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裏小道を歩いている

たなかなつみ

 

 裏小道を歩いている。
 換気扇の音がごおと鳴り、焼いた魚のにおいが鼻をくすぐる。そういえば昼飯時であったかと、空を見上げる。
 屋根瓦に区切られた狭い空に、太陽は見えない。シュッと走るものが見え、鳥かと思い目で追うと、茶色い猫だった。魚のにおいにつられてやって来たか。
 おくれをとってなるものか。生来の負けず嫌いがにょっきり頭を突き出してきて、私は猫のあとを追って走り出した。昼飯時だ。昼飯時だ。その魚、猫ではなく私がいただく。
 がたがたと波打つアスファルトの上を駆け、弾みをつけて塀の上へよじ登る。ぐらぐらと揺れながら狙いを定め、磨りガラスの窓に向かってダイブする。
 派手な音をたてて窓は破れ、額を切りながら落ちていった部屋のなかは、もうもうと白い煙が立ちこめ、サンマのにおいがする。こちらを見てぽかんと口を開けているのは、割烹着を着た婆さんだ。
 婆さん、その魚、私が頂戴する。
 腰を落として婆さんの手にある魚焼き器に手を伸ばすと、婆さんは老人とは思えない身のこなしで体をかわし、魚焼き器を両手でラケットのようにひょいと構える。
 私はぐるぐるとのどを鳴らし、何度か魚焼き器に向かってジャンプするが、婆さんはその都度、ひょいひょいと身をかがめ腕を振り、私の攻撃をいなす。
 この婆、できる。
 しかし、私とてヒトの子、ここであきらめるわけにはいかない。
 私は再度身を屈め、婆さんの集中力が途切れる時をうかがうが、婆さんは美しいとも言える立ち姿で、ちらりとも隙がない。私はじりじりと手の爪を床に立て、次の跳躍へと力をためる。
 と、そこへ。シュッと走る茶色いモノ。
 婆さんはぴくとその鳴き声に反応し、さっと魚焼き器の蓋を開け差し出した。
 気づくとすでに猫の影はなく、婆さんの手にもサンマはなく。
 その間、わずか一瞬のこと。
 「ヒトにやるサンマはないよ。おととい来な!」
 婆さんの怒鳴り声に私はしゅんと肩を落とし、とぼとぼと玄関から出て行く。
 後ろでぴしゃりと扉が閉められ、再び立った裏小道には、わずかに日が射し込み、あちらからもこちらからも昼飯のにおい。
 私は鳴る腹を抱えよろよろと歩く。これで何日昼飯にありついていないだろう。
 見ると、塀の上に茶色い猫。牙を見せてにゃあと鳴き、前足でなにやら地面に落とす。ぼんやりとそれを確認すると、先程のサンマの皮と骨だけが、無残な姿を見せていた。
 猫への怒りと自分への苛立ちに私は身を震わせるが、それも一瞬のこと。
 私は四つん這いになり、がつがつとそのかつてサンマだったものを口に入れた。猫の口内のなまぐささの残るそれを、私は嬉しさのあまり涙を流しながら咀嚼する。
 猫は私が食べ終わったのを確認し、満足げに尻尾を立てて、ひらりと塀の向こうへ消えた。
 うむ。戦いはまた明日。
 腹を満たした私は、日なたを探し、ゆっくりと目を閉じ、とろとろと午睡へとまどろんでいく。
 そして気づくと私はまた。

 裏小道を歩いている。
 新しい住人がやって来るたびに、屋上屋を架して連ねられた違法建築の隙間、細い小道には日も射さず、曲がりくねってその先も見えない。時にその幅はヒトひとり通るにも充分ではないものとなり、私は横向きに蟹歩きで道を先へと進む。
 腹がつっかえた。ほんの少しの間に、また柱が増えたのか、建物が傾いたのか、それとも私の腹が出たとでもいうのか。
 仕方ない。私は戻ろうとするが、建物の出っ張りと私の腹とがどのように交接したのか、いっかな身動きがとれない。唸りながら汗をしたたらせ、どちらの方向へでもいい、なんとか動こうと必死になっている私の目の前、がらりと窓が開く。
 窓の向こうには、何故か全裸の美女がいた。
 なんという役得、と一瞬思うが、それも身体が自由に動いてこそ。私は赤い顔のまま女に挨拶をするが、さすがにこの状況ではベッドへの誘いもかけられない。
 女は平然とした態度で私に挨拶を返し、外に干されている洗濯物を片づけ始める。その細い指に絡みつく細いパンティに鼻をつけたいという欲が頭をよぎるが、それも一瞬のこと。
 今は女よりも、まずは我が身だ。
 私は女に助けを請うが、女はあっさりと首を振る。
 「そこにはまったら二度と抜けられない。以前にもそこに挟まったまま餓死した男を知っている」
 なんということだ。私はこの小道を抜けようとした自分の選択を呪うが、苦境に陥ってしまった今、過去の行為を嘆いても仕方がない。進むことも戻ることもかなわない状況で、これから先、私はどうすればいいのか。
 そこで打開案を思いつく。なんというコロンブスの卵。前にも後ろにも進めないのなら、上か下に抜ければいいのだ。とはいうものの、下には地面がある。となれば私の選択肢はただひとつ。
 私は空を見上げ、手の届きそうな出っ張りを探す。違法建築のありがたさ、そこには処理されていない柱や煉瓦の角が、思いのほかたくさんあった。私はにんまりと笑みを浮かべ、手近な出っ張りに手をかける。
 「それはやめたほうがいい」
 ふと見ると、全裸の女は、細いパンティひとつを身につけた女に変貌していた。
 「あなた、後悔する。悪いことは言わないから、そのまま飢えて朽ちるのを待ったほうがいい」
 意味がわからん。私は女の言うことを無視して、両手を目標の出っ張りにかけてぐっと引っ張ってみる。手応えあり。ここが私の脱出口だ。
 私はむんと両手に体重をかけた。その途端。
 あれよあれよという間に空が細くなっていくのが見えた。なんということだ。違法建築に助けられたと思ったのは蜘蛛の巣の罠だったのか。
 大きな音を立てて、私の両側の建物が傾いだのだ。轟音が鳴り響き、ひしゃいだ屋根と屋根が、壁と壁が、柱と柱が、どしゃりとぶつかり崩れた。私の脱出口だったはずの青空は見えなくなり、先程よりもさらに狭くなった隙間に腹と背中を押され、私は息をするのも絶え絶えになった。
 「ほらごらん」
 視界の端で、細いパンティとオレンジのブラジャーをつけた女が溜め息をついているのが見えた。窓は先程の衝撃でずいぶん近くなり、女の顔は眼前にあった。
 「どうしてくれる。今のでうちが傾いたじゃないか」
 私は項垂れる。そうは言っても、私だって助かりたいのだ。こんなことになるとは思いもよらなかったのだ。
 「自分だけがよけりゃいいと思っているから、他人を巻き込むことになるんじゃないか。あなた、責任とりなさいよ」
 とれる責任ならとりたいが、今はもう、前後左右上下、何処に進むこともできない身の上だ。しかもどんどんと加重が酷くなりつつあり、もうだめだ。
 「気を失う前に、あたしんちをなんとかしてよ」
 すみませんすみませんと謝罪を繰り返す私の上から、どすどすどすと壁土やら釘やら煉瓦の欠片やらが落ちてくる。どんどんと薄れゆく意識の向こう、女の声もどんどんと遠くなっていき。
 そして気づくと私はまた。

 裏小道を歩いている。
 漏れ聞こえてくるバイオリンの音に合わせ、私はバレエを踊りながら道を行く。ピルエット、ジュテ、アラベスク。くるくるくるとターンを繰り返し、右脚を大きく振り上げたところ。
 びりっとズボンの尻が破れる音が聞こえた。こりゃいかん。私は慌ててポケットから裁縫道具を取り出し、ズボンを脱いでちくちくちくとその破れを閉じる。穴は思っていたよりも大きく、縫った部分が引きつれて少しよれてしまったが仕方ない。ズボンの尻には穴があるよりもないほうがいいのだ。
 わたしは少し歪な格好になったズボンをはき直し、心を落ち着ける。バレエはよろしくない。もう踊るのはよそう。そう思うのに。
 窓からはまた楽しそうな音曲が流れてくる。私は唇を噛みしめる。どうすればいいというのだ。私はもう踊らないと決めたのだ。そう決めたはずなのに。
 知らぬ間に私はまたポーズをとっている。アン・ドゥオール、って、いかん。バレエは駄目だ。それに今私の耳に聞こえている曲も、先程とはうって変わってヒップホップ。そう、バレエではなくヒップホップ。私は腰を落とし、リズムに合わせてステップを踏みながら進んでいく。ボックスステップ、ジャンプ、ターン。調子に乗って開脚でしゃがみ込んだところ。
 びりびりっとズボンの尻が裂ける音が聞こえた。これはまずい。私は慌ててポケットから裁縫道具を再度取り出し、ズボンを脱ぐ。裂け目は先程よりもさらに大きく、私は悪戦苦闘しながらちくちくと縫い合わせる。メンテナンスの終わったズボンは、さらに歪にひしゃげてしまった。だがまあそれも仕方がない。ズボンの尻に穴はあってはいけないのだ。
 私はズボンをはき直し、軽く深呼吸する。うむ、ヒップホップもよろしくない。もう踊るのはよそう。そう思うのに。
 窓から今度は楽しげなお囃子が聞こえてきた。どんどんぱららんと太鼓の音。これは、幼児の頃から植え付けられた、私の遺伝子ならぬ故郷の音。
 盆踊り。これなら大丈夫だ。私はお囃子の声に合わせて、口ずさみながら踊り始める。手拍子をたたき、腕を振りながら回転する。くるくるくると回っているうちに、曲はどんどん激しくなる。緩やかだったリズムのテンポが増し、あれよあれよという間にそれは盆踊りの域に留まるものではなくなり。
 どっこい、どっこい、そいや、そいや、という掛け声とともに、私はまたしても開脚屈伸でしゃがみ込み。
 びりびりばりっとズボンの尻が裂ける音が聞こえた。いや、すでにそれはズボンの尻ではなく、私自身の尻が裂けた音でもあった。
 これは、たいそうまずいことなのではなかろうか。
 私は慌ててズボン、というより、すでにもうただの布きれと化したそれを脱いだ。繕いようもなく、それはもうずたぼろだった。いや、そんなことよりも、今重要なのは私自身の尻のほうだ。急いで脱いで繕わねばならぬ。
 とはいえ、尻というのは一体何処から如何様にして脱げばよいものなのか。私は腰の辺りを探り、背中を探り、肩を探り。
 頭の天辺の髪をつかんで左右に分けたところ、ぱすんとそこがほつれた。なるほど、ここから脱げばよいらしい。私は頭部からずるずるずると私自身を脱いでみた。肩を抜くのに苦労したが、それ以外は簡単に脱ぐことができた。
 裏っ返しになった私の尻には大きな穴が開いていた。これはまずい。私は針と糸を探そうとしたが。
 困ったことに、私は脱がれる際に手指までもが裏っ返しになってしまっていた。しまった。これでは針と糸を持つことができない。というよりなにより。
 全身裏っ返しになってしまった今の私には、もう何をどうすることもできなくなってしまっていた。今や脱がれた状態の私はぺらぺらと風に吹かれて揺れるばかり。
 こんなことなら、多少尻に穴が開いても放っておけばよかった。私は後悔したが、今さらどうすることもできず。この道を通りかかってくれる誰かを待って、脱がれた私を元通りにして貰うことしかできないという結論に行き着いた。この姿を見られるのは恥ずかしいが、そこはもう仕方がない。私は風に揺れながら、足音が聞こえてくるのをひたすら待つことにした。
 風は私をぴらぴらと揺らしながら、少しずつ私を小道の端っこへと飛ばしていく。私は折り畳まれ、縺れ。いつの間にやら電柱に巻き付いてしまった自分をぼんやりと感じながら、うつらうつらし始める。
 そして気づくと私はまた。

 裏小道を歩いている。
 「待ちなされ」
 何故こんな人通りの少ない細道に店を構えているのか知らないが、手相見が私に声をかけてきた。
 「ここを行ってはいけない。あなたに災難が降りかかる」
 一体それはどんな災難なのだと尋ねても、自分にわかるのはここまでだと言い、埒があかない。しかも勝手にヒトの未来を占いやがったくせに、見料まで要求しやがった。結局私は手相見の手に五円玉を握らせて黙らせ、小道を進む。
 なんの変哲もないふつうの道だ。幅が狭く自動車の乗り入れはできないので、交通事故の心配はなかろう。上から何か降ってくるのかと見上げてみたが、別に工事をしているわけでもなく、開いている窓もない。災難と言っても一体何が起こるというのかとぼんやり考えながら歩いていくと。
 なんでもない道の上だったはずなのに、私はいきなり落っこちた。
 私は落ちていく。あの狭い道幅に一体どうしたらこんなに大きな穴が存在できるのかわからないぐらい、それは大きな大きな穴だった。見えない底へと駆けていく白い兎がいるでもない。私はどんどん落ちていく。
 さてどうしたものか。私は落ちながら腕組みをして考える。いちばん良いのはこの穴をよじ登り、もといた道へと帰ることだが、それにしたって壁らしいものも見えないこの穴をどうすれば登れるというのか。底についてからゆっくり考えることにするかと思ってみたが、落ち始めてからずいぶん経つのに一向に底につく気配がない。ふつうに考えると、これだけの時間落ち続けているのだから、底に辿り着いた瞬間に即死だろう。なるほど、これは災難だ。手相見の言うことを聞いて道を戻ればよかったかと思ったがあとの祭りだ。どうせこんなことになるのなら、見料をもっとはずんでやればよかった。
 私はどんどん落ちていく。いくらなんでも落ちすぎだ。ヒトの手でこんなに深い穴が掘れるものだろうか。うむ、これは自然にできた穴なのだろう。それで一体全体、今は地中のどの辺りなのか。このまま落ちていけば地球の核に辿り着いてしまうのではなかろうか。そこには私の前に落ちたヒトたちの骸があるのだろうか。たくさんのたくさんのたくさんのヒトたちが、つぶれひしゃげ土中のシミになって堆積しているのだろうか。ううむ、その一員になるのはぜひとも避けたいところだ。
 あるいはこのまま、地球の裏側に辿り着いてしまうのだろうか。そこには集落があるのだろうか。落ちたヒトたちによる落人集落。私は村人の仲間入りをし、新たなる落人の到来を待ち、朝な夕な、穴に祈りを捧げるだろう。
 祈り。なるほど、祈るのも良し。私は手を組み合わせてみるが、困ったことに、祈りの言葉など私はなにひとつ知らない。ここはやはり日本人として八百万の神々に祈るのがよかろうか。それぐらいなら今の私にも可能だ。私は落下しながら二礼して柏手をたたいてみる。しかしそれで状況が変化することなどなく、落下しながら礼をするのは難しいということを理解するだけだ。しかも、ちゃんと礼ができたかどうかはあやしい。尻を突き出しただけという気もする。こんな祈り方でも神さまはちゃんと認めてくれるのだろうか。そもそも信仰が足りないことがまずいような気がする。やはり家に神棚を設えなかったのがいかんのかと思うが、今ここで神棚を作る余裕はないし、作ったところで奉る榊もない。
 私は首を伸ばし、天を眺めてみる。そこにあるはずの穴の入り口は、もうまったく見えない。もといた道へ戻る自分をイメージするのは困難だ。私は首を曲げ、今度は下方を眺めてみる。すでに真っ暗なそこに底が見えるでもなく、というか、下に向かって落ちているのかどうなのかもすでに私には定かではないのだが、しかし落ちるというからには下に向かう以外に考えようがないので、やはりあちらが下なのだろうと思ってみる。
 私は目を閉じてみる。電車に揺られながら眠りに入っていくのはあんなに簡単なのに、落下の最中の心許ない体感で眠るのはどうやら難しいらしい。少しの間羊を数えてみたが、すぐに飽きて、私はまた目を開けてみる。とはいえ目を開けたところで真っ暗なのに変わりはなく、自分でも目を開けているのか閉じているのかさっぱりわからなくなる。
 私は自分の頬に触れてみる。ざりざりとした感触に、髭が伸びたのを確かめる。なるほど、私が落下している間に、確実に時間は経っているらしい。私は強烈な尿意を感じる。うむ、やはり時間は経っている。私はズボンのファスナーを外し、どっちが上なのかわからないまま、ちょーと排泄を開始する。アンモニア臭を放つ液体がびしゃびしゃと顔に向かって放たれ、これはまずいと私は体を傾ける。私はそのまま回転を開始し、放たれた尿も私のまわりを回転し始める。私は回りながらどんどんどんどん落ちていく。尿はいつ果てるともなく放出を続け、私のまわりに螺旋を描き続ける。私は尿で美しい繭を作りあげながら、落ちて落ちて落ちて落ち続けて。
 そして気づくと私はまた。

 裏小道を歩いている。
 のどが渇くのは、日照り続きでろくに雨も降らないからだ。暑い、暑い、暑い。汗でべっとりと肌に張り付くシャツが鬱陶しいが、これを脱ぐともっと暑いことがわかっているので我慢する。それよりも水だ。のどが渇いた。私は汗だくになりながら、熱い砂の上を歩いている。
 流れる砂の上に立っている建物は、半分がた砂に埋まってしまい、今も少しずつ傾き続けている。私は砂に半分隠れたその扉をノックしながら歩いているが、ただの一度も返事があったことはない。
 この町には、もう誰も残ってはいないのだろうか。
 足の裏も汗で濡れ、靴がぺたぺたとひっついてくるのが気持ち悪い。脱いでしまいたいと思うが、素足ではとてもこの熱い砂の上を歩くことはできないだろう。わたしは流れる砂にずるずると足をとられながら一歩一歩歩き、扉を見つけてはノックする。返事はない。
 水が欲しい。
 空には雲ひとつなく、湿った気配は何処にもない。いや、ただひとつ、私の肌が汗に濡れていることだけが湿りと言えようか。私は濡れた腕を舐めてみる。塩辛い。のどの渇きは癒えるどころか増すばかりだ。
 何故、私は歩き続けているのだろう。何処か目的地があったようにも思う。けれども、暑さで呆けた私の頭ではもう、そんな過去のことを思い出すことはできない。私は歩き続けなければならない。目的地が何処であろうと、いや、目的地そのものがなかろうと、私は歩き続けなければならないのだ。
 のどが渇いた。
 私はノックをしながら歩き続ける。耳には、さらさらさらと流れ続ける砂の音が聞こえている。砂埃にまかれ、汗と混じり、私の身体はざらざらになっている。疲れ切った足をなんとか交互に動かし、私はただ砂に埋もれていくのに抵抗しているだけなのかもしれない。私は歩き続ける。ノックに応えはない。
 一体私はいつから歩き続けているのか。そんなことすら私には思い出せない。誰か私に命じた者があったろうか。歩け、と。
 砂埃のなか、私はふと足を止める。ここは道ではなかったろうか。いや、道だったはずだ。現に周辺には家々が。いや。
 家々はもうない。砂に埋もれて、もうここに町はない。
 私は後ろを振り返る。そこには砂がただ流れているばかりだ。私はもう一度前を見る。やはり道はない。
 そこにはただ広大な砂漠がひろがっているだけだ。
 目印になるようなものもなにひとつなく。
 いや、中天には太陽がある。太陽が沈む方向が西だ。
 私は空を見上げ。いや、あの太陽は。
 あの太陽は先程からまったく動いていないということに気づく。あれはペイントされた空だ。
 書き割りの蒼い空の下、流れる砂の上に、ひとり。
 私は右足を前に出す。ざざと音がして、足元が崩れる。私は左足を前に出す。ざざと音がして、砂といっしょに足が流れる。私は右足を前に出す。私は左足を前に出す。私は右足を前に出す。私は左足を前に出す。
 私にはまだ歩き続けることが残されている。そしてそれは、何もすることがなくなるよりも幸せなことなのだ。
 私は右足を前に出す。私は左足を前に出す。私は歩き続ける。
 そして気づくと私はまた。

 裏小道を歩いている。
 午後五時の鐘が鳴り、誰かがぼくを呼んでいる。お帰り、お帰り。早うお帰り。
 ぼくは駆け出した。待っている人がいる。ぼくを待っている人がいる。だからぼくは帰るよ。待っていて。待っていて。
 暗くなった空から、大粒の雨が落ちてくる。ぼくはずぶ濡れになりながら家路を急ぐ。帰ったらシャワーを浴びよう。それからあたたかなご飯。寝る前にママにキスをして。それから。それから。
 明日になったらこの小道を、今度は逆向きに歩いていくのだ。そうやってこの小道を行って帰って行って帰って。少しずつ時が経って。ぼくも少しずつ成長して。
 おとなになってもこの小道を、ぼくはまた今と同じように歩くのだろうか。
 ぼくは家路を急ぐ。少しずつ辺りは暗くなっていく。少しずつ夜が近づいてくる。
 ぼくは家への道のりをただ黙々と駆けていく。夜に呑み込まれながら、ただ黙々と進んでいく。待っていて。待っていて。
 この先に、おとなになったぼくが待っている。
 そしておとなになったぼくもきっと。

 裏小道を歩いている。
 書き割りの日が昇り、裏小道を歩いている。
 書き割りの日が沈み、裏小道を歩いている。
 裏小道を歩いている。
 裏小道を歩いている。
 ひとりぼっちでただひたすら黙々と歩いている。聞こえてくるのは自分の足音ばかり。流れゆく描かれた風景は、何度も同じところを繰り返す。
 私は歩いている。私には目標がある。それが何処だかは知らないし、何故その目標に向かわねばならないのかもわからない。
 ただ、私は歩き続けねばならないのだ。前へ、前へ。
 この先に待っている私に辿り着くために。ただ、黙々と。
 音のない夜が去り、動かない日が昇る。昨日も今日も明日も。ただひたすらに。
 裏小道を歩いている。
 裏小道を歩いている。
 そして気づくと私は。

(了)


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