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あした行きのチケット

たなかなつみ

 あした行きのチケットをもって、南行きの列車に乗る。
 二両連結の列車のなかは、人でひしめき合う。わたしは六人がけの座席の端に腰をかける。
 目の前の男がわたしの目をのぞき込む。
 「あなたの探している「あした」はどこですか」
 わたしは答えずに男の目をのぞきかえす。疲れた風情の男は、型くずれしたスーツを着ている。
 「来ない「あした」を待つことにはもう疲れました」
 男の言葉に、わたしは軽くうなずく。
 わたしは膝の上に置いたリュックのふたを開ける。そのなかから巾着を取り出して、あした行きのチケットがそこにあるのを確認する。そしていっしょに入れておいたチョコレートを取り出した。
 「すこしいただいてもよろしいですか」
 男の手に、わたしはチョコレートの粒をざらざらと流し入れた。男の手のなかでチョコレートはあっというまに薬のかたちになる。
 「これでやっと眠れる……」
 男はそう言って、手のなかの薬を飲み下した。わたしは自分の手のなかに残っているチョコレートを確認する。なんの変哲もない粒チョコレートだ。わたしはぽりぽりとそれをかじった。
 列車のなかは薄暗い灯りがともっている。周りが見えない暗さではないが、本を読んだりするのは無理だ。わたしは目を閉じる。かたたんかたたんと車輪の音が耳にうるさい。
 隣に座っていた子どもが泣き出して、わたしは目を開けた。向こう側にいる母親とおぼしき女が子どもを抱きしめる。大丈夫よ、大丈夫よ。女の低い声。
 大丈夫よ、大丈夫よ。
 わたしは子どもの手をとり、子どもの手のなかにチョコレートをあけた。子どもは不思議そうな顔をしてわたしを見つめる。
 「「あした」に行けるおまじない」
 子どもは不安そうな顔をして、母親の顔を見る。女のとまどった表情。
 「あなたの探している「あした」はどこですか」
 今度はわたしが女に問う。女がさびしげに笑う。
 「「あした」なんてないっていうことは、ちゃんとわかっているんですが」
 女の手に握りしめられた、あした行きのチケット。
 「この子だけでも、「あした」につれていってやりたくて」
 女の手が優しく子どもの頭を撫でる。子どもは手のなかのチョコレートをかみ砕き、わたしの顔をちらりと見て、女の腹に顔を伏せた。
 わたしの探す「あした」はどこなんだろう。
 わたしはその答えを知っているような気もするし、知らないような気もする。わたしはもう一度目を閉じた。
 かたたんかたたん。車輪の音が鳴り響く。

 少し眠ったのだろうか。ぼんやりとした頭で目を開ける。涙が流れているのに気づく。夢でも見たのだろうか。
 夢。どんな夢?
 顔を上げると、スーツの男の隣に、少女がいた。少女はわたしを見て、にこりと笑った。
 なぜか背筋が寒くなった。
 わたしは顔をそむけるように急いで目を閉じたが、手に温もりを感じてあわてて起きた。
 少女の小さな手が、わたしの手を包んでいた。
 「夢を見たでしょう?」
 少女の淡々とした声。
 夢。どんな夢?
 「あなたがあたしを呼んだのよ」
 わたしは少女の手を振り払った。少女は微笑みを浮かべたまま、床に届かない足をゆらゆらと揺らす。
 「あなたは「どこ」から来たの?」
 少女の冷たい問いに、わたしは答えられない。
 「あたしが教えてあげる。あなたが来たのはあっち」
 少女はその手を後方にかざす。それは列車の進行方向だった。
 「そして、あなたが探しているのは「あした」」
 わたしは軽くうなずいた。動かない日々に疲れて、わたしは「あした」を目指したのだ。
 わたしが探している「あした」はどこにあるのだろう。
 少女がにこりと笑う。そしてポケットからチケットを取り出した。
 あした行きのチケットだった。
 「これはあたしの「あした」行きのチケット。あなたはあたしの行く「あした」には来られない」
 少女の言葉に、わたしは軽くうなずく。たしかにそうだ。人びとはそれぞれの「あした」をめざすのだ。それが誰かと交わることはない。
 頭痛がして、わたしは目頭を押さえた。そう。そんなことはわかっていたはずだ。
 それが誰かと交わることはない。
 「でも」
 少女の声がする。
 「あなたが望むなら、あたしの「あした」を、あなたに譲ってあげてもいいよ」
 わたしはふたたび顔を上げた。少女の冷たい微笑み。
 かたたんかたたん。列車はまだ動いている。
 「あなたは、自分の「あした」が「どこ」なのか知っているの?」
 震える声で、わたしは問う。少女が笑う。
 「覚えていないの? あなたがあたしを呼んだのよ。あなたがあたしを呼ばなければ、あたしはここには来なかった」
 少女はそう言って、床に降り立った。そしてもう一度わたしの手をとる。今度はひんやりとした感触がした。
 「思いだして。あなたは「どこ」から来たの? あなたが探している「あした」は、どこ?」
 少女がわたしの手をとって立ち上がる。
 「あたしがあなたをつれていってあげる」
 かたたんかたたん。かたたんかたたん。

 少女の手につれられて、わたしたちは次々と車両を移る。みな一様に辛そうな顔をした人たちが、思い思いの格好で椅子に座っている。
 長い。こんなに長い列車だったろうか。いや、乗りこんだときは、二両連結の列車だった。前方の車両にわたしは乗ったはず。チケットにはさみを入れてもらった。それから、それから。
 少女の足は止まることがない。どんどんとわたしを次の車両へと誘う。もう前方に向かっているのか、後方に向かっているのかもわからない。
 不意にわたしは気づく。少女が、少しずつ成長している。その髪が長くなり、短くなり、その背丈がのび、肉付きが良くなり、それはまるで、それはまるで。
 わたしは少女の手を離した。少女が振り返った。それはまるで。
 「あなたは、誰?」
 少女が冷たい目つきでわたしを見て、答える。
 「いまは、「きのう」のあなた」
 少女がわたしの顔でそう答える。わたしは逃げだそうとしたが、少女の手が、いや、いまとなってはそれは少女ではなく、女というにふさわしい存在だったが、その女の手が、わたしの行く手を遮った。
 「あなたは、どこへ行くの?」
 わたしの言葉に、女は笑った。
 「あたしはあたしの「あした」へ。あなたはあなたの「あした」へ」
 わたしは首を振った。
 「だって、あなたは……」
 「わたしは、「きのう」のあなた。わたしは、「あなた」じゃない」
 「あたしは……」
 「あなたが探している「あした」はどこ? このさきには、あたしの「あした」が待っている。あなたがもっているチケットでは、ただ、あなたを待っている「あした」にしかたどりつけない。あなたが探している「あした」はどこ?」
 「……あなたは、どこへ行くの……」
 「あたしは、あなたの呼ぶところへ。あなたの呼ぶところが、あたしの行くべきところだから」
 「……あなたは、ずっと、わたしといたの……?」
 「ずっといたし、ずっといる。あたしはどこへも行かない」
 わたしはひざまずいた。女の冷たい手が優しくわたしのこめかみを撫でる。
 「夢であたしを呼んだでしょう……?」
 女のひんやりとした声が、耳から入ってくる。
 かたたんかたたん。列車はまだ走り続けている。上方へ? 下方へ? もうそんなことすらわからない。

 夢でわたしがいつも探していたのは、ひとりの男だ。わたしから背を向けて、去っていった男。わたしに愛情と裏切りと幸福と悲鳴を教えた男。
 夢のなかでいつも男は優しい。わたしはその優しさに、甘えて、甘えて。
 餓えたように目を覚まし、涙を流すのだ。もうそんな夜を、幾日過ごしたかわからない。
 もうこんな夜なんか要らない。
 わたしが欲しがった「あした」。わたしに安寧をもたらしてくれる「あした」。それは優しい男が現実にわたしのそばにいてくれる「あした」なのだろうか。それとも男の記憶ごと取り去った、いまとはぜんぜん違う世界の「あした」なのだろうか。
 そう。わたしは迷っていた。ずっとずっと。わたしの欲しがる「あした」は、どこ?
 わたしはリュックの巾着からあした行きのチケットを取り出し、手に握りしめる。わたしが行くべき「あした」。わたしが逃れられない「あした」。
 男の夢に溺れて、夜にとらわれてからこっち、わたしがずっとたどりつけないでいる「あした」。
 わたしは目の前の女の手をとる。女は優しい顔でわたしを見ていた。
 「あなたはわたしの苦しみごと、わたしといっしょにいた……?」
 女はうなずいた。
 「ずっと、わたしといた。優しい記憶も、辛い記憶も、全部わたしといっしょに抱えて、ずっと、ずっと」
 女はうなずいた。女の目から涙がこぼれた。わたしはその涙に口づけた。
 「じゃあ、わたしの「あした」をあなたにあげる。そして、あなたの「あした」も、あなたが」
 わたしは女から手を離した。
 「わたしはここに留まる。永遠にたどりつけない「あした」の手前で。日ごと夜ごと、あなたを夢に見る」
 女は泣きながら首を振る。わたしは女を抱きしめた。香る汗のにおいは、わたしのにおいだ。
 「わたしはあなたを夢に見る。あなたは、笑って、泣いて、怒って、あなたの人生を、あなたの「あした」を生きてください。今度はわたしがあなたのそばにいるから。日ごと夜ごと、夢であなたを追い続ける」
 「あなた……」
 「わたしの苦しみを、過去に駆逐して生きなさい」
 突如、列車が大きく揺れた。わたしと彼女は、離れた。
 離れて、離れて、離れた。
 いくつもの車両がわたしの目の前を通り過ぎていった。笑っている乗客も、泣いている乗客もいた。女の姿は遠く遠く離れて見えなくなった。
 気づくと、わたしはがらんとした車両のなか、ぽつんとひとりで立っていた。
 からり、と音がして、車掌がやってきた。
 「チケットを拝見します」
 わたしは巾着からチケットをとりだした。その小さな紙切れは、往復切符だった。
 チケットに判子を押してもらって返してもらったあと、わたしはゆったりと椅子に腰かけて目を閉じた。

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