だけ旋回させた。まるでさよならを言うように。そして静かに飛び去った。
海水に反応するはずのキューブは、出来の悪い少年によって、溶岩質の大地に落とされた。
そこは月の裏側、賢者の海。
澄み切った漆黒の月空に、太陽が昇り始めた。
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