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ヴォイスチャットアダプター

天乃星河

 

 三階への階段を上り切ったところで耕助は、足を止めた。
 家庭科室前の廊下で、女子生徒が一人、メトロノームに合わせて窓枠にバチを打ち付けている。やや長めの髪がリズムにのってサラサラと揺れた。
(いずみちゃん……)
 声をかける勇気はなく、耕助は部活動に向かう生徒達の流れに追い立てられ、四階へと向かった。
 四階から細い十三階段をさらに上ると、校舎の屋根裏を利用した天文部の部室がある。
 放課後はいつも、階下に群れた吹奏楽部が聴く者の脳細胞を破壊せんばかりの不協和音を奏でていた。それを迎え撃つかのように、部室内の音楽プレーヤーがアニメソングをガンガン響かせ続ける。
 重い木製の扉の小窓が段ボールで塞がれ、階段側にある大きな窓にもベニア板が打ち付けられているのは、何度も観測用機材やカメラが盗難に遭ったせいだと聞く。
 屋上の天体観測ドームに通じるハッチから、明るい陽光が差し込んでいた。それは人工的な光の下に沈むこの屋根裏部屋を、地下であるかのような錯覚を起こさせた。
 健全な高校生なら敬遠しそうな、氷酢酸と現像液のにおいの充満したこの部室に、耕助は憑かれたように連日足を運ぶ。
 騒音の中、入ってすぐ手前の木製の大きなテーブルでは、数人の三年生が教科書や参考書を広げていた。
 耕助の挨拶に彼らはニヤつきながら、奥の畳の間を指さす。
 そこには同級生の松戸博士《ひろし》が陣取って、布団の無い炬燵の上に部品を積み上げ、帽子のような物に夢中で細工している。
 悪い兆候だ。
 耕助は顔をしかめた。
「おーい、ドク。タイカン行くぞ」
 ドク、というのは松戸のあだ名で、もちろん博士という名前から来ているのだが、いつもわけのわからない工作をしている様子は某ハリウッド映画の登場人物に似ている。……幾分独り善がりなところもだ。
 タイカンとは、太陽観測の略だった。生返事しか返さないドクを見限って、耕助は木製の梯子を登り、ハッチを抜けてドームへ出る。
 しばらくしてドクが屋上にやって来た頃には、重い赤道儀付きの天体望遠鏡はドームから運び出され、うまくバランスを取って組み上がっていたし、白い紙に投影された黒点のスケッチも殆ど終わりかけていた。十人は居るはずの一、二年生で、ローテーションを組んで毎日の当番を決めていたのに、みんなこの地味な作業を嫌って幽霊部員と化し、スクエアな性質の耕助だけがせっせと続けている有り様だった。
 苦々しく、彼はドクの顔を見る。
「見ろよ、これ! ついに完成したんだ!」
 ドクは耕助の気持ちに気付かず、手に持った帽子をうやうやしく目の前に差し出した。
「やめてくれ!」
 耕助は唸るように言った。
「ついこの前、自動歩行靴とやらでひどい目に遭わされたのを、俺はまだ忘れてないぞ? 一生忘れるもんか、立ち止まらないと足元のスイッチが切れないなんて。バッテリーが切れるまでに、俺がどこまで歩かなけりゃいけなかったか……」
「執念深いなあ、耕助は」
 笑いながらのその一言で、ドクは耕助の感情を片づけた。
「これはね、この前のお詫び。おまえ、イギリス的な世界に憧れてるって言ってただろう?」
「は?」
 耕助は、突然持ち出された話題に、面食らう。
「――そりゃ、言ったかも知れないけれど……」
 ドクはしたり顔をする。
 彼とは小学生からの付き合いだった。耕助がアーサー・ランサム全集や、『ドリトル先生』シリーズに出て来るイギリスの『お茶の時間』に憧れていることを、ドクは良く知っている。二人で、クリスティに出て来る『コーンスターチを溶かした病人の食べ物』を実際に作ってみたり、バートラムホテルでミスマープルが食べた本物のイギリスのマフィンとはどんなものか話し合ったりしたこともある。
 耕助は差し出された野球帽のようなものを見やった。それは両耳を覆う形のヘッドホンと野球帽を組み合わせたような形をしていて、内側の生地には電子機器の付いた小さな基盤が幾つか貼り付いている。
「その変な帽子と、イギリスが、どう関係あるっていうんだ」
 ドクが何か言いかけた時、黄色い声が幾つも聞こえて、会話が中断した。
 一年生の女の子達数人がドームから屋上へとなだれ込んで来る。見覚えの無い顔も混じっていた。
「小椋先輩! タイカン終わりですか?」
「すっげー! ここの屋上、ひっろーい」
「ボール、下に落とさないように気を付けな」
「大丈夫だってば。このフェンス、充分高いし」
 どうやら、太陽観測をさぼった自分達の怠慢を恥じるどころか、部外の同級生と一緒に屋上でバレーを始める気らしい。
 憮然とする耕助の頭に、ドクが帽子をかぶせる。金属の基盤が頭に当たってちくちくした。
「おい……」
「女の子達がみんな、クリスティの推理小説に出て来るようなしゃべり方をしてくれないかなって言ったじゃないか」
 ドクは楽しそうに、ヘッドホンを調節して耕助の耳を完全に覆ってしまう。外の音が遮断され、その代わりに聞こえて来る音に、人工的な雑音が伴い始めた。
「人体実験はやめろってば」
 と、言ったはずなのに、ヘッドホンから聞こえた自分の声は違った。
「人体実験のようなことはやめてくれたまえ」
 耕助の驚いた顔に、ドクはニコニコする。
「名付けて『ヴォイスチャットアダプター』だ。変換を『紳士淑女モード』に設定しておいたよ。君の好みだろう?」
 女の子の一人が、屋上の端から端まで駆け回りながら言う。
「本当に、広うございますわ。私、学校にこのようなところがあるなんて、ちっとも知りませんでした」
 耕助の手から、鉛筆が滑り落ちた。
(まさか……?)
 耳を疑うかのように伸ばされた両手が、ヘッドホンに阻まれる。
 背の高い女の子がボールを指の上で回しながら、その仕草とはおよそかけ離れた、上品な言葉遣いで言った。
「部室は出入り自由ですからね、いつでも来て下さいな。さあ、みなさん。始めましょうか」
 ドクがニヤつきながら、耕助を眺めていた。
「お待ちになって」
 太り気味の少女が、二重顎を撫でた。
「先輩がまだ作業をなさっていらっしゃるのよ。望遠鏡を傷つけては大変」
 これまで先輩を先輩とも思わぬ態度を取り続けて来た彼女達が、そのようなしゃべり方をするなんて──実際にはそんなしゃべり方をしているわけではなく、ドクの作った機械が『紳士淑女モード』に変換して耕助の耳に届けているわけだが──耕助は信じがたい思いで、彼女達を見守り続ける。小説の中にしかあり得ないと思っていた理想郷が今、彼の目の前に展開されていた。
(でも、なんだろう……何かが違うような……?)
「そうですわ」
 と、フェンスから飛び降りた少女の、短めに改造した制服のスカートがまくれて、黒い体操着が見えた。
「先日、反射鏡を磨くために、わざわざ京都まで行かなくてはならなかったのですもの。もう一度行くための部費が残っているとは思いませんけれど」
「あら。そういえば、部費の支払いを滞納している部員のリストを先日作りましたのよ」
 一番小柄な少女が、はみ出た白いシャツの端をウエストに納めようと努力しながらそう言い、耕助の方をちらりと見た。
「ドク君――」
 耕助は声をひそめて、傍らの親友に言う。
「立ち居振る舞いの方も、なんとかならないものかね?」
「無茶を言うものではないよ、君」
 感謝されるのが当然、文句を言われるとは夢にも思わなかったという顔で、ドクは応えた。
「これだけの技術をインターネット上で収集し、然るべき機関からハッキングして来るのに、この僕がどれだけの苦労と努力を重ねて来たと思っているのかね? それに、視覚情報のリアルタイム変換となると、扱う情報の多さから考えて……」
 その説明を上の空で聞きながら、耕助は太った女の子を振り返った。
「申し訳ないが、君。望遠鏡を片づけておいてくれませんか」
 いつもなら「オッケー」などと答える彼女が、力瘤を作っておしとやかに言った。
「お任せ下さいな」

 

 部室では、氷酢酸の臭気に、コーヒーの香りが混じり始めていた。
 参考書を片手に討論する上級生達は、あたかも英国文学に出て来るお茶会シーンを演じているかのように見えた。
「運動部は、予算の取り過ぎだな。その上先日の補助金の審議会で、連中、『文化部は部室で優雅にお茶など飲んでいるのだから、汗水垂らして頑張っている運動部にもっと予算を回すべきだ』などと言うんだ」
「深夜、山の冷気の中で天体観測をする肉体的辛さなど、彼らの想像力の欠如した頭では到底理解できないことなのさ」
「全く賛成だね。目に見える成績を残しやすいからといって、彼らはいい気になり過ぎるよ」
 耕助は彼らの側を通り過ぎ、部室を出る。
 吹奏楽の喧噪は、ヘッドホンを通してもつんざくような叫びにしか聞こえない。人語ではないから、変換のしようがないのだろう。
 十三階段を下り、耕助は家庭科室前へ急いだ。
(いずみちゃんがいない……)
 美人ではないが、控えめな笑みを浮かべる森本いずみ。色白の彼女の仕草の一つ一つは実に女らしく上品で、いつも耕助を感心させていた。その『いずみちゃん』が、ひとたびバチを握ると、別人のように強烈なリズムを繰り出すドラマーになるのだ。
 耕助は、ドクの発明品を彼女の前で試したいと思った。
「いずみさんなら、食堂へ行きましたわ」
 上級生が丁寧な口調で教えてくれた。
 食堂は部活動途中に腹ごしらえをする生徒たちで賑わっていた。
「ようこそいらっしゃいませ」
 食堂のおばちゃんが、怒ったような顔で、口調だけはにこやかに言う。カウンターの向こうでは、幾つかのうどんの玉を少しずつ減らして、別のうどんの玉を作るという悪名高い『ピンハネ』が堂々と行われていた。
「いずみさんなら、今日は用事があるのでこのまま帰るっておっしゃって、出て行かれましたわ」
 吹奏学部の女子が、同じ部の男子を振り返って言う。
「ね、そうでしたわね?」
「その通りだとも」
 男子は頷く。
「ついさっきのことだったがね」
 耕助は食堂を後にした。
 校門を抜けながら、思う。
(いずみちゃんがあんな風に僕としゃべってくれたら、どんなに素晴らしいだろう)
 この上なく女性らしい彼女にこそ、『紳士淑女モード』は相応しい。想像するだけで耕助の心は躍り、森本いずみの後を追いかけることに夢中になった。
 駅へ向かう下り坂の車道で、工事が行われていた。ドリルでアスファルトを崩す凄まじい音の中、仮設歩道を歩く森本いずみの後ろ姿を耕助は見つける。
 ドキリ、と、胸が鳴った。
 作業員の一人が、日焼けした肌にタオルをこすりつけながら、体を起こした。
 耕助の足元を指さす。
「気を付けて通ってくれたまえよ、君」
 施工したばかりの、踏んではいけないところへ足を出そうとしていた。
「失敬」
 耕助は会釈して、大きめに迂回して歩いた。
(そういえば、彼女になんて言えばいいか、考えていなかったな。ドクの発明品が、……なんて言っても不自然か。わざわざ追いかけて来たのは、……何か理由を考えなきゃ)
 別の作業員が、前方から耕助に声をかける。
「ああ、君! 一言忠告しておくがね……」
 声の穏やかな調子と、厳しい顔付きとがそぐわない。
 その口の動きを良く見たら、きっと、彼が「危ない!」と叫んでいることに、耕助は気が付いただろう。
 またか、と思って、車道の方にさらに迂回した、その時。
 衝撃と共に、体が飛んだ。
 ゆっくりと回転する景色の中で、いずみちゃんが振り返ったのを、見たような気がする。これで彼女に話しかける理由ができた、などと馬鹿なことを考えていた。熱い痛みと共に地面に転がった時、視界いっぱいに車が迫る。生まれてから今までの、覚えている限りの罪を耕助は懺悔した。
 彼をはねた後、金切り声を上げながらブレーキをかけた車は、坂道を滑って来て、彼の体をすり潰す寸前で止まった。
「大丈夫か!」
 怒号を上げながら、大勢の人が駆け寄って来る。
 しばらく、大騒ぎが続いた。
 大人達が救急車の手配をする間、耕助は横たわったまま痛みに耐えていた。
 着地した時、帽子の中で金属の基盤がひしゃげた。その分、頭への衝撃が少なかったのだろう。
 生徒達の野次馬の輪を抜けて来た女の子が、彼の傍らにしゃがみ込んで、帽子をそっと脱がせた。壊れたヘッドホンが帽子の両脇にだらりと下がる。
「小椋君? あほやなあ。音楽なんか聴いてるからやで」
 森本いずみが、彼の顔を心配そうに覗き込む。柔らかなイントネーションの関西弁が、優しく続いた。
「あたしがわかる? 頭打たへんかった? しっかりしいや」
 耕助は頷くと、目を閉じた。

 

「いやあ、たいしたことなくて良かった」
 ドクは、へらへら笑って言った。
 耕助は、病室で怒鳴り出しそうになるのを必死でこらえた。
「どこを見てそんなことが言える!」
 耕助は、折れた両足を天井に向かって固定し、牽引しているために、ベッドの上の置物と化していた。
「みんな知ってるよ、おまえがここで楽しい思いをしているって」
 ドクの笑い方がニヤニヤに変わった。
「来てるんだろ、毎日。あの、関西弁の……」
 耕助は赤くなる。
「うるさい。俺が毎日ここで、どれだけ辛い思いをしているか、おまえにはわかんないだろう。食事もトイレも、ここで、……この格好でさせられるんだぞ! 若い看護師さんが……」
「ああ」
 と、ドクは、持って来た紙袋から何かを取り出そうとした。
「そう思って、実はこんな物を作って……」
「出すな! 見せるな! もうたくさんだ!」
 悲しげに立ち尽くす相手に向かって耕助は、自分の理想とはほど遠い罵り言葉で吠えた。
「このドアホ!」

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