朝、ぼくは目覚める。ゆっくりとまぶたを開き、天井を眺める。今日はどう? いつもといっしょかな。それとも、なんだか重苦しい気持ちに満ちているような気がしない? ぼくといっしょに、エスが目覚める。ぼくのまぶたの裏側で、エスもぼくといっしょに目を開く。ぼくが口を開かないので、エスもなにも言わない。ただじっと、ぼくが動き出すのを待っている。 おはよう、とぼくは言う。おはよう、とエスが言う。今日の予定はなんだっけ、とぼくが聞く。七時、きみは目覚める、七時十五分、朝食を食べる、八時、出かける。エスがこたえる。 今日の天気は? とぼくが聞く。曇り空、でも雨は降りそうにない、とエスがこたえる。憂鬱だな、とぼく。憂鬱かな、とエス。 ぼくとエスは重い頭を振りながら布団からはい出す。カーテンを開けると、なるほど、たしかにどんよりとした天気。それでも今日も学校に行かないと、とぼくは思う。今日は小テストはあったっけ。漢字の書き取り、英単語、それから、それから。 じめじめした空気のなかで息をつく。ティーシャツの袖から出ている腕も、なんだかじとじと濡れていくようだ。 頭が重い、とぼくは思う。 どうするの、とエス。どうしよう、とぼく。 動けないほどしんどいわけじゃないけど、出かけるのは億劫かも。 苦しげに息をするぼくの内側で、エスがじっと待っている。エス、外に出たい? とぼく。ぼくじゃないでしょう? 決めるのはきみだよ、とエス。 そう、決めるのはぼくだ。いついかなるときでも、決定権はぼくにある。エスがどんなにぼくにとって頼りがいがあったとしても、しょせんきみはぼくの身代わり。ぼくがきみの身代わりになることがないように、きみもぼくの主導権を握ることはできない。 どうするの、とエス。 時間をちょうだい、とぼく。二時間交替しよう。学校に着いたら、ぼくも動けるようになっているかもしれないし。 了解、とエス。時計を見て。いまから二時間だよ、眠れそう? うん、もう少し眠るよ。ありがとう、エス。 ぼくはまぶたの裏側で目を閉じる。徐々にぼくの神経系は眠りにつく。それにかわって、エスの回路が動き出す。ぼくはエスに身を預けわたす。 自分の決めた猶予時間だけ、ぼくは眠る。そのあいだ、ぼくのかわりにぼくの体を使ってエスが活動する。ぼくはときどきそんなふうに、エスに体を預ける。エスはぼくの内部の隠し回路。ぼくの予備電池。ぼくのもうひとつの活動系。ぼくのもうひとつのCPU。 十五歳になって成人してから、ぼくとエスとはそんなふうにして暮らしている。
人類が体内にAIを飼いはじめたのは、そう遠い過去のことではない。最初は医療の一端としてぼくたちの生活に現れたそれは、服薬ではコントロールしきれなかった精神疾患を補助する道具として、あっという間に世界に広がり、そして、精神疾患と診断される基準が低くなるにしたがっての罹患者の増大に応じて、利用者の数が増えていった。 まだぼくは幼かったからよくは覚えていないけれども、それが「薬」の枠をこえて、「日常生活の必需品」となる途上で、国会は大混乱に陥った。片や、健康な生活のために、人格の補助としてAIは必要であると言い、片や、一個の人格としての人間を守るために、人類はAIの侵食から身を守るべきだと言い。 精神疾患に罹患しているいないにかかわらず、体内にAIを飼うことは成人としての権利である、と大演説をぶちかましたのは、当時は若かった議員。もちろんかれもAIを飼っていた。その大演説をぶちかましたのが、その議員本人だったのか、それとも代行者としてのAIだったのか、それは当の本人にしかわからない(ううん、もしかしたら、当の本人にももうわからないのかも)。「成人としての権利」。この言葉に国会が揺れ、全国が揺れた。 医療器具としてのナノマシンは、すでにもう世界にお目見えしてから久しかったけど、「健康な」成人が、「知能を有した」マシンを体内に飼うことが、権利なのか暴挙なのか。いや、かりに「健康でない」成人がAIを飼うことを良しとするとして、はたして、いったい誰が「健康であり」、誰が「健康でない」のか。世論を二分する大テーマとなった当の論議は、時の大臣が病に倒れ、その庶務をかれの体内のAIが見事に果たしおおせたことで、一挙に推進の方向へ傾いた。自身の精神的健康が危機に瀕するに「備えて」、「あらかじめ」体内に、自身の代替人格となるAIを飼うことが、成人の権利として認められたのだ。 ぼくは、同じ世代の他の子どもたちと同様に、十五歳になって成人すると同時に親から独立してひとり暮らしを始めた。十五歳の誕生日、ぼくは父から、ぼくのアパートの鍵とAI注入手術の同意書を、成人のお祝いとして手渡された。 ケイはもうおとななんだから、と父は言った、自分のことは自分で決めなさい。 ぼくにみじんのとまどいもなかった。ぼくは両親の目の前で、手術申請の書類を埋めた。ケイはもうこれで、と父は言った、自分のことは自分で決めて生きていくんだよ。 自分のことは自分で。なんのことはない、ぼくと、代替人格とのふたりのあいだで相談して生きていけと、そういうことだ。 手術は簡単なものではなかったが、何日も入院を要するようなものでもなかった。鼻から埋め込まれたナノマシンは、ぼくの体内を移動して中枢にとりつき、ぼくの神経系にそって触手=回路をのばした。手術の痛みや頭の重さよりも、自分のなかに新たに生まれた、エス、という存在を、ぼくの脳がそれと認識するのに時間がかかったのがめんどうだった。ぼくの意識の奥底で、うごうごとうごめく、はっきりとは認知できない部分。それがすでにぼくの「意識」とは違う別の生き物だということに、ぼく自身が、ぼくの神経系自身が納得するまで、ぼくは微妙な違和感を身のうちにもちつづけた。 そしていまは? いま、ぼくは「健康」だ。定期的に受けている健康診断で、ぼくの検査値に異常は見あたらない。そしてぼくは、身のうちにエスを飼い続けている。ぼくはいまではそれと意識せずに、エスと会話し、エスと意見のやりとりをし、エスと「交代」することが可能だ。エスのいない人生を考えることのほうが、ぼくにはもう難しい。 ぼくは自分が「健康でない」と感じたとき、エスと「交代」する。なんだか重苦しい朝。友だちと口論したあと。あるいは友だちとはしゃぎすぎたあと。「いつもと違う」とぼくが感じたとき、ぼくは自分が「回復」するまで、ぼくのからだをエスに明け渡す。 ぼくはもう、エスがいない毎日を想像することさえできないのだ。
ぼくは通常、エスとの交代時間をあらかじめ決めておく。それは、エスを体内に飼うにあたっての膨大なルールのうちのひとつだ。ぼくは病院から渡された念書に、成人としてサインをした。だからぼくはそれを守っている。 友人のなかには、そのルールを守っていないものもいる。大半の時間をAIに譲り渡し、自分は体内で惰眠をむさぼっているのだ。その心地よさはぼくにもわかる。そこはとても居心地がいい。大きな音もしない、いい香りのする、薄闇の柔らかい空間だ。 けれども、他人が見るかぎり、外面に出ている人格が当人なのかAIなのかを見分けるのは難しい。 重篤な犯罪が起こるたび、犯行は「本人」ではなく「代替人格」がおこなった、という弁護がなされるのが、あたりまえになってきている。ひとむかしまえは「精神疾患」だったそれが、いまは「代替AI」にとってかわったというわけだ。けれども、行為の決定をおこなったのが「本人」なのか「代替AI」なのかを検証するのはとても困難だ。あるいは、「代替AI」も本人という集合体の一部である、という判断もある。実際、下級審ながら、判決が出た事例もある。 ぼくには何人もの友人たちがいる。ぼくは「健康」なので、かれらと「健全な」友好関係を結んでいる。けれども、実際のところ、ぼくにはかれらが「当人」なのか「AI」なのか、見分けることなんてできない。目の前にいるこの人物が、当の本人でなくて、誰だというのか。考えるととても困難な事象のなかで迷子になってしまうので、ぼくは、ぼくたちは、そのことに関しては判断を停止している。ぼくの目の前にいるこの人物が、かれなのだ。 けれども、というか、だからこそ、というべきか、ぼくたちは友人たちとあまり懇意な関係にはならない。友人たちとの関係には、あまり現実味が感じられないのだ。ぼくたちは、友人たちとは表向き、あたりさわりのない関係を築く。そして、ときどきまぶたを閉じて、自分のなかの奥深く、十五歳のときに自らの体内に注入した「親友」と意識を交換して、くつろぐ。ぼくに、ぼくたちにとって、なによりも現実味のある、わたしであり、また、かれでもあるところのもの。
目覚ましのような大きな音がして、暴力的な光が差し込んでくる。ぼくは柔らかい空間のなかで、ぼんやりと覚醒する。ぼくの目に、ぼんやりと時計の数字が見える。もう二時間経ったのか。 ケイ、起きた? エスの問いかけに、ぼくは、ゆっくりと、うん、とこたえる。さっきまでは自分の部屋にいたのに、ぼくはもう教室のなかにいた。ぼくが眠っていたあいだの記憶を、エスがぼくの意識に送り込んでくれる。特別なことはなにもなし。いつもと同じように、いつもと同じ電車に乗って、いつもと同じ教室にやってきただけ。挨拶をした友人たちの顔。電車のなかでエスが準備をしてくれた小テストのための用意。記憶はいちどきにやってくるが、それを咀嚼するには少し時間がかかる。 大丈夫かな、とエス。どうだろう、とぼく。ぼくは身内のなかの少しのとまどいを感じる。 なんだろう、とぼくは思う。まだなんだか、動きたくないような。あの幸せな空間に留まっていたいような。 病院の求めたルール以外にも、ぼくはなんとなくエスとのあいだにルールを決めている。例えば、小テストやレポートをエスにまかせないこと。それは成人として当然のことだと思うので。 けれども、今日のぼくは動きたくなかった。なんだろう。このどんよりとした天気のせいだろうか。じめじめとした重い空気のなか、ぼくは息苦しく呼吸をする。 決めるのは、ぼくだよね。そう言うと、そうだよ、きみだよ、とエスがこたえる。自己決定をする権利。ぼくはそれを手放してはいけない。 愚行を選びとる権利。たしかにそれさえも、ぼくのものだけど。 いままで感じたことのない重苦しさだ、とぼくは思う。先月おこなわれた健康診断で、ぼくの検査値はすべて「正常」だった。ぼくは「健康」はなずだ。ぼくは「病気」ではない。 けれども、なんだかすべてが重苦しく、鬱陶しいと感じる。 なんだろう、いままでこんなことはなかったのに、とぼくはエスに訴える。 うん、いままでこんなことはなかった、とエスがこたえる。 ぼくが苦しいと、きみも苦しい? ぼくの問いに対して、エスからの返答は少し時間がかかった。 ぼくは苦しくないんだよ、ケイ。いままでも、たぶん、これからも。 それはそうだ、とぼくは思う。そうでなければ代替人格の意味がない。主体の気分に左右されるような人格など、よけいなだけだ。 ぼくは天井を仰ぎ見て少し息をととのえてから、だるい気分でノートマシンを取り出した。エスがさらってくれたデータを追いながら、ペンでチェックをつけていく。 だるい。 ぼくはマシンをよけて、机の上にうつぶせになった。机の冷たさが心地いい。ということは、発熱しているのかもしれない。今朝、少しだるいと思ったときに、ちゃんと体温を測ればよかった。 ケイ、授業が始まるよ。 エスの言葉に、ぼくは起き上がる。目の焦点が合っていないような、変な感じだ。まるで世界が急速に。 まるで世界が急速に、リアリティをなくしているかのように。 ケイ、ケイ。 揺さぶるようなエスの言葉が急速に遠くなる。ぼくはそれと意識しないまま、ぼくをエスに譲り渡した。 ぼくははじめて、制限時間を設けずに、心地よいあの場所へと逃げ込んだ。
ぼんやりと覚醒した。 ぼくは自分の部屋にいて、外は薄闇が広がっていた。ぼくは覚醒はしたものの、相変わらず、ぼんやりした不安のようなものに苛まれていた。 外が暗いということは、ぼくはほぼ一日ずっと、眠っていたのだろうか。それとも、一日どころではなく、何日も何日も、自分をエスに明け渡したまま、閉じこもっていたのだろうか。 エスから記憶のかたまりが流れ込んでくる。ぼくはそれを飲み込むようにして受けとったが、なんだか疲れていて(ずっと眠っていたはずなのに!)、その記憶を整理することができないでいた。記憶の断片、断片が、ぱっとひらめいては消えていく。けれどもそれがどれぐらいの時間の記憶なのか、自力では理解することができなかった。交代時の制限時間ルールは、覚醒したときの記憶を整理するうえでも役に立っていたのだと、ぼくはこのときはじめて知った。 ぼくはエスに問いかけた。ぼくはどれぐらい眠っていたのだろう。エスからの返事はなんだかずっと遠くから聞こえてくるように思えた。ぼくはエスの回答をやはり理解することができないまま、鬱々とした気分のままシャワーを浴びた。 なにかが違う、とぼくは感じた。 まるで自分のからだではないかのような違和感。 顔を洗ったあと、ぼくは鏡を覗いた。ぼくは目に映ったそれを、やはり理解できないまま、ただただ背筋を恐怖が走っていくのを感じていた。 これは誰だ。いや、ぼくだ。でも、これは。 これはもう、何年も、何十年も経ったかのような。 そしてぼくはやっと、さっきエスがぼくにくれた言葉の意味をつかまえることができたのだ。ぼくは愕然とした。 記憶の断片断片が、なかなかつながらないのも当たり前だ。ぼくは実のところ何年も眠り続けていたのだ。何年も何年も何年も眠り続けていたのだ。エスに自分を明け渡したまま、ぼくはずっと居心地のいい空間で、何年も何年も何年も。 ぼくは叫んだ。エス! ぼくを返せ! ぼくの人生を返せ! きみの記憶なら、とエスが言う、いまきみに送ったので全部だ。きみはぼくを通して人生を受けとったはずだ。これ以上ぼくがきみに返せるものはなにもないよ。 違う! とぼくは叫ぶ。ぼくが欲しいのは「記憶」じゃない。こんなうすぼんやりしてしまった記憶なんかじゃない。そのとき、そのとき、一瞬、一瞬の、瞬間を生きる、生命を。 わからない、とエスが言う。一瞬一瞬も、そのときどきの記憶も、全部ぼくはきみに渡した。きみがぼくと交代したいと言ったからぼくは交代した。きみが眠りから覚めるまで。ぼくはちゃんときみのかわりに人生を。 違う! 記憶としてあるものと、いま・ここで生きられる人生とは、違う、全然違うんだよ、エス。違うんだ…… わからない、とエスが言う。これまでにもぼくは何度もきみと交代した。二時間の空白を何百回も繰り返すのはよくても、なぜそれが二十年という一連の歳月になっただけで、きみはそんなに苦しまなくてはならないのか。 二十年…… ぼくは自分の年齢を数え、頭をかかえる。 ぼくはきみの人格をトレースしている、とエスが言う。きみがやるべき行動を起こし、きみがとるべき判断をくだしているはずだ。実際のところ、きみは、きみ=ぼくがとった行動について、なにか後悔をしているとでもいうのか? なぜわからないんだ! ぼくは激しくテーブルをこぶしでたたく。ぼくが後悔しているのは「やったこと」についてじゃないんだ。なにもしなかった時間、そのことについてなのに。 そういうことなら、とエスが言う。きみはなにもしなかったわけじゃない。ぼくがきみのかわりにすべてをとりおこなったよ。そしてきみにはそのすべての記憶がある。きみはなにも失っていない。 エスが送り込んできていた記憶が、順繰りにゆっくりと、ぼくのなかを満たしつつあるのをぼくは感じていた。ぼくが笑っていた瞬間。ぼくが友人と、恋人と、笑い、語り、新たな仕事を獲得した瞬間。 満ち足りたぼく=エスが、ぼくのなかに位置しようとしていた。 やめてくれ! それは「ぼく」じゃない。「ぼく」の記憶じゃない。「ぼく」を侵食するのはやめてくれ! ぼくは抵抗しようとして、けれどもそれがいったい何に対する抵抗なのかわからなくなる。たしかに、それはまさしく「ぼく」の体が歩んで獲得した、ぼく自身の記憶にほかならないのだから。 いったい何を悩み、いったい何を怒っているのか、とエスが言う。 そう、なにもないのだ、とぼくは思う。悩むべき対象さえ、いまのぼくにはないのだ。 これから先、ぼくが、穏やかで平安なあの場所からもう一歩も出てこなくなったとしても、ぼく=エスは生き続けるのだろうか。ぼく=エスは新たな記憶を積み上げ続け、一個の人格としてのぼく=エスは途絶えることなく生存し続けるのだろうか。 けれどもそれは、「ぼく」ではない。しかもそれは、あらがいようもなく「ぼく」であることもまた事実なのだ。 漠然とした不安がぼくを満たす。決定権はいつでもぼくにある。それで、だから? ケイ? エスが尋ねる。まだどこかしんどい感じがする? 決定権は、いまこの瞬間にもぼくにある。ぼくの選択肢はふたつだ。エスにこの人生をゆだねるか、それとも。 柔らかな空間の記憶がぼくに満ちてくる。外界から閉ざされた、守られた空間。あたたかで穏やかなその空気は、ぼくを充足させる。 この膨大な記憶の堆積に自分を順応させるためには、途方もない努力を要するのだろうか。その努力のうえに積み上げられた新規な「個」としての安寧をとるか、そのすべての努力を放棄して覚えのある安らぎのなかに身を投げるか。 そのどちらを選んだとしても、ぼくはぼくに変わりはない。ぼくはただ続いていくのだ。 そのことに思い至った瞬間、ぼくは迷いようもなく選んだ。そして急速に暗闇のなかへ落ちていった。 |