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太り続ける女
たなかなつみ

 食事にはいつも気をつけていた。油ものも甘いものも、とにかくセーブしていた。自分で料理を作るときも、外食するときも、自然とカロリーを計算する癖がついていた。不健康でさえなければいい。あとはぎりぎりまでカロリー摂取をおさえること。
 適度な運動もいつも心がけていた。何も激しいスポーツをする必要はない。有酸素運動を一定時間おこない、不要な脂肪を燃焼すること。歩いて行けるところなら、電車もバスも使わない。お金もかからないしダイエット効果もあるし、一石二鳥。歩くときには背筋をぴんと伸ばし、お尻の筋肉を引き締める。少しでも気を抜くと、体はすぐにゆるもうとする。気をつけて気をつけて。誰からも醜く見えないように。
 シャワーを浴びたあと、女は裸のまま姿見を覗く。下腹の肉が出てきたりはしていないか。二の腕の肉がたるんでいたりはしていないか。太ももはどうか。ウエストのくびれはちゃんとあるか。
 頭の天辺から足のつま先まで点検して、女はようやく満足する。大丈夫。今日のわたしも理想の体形。スレンダーなボディに、適度な筋肉。誰が見ても羨む、ナイスバディなわたし。
 いつも綺麗だね。恋人や友人の言葉に、そんなことないよと謙遜しながら、女は腹のなかで笑う。当然でしょ。この体形を維持するために、わたしがどれだけ努力していることか。羨ましいのなら、あんたたちも努力してみなさいよ。まあ、あんたたちとわたしとでは、土台からして違うけどね。
 女は今日も背筋をぴんと伸ばして街を歩く。美しい自分を誇示しながら、世間の人間を睥睨して歩く。

 女が訝しげに思ったきっかけは、些細なことだった。天気の良い休日の昼間。女はいつもの習慣どおり部屋に掃除機をかけていた。そしていつもどおりしゃがんで拭き掃除をしている最中に。
 いつもなら引っかかるはずのないところに、とんと肩がぶつかった。
 だからといってそれがどうしたということもなく、女は掃除を続けながら首を傾げる。仕事場の同僚にどんくさい女がいて、ふつうに通路を歩いていてさえ机に身体をぶつけ、ゴミ箱につまずく。のろまなうえに太ったぶさいくな女。ああいう女は公害だと思っていたんだけど。
 隅から隅まで熟知しているはずの自分の部屋。いつもどおりの行動。なのに身体をぶつけてしまうなんて。いやだいやだ。あんなばかな女の仲間入りなんか、わたしはしない。
 女は部屋の片づけを終え、いつもどおりにシャワーを浴びる。完璧な身体。華奢な腕、手首、細くて長い脚。誰よりも綺麗よ、あなた。女は鏡のなかの自分に向かって話しかける。
 そうして、女はその些細な事件を忘れた。忘れたはずだった。

 些細なことは、それひとつであればどうでもいい、記憶に値しないことだった。けれども、それが積み重なってくると、無視できないものになった。
 今までなら何ごともなく通れたはずの隙間に、身体が引っかかる。しゃがんだ瞬間、身体をひねった瞬間に、ほんの少し生じる違和感。
 もしかして、わたし、太った?
 女は何度も鏡の前で自分の身体を確かめる。腹が出ている様子はない。肩まわりも腕も、以前と変わりない。体重計に乗っても、数値は以前のままだ。
 けれども、違和感は日に日に大きくなる。机に向かって座ったときに、今までよりもパソコンのキーボードが遠く感じるのは、腹が出っ張っているから? 電車の席に座ったときに、今までよりも隣の人が窮屈そうにしているのは、わたしの肩幅が大きくなったから?
 女は極端なダイエットを始める。必要最小限のものしか口にしない。狂ったように運動をする。汗だくになるまで風呂につかる。
 日に何度も体重計に乗る。数値は変わらない。鏡のなかの自分はむしろやつれたようにさえ見える。
 けれども、自分は太っているという漠然とした疑念が、女をとらえて離さない。
 女は何度も体重計に乗る。何度も何度も体重を量りなおす。

 出てきた食事にほとんど手をつけず、フォークを置いてしまった女を訝しく思ったのだろう、机の向こうの恋人は女に、体調でも悪いのかと聞いてきた。女は首を振った。
 「ダイエットしてるの。わたし、太っちゃったから」
 男は首を傾げる。男の目には、女がちらとでも、以前より太っているようには見えない。むしろ、以前よりも痩せてしまっているようにさえ思える。
 「気のせいじゃないの?」
 男の言葉に、女は不機嫌そうな顔をする。
 「正直に言って。わたし、前より太ったでしょ?」
 「そんなことないよ」
 男がそう言っても、女は納得しない。
 「太った。太ったのよ、わたし。そうとしか考えられない」
 自分に言い聞かせるように、女は強い口調でそう言う。以前からことさらに外見を気にする女だった。男はそう思い、少し考える。
 「ぼくの目には太っているようには見えないよ。体重が少し増えでもした? ベルトがちょっときつくなったりとか?」
 女は口ごもる。
 「体重は……以前と同じ。百グラムも変わらない。着ているものも窮屈になったりしていない」
 「だったらきみの気のせいだよ。きみは太ってなんかいない。ぼくが保証するよ」
 男の楽観的な口調に、女は苛々を隠さない。
 「でも、おかしいのよ。前ならこんなことなかったと思うことばかりで。なんの苦もなく通れていた通路だったのに、棚に腰をぶつけたり、今までなら簡単に人とすれ違うことのできた階段だって、腕がぶつかったり」
 男は女が言いつのるのを聞いて、吹き出す。
 「何がおかしいのよ!」
 「そんなの、きみが太った理由になんかならないよ。疲れているかなんかで注意力が落ちていたとか、相手の人がたまたま大きく手を振って歩く人だったりとか、そういうことだろ。そんなことを気にしているなんておかしいよ」
 「それは……そうなのかもしれないけど……」
 「大丈夫だよ。きみは以前と同じに綺麗だよ。太ってなんかいない」
 女は不承不承うなずくが、釈然としない。確かに、男の言っていることは理にかなっているような気がする。実際のところ、自分の体重は増えてはいないのだ。何度鏡に向かってみても、自分が太っているようには見えないのだ。
 けれども、自分の身体に対する違和感が日に日に大きくなっているのは、紛れもない事実だ。自分は以前よりも太っている。自分の身体が占めているスペースが以前よりも大きくなっているという疑いが、どうしてもぬぐえないのだ。
 「だったらぼくが確かめてあげるよ」
 男の言葉に、女は目を上げる。
 「きみの身体をぼくが確かめてあげる。きみが安心するように」
 セックスの誘いだ。今までなら、生理のときでもなければ拒絶することはなかったのだが。女は少し迷う。服を脱いだら、男にもわかってしまうかもしれない。そして、太った自分に愛想を尽かしてしまうかもしれない。
 けれども、女は結局誘いに乗った。つまるところ、女も安心が欲しかったのだ。

 男がシャワーを使ったあと、女は自分もバスルームに入った。濡れた身体と湯気でくもった鏡をバスタオルで拭き、緊張しながら自分の身体を点検する。顎にも頬にも余分な肉はない。背中のラインもたるんだ様子はない。体重計にも乗ってみたが、表示された数値はいつもとまったく同じだった。
 けれども、それでもまだ安心できなかった。こうやって見るだけならわからないのかもしれない。自分は毎日見ているから気づけないだけなのかもしれない。男の目で見れば、男自身の手で触れれば、自分が太っていることに気づかれてしまうかもしれない。
 かたい顔をしてベッドルームに戻った女を、男が迎える。いつもと同じ口づけ。いつもと同じ手順。男はいつもと同じように女の身体に触れ、いつもと同じように何度も綺麗だよと囁き、いつもと同じように女を抱いた。
 最後まで浮かない顔をしていた女に、男は苦笑した。
 「お世辞でもなんでもなく、ぼくにはきみが太っているようには感じられない。きみの気のせいだよ。もうそんなことは考えずに、ちゃんとご飯を食べること。約束だよ」
 男の言葉に、女は顔をこわばらせる。それでは、男は気づかなかったのだ。
 けれども、女にはわかってしまった。たとえ体重計がそうと示さなくても。たとえはっきりと外見には現れていなくても。
 いつもと同じように抱きしめたはずの男が、いつもより遠いと感じたこと。いつもと同じようにキスをした男の唇が、いつもより遠いと感じたこと。そして、男の声ですら、いつもより遠かったのだ。肌と肌とを触れあわせる近くにいたはずの男なのに。
 まるで自分の外側に、見えない膜ができているかのように。
 女は身体を震わせた。男は笑い、大丈夫だよと言って、女を抱きしめた。
 その抱擁ですら、女には遠く感じられた。

 自分は太っている。疑いははっきりとした確信になった。今までならすんなりと入れた通路に身体がつっかえる。バスの座席が狭い。立ったり座ったり、ただ歩くのさえもが億劫になる。
 どんなにダイエットをしても太り続ける。女があまりに何も口にしようとしないので、恋人は心配して、女を無理やり病院へと連れて行った。
 白衣を着た医師の前に座り、女は泣いて訴えた。誰にもわかってもらえない。でもわたしは太っているんです。しかもどんどん太り続けている。体重が増えているわけでもない。今まで着ていた服が着られなくなったわけでもない。けれどもわたしは太っている。どんなに食べるのを我慢しても、どんなに運動しても、痩せない、痩せないんです。
 医師は女に、醜形恐怖という病について語る。女がこだわる理想の体形は、偏ったイメージであること、投薬による治療が必要なこと云々。
 どうしてわからないのか! 女は医師に罵詈雑言を浴びせ、病院を出る。今や往事の倍近くにふくれあがった(と彼女が感じている)女の身体では、扉から出るのも一苦労だ。慌てて追いかけてきた男の胸を叩き、女は泣き叫ぶ。勘違いなんかじゃない。本当にわたしは太っているのに。どうして誰にもわからないのか。
 男は女を抱きしめる。いや、抱きしめているように女には感じられる。すでに女は厚い肉襦袢をまとっているようなもので、男の抱擁を直に感じることはできなくなっている。
 辛いかもしれないけれど、通院は続けよう、と男は言う。少しでもきみが楽になれるように。今のままじゃ、きみの状態はどんどん悪化していくばかりだ。
 女はそれを聞いて笑う。薬を飲めばこの状態がおさまるのか。このぶくぶく太りきった醜いわたしが。今ではあなたをこの手で抱きしめることすらかなわない、この辛さがあなたにわかるのか。
 わからない、わからないよ、と男は言う。ぼくの手にはおえない。だから、病院に行こう。医者に任せよう。
 女は男の頬を打つ。けれども女にはその感覚は、まるで鍋つかみを何枚も通したかのように鈍いもので。男はぼんやりと女を見る。
 「ぼくはきみのプライドの高いところも、我が儘なところも好きだったけど、今のきみは好きじゃない」
 去っていく男の後ろ姿を見送ることもせずに、女は憤然として歩き始めた。重い身体では長い時間歩くのは骨で、女は何度も道ばたに座り込んでは休憩をとった。電車では優先座席にふんぞり返って座った。眉を顰めて自分を見ている人間がいるのに気づいてはいたが、そんなことはかまわなかった。かまうどころではなかった。ここまでの道のりを歩いてきただけで、女はたとえようもなく息が切れてしまっていたからである。

 シャワーを浴びることはやめてしまった。浴びたくてももう無理だった。すでに扉よりも身体が大きくなってしまい(としか彼女には感じられず)、バスルームに入ることができなくなっていたので。
 外出も不可能になったので(何しろ扉から出られないのだ)、女は仕事を辞めた。お腹がすいたら宅配のピザを頼んだ。けれどもそれもどんどん間遠になった。
 女の身体は部屋いっぱいにまでふくれあがった(と彼女は感じるようになった)。もう動きたくても動けない。ちらと指先を動かすことはできるが、それだけだ。宅配ピザももう頼めない。電話をかけることもできないし(彼女の指には電話のプッシュボタンは小さすぎた)、仮にどうにか注文できたとしても、それを玄関先で受けとることはできなかった。
 女の意図に反して、女の身体は部屋の大きさをも超えて、どんどんふくれあがっていった(と彼女は感じた)。しかも困ったことに、女の着ている肉襦袢は、たいへんぼんやりとではあるが、触覚が存在していた。女の指先あたりで犬がマーキングをする。女のへそのあたりで喧嘩が起こる。女の膝あたりで恋人同士が愛しあっている。女はそのすべてを感じとることができ、そして、そのすべてが女から遠かった。女は肉襦袢のなかでうずくまり(と彼女は感じていた)、近所の人たちの日常をすべてぼんやりと知ることになった。
 女の身体は日に日に大きくなる。マンションの存在する一角の大きさだったのが、通りを挟んで侵食する。町内すべてを覆ったあと、学区内へと占拠が広がる。
 今や、何万もの人間が、女の身体を蹂躙して生活していた。女の身体の上を歩き、女の身体のなかでご飯を食べ、女のそこかしこを踏みつけながらレジャーに興じる。
 女はかつて恋人だった男が、自分の腋のあたりにいるのを感じていた。男は、女のかつての同僚だった、どんくさくてぶさいくな太った女と一緒にいた。ふたりは女の腋毛一本分のほんの先を寝床にするかのようにして睦みあっていた。女は重い重い腕をほんの少しだけ動かして、脇を締めた。途端にその一角で激しい土砂崩れが起こり、かつての恋人とかつての同僚は死んだ。
 女はうつらうつらしながら、終日何をするということもなく、日に日に膨張を続けた。女は都市を呑み込み、国を呑み込んだ。女は大陸を呑み込み、海を呑み込んだ。女はときどき思い出したかのように、身体の一部を、ぴくり、と動かす。そのたびに大地が揺れ、海が荒れた。けれどもそのすべてが、女にはもうどうでもいいことだった。
 女の体内で、戦が起こる。たくさんの人たちの血が流れ、女の身体を潤した。女の体内で、爆弾が投下される。毒ガスが細菌が放射能が女を汚染し、女の排泄物とともに、それは流れた。
 女は今やすべてを身内に感じ、そして、今やすべてとともに在った。けれども、女の自意識はあまりにも大きな肉襦袢の奥深く、孤独に耐えきれずに膝を抱えて泣いていた。すべての人びとが女のなかにあった。けれども、誰ひとりとして女を認識することはなかった。測量不可能なほどに厚い肉襦袢に包まれ、人の営みは女からは遠すぎた。女は世界中すべての人間をその身体で知り、そして孤独だった。

 女の足元で朝日が昇るころ、女の乳房付近に夜が訪れる。女の股間付近で山火事が起こり、女の肩口あたりで殺傷沙汰が起こる。いつもと同じ一日の始まり、いつもと同じ一日の終わり。
 けれどもその世界の中心で、女(だったもの)がうずくまり、泣いていることを知る者はいない。助けてよー、助けてよー。女の声に耳を傾ける者はいない。女の声は誰にも届かない。
 人びとは女の身体に身を寄せて生活する。人の誕生に笑い、人の死に涙する。
 女はそのすべてを知っている。そして、そのすべてに関与しない。あんなにも自慢だった理想のボディはもうない。それを維持するために努力する必要もない。女には何もない。
 助けを呼んでも、誰も来ないことはわかっている。どうにもならないこともわかっている。けれども、ほかにできることもないので、女はただ泣く。助けてよー。助けてよー。そして、小さく身じろいでは災害を起こす。女のほんのわずかな動きによって、多くの人命が失われていく。
 もちろん、女は神ではないから、女が誰かを助けることはない。だからそのことで女が負い目を感じなければならない人間も、地上(あるいは女のなか)にはいないのだ。

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