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わたしがわたしである仕事

たなかなつみ

 女性。身長百六十センチ程度、体重五十キロ程度。過去にソフトボールの経験があり、英検二級程度、珠算検定二級程度、書道二級程度。要普免。大声コンテストの優勝者であればなお可。福娘経験者優遇。船酔いしない人。視力 2.0 以上のこと……
 道ばたの電信柱にくくりつけられた看板には、求人広告によくある文言を含みながら、けれども普通なら問題にもされないような、細部にまでわたる要望が書かれている。通りすがりにふとその看板を目にしたわたしは、その募集項目がどこからどこまで自分に当てはまることに気づき、立ちどまった。気味悪く思いながらも、けれどもこれはわたしのことだという妙な確信だけはあり、とにもかくにも住所を確認して行ってみることにした。
 それはどこにでもありそうな古びたビルで、くだんの会社はその三階にあるという。いったいどういった業種の会社なのかもわからず、それどころかそもそも会社なのかどうかといったことすらわからず、どうしようかと思案に暮れていると、ひとりの女性が階段を降りてくるのが目に入った。声をかけようとしたわたしはその姿に驚いて足をとめた。
 あれはわたしだ。どこからどう見てもわたしだ。右手で鞄を抱え込むようにするのも、左足を引きずるようにして歩くのも、始終首をかしげるしぐさも、いつものわたしそのものだ。呆然とするわたしに追い打ちをかけるように、その後ろからさらに女性が降りてくる。さらにひとり。さらにもうひとり。次から次へと降りてくる女性たちは、驚いたことになんと全部「わたし」なのだ。
 そうこうするうちに、最初に降りてきた「わたし」が、どうやらわたしに気づいたらしく、声をかけてきた。
 面接なら上よ。「あなた」もあの看板を見てきたんでしょう?
 そうですけど。でも、あの。
 大丈夫よ。「あなた」だって、「わたし」なんですもの。問題なく通るわよ。
 わたしは「わたし」の言うままに、階段に足をかけた。次から次へと「わたし」が上から降りてくる。ふと振り向くと、いつの間にか、後ろにも「わたし」の列ができていた。わたしはたくさんの「わたし」に押されるようにして階段を上った。
 面接者は初老の男性で、何度もお茶を口に含んでは同じ言葉を繰り返した。
 つまりみなさんには「あなた」でいていただければそれでよいのであって。それ以外に求めることといっては特になく。けれどもそれこそが重要なことであるというのはみなさんもよくご承知のことで。
 それは、確かに、わたしは「わたし」ですし。逆に「わたし」でなくなれと言われる方が困るというのはそうなのですけど。
 面接は六人のグループで進められ、わたしは面接者の質問に答えながら、どうも自分が自分でないような気がしておちつかなかった。見るとわたし以外の「わたし」もおちつかなげにしきりに体を動かしたり視線を移したりしている。慌てて座り直すと、すべての「わたし」が座り直す。どうにもしっくりしない。こんなことでわたしは「わたし」で居続けることができるのだろうか。
 ひととおり質問が終わると面接者はわたしたちにカードを手渡した。そこにはすでにわたしの名前が記されており、便宜上なのだろうか、その後ろに番号が付されていた。わたしの隣の「わたし」のカードには、わたしと並びの番号が見えた。名前は当然同じだ。
 階段を下りていくと、新たな「わたし」の集団が道ばたでもじもじしていた。面接なら上よ。わたしは「わたし」にそう声をかけて、来た道を戻っていった。
 見慣れた道に戻り、見慣れた扉を開け、見慣れた部屋におちついて、さあ、どうしようか。「わたし」であることが仕事だというならば、当然名刺がいるだろう。コンピュータの前に座り、自分の名前を入力する。住所は、ここでいいだろう。電話番号は、怖いし入れるのやめとこう。肩書きは?
 困って手を止めた。肩書きは?
 「わたし」?
 そんなわけにはいかないだろう?
 わたしはベッドの上に寝転んで、たくさん出会った今日の「わたし」たちの顔を思い浮かべた。同じといえば同じ顔だったろう。違うといえば、どこかしら、違ったところがあったろうか。わからない。あのたくさんの「わたし」たちも、今ごろ自分の部屋で名刺をつくっているだろうか。そして同じように肩書きで困っているだろうか。あの「わたし」たちなら、どうするだろう。
 そうして思い出す。手渡されたカード。わたしは鞄のなかをひっくり返して今日もらった面接カードを探し出した。名前の後ろに大きく記された番号。「二十六」。
 その番号に何の意味があるのか、わからないけれど。
 わたしはつくりかけの名刺に番号を入力した。二十六。
 そして印刷する。二十六という数字をもったわたしの名前が量産される。たぶん、わたしだけではない。たくさんの「わたし」たちが、いま、この瞬間に、違う番号を付した名刺を印刷しているだろう。
 そうして、わたしは安心する。わたしがいなくなっても、わたしの集団にかわりはないかもしれない。けれども、わたしがいなくなったら、わたしの集団のなかから、確実に二十六という番号は欠けるのだ。わたしの存在証明。
 存在証明? こんなちっぽけな数字が?
 そう、こんなちっぽけな数字にどきどきする。たぶん、これが、わたしの仕事。
 こんなんでいいのかな。間違っていない? わたしがわたしである仕事。
 でも、誰がどうやって間違っているって証明するの? わたしでいることを規定できる人間が、わたし以外にいるとでも?
 だから、間違っていない。わたしがわたしでいるかぎり、間違いようがない。
 わたしは財布を持って、文房具屋へ出かける。迷った挙げ句、アルミのカード入れを購入する。わたしはそこに印刷したての名刺を押し込む。そして、その名刺は、いつ使うの? このカード入れから出すときがあるの?
 ふと顔を上げると、不安げにこちらを見ている顔がある。わたしはこの人を知っている。角の文房具屋の店員。つい今し方、カウンター越しに声をかけた。あなたにお金を払ったよね。いいえ、違うかもしれない。でも、わたしはこの人を知っている。それだけは間違いない。言いようのない不安感。焦りのようなものがわたしを包む。
 あなたは誰?
 薬指にほくろのある白い手。見覚えがある。どこで? 彼女がポケットから取り出すカード入れ。見覚えがある。どこで?
 彼女が差し出す名刺。見覚えのある名前。どこで? 不安はどんどん大きくなる。わたしは早まる鼓動をかかえたまま、安心のもとを探して目を走らせる。
 そして見つける。この数字。少なくとも、これは、わたしの数字ではない。
 そうして、わたしは吐息をつき、つぶやく。なるほど、あなたもわたしなのね。彼女は頷く。そうして、あなたも、わたしなのでしょう。彼女の問いかけに、わたしも頷く。
 これがわたしの仕事なのだ。わたしたちはこうやって、日々、わたしを確認するのだ。
 わたしはさっき買ったばかりの名刺入れから自分の名刺を取り出す。
 なるほど、あなたは「二十六」なのね。
 あぁ、そうか。彼女の言葉にわたしは納得する。わたしたちは番号でしかわたしたちを認識しえないのだ。
 わたしは「十四」なの。言われてわたしは頷く。不安が薄らいでいくのがわかる。これで、わたしの今日の仕事は、終わったのだ。
 夜、わたしは嫌な夢を見る。すべてが整然と並んだ名札のなかに、一枚だけ欠けているものがあるのだ。どの名札が欠けているのかはわからない。けれども欠けているのはわたしの名札だということだけはわかる。だって、そこにはわたしの名札しかないのだから。もし欠けているとしたら、それはわたしでしかないのだ。
 汗びっしょりで目が覚める。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。賞味期限の日付が二十六日であることに妙な安心感を抱く。わたしはやっとおちついて、のどを潤す。
 そして、ふと、薄ら寒い気分でいることに気づく。どうしてわたしは「二十六」という番号で規定されているの? あれは偶然だった。偶然もらったカードに偶然記された数字だった。わたしはこれから先、その数字に振り回されて生きていくの?
 けれども、その数字の前についている名前ですら、結局は自分で選びとったものではないのだし。
 翌朝、銀行に行く。通帳には、当然のごとく「二十六」という振込先から、一ヶ月の生活に必要なだけの金額が振り込まれている。かれらはどうやって、わたしが「二十六」だということを知ったのだろう。
 ふと、通帳の名前の部分を確認すると、名前の後ろに「二十六」という番号が当然のような顔をしてついている。
 けれども、わたしは、いつから、こんな番号に振り回されるようになったのだろう。昨日から? いいや、もっとずっと前からだったような気もする。
 そもそも、わたしがわたしである仕事を始めたのは、いつからだった?
 上司の噂話を聞いたら顔をしかめること。
 赤ん坊を見かけるとにこにこ顔で手を振ってみせること。
 そんなことなら、わたしでなくたってできるでしょう。
 いや、けれども、そんなことしか、できないのが、わたしなのだ。
 わたしは不安げに、赤ん坊の母親を見つめる。人差し指にほくろがあることは、見ないでもわかる。いや、薬指だったか。どちらでもいい。どちらでも同じことなのだ。わたしはポケットからアルミのカード入れを取り出す。
 彼女もいくぶん不安げに、なるほど、あなたもわたしなのね、とつぶやく。でも数字は違うのね、そういうことなのね。
 けれども、わたしは独身なのだけれど。
 わたしの言葉に、彼女は、そうなの? と眉をひそめる。でもたぶんそんなことは重要じゃないのよ。重要なのはわたしたちがわたしであること。わたしたちがどういう人間であるかということは、あまり問題ではないのよ。仕事って、そんなものでしょう。
 彼女はそう言いながら、わたしの名刺を受け取る。なるほど、あなたは「二十六」なのね。
 その言葉を聞いて、わたしは少し安心する。彼女ですらわたしを「二十六」で認識するのだ。
 子どもを持っているわたしもいるのね。
 そうね、もしかしたら男性でいるわたしもいるかもしれないわね。
 求人広告には「女性」と書いてあったけれども。
 そうなの? でもそんなことはたぶん重要じゃないのよ。
 わたしは彼女から名刺をもらう。彼女の番号は一桁だ。素数。
 でもそんなことは重要なことじゃないのよ。
 彼女はそう言いながら、二つ目の名刺入れを取り出した。二枚目の名刺には別の数字が刻まれていた。三桁の。
 どういうこと? なぜあなたには数字が二種類もあるの?
 わたしのじゃないわ。いえ、わたしの、といってもいいのかもしれないけれども。だって、わたしたちはみんなわたしなのだから。でも、正確を期するなら、この数字はこの子のよ。
 彼女が押すベビーカーのなかで、赤ん坊のわたしが眠っている。わたしは新たな不安にとらわれてつぶやく。
 すべてのわたしに出会うことは不可能かしら。
 さあ、どうだろう、わたしなら、そんなことしようとは思わないけれども。
 その言葉に、わたしも頷く。わたしなら、そんなことをしようとは思わない。
 わたしは、ベビーカーを押して歩き去ろうとするわたしの後ろ姿に声をかける。その姿が、妙に自信ありげに見えたのだ。わたしの声は震えていたかもしれない。けれども声をかけずにはいられなかった。あなたは、どうだった? あなたも、ひとりでいるとき、不安だった?
 彼女は後ろを振り返って言った。今のわたしが、不安から自由だと思う? わたしは、あなたなのに。
 わたしは、少し、脅える。わたしは、どこまでいっても、わたしなのだということを、ただ、再認識することしか、できないのだ。そして、どこまでいってもわたしであることの対価として、支払われるお金。わたしであり続ける限り、保障される生活。
 それが間違っているとは、思わないけれども。
 わたしは部屋に戻る。二十六号室のわたしの部屋。二時六分で止まってしまった時計は、叩いても放り投げても、動き出す気配を見せない。わたしは二百六十円で買ってきたパンをかじりながら、テレビの二十六チャンネルを回す。
 わたしがわたしである限り満たされた生活。
 それで、そこから、どこへ進めばいいの?
 翌朝、わたしはつくった名刺を机の上に並べる。すべてのわたしが同じことを考えているかどうかはわからない。けれども、そういう選択もあるのだと、考えているわたしはいるだろう。このわたしがそう考えているように。わたしはマジックを手に持つ。そして消す。どっちを? 少し迷う。名前を? 数字を?
 この迷いすら、わたしがわたしである仕事。
 意を決して、線を引く。数字に。二十六番のわたしは消えた。それと同時にありえたはずの、十四番の、五番の、三百二十九番の、わたしの存在を、わたしは感じている。
 そうして、わたしは、数字のないわたしとして、再出発できるだろうか。二十六番ではないわたし。たくさんのわたしのなかのひとりではないわたし。ただのわたしというわたしになって。
 わたしがわたしであるということに不安を感じながら、変わり続けながら、なんの保障もないまま、未来を築いていくことができるだろうか。
 でも、それが、わたしなのだし、そうすることでしか、わたしでいられないのなら、そうするしかないのだ。
 数字の消えた名刺を持って、街に出る。雨の通りを行く人のなかに、わたしは見あたらず、わたしも、もう、誰からも声をかけられたりしない。わたしは、わたしでしかない。
 ふと、道ばたの電信柱にくくりつけられた広告に目がいく。女性。身長 160cm 程度、体重 50kg 程度。過去にソフトボールの経験があり、英検二級程度、珠算検定二級程度、書道二級程度。要普免。大声コンテストの優勝者であればなお可。福娘経験者優遇。船酔いしない人。視力 2.0 以上のこと……
 これは、わたしのことかもしれないし、わたしのことではないかもしれない。けれども、わたしのことだとわたしが思いさえしなければ、これはわたしのことではないのだ。
 今ごろ、別の「わたしたち」が、古びたビルの三階をめざして列をつくっているかもしれないし、そもそもそんなビルなんてないのかもしれない。
 大丈夫よ。わたしはつぶやく。誰に認証されなくてもいい。わたしはわたしで、これからどう変わっていっても、変わらなくても、それだけは確かなのだと、わたしが信じていればいいこと。大勢のわたしたちのなかのひとりのわたしなどではなく、ただ、わたしはわたしでしかないのだということ、そしてそんなことを意識する必要さえもないということ。
 わたしは二百六十円の電車の切符を買って、改札を通った。わたしの仕事は小さな会社の経理事務で、それは、誰にでもできる仕事かもしれないけれども、でも、それが、誰の仕事でもない、わたしの仕事なのだ。
 わたしは二番線に入ってきた電車の六番目の車輌に乗り込んで、吊革をつかんだ。ここから六番目の駅で降りて、二番出口を上がってすぐのところに、わたしの仕事先がある。そこで待っているのがわたしの仕事なのだ。
 わたしは、電車に揺られながら、雨の日は自転車に乗れないから、出費がかさむな、とか思いながら、今日の昼ご飯を何にしようかと考えていた。それってつまらないこと? でもわたしには大事なことだから。おいしいは、幸せの基本だから。そして、いつものパン屋さんで、新製品のパンが出ていればいいのだけど、そういえば、こないだ食べたコーヒーロールはおいしかったな、とか、そんなことをゆるゆる考えながら、いつもの仕事先へと向かっていくのだった。

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