ぴーたーが戻ってきた。呼吸はまったく乱れていない。お面の下の顔は見ることができないが、きっと汗さえかいていないのだろう。
「ただいま。他愛もない連中だった。半分石になりかけてたしな」
「唇に血がついてるよ」
いかにも世話女房といった調子でうぇんでぃーが駆け寄り、どこからか真っ白なハンカチを取り出す。乾きかけの返り血はきれいにぬぐい去られるが、ハンカチは白いままだ。例によって魔法を使ったのか、あるいはこれも何かのバグなのか。
「今度はどっちへ行くんだ?」
ぴーたーがこちらに向き直って尋ねる。声に少しだけ疲労と焦燥が混じっている。どこだろう? ぐるりを見回しても何の目印もない荒野がひろがっているばかり。地図もコンパスもなく、どんより濁った空にはお日様の気配すらない。いや、待て。目を凝らすとかえってわからなくなってしまうが、はすかいに眺めると少しだけ空気の濃いところがある。
「あっち!」
沈みがちなパーティーの気分を盛り上げようと不必要に明るい声を上げてしまう。無言で歩き出す。このふたりの辞書には「休息」とか「憩い」とかいう言葉が載っていないらしい。
「それにしてもよお、『明日への扉』だなんて、そんなインチキくさいものが本当にあるのか?」
短剣で空中になにやら印を刻みながらぴーたーが声を張り上げる。
「知らないよ。ガセネタかも知れないけど、とりあえず探すしかないじゃないか」
うぇんでぃーがそっけなく答える。会話は何度も繰り返されてすっかりルーチン化している。
この世界から抜け出すための扉がどこかにあるらしい…その噂を聞いたのはいつ、どこだったろう。そもそもここには時間という尺度が存在しないから、いつという質問には答えようがない。経験値がまだ3けただったころ? その経験値だってあてになりはしない。いつの間にかリセットされているからだ。でも、とりあえず探すしかないというのはほんとうだ。なぜなら世界の終わりが近づいているから。
先頭のぴーたーが無言で「待て」の合図を発する。今度はあたしの番だよ、身振りでそう告げながらうぇんでぃーが胸の前で両腕を交差する。青い閃光がほとばしり出て頭上の空間を切り裂く。姿を消したまま襲いかかろうとしていた有翼獣の群れが滑空姿勢のまま凍りつき、ばたばたと落ちてくる。その数約50。有翼獣は地面に落ちると安物の茶碗みたいな音を立てて砕け、そのたびに視野の片隅で経験値のカウンターが繰り上がる。うぇんでぃーが両腕をほどいて空へ差し伸べると同時に地面からもうもうと蒸気が立ちのぼる。
「ごらんよ」
うぇんでぃーが指さすまでもない。そこら中に散らばっているのはみんな石化した有翼獣のパーツだ。耳、目玉、心臓、牙、しっぽ…かき集めたらちょうど一体分くらいになるのではないだろうか。
「ちっ」
ピーターパンのお面の下でぴーたーが舌打ちする。
「ところでどうしたんだお前、目から水なんか流して」
こちらを振り向いたぴーたーが驚きの声を上げる。
「え? どうしたんだろう。なんだか目が変なんだ。なんて言ったらいいんだろう…」
「煙が目にしみたのさね」
うぇんでぃーが助け船を出してくれる。そう、そのとおりなんだけど、この感じはなんて言うんだったっけ。
「痛いんだ」
唐突に言葉が口を吐いて出る。
ぴーたーがひゅうと口笛を吹き、うぇんでぃーがかすかに首を振る。
森の奥にはお菓子でできた小さな一軒家があり、チョコレートの扉から白雪姫と7人のこびとが飛び出してくる。電光石火の早業で喉を切り裂いていくぴーたー。床に倒れたこびとは7匹の子ヤギに姿を変え、白雪姫の皮の下からは毛むくじゃらのオオカミが現れる。
「今夜はここで寝よう」
7つの寝台から夜具をはぎ取り、床に並べながらうぇんでぃーが宣言する。7つだって? ということは白雪姫は毎晩こびとの誰かと寝ていたのか。
「明日は北へ向かうよ」
そんなことは言うまでもない。東西南北前後に上下、八方のうち7つまでふさがれたら残りはひとつしかない。残った一方を「北」と呼んでいるだけのこと。相手が白雪姫でもオオカミでもおんなじことだ。
「それにしても、いつからこんなことをしなくちゃならなくなったんだ?」
ぴーたーは眠りのことを言っているのだ。いつから? たぶん石化がはじまってすぐだろう。この世界には夜も昼もなく、誰も彼もぶっとおしでプレイしていたのが、ある時から周期的なシステムダウンが起きるようになった。最初の扉を開けたとき、それを「眠り」と呼ぶのだと思い出した。
「ねえうぇんでぃー、またお話をして」
「なにがいいんだね」
「世界の始まりと終わりがいいな」
うぇんでぃーの話は毎回少しずつ変化する。経験値のカウンターと一緒でいつの間にかひとめぐりして元に戻っているのかも知れないけれど。
「むかしむかしあるところに科学者の夫婦がいた」
「カガクシャってなに?」
「神をも畏れぬ魔法使いと魔女のことさ。黙ってお聞き」
「うん」
ちんぷんかんぷんでさっぱりわからないけど、だからこそすぐに眠れるんだ。
「ふたりには子供がひとりあったが、ある時重い病気になってしまった。眠りから覚めないんだ。両親はあらゆる手だてを尽くしたが、子供は眠り続けた。やがて子供がおとぎ話とゲームの入り交じった奇妙な夢を見ていることがわかった。両親は子供の体を冷凍保存するとともに自分たちも子供の夢の世界に移住することにした。どうやって? 子供の脳内の電気活動を正確にマッピングした仮想世界を構築し、そこにジャックインしながら少しずつ干渉していったんだ。当時すでに冷凍技術は確立されていたが解凍は不安定だったから、解凍方法と病気の治療法がふたつとも見いだされる未来までそうやって暮らしていくつもりだった」
暖炉で薪がはぜる音がする。それに混じってかすかな羽音。
(シンパクスウ12でアンテイ…ユエキぽんぷセイジョウにサドウチュウ)誰かが何かを呟いている。
「だがそのふたつが見つかるまでには途方もない年月が必要だった。両親はとうにこの世を去り、そのアバターだけが仮想世界に生き残っている。その世界すなわち生命維持システムももはや耐用年数の限界を越えている。やむなく解凍作業が始まった。驚いたことに世界の解体が進むのと平行して子供に覚醒の兆候が見られ始めた。今、子供は両親のアバターとともにシステムからの脱出口を求めて世界をさまよっている…」
そしてパーティーは世界の果ての平原にたどり着き、そこで唐突にラスボスと遭遇する。そいつはお話の中の悪役をぜんぶごちゃまぜにした醜悪な怪物で、ニンニクとタマネギと血と汗のまじったような臭い息を吐きかけながら行く手に立ちはだかる。
(そうだこれが匂いというものなのだ)
どこかでゴングが鳴り響き、天からは進軍ラッパがとどろく。短剣を構えて飛び出したぴーたーがあっさりお面を割られて仰向けに地面に転がる。お面の下には顔がない。何という悪夢!
うぇんでぃーが猛禽の叫びとともに最強の霊獣ゆにこーんを召喚する。だがラスボスは体毛のかわりに無数のクロミミズを生やした太い腕でゆにこーんの角をへし折り、首をねじ切って屠り去る。
「きゃあっ」
悲鳴を上げるうぇんでぃーの服はラスボスの爪で右肩から左腰まで一気に裂かれ、裂け目から真っ赤な闇が吹き出す。
ラスボスがゆっくりとこちらへ向き直る。逃げだそうとしてあたりを見回すが、平原は地平線から急速に石化しつつあり、いやそれどころか空間全体がくすんだ灰色の石に閉ざされかけている。息が詰まる。その時はじめて自分が息をしていることに気づく。
ラスボスが近づいてくる。表情はかげになっていて見えないが、きっと嗤っているのだろう。やつの背中までがすでに石に変わりかけている。
そのとき突然、倒れていたぴーたーとうぇんでぃーが起きあがり、ラスボスの両足にしがみつく。ふたりはラスボスのへそに手をかけ、力まかせにこじ開ける。こんなことってあるだろうか、そこには丸い小さな扉があるじゃないか。
「これが扉…」
ふたりが同時に叫んでいるのだが、語尾は石になって聞き取れない。扉が開く。石の真ん中にぽっかりと暗い穴がある。もうそこへ飛び込むしかないが、その穴はやっと頭が通るだけの大きさしかない。
その時ようやくすべての記憶がよみがえり、子供は輝く情報の彗星となって闇に侵入する。
永遠とも思える旅の果てに光が見えてくる。
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