聞き慣れた着信音が鳴る。
わたしは時間を確認し、携帯電話のフリップを開ける。「非通知設定」という画面を見て、わたしは軽く息を吐く。
毎日毎日同じ時間にコール。まったくよく飽きないものだ。
そしてそれに毎度毎度相手をしているわたしも、まったく趣味が悪いというかなんというか。
でも、ほんとうのところ、心待ちにしている。だからコール音が長引かないうちに、わたしはいそいそと着信ボタンを押す。
「はい」
「こんばんは、由宇」
かれとの電話はもうかれこれ一年近くになる。けれどもわたしはその間、かれと会ったこともなければ、かれの名前すら知らない。
携帯電話を通してだけのおつきあい。それがわたしとかれとのカンケイ。
ちょうど一年前の春、わたしは大学時代からつきあっていた年下のオトコと別れた。理由はオトコの浮気。オトコが誠意を見せて謝ってくれれば考え直しもしたのに、開き直って逆ギレして、いままでたまっていた(らしい)わたしへの不満を在庫一掃処分のようにぶちまけてくれたので、わたしのほうも辛抱できずに、ありとあらゆる悪口雑言をまき散らした。
(おれ、もう、由宇には会わない!)
売り言葉に買い言葉。
(あたしももう、あんたなんかに会いたくなんかない!)
わたしたちは黙々と、互いの部屋に置きっぱなしにしていた私物を片づけて、携帯電話のアドレスを消して、ふたりの関係をリセットした。
非通知設定の電話がかかりはじめたのは、その直後だ。別れたオトコと同じトーンで、その声はわたしの名前を呼んだ。
(由宇)
頭の悪い悪戯だと思った。わたしは即座にオトコの電話番号を着信拒否にした。それでも電話はかかってきた。
(由宇)
ふざけないでよ。わざわざ固定電話を使って悪戯電話? あんたもよっぽど暇なのね。
(違う。由宇。ぼくは、ただ、きみの声が聞きたくて)
いいかげんにしないと、警察に通報するよ。
(由宇、待って。突然電話してごめん。ぼくはただ、きみと話がしたくて)
わたしの好きな、男にしては軽めのかれの声が、わたしの耳をくすぐる。
(由宇、話をしよう。きみの声が聞きたい。きみの好きなあのドラマはそのあとどうなった?)
かれなりの仲直りの言葉なのだと思った。そう、そんなに簡単に、わたしたちの仲は壊れないと思っていたよ。昨日や今日の仲じゃないのだ。
わたしはいつもと同じように、かれと話をした。昨日見たドラマの話、今日のお昼に食べたご飯の話、仕事の話や、人のうわさ話や、いつもと同じような、いろいろ。
電話は毎日かかってきた。わたしはかれだと疑わずに話をした。飽きもせずに、今日飲んだお茶の話や、今日のお天気の話、人のうわさ話や、いつもと同じような、いろいろ。
仲直りの電話があってから数日後、街でオトコを見かけた。わたしの知らない背の低いかわいい女の子と、手をつないで歩くオトコ。
あんた、反省してないの?
顔色を変えてつかみかかると、オトコはとてもいやそうな顔でわたしの手を払った。
(いいかげんにしろよ。おれ、もう、あんたとは関係ないだろ)
なに言ってんのよ。ふざけないでよ。反省した電話をかけてきたから、許してあげたのに。
(なに話つくってんの)
毎日電話かけてきた癖に! わたしの声が聞きたいって、あれから毎日、毎日。
(やめろよ。みっともないよ、あんた。おれは電話なんかかけてない。言いがかりでヒトを責めんな。あんた、ちょっとクルってるよ)
オトコの目は、わたしが見たこともないほど冷たかった。心底わたしを蔑んでいるその表情に、わたしは凍りついた。
部屋に戻って泣きながら酒を飲んでいると、また電話がかかってきた。
(由宇)
愛しいオトコの声だった。
(由宇、ごめん、元気出して、由宇)
……ふざけてんの……?
(由宇、ごめん、いやな気持ちにさせるつもりじゃなかったんだ、由宇)
ひどい! だったらなんであんなこと言ったのよ! どうして知らないふりするのよ! まるでわたしが全部悪いみたいに。どうして!
(ごめん、由宇、ごめん)
悪いって思うなら、今すぐ会いに来てよ! こんなのってない。ひどい!
(ごめん、由宇、ごめん)
会いに来てよ来てよ来てよ! 今すぐ来てよ!
(由宇、ごめん、会えないんだ、ぼくは。ごめん)
なんでよ。どうして。
(ごめん、由宇、最初にちゃんと言えばよかった。ぼくはかれじゃないよ。いくぶん、うん、かれに似たところがあるとしても、ぼくはかれじゃない)
かれじゃない?
(由宇、聞いて。ぼくは非通知設定でしか、きみに電話をしたことがない。ぼくがきみと電話で話しはじめてから、まだ数日しか経っていないよ)
かれじゃない……
(うん。ごめん。ぼくは……その……)
誰、あなた……
(ぼくは、ただ、由宇が好きで、その……)
……悪戯電話……?
(そう思ってもらってもいいけど。でも)
悪戯電話だったのだ。わたしは呆然として彼によく似たその声を聞いていた。
(でも、きみが好きなのはほんとうだから)
そして、わたしの大好きなその声は、わたしの耳に心地いい言葉をつむぐのが得意なのだ。
悪戯電話は、毎日きっかり同じ時間に、非通知設定でコール音が鳴る。かれがわたしの話を聞きたがるので、電話ではもっぱらわたしが話してばかり。それでも、かれの相づちが、わたしの耳に心地いい。
名前を聞くと、かれは困った声で、ぼくには名前がないから、と言う。
会いたいと言うと、やっぱり困った声で、それはできない、と言う。
(電話だけじゃ、つまらない?)
つまらないよ。あなた、電話番号教えてくれないから、わたしから電話をかけられないじゃない。
(毎日話してるじゃない。それじゃ足らない?)
足りないとか、そういうことじゃなくて。
(仕事中とか、電話かけるとまずいでしょ)
そういうことじゃなくて。わかんないかな。
悪戯電話は、毎日きっかり同じ時間に、非通知設定でコール音が鳴る。
たまにはあなたのことも話してよ。わたしだってあなたのことを知りたいよ。
(ぼくのこと? うーん)
あなたいくつ? 仕事は? それとも学生?
(仕事は……してないかな…… 学生じゃないよ)
わたしのことをどこで知ったの?
(うーん。そういう話は困るかも。ぼくってストーカーみたいなものだから)
ストーカーなの?
(あなたのことが好きになったのは、あなたの声が好きだったからだけど)
わたしの声?
(声。喋り方。笑い声。泣き声。うん。全部好き)
声……声…… どこでわたしの声を聞いたの?
(うーん。電話……かな……)
やだ。あなた、盗聴器とかつけてる?
(そこまではしていないけど。でもまぁ、似たようなものかも)
わたしに会いたいとか思わない?
(会いたい。ていうか、毎日会ってるし)
そういうんじゃなくて。電話じゃなくて、声じゃなくて、わたしの顔とか、興味ない?
(ぼくはきみの声が聞ければそれで満足かも)
ふぅん。
(由宇はそんなんじゃ足らない?)
足りないな。全然足りない。会いたいよ。会って、お茶して、手をつないで歩いて。それから……
(それから?)
抱き合って、キスして、それから、それから……
テレフォンセックスなんて、エロ本の戯言だと思っていた。
でも、してみたいと誘ったのは、わたしのほうだった。
(由宇、由宇……)
愛しいかれの声が電話を通して、わたしの耳を打つ。わたしはかれの声のとおりに指を動かす。
(由宇、由宇、ぼくがいまどんなに嬉しいか、どんなにさみしいか、わかる?)
教えて。それから、それから…… どうしたらいい? あなた、わたしにどうしてほしい?
(由宇、声を聞かせて。きみの声を聞かせて)
あなたにさわりたい。あなたにさわってほしい。
(由宇……)
あなたに会いたい、会いたいよ……
あなたに、会いたい。
いつもと同じ時間にコール音が鳴る。わたしはいつもと同じようにフリップを開けて。
そこに並ぶ、数字の意味を少し考える。
「はい」
「……由宇……?」
いつもと変わらないかれの声。
ではこれは。かれの電話番号なのだ。
「あの……」
「由宇。会いたい。会って。由宇」
予想をはるかに上回る嬉しい言葉に小躍りしたくなる。
「うん」
「いまから行っていい?」
「うん」
わたしの部屋を知っているのだ。さすがストーカー。
怖いとは思わなかった。
チャイムが鳴って、勇んで扉を開けたわたしの目の前に立っていたのは、わたしが一年前に別れたオトコだった。
「え…… なんで……」
「由宇。ごめん。おれ……」
わたしの大好きな、男にしては軽めの声。少しくせっ毛のある前髪が、わたしが知っていたときよりも短くなっていた。
「ごめん、由宇…… 一年も放ったままで……おれ……呆れられてもいいけど、おれ……」
わたしは混乱した。電話の男とこの目の前の男との関係がわからない。けれどもそれはわたしのよく知っている声で。そしてそれは。
「も一回、やりなおしたい」
体温のあるからだで、わたしを抱きしめたので。
もうどうでもよくなった。
悪戯電話はぴたりと止まった。
オトコと悪戯電話との関係は依然わからないままだったが、そんなことはもうどうでもいい気がした。
わたしとオトコは同じ部屋に住む計画を立て始めた。不動産屋でパンフレットをもらってきて、頭をつきあわせて、あれでもないこれでもないと言いあっては笑った。
夜になると、わたしたちは昔のように抱き合って眠った。いたずらをしかけてくる男の手をはたいてはくすくす笑う。幸せだった。
悪戯電話はぴたりと止まった。
やはりあれはオトコのやったことなのだと、わたしはのんびり結論づけた。だったらすべて合点がいく。わたしの電話番号を知っていたことも、わたしの話を聞きたがったことも、自分の話をしたがらなかったことも。全部、全部。
悪戯電話はぴたりと止まったので。
わたしはそう結論づけた。
(引っ越しする前に、あんたの携帯電話、機種変更してこいよ)
そう、かれが言った。
(バッテリーへたっちまって、すぐ電池切れになるだろ。引っ越しでばたばたしてるときに連絡がつかなくなったら困るじゃん)
うん、そうだね、とわたしは軽く返事した。
そして、その日の夜、電話が鳴った。
「由宇」
非通知設定だった。もうそんなことする必要ないのに。わたしはあなたのアドレス登録しているのに。だからもう。
「由宇、由宇」
なのにどうして。
「由宇、ぼくだよ。由宇」
なんの冗談?
「由宇、由宇、きみと話したかった。きみと話したかったよ」
やめて。なんの冗談なの?
「きみの手がぼくに触れるたび、ぼくはいつも嬉しくて。きみの息がかかるたび、ぼくはどうしようもなく、きみを想っていた」
あなた、誰……?
「ぼくはきみの声が聞ける。それだけでよかったはずだったんだけど」
誰……?
「きみがぼくに教えた。ぼくにだってきみに触れることができる。ぼくの声で」
誰なの……?
「ぼくの声に合わせて、きみが動く。きみの、その指で。ぼくに触れているその指で」
触れている……?
「ぼくがどんなに嬉しくて、どんなにさみしかったか、わかる、由宇?」
わたしは半信半疑で携帯電話をゆっくり耳から離した。
「いつもきみのそばにいたよ。きみが寝ているときも起きているときも。ぼくは」
わたしは切断ボタンを押して、電話から手を離した。なに、これ。たちの悪いストーカー?
着信音が鳴る。「非通知設定」。着信音が鳴り続ける。
着信音が鳴り続ける。
わたしは立ち上がって、鍵もかけずに飛び出した。
駅に着いて、わたしは、財布をもっていないことに気がついた。どうしようと途方にくれていると。
目の前の公衆電話が鳴りだした。なんだ、これ。
よせばいいのに手が出る。公衆電話の重い受話器をごとりと取ると、耳元からあの愛しい声が。
「由宇」
かれだと思いひと安心するが、いや、かれならこんなところに電話をかける術がないことに気づき。
いや、そもそも、なぜわたしがここにいることを知っているのか。
「由宇。きみが好きだよ」
何度も繰り返し聞いた、優しい声。
「由宇。きみが好きだよ。きみのそばにいたい」
優しい声で、語りかける。
「由宇、由宇。お願い。ぼくを捨てないで。きみのそばにいたい」
何度も、何度も、繰り返す。
(きみのそばにいたいよ)
そう。何度も、何度も、慰められた。この声で。わたしの話を聞いてくれた。わたしの名前を呼んでくれた。
体温のない、あなた。
受話器を元に戻すと、並んでいる公衆電話がいっせいに鳴りだした。知らない顔で行き過ぎようとすると。
「タカモトユウさん?」
駅員に呼ばれる。
「タカモトユウさんですか? いま、お電話がかかって」
受話器が差し出される。
人違いです。
そう言ってわたしは走り出す。
通りを走っていても、呼び出し音がわたしを追いかけてくる。わたしの近くのあらゆる電話が鳴り始めていた。
タカモトユウ?
タカモトユウさんですか?
誰、それ。
外走ってるヒト? え?
あの愛しいわたしの大好きな声で。わたしを追いかけてくる。
やめて。もうやめて。
「由宇、由宇?」
もうやめて!
「由宇。どうしたんだよ、由宇!」
わたしを止める、冷たい手。
「由宇? なにやってんだよ。おれ、いまから、あんたのところへ行こうと思って」
大好きな、あなたの声。
「由宇?」
ヒトのかたちをした、あなた。
わたしはようやっと息をつく。
その途端、かれの携帯電話の着信音が鳴り響く。
わたしはびくりと震える。
「お、悪い、由宇」
震えが止まらない。
かれが奇妙な顔をして、わたしに電話を差し出す。
え?
「あんたにだって」
わたし? どうして?
わたしはかれの電話を耳に当てる。
受話器から流れてくるかれの声。
「由宇?」
びっくりしてわたしはかれの顔を見上げる。かれが奇妙な顔でこちらを見ている。
「由宇、聞こえる、由宇?」
受話器から流れてくるかれの声。そして。
それに合わせて動くかれの唇。
どういうこと?
「由宇、聞こえる、由宇? ぼくはきみが好きだよ。ぼくはきみのそばにいたい」
かれの唇が動く。けれどもその声は、受話器を通してしか聞こえない。
大好きな大好きなあなたの声。
これはなんのトリックなの?
「トリックでもなんでもないよ。由宇、ぼくはきみが……」
かれのからだがわたしを抱きしめる。かれの声が受話器から聞こえる。
「ぼくはきみが大好きなんだ……」
冷たいかれのからだ。
体温のない、あなた?
部屋に戻ると、わたしの携帯電話は、バッテリー切れで転がっていた。
わたしはかれと抱き合った。かれはまるではじめてのときのように何度もわたしに口づけた。
わたしはかれの声が命じるとおりに、指を動かした。かれの吐息がわたしの耳を打つ。
(由宇、由宇)
ん……
(大好きだよ、由宇……)
ん…… わたしもだよ……
(由宇、由宇……)
わたしは携帯電話の機種を変更した。かれがまるで自分のことのように真剣に選んだので、かれの欲しいものを買ってやった。
非通知設定の電話はそれからもときどきかかってくる。ちゃんとかれがいるときを選んでかかってくる。
(由宇)
はい、あなた。
かれの声が受話器を通して耳に響き、目の前のかれの唇がそれに合わせて動く。
わたしたちはキスもセックスもする。かれの声で、かれのからだで。
(由宇、大好きだよ、由宇)
わたしもだよ。わたしの大好きな、男にしては少し軽めの、愛しい声のあなた。
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