喫茶店でわたしの前に座った男は、印象的というにはほど遠い、影の薄い人だった。
終始うつむきかげんで、水を口に含み、自分を印象良く見せることをちらりとも思わないでいるようなその姿勢に、わたしはいらいらすると同時に不思議な親近感を覚えた。
「水下祐也です」
隣に座る友人につつかれ、男はぼそりと自分の名前だけを告げた。かすれ気味の低い声。視線は合わない。
「川合綾子です」
わたしもそれに返答して自分の名前を述べる。男は、そうですか、と小さくこたえ、残り少ないアイスコーヒーを音を立てながらストローで吸った。
「水下は大学時代の友人なんだけど、とにかく真面目な男だよ。実際、コンパのときなんかさー……」
あわてたように隣の男がフォローする。口数の多い陽気な男。わたしの隣に座った女の恋人。
「綾子だってそうよー。いっつもおとなしくてさー。あんた、趣味とかあったっけ」
わたしは首を振る。
そうなのよねー、この子っていっつもこれで、友だち少なくてさー。
そう言う彼女はわたしの唯一といっていい友人だ。今日のお見合いをお膳立てしてくれたのも彼女。
(お見合いとかそういう堅苦しいものじゃなくってさ、ちょっと会って、気が向いたらまた会って。そんな感じでいいから。向こうもあんたとおんなじでおとなしい人らしいから、案外気が合うかもよ)
そんな席にのこのこ出かけてきてしまったのは、最近嫌なことが多くてへこんでいたからだ。仕事で小さなミスを繰り返した。お気に入りのワンピースにしみをつくってしまった。そんな小さな嫌なことも、日々続くとかなり大きなしこりになる。
出会いが人を変えるかもしれない。そんな彼女の言葉に乗ってしまったのだ。
わたしと水下は、帰る間際に互いの電話番号を交換した。最後まで視線の合わなかった男と出会う機会は二度はないなと、わたしは肩を落としもせず考えていた。
電話がかかってきた。驚いたわたしは着信メロディがだいぶん先に進むまで着信ボタンを押すことができなかった。
「はい。川合です」
「水下です」
「はい……」
男は自分の名前を告げたっきり、なかなか用件を告げようとはしなかった。わたしは電話の向こうの音に耳を傾けた。かすかに聞こえる音楽は、クラシックだろうか。ピアノの音だなぁと、わたしはぼんやり考えていた。
「あの」
「はい」
急に呼びかけられてびっくりする。ああ、しまった、こういうときはたいがい、このあいだは楽しかったです、とか、最近はいかがですか、とか、そういう話をするべきなんだよな。でも。
そんなことができるぐらいならとっくの昔に彼氏も友人もできているのだ。そしてそんなことすらできなかったから。
いま、こうやって、口数の少ない男と、電話でやりとりをしないといけないはめに陥っているのだ。変なの。
「また会いたいです」
「はい?」
「会ってくださいますか?」
「はい……」
そんな簡単なやりとりで、わたしと水下はつきあいだした。わたしは三二歳、水下は三五歳だった。
わたしと水下は、すぐにいっしょに暮らし始めた。引き合わせてくれた友人は、それを聞いてひどく驚いた顔をした。
「どうして。あんた、いままで男とつきあったことすらなかったじゃない」
たしかにそれはそうだったのだけれども。
そうでもしなければ、お互いに話す時間すらとれなかったのだ。忙しいとかそういうことではない。ただ、どうしようもなく口数が少なかったので、ふつうの人には五分ですむようなことを喋るのに、わたしたちには丸一日が必要だったのだ。だったらもう、いっしょにいるしかない。
そんなふうに、わたしたちの関係は始まった。
わたしも水下も、ふたりでできる重なった趣味をもたなかったので、思案した挙げ句、旅行に行ってみることにした。
行きたい場所はわたしが決めた。旅程は水下が決めた。わたしたちは互いに言葉もなく、手をつないで、ただ歩いた。ふたりともとくに史跡名跡のたぐいに詳しくもなかったので、観光はあまり大きな役目を果たさなかった。ただ、手をつないで歩く、それだけ。それだけでわたしたちには充分だったし、少なくともわたしは満たされた。男といるということが、こんなにも自分を自信に満ちたものにするとは、それまでのわたしには思いもよらないことだった。
猫背の水下のあとをついて、遊歩道をとぼとぼと歩いた。高地では、眼下を鳶が飛ぶ姿を見たりもし、わたしを感動させた。
水下は、旅行の際にはいつもスケッチブックを持ち歩いた。
「ちょっといいかな」
わたしが頷くと、スケッチブックを開き、鉛筆を手に、飽かず風景をなぞった。わたしには絵の良し悪しはわからなかったが、少なくとも水下の描く絵はわたしにはきれいだと思えた。とりたてて個性があるわけではない、まるで写真のように風景を写しとるだけの絵。それだってわたしには充分、とんでもない才能だと思った。
「ちゃんとした絵を描いてみたりはしないの?」
わたしは手でキャンバスのかたちを示しながら、水下に聞いた。
水下はそれを聞くと、曖昧に笑って、首を振った。
旅行中はいつでもどこでも腰を落ち着けて絵を描く水下だったが、その風景画のなかにはただのひとりも人物が登場することはなかった。浜辺を描いても、寺の庭を描いても、そこにいるはずの人物はただのひとりも描かれることはなかった。もちろんわたしも含めて。
「人物は描かないの?」
水下はそれを聞いたときも、やはり曖昧に笑って首を振った。
絵を描く人には、風景だけを描く人も、人物だけを描く人もいる、というのは聞き知っていたから、そういうものなのか、とも思ったが、通りを歩く人影ぐらいはあってもいいのではないかとも思った。けれども水下は、けっしてそれを描こうとはしなかった。
水下が絵を描くあいだ、わたしはたいがいそのへんを歩いたり、水下の隣にぼうっと座ったりしていたが、あるとき思い立って小さなスケッチブックとクレパスを買って、わたしも水下と同じように絵を描いてみた。
できあがったのは、かなり悲惨な代物で、いったい何が描かれているのか、描いた本人にもよくはわからなかった。
「こういうのって、抽象画っていう?」
苦り切った顔で言うわたしに水下は。
「よく描けているよ」
そういって、いつもの曖昧な笑顔を見せてくれた。それ以来、わたしは旅行にはスケッチブックを持っていかないことに決めた。
お互いにひとり暮らしの期間の長いふたりだったから、わたしたちはふたりで暮らすにあたってひとつ決まりごとをつくった。互いが絶対に立ち入らない個人の部屋をもつこと。不可侵領域。わたしはもちろんその提案に賛成だった。
引っ越しをしたのは水下のほうが早かった。引っ越し屋といっしょに大荷物をもってやって来たわたしに、水下は困った顔で。
「それ、どこに入れるの」
そう聞いた。わたしにあてがわれた六畳間には当然それはおさまらず、ふたりの共同スペースになるリビングにわたしは自分のものをあふれさせた。けれども、水下はそれに文句を言うことはなかった。
水下の部屋に手をかけることさえなければ、わたしはどこで何をしようと許されたのだ。
そして、それは水下のほうも同じことだった。わたしはどうしても自分の部屋に水下を入れる気にはならなかった。それはずっとそういうふうに暮らしてきた慣れのようなもので、実際のところ、水下が入ってきたからといって困るようなものは何もなかったのだけれども。それでも、わたしたちは自分たちのつくった決まりごとをきちんと守った。そうすることで、お互いがお互いの生活に侵入することに安心を勝ち得たのだ。
「水下さんは、あたし以外の人とつきあったことある?」
ある日、そう問いかけると、水下ははじめてといっていいほどうろたえた顔で、顔を赤く染めた。
「……綾子さんは、あるんですか……?」
「二回ほど。あんまり楽しくなかった」
「……楽しくなかったですか……」
「……セックスがね……あたし、苦手なの……」
「……セックスですか……」
「……男の人って、好きですよね……」
水下は、沈黙した。水下が沈黙するのはめずらしいことではないのでそう驚かなかったが、話が微妙な展開になっていたので、わたしは水下のうつむいた顔をのぞき込んだ。水下は、わたしの視線を避けるようにして、ぽつりと言った。
「ぼくは、経験ないんですよ」
「は……」
「軽蔑しますか?」
「そんなこと……」
実際、水下ならそういうこともあるだろうと思っていたので、わたしはさして驚かなかった。けれども。
「……それで、あたしとできない……?」
「……ごめんなさい……」
わたしたちはテンポが合った。わたしたちは同じ空間を共有することを愛した。わたしたちは手をつないだりたわいない触れあいを好んだ。
けれども、いっしょに暮らしはじめてからも、わたしたちは一度もセックスをしたことがなかった。
「……やってみる……?」
誘ったのはわたしのほうだった。
「え……」
「一回、やってみる? もしかしたら、気持ちいいかもしれないし」
結果は、最悪だった。
いちおうわたしはその気になっていたのだが、久しぶりのわたしのからだはなかなか開かず、水下もそれをどうすればいいのか途方にくれ、ああだこうだとやっているうちに、水下のものは力を失ってしまった。
水下は相変わらずわたしと視線を合わせることはせず、けれどもわたしをゆるやかに抱きしめた。
「ぼくを、軽蔑する?」
わたしは水下の肩に流れるかれの汗を舐めた。そして、ううん、と首を振った。
「またやってみよう。そのうち、できるようになるかもしれないし」
水下はわたしの肩のあたりではっきりとそれとわかるため息をついた。
水下はそれっきり、わたしに触れようとはしてこなくなった。手を握ったり、軽く触れあったり、そういう接触はずっとあったが、表だってそれとわかるような触れ方をすることはなかった。
はじめてのセックスが、不首尾に終わったことだし、水下なりに落ち込んでいるのかなどと思ってはいたのだが、時が経つにつれ、わたしは少し焦りだした。
わたしは、水下の目にどう映っているのだろう。
わたしは髪をなでつけて鏡を覗き込んでみる。かわいいというには少し大きすぎる目。細すぎる肩は、鎖骨が浮いていて痛々しい。よくよく見ると、頬もこけて、歳をとっているのがわかる。
水下はわたしに女を感じないのかもしれない。
あきらめにも似た、居心地の悪さを、わたしは感じ始めた。
水下は、自分の部屋にこもることが多い。わたしも自分の部屋でのんびりするのが好きだが、水下はわたし以上に自分の部屋に固執する。
広いリビングで、ひとりでお茶をいれて飲む。水下が部屋に入っているときは、声をかけることも禁じられている。わたしはひとり分のお茶を、時間をかけてゆっくり飲む。
水下とわたしのあいだを分けている分厚い扉。
にらんでもにらんでもそこから水下は出てこない。
さみしい、とわたしは思った。
さみしい。それはひとりきりでいたときには考えなかった感情。
水下はさみしくないのだろうか。わたしがいなくてさみしいと思ったことはないのだろうか。
わたしは水下の部屋の前に行って、扉に口づけた。冷たい。
水下はときどきリビングでもスケッチブックを広げる。水下が描くのは、リビングの情景、キッチンの情景、窓から見える風景。
水下の描く部屋に、わたしはいつもいない。
「あたしも描いてよ」
エプロン姿でわたしはくるうり回ってみる。水下はわたしの姿を、曖昧な笑いで眺めていた。
「どうして人物を描かないの?」
水下は少し考えて、興味ないから、とぽつりとこたえた。
「あたしは? あたしにも興味ない?」
水下は困った顔でわたしを見上げた。
「きみは、きみだよ」
よくわからない言葉で、水下は返答した。
そして、わたしのいない部屋を描き続けるのだ。
水下は仕事が嫌いというわけではないようだったが、がんばってやるほど好きでもないようで、水下の帰宅時間はいつもわたしより早かった。土日はいっしょに出かけないかぎり、一日中家にいた。
家事はほぼ等分だった。ご飯をつくるときはいっしょにダイニングに立った。掃除をするときは分担を決めて埃を拭いた。
何も不満なんかない。そのはずだった。
それはある日、ひょんなことから起こった。
「今度の土曜日は、ぼくは出かけるから」
「なに……」
「出勤日っていうか。フロア内で小さな引っ越し作業があって」
いつものように視線を合わさない水下に、いつものようにこくりと頷き、土曜日、わたしはかれを送り出した。
まるっきりひとりの時間と空間。
それは、水下と暮らしはじめてからはじめて得たさわやかな時間だった。
わたしは自分の部屋の掃除をした。共有地であるリビングはよくふたりで掃除するのできれいに片づいていたが、自分の部屋はあまり行き届いてはいなかったのだ。
脱ぎ捨ててある洋服をハンガーにかけ、ベッドメイキングをして、掃除機をかける。たったそれだけのことで、わたしはずいぶんといい気持ちになった。
悪戯心が起こったのは、そのときだ。
わたしの目に触れない水下の部屋。それはどんなに散らかっていることだろう。いいや、あの人のことだから、ずいぶんと整頓された部屋なのかもしれない。埃はたまっていないだろうか。わたしが掃除機をかけるわけにはいかないけれども。見るだけでも。
見るだけでも。
触れたことのないドアの取っ手。かちゃりという音とともにきぃと開く。その先。
見るだけでも。
そして。わたしは呆然とした。
部屋のなかには、キャンバスがあふれていた。描きかけのものもあった。そして散らばるスケッチブック。わたしは信じられない思いでそれを端から順に繰った。
裏切りだ。これは手ひどい裏切りだ。
わたしは床に手をついて泣いた。
そこには、女がいた。どこにもかしこにも、同じ女がいた。笑う女。目を閉じる女。たたずむ女。寝そべる女。
それはすべて同じ女で、そしてそれはわたしではなかった。
何が人物は描かないだ。何が人物画には興味ないだ。よくもよくもよくも。
水下がわたしとは隔絶されたこの部屋にこもっていた時間。
水下といっしょに暮らした静かな時間が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
その日、わたしは水下を裸で出迎えた。
水下は玄関を開けるなり真っ赤な顔をしてうつむいた。
「どうし……」
「あたしを抱きなさいよ」
わたしは水下のシャツに手をかけた。ボタンがうまくはずせない。いらいらして服を引っぱると、ボタンがはじけ飛んだ。水下は呆然としている。
「あたしを抱きなさいよ。抱け、抱け、抱け!」
「あ、綾子さん、綾子さん、どうしたの……」
「あの女とは寝たの、あの女とはできたの、あの女には勃ったの?」
「綾子さん、落ち着いて……」
水下の優しい腕がわたしを抱きかかえる。わたしは水下のズボンのベルトに手をかけた。水下が腰を引く。
わたしは水下の頬をひっぱたいた。考えていたのよりもずっと大きな音がした。水下の唇が切れて、血が流れた。
わたしは床に座り込んで泣いた。これでわたしたちは終わりなのだと思った。
水下はわたしのからだにシャツを掛け、リビングのソファにわたしを腰かけさせた。しゃくりあげるわたしに、水下は温かいお茶をいれて飲ませてくれた。
水下は、自分の部屋の扉が開いているのに気づいたようで、苦り切った顔をしていた。
「お互いの部屋には入らないって約束じゃ……」
「自分の部屋のなかで浮気されているなんて思わなかった」
「浮気って……」
「おんなじでしょ。じゃ、あの人は誰? 答えられるの? たくさんのたくさんのたくさんのあの人に囲まれて、あなたは何をやってるの?」
「ぼくは……」
「あたしは描かないって言ったくせに! あの女は誰なのよぉ!」
まるで三文芝居のようだと思った。自分がこんな嫉妬に狂った女になるなんて思いもよらなかった。しかも相手は単なる絵なのだ。いいや、単なる絵なんかではない。おびただしい数の絵、絵、絵。同じ女の絵。
情けない。
水下は大きくため息をついて、何度も、綾子さん、綾子さん、とわたしの名前を繰り返した。
泣き続けるわたしに、水下はそっとくちづけをした。ぎこちないくちづけだった。
めずらしく、水下はわたしの目を真正面から見つめた。そして絞り出すような声でこう言った。
「ぼくはずっとあの女に魅入られている……」
「ぼくはずっとあの女に魅入られている。
本気で絵を描こうと思ったのは高校のころだった。油絵を描き始めた。最初は風景ばかり描いていた。人物も描くようにっていう指導があって、トルソーとかね、描き始めた。
はじめて裸婦を描いたのは、大学受験のための塾で。いつもと同じように描いていたつもりだった。からだのカーブを描いて、光と影を映して。それはいつもと同じ作業だった。
できあがってみたら、目の前にいる人とは似ても似つかない女がぼくのクロッキー帳には残されていた。
それから何度も人物を描く機会はあった。大学は結局芸術系には行けなかったけれども、美術部に入って、やっぱり風景画を描いていた。それで、たまに、人物を描いた。
できあがるのは、いつも同じ女だった。憂い顔の、切れ長の目の、撫で肩の女。
ぼくの知らない女なんだよ。ぼくはこんな人に出会ったことはない。もちろん、この人を描こうと思ったこともない。でも、人物を描くと、いつでも、どうやっても、この人になってしまう。
この女に欲情したこと? あるよ。毎日のようにしてる。きみも知っているとおり、ぼくは女の人と縁がなかった。きみと会うまで、この人しかぼくにはいなかった。この人の裸体を描くと、ぼくは欲情する。この人の唇を描くと、くちづけをしたくなる。でも、この人はいない。どこにも。どこにも。ぼくの絵のなかにしかいない。
きみに会えたとき、ぼくは嬉しかった。やっとこの女から解放されると思った。だからきみを愛そうと努力した。愛したつもり、ぼくなりに。
でも、女はぼくから去ってはくれなかった。ぼくは描き続けた。女の後ろ姿。女のうなじ。湯浴み姿。描いても描いても、ぼくは満たされなかった。
きみを描きたい。きみがぼくを見てくれるまなざしを描きたい。きみの優しい微笑みを描きたい。
でも、たぶん、ぼくにはきみは描けない。それが怖くて。怖くて。
きみを失うのが、怖くて、怖くて」
荒唐無稽な話だと思った。絵の女に魅入られるなんて、ばかな戯言だと思った。水下の舌先三寸に騙されるものかと思った。
けれども、水下が、かれには似つかわしくないほど、いっしょうけんめい、言葉を尽くして、いっしょうけんめいにわたしと目を合わせて、語っているのを聞くと、水下の言っていることが嘘なのだろうと本当なのだろうと、水下がわたしに寄せる想い自体は本当なような気がして。
「あたしを、描いてよ」
世迷い言を言っているのはわかっていた。でも止まらなかった。
「あたしを描いてよ。そして、見せて。あたしの目の前で、あたしを見て、あたしを描いて」
水下は臆した顔でわたしを見た。
「あたしを描いて見せてよ。でなきゃ納得したりなんかしない」
水下は蒼い顔でわたしを見ていたが。
「それできみが納得するなら……」
そうつぶやくように言うと、クロッキー帳をとりに部屋に戻った。
絵のモデルになるのなんかはじめてだったので、わたしは緊張してかしこまった。水下はそんなわたしに、見たこともないような柔らかな笑顔を向けた。
「楽にして座ってて。無理にポーズをとったりしなくていいから」
わたしは水下のシャツのなかで縮こまり、ソファのうえに窮屈に座った。水下の真剣な目がわたしを見つめるのが恥ずかしく、わたしは目を伏せた。
静かな時間が過ぎる。水下がクロッキー帳に鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。わたしはその静かな音に引きずられ、少しずつ目を閉じ、眠りのなかへと落ちていった。
目を覚ますと、水下が難しい顔をして、クロッキー帳をのぞき込んでいた。スケッチは終わったのだろうか。わたしは立ち上がって、水下の隣に立った。水下はうつむいたまま、クロッキー帳をわたしに渡した。
そこにいるのは、わたしであって、わたしではなかった。水下のシャツをまとい、ソファに座っていたのはたしかにわたしだったけれども、それは、水下の女だった。
わたしは、水下に着せ掛けられたシャツを脱いだ。そしてぼんやりとした顔をしている水下をおいたまま、ぺたぺたと自分の部屋に戻った。
水下と激しい恋を展開していたとは思わない。けれども、わたしにとって水下は、それでも大事な人だったのだ。
けれども、水下にとって大事なのは、わたしではない。
わたしは手元にあった服を着た。それから荷物をまとめ始めた。着替えを何着か。あとはいつももっているバッグ。当面はそれだけでいい。
顔を上げると、何かを我慢しているような顔で水下が戸口に立っていた。
「出ていくよ」
平板な声がわたしの口から出た。水下はそれに首を振った。泣きそうな顔をしていた。
「あなたはあなたの女とお幸せに。あたし以外の女に恋をしている人と、あたしは暮らせない」
水下は、首を振った。泣きそうな顔をしていた。
「きみは、きみだ。ぼくの前にいる。ぼくには、きみが……」
「あなたに必要なのは、絵の女でしょ。あたしは、あなたの人生に必要ない」
「違う!」
水下は、かれには似つかわしくない激しさで叫ぶように言った。
「きみを……失いたくない」
「あなたにはあたしを描けない」
「綾子さん……」
「大きな荷物はあとからとりにくる」
「綾子さん……!」
水下がわたしの部屋に入ってくる。そして荒々しくわたしを抱きしめる。
水下の唇が、わたしの唇を探す。わたしは水下を拳で殴った。
「綾子さん、鏡を見て……綾子さん……」
水下が泣きそうな声でわたしにとりすがる。
「お願い、綾子さん、鏡を見て……」
「鏡って、どうして……」
「綾子さん……」
水下がわたしのクローゼットの扉を開ける。鏡には等身大のわたしの姿が映る。
わたしは叫んだ。
そこにはわたしはいなかった。いや、それはわたしなのだけれども、わたしではなかった。憂い顔の、切れ長の目の、撫で肩の。
水下がわたしを抱きしめる。
「会いたかった。会いたかったんだ。ずっとずっと、会いたかったんだ……」
わたしは水下を振りきって部屋を出た。水下の部屋。水下の恋しい女でいっぱいの水下の部屋。
それは、わたしだった。いや、わたしではなかったのかもしれない。大きな目の、やせぎすの、鎖骨の浮かんだ女。
わたしは、誰?
水下が、クロッキー帳をわたしに渡す。わたしの姿。笑うわたし。憂い顔のわたし。うつむきかげんのわたし。エプロン姿のわたし。
わたしの姿じゃないわたし。
わたしは、誰?
綾子さん、綾子さん……
水下が熱に浮かされたようにわたしの名前を呼ぶ。
好きなんだ。好きなんだ……
水下がわたしのからだに触れる。
水下のくちづけを受けながら、わたしはただただ混乱していた。水下の愛撫を受けながら、わたしはただただ混乱していた。
あなたが抱いているのは、誰?
綾子さん、綾子さん……
あなたが欲情しているのは、誰?
水下の部屋に行ってみた。絵の女が、わたしを見ていた。絵の女は、わたしの姿をしていた。それとも、わたしが絵の女の姿に成り代わったのだろうか。
水下は相変わらず、風景画を描いている。そしてときどき、わたしの姿をスケッチする。それはわたしの姿のようでもあり、絵の女のようでもあり、ぜんぜん違う女の姿のようでもあったりする。そして、そのたび、わたしは鏡で自分の姿を確認する。水下の絵に引きずられるように、姿形を変える自分の姿を、いまではそんなものかと受け入れたりもしている。
水下との関係は相変わらずで、ゆるやかな抱擁と、口数の少ない会話のなかで、日常が流れていく。水下の理想の女になれている自信はまだない。それでも、水下の絵に少しずつ変化が現れているのはたしかなので、それを支えに、わたしはこれからも水下といっしょにいるんだろうなと思う。
愛はわたしにはわからない。けれども、こういうのが恋なのだと、思ったりもする、そんな日々をわたしは過ごしている。
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