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雲上の城

高本淳

 探査機のさしわたし十メートルにおよぶ翼はふたつに割れたカプセル内壁の角度にぴったりあわさるように折りたたまれている。ジョイントからのぞいている翼の骨組みは降下の途中に展開してはたしてバラバラにならないか心配になるほどきゃしゃだった。希薄な大気のなかではたとえパラシュートを開いていても末端速度は秒速八メートルをこえるはずだ。もちろん設計したスタッフが強度計算をミスするわけもないし、またこの飛翔探査機の同型機はすでに何度も大気圏突入に成功しているのだが、それでもこの映像を見るものは誰でもそんな不安を抱くにちがいなかった。
 つまりこれは『おいしい』ショットなのだ……タケミヤはぎりぎりまで拡大した画面がこまかく手ブレするのを感じながら確信した。あとでもういちど三脚で固定した『絵』をとるべきだろう……。
 翼にそって画面を上方にパンさせていくとカプセルに立てかけられたはしごの上でサミュエル・スコット技師がシステムの最終チェックをしている姿がはいってきた。おいしい、と言えば――技師の右側の空間に浮いているラチェットレンチもたぶんそんな素材だ。さっきそこに浮かばせたままずっとサムは昇降舵に付属するカンチレバーのほうに気をとられている。目を離しているすきにすこしずつそれが床にむかって移動していることにまだ気づいていない。数十秒後には腕をのばしてもとどかない位置まで『落下』してしまうだろう。
 工具の動きをアップでしばらく追ったのちタケミヤはじょじょに絵をひいて全景がおさまるようにした。探査機が置かれている組み立て格納庫は基地で最大の空間だ。天井はほぼ半球形のカーブをえがいて最高部分で十メートルほどある。断熱性の白いラミネートシートの外側には放射線防御のために数百立方メートルの土砂がかぶせられているのだが、わずか一気圧弱の内圧は楽々とその重量をささえていた。一方の端には地表へ探査機を引きだすためのエアロックの巨大な気密扉、反対端には別棟の機材倉庫と居住区画へつうじる通路の透明カーテンでしきられた入り口がある。そこをくぐってくる人影を認めてタケミヤはカメラから顔をあげ、無言で入室者――イリーナ・ホルツコグ博士に挨拶をおくった。彼女は入り口のかたわらに浮かんだまま半ばうわのそらでそれに応え、すぐに手に持ったスケジュール表に目をおとした。
 ふたたびファインダーをのぞき込んだタケミヤは例のレンチがもうサムには手のとどかない位置にまで落ちてきているのを見た。毎秒毎秒三ミリの重力に引かれてすでに遠目でもわかるほどの速度で動いている。一分以内に床にたっするだろう。それはクレーターの底にしかれた厚い断熱クッションをおおう床材を打ち、ゆっくりと十数センチ飛び上がったあと幾度か弾んでとまり、そしてサムは自分の不注意で落下させた工具を取りもどすために五メートルのはしごをつたって降りてこなければならなくなるはずだ。それは微小重力下での活動にともなうリスクに関する視聴者へのまたとない教訓だった。
 画面をのぞく目の端に早い動きをとらえて彼はそちらを見た。イリーナが格納庫の反対側に移動しようとしてジャンプしたのだ。いかにもこの微小重力環境に慣れた者らしく時間を節約するための極端に低い放物軌道をえがいて彼女は部屋を横切ろうとしていた。そしてあいにくその彼女の身体は落下しつつあるラチェットレンチとちょうど交錯する軌道上にあった。
「あぶない! 気をつけて!」
 そう叫ぶのとほぼ同時に、重い工具の柄が頭の骨にあたる鈍い音がタケミヤの耳にとどいた。あわててカメラの電源も切らないまま博士のもとに走りよろうとしたが、つい脚の力が入りすぎ無駄に自分自身を高く投げ出してしまった。
 彼が空中でじたばたもがいている間にいちはやく事故に気づいたサムはその場で頭を下向きに回転し、まっ逆さまにはしごをつたい降りてイリーナのかたわらに顔を青ざめさせながら着地した。
「だいじょうぶですか? 博士! ……いけない。血がでている!」
「……たいしたことはないわ。いったいどうなったの?」
「止血しないと――あなたはわたしが落としたレンチにぶつかったんです。申しわけありません。こんなことになって。自分の不注意です」
「見ためほどのケガじゃないわ、頭の傷は出血が多いから。落ち着いて。救急パックをもってきてくれる?」
 ちょうどただよいついたタケミヤに血に染まったハンカチを手渡すと技術者は備品棚へと急いだ。
「すいません。あなたが入ってきたとき警告すればよかった。レンチが落ちているのをずっと見ていたのに――」
 タケミヤの言葉にイリーナはまだ動いたままのビデオカメラをちらりと見ると目を閉じ、言った。
「ヒデキ、ひょっとしたらあなたレンチが落ちる光景をカメラにおさめたかったのじゃない? もしそうなら、わたしにそれを教えたらたぶんサムにも聞こえて万事ぶちこわしになってしまったでしょう」
「いや、それは……」反論しようとしてタケミヤは言葉につまった。たしかに彼女の言うとおりだった。そもそもレンチの落下のはじまりを黙って見ていた時点で彼はスタッフの誰かがケガをしうる状況をみすごしていたともいえるのだ。肩をおとしため息をついて彼はつづけた。
「サムよりむしろぼくのほうに責任がありますね。しかし、まさかこんなことになるとは予想していなかったんです」
「わたしもジャンプしながら前をよく見ていなかった。まあ、各自で事故の責任をうばいあっても無意味です。全員、微小重力環境の危険について地球をたつまえにじゅうぶん警告されていたわけですから。要するにみんなそれに慣れ過ぎて注意がおろそかになっていたということです――ところでもうスイッチを切ったら? カメラのバッテリーが無駄でしょ? それともわたしの様子をもう少し写したい?」
「いいえ、切ります。ハンカチをおさえていてくれますか? 傷そのものはたいしたことはないように見えますが、念のため消毒と脳波の検査をしてもらいましょう」
 タケミヤは腕に装着したLAN端末にメッセージを打ち込みながら言った。
「いま、モリガン博士に伝えました」
「彼女もようやく医療設備を使えて喜ぶでしょう」
 相手が眉根をしかめたのを見てイリーナは弱々しく微笑みかけて続けた。
「深刻にとらないで、ヒデキ。これがあなたの仕事なんだから誰にも文句のつけようはないわ。ハンカチぐらい自分でおさえていられます。もう大丈夫だからスイッチをオンにしてわたしの情けない姿を撮ったらどう? こんな『大事件』を逃すべきじゃないでしょ?」
「いや、しかし、イリーナ……」
「もう言い訳はなしにしましょう。仕事をつづけなさいな。つぎからこんなことが起こらないようにすればいいだけのことです」
 もういちどため息をつくとタケミヤは身を起こし、カメラの電源を入れるとファインダーにイリーナの全身がおさまる位置まで後退した。
 そうして幾秒もしないうちに突然、彼は背後から二の腕を強い力でつかまれた。ふりむくと目の前に怒りをふくんだサムの顔があった。
「なんのつもりだ? ヒデキ。きみはずっとレンチが落ちていくのを見ていたはずだよな? それなのに何も言わなかったじゃないか。よくそうして平然とカメラをまわせるもんだ――彼女の怪我は自分にはまるで関係ないとでも思っているのか?」
「そんなことはない」
 タケミヤは腕を振りほどきながら言った。
「責任は感じてるさ」
「とてもそうは見えないがな」
「きみにどう見えるかなんてことはこのさい問題じゃないだろう。そもそもそう言ってこちらを一方的に責める資格があるのか? もとはと言えば今回の事故の原因はきみの不注意によるものだぞ」
「おれがそれを知らないとでも?」
「やめなさい! ふたりとも。こんな些細なことでスタッフ同士争ってどうするの?」
「些細なことですって? そうは思えませんね。ぼくが気にくわないのは危険を知りながらヒデキが黙ってカメラをまわしつづけていたことなんだ。彼はいつだってそうだ――もしまんいちたった今隕石がこの格納庫の天井を破ったとしても、こいつは右往左往するわれわれをしり目にただクールに撮り続けるだけなんじゃないのかな?」
「馬鹿もやすみやすみ言いたまえ。ぼくが全員の生命に関わる緊急事態のさなかに悠長に記録カメラをまわしているような人間だと非難するつもりなのか?」
「やめなさい、と言っているでしょう!! ――痛っ……」
 血染めのハンカチをにぎりしめたイリーナの怒声にふたりはさすがに言葉を飲み込んだ。
「大声だすと傷に響く……だから静かにしてちょうだい。そして聞いて、サム――あなた、自分自身をここに送り込むために費やされた莫大な金額のほぼ五分の一がSF&Fブロードキャスティングサービスから支払われているって事実をもうすこし謙虚に直視したらどう? その協力がなければそもそもわたしたちはここにはいなかったでしょう。そうした協力金を彼らはタケミヤの映像記録から編集されるドキュメンタリー画像を全世界に売りこむことで回収するつもりなのよ。もしそれがうまく行けばこれからの宇宙開発計画にとってとても意味あるモデルケースにもなる、ってことはあなたも先刻承知してるでしょ? 現代は民間企業の力なしに国家機関だけで宇宙開発ができる時代じゃないの。この火星探査計画がこの先いつまでつづけられるか、すべて視聴者の興味をひきつづけられるコンテンツをわたしたちが提供できるかどうかにかかっているのよ」
 ばつが悪い思いで男たちは互いに背を向けた。サムはおおいに恥じた様子で救急パックから止血パッチを取り出すとイリーナのかたわらにひざまづき、タケミヤはその姿にむけてためらいがちながらもふたたびカメラを構えた。
 しかし三人の沈黙はまもなく格納庫に入ってきたマーガレット・モリガン博士の響き渡るアルトで中断された。
「イリーナ、準備ができたわ。動けるようだったら自分で医療室まで来てちょうだい。それからあなたがた――ブリーフィングがあるから早急に作業を終了させて食堂に集まって。ウッズマン博士から全員に伝えることがあるらしいわ……」

*

 区画モジュール間を連結する通路は大人ひとりがどうにか立って歩けるぐらいの直径があるのだが、もっぱら机上でなされた設計らしく利用するにはどうにも都合がわるかった。ここ……衛星ダイモスのかすかな表面重力のもとで移動するもっとも理にかなったやりかたは長い放物線ジャンプのくり返しなのだ。脚力はほとんどいらない――やりすぎると衛星を半周するまで着地できないはめにおちいる――足首で軽くスキップするだけで十数メートルの弾道飛行が可能だ。しかし天井の低い通路でそれをやろうとすると当然たちまち頭をぶつけてしまうのだった。といってそれを避けるべく地球上と同じように床面を『歩こう』とすると一歩進むのにすら途方もない時間がかかってしまう。
 あれこれ試したあげくスタッフたちは通路の天井にそわせてロープを一本渡し、仰むけにそれをつかんで身体を上方に送り出すようにするのがいちばん効率がいいという結論に達した。おたがいの頭をぶつけないよういちどに通路を一方向の通行だけに使う、という簡単なルールを守るだけで基地内の移動時間は飛躍的に短縮した。ただこの方法には進むうちにゆっくりと脚や尻が沈んでいくというわずかな欠点があった。通路の反対端にたどりつくころには自然かなり反り返る姿勢になるわけで、身体の硬い高齢のウッズマン博士などは移動のたびに背筋が痙攣をおこしそうになるとぼやくことしきりだった。
 熟練した背泳ぎの泳ぎ手のようにタケミヤたちは通路の出口の握り手を一べつもせずにつかむと身体をすばやく半転させ運動量をモーメントへと換えながら部屋に集まった面々をふりむいた。中央に『アスガード計画』責任者のひとりアレックス・ウッズマン博士――ふたりをむかえるべく身を起こした初老の科学者のライオンのたてがみのごとくつっ立った銀髪が食堂テーブルの上に設置された換気扇の風に吸いよせられてかすかにゆれていた。彼をはさんで白く華奢なイリーナと黒く豊満なマーガレットがなにやら悩ましい面持ちでテーブルを見つめている。見るとそのうえには近年よりいっそう精度が増した火星全土の地図がひろげられていた。
 食堂のテーブルは通常地上で使うものより背が高く下部ぐるりに平行に二本の『とまり木』が取りつけられている。無重力環境で脚をからみつけるようにして身体を固定するためのものだ。ここ居住区画はもともとは惑星間有人船の一部だったから当然それにふさわしい構造になっているのだが、現在はさらに細いパイプで支えられた座面がつけくわえられてあった。タケミヤはただよい寄ると空いているそのひとつに尻をおしつけた。
「さあ、来ましたよ。博士、いったいなんです?」
 前屈みになったイリーナの額にまかれた痛々しい白い包帯をまぢかに見てあらためて胸の奥のにぶい痛みを感じながらタケミヤはたずねた。間違いなく同じ気持ちだろうサムの小さなせき払いが狭い部屋に響いた。
 ウッズマンはうなづき、低いバリトンで、しかしてきぱきとした口調で答えた。
「諸君の耳にいれるべき話題はふたつある。ひとつは……まあ、われわれに重大な影響があると言え、こちらから打てる手はほとんどないし、またいますぐどうこうというものでもない。もうひとつのほうは数日のうちに取りかからなければならない、どちらかと言えば技術的細目の確認だな」
 サムが席につくのを数秒まって博士はつづけた。
「まず最初のやつからだ。――下院歳出委員会の中間報告がさきほどとどいた。結論から言えば、かなり先行き思わしくない状況だ」
「……つまり、予算の大幅カット、ですか?」
 博士はうっすらと苦い微笑をうかべた。
「われらがブルームフィールド局長が孤軍奮闘しているがね。正直いって旗色はかなり悪い。国民のほとんどは火星探査より政府の金利政策のほうに関心がある。夢物語よりは日々の生活を、というわけだな。局長は予算半減という最悪のシナリオをなんとか回避しようとここ数日単身風車に突撃をかけているよ」
「――前世紀のアポロと同じね。いったん人間を送り込みさえすればもうそれで人々の関心は冷めてしまう。いまだ火星の謎についてほとんどわたしたちは解明できていないというのに!」
「でも月とは違っていまはわたしたちがここにいる。まさか共和党議員たちも同胞を見捨てるわけにはいかないでしょう」
 博士は力なく首をふった。
「いいや、スタッフのうち三名がつぎの巡回宇宙船で地球にもどされる――その程度の覚悟はしておいたほうがいいかもしれない」
「ばかばかしい、この基地にたったふたり残っていったい何ができるというの?」
「さもなければ全員に帰国命令が下るか……計画からの全面撤退もないとはいえんのだ」
「そこまでいきますか?」
「遺憾ながら十分ありうる」
 全員が言葉をうしなって数十秒の沈黙が降りた。沈んだ雰囲気をうちはらうべくタケミヤはウッズマンにたずねた。
「話題はふたつとおっしゃいましたね?」
「ああ、そっちは幸いわれわれの守備範囲だ。どうやら今年は例年になく早く『黄雲』が見られそうなんだよ。ここ、マレア平原の南の縁にそれらしき徴候があるんだ」
 博士の指がテーブル上の地図の一点を叩いた。
「こんな時期に? まだ春分前ですよ?」
「いまごろ火星表面に砂嵐が発生した例も過去にないわけじゃない。――今世紀初めの年、六月にヘラス盆地に発生した黄雲は一月後の七月中旬には火星全体を覆う大砂嵐にまで発達した。そのときの火星の軌道上の位置は日心黄経一八三度、つまり南半球の春分のすぐ後だった。たしかに本来は極地が十分暖まった夏至前後、つまり黄経二七〇度あたりで起こる場合がもっとも多いがね」
 大砂嵐は火星の気候をもっとも特徴づける現象だ。それが起こると表面の地形がほとんど見分けられなくなるほど濃い赤黄色の雲が赤道を超えて惑星全球を覆ってしまう。黄雲とも呼ばれるその発生メカニズムはまだよくわかっていない。地球上では台風のような激しい大気の流れにエネルギーを供給するのはもっぱら水蒸気だが火星大気には水蒸気はほとんど存在しない。もし火星の大気中に含まれるすべての水分を雨にして降らせたとしても地表をほんの数ミクロンの厚みで覆うだけだろう。かわりに火星で嵐に熱エネルギーを供給する役目をおうのは砂塵――ダストだった。上空に巻き上げられたそれらが太陽エネルギーを吸収することで嵐はつぎつぎと巨大なものに成長していく……とはいえそれはあくまでシミュレートされた大気循環モデルを説明する仮説にすぎない。微細なディテールでいったい何が起きているかについてはほとんど何もわかっていないというのが現状なのだ。
「黄雲の発生のパターンは二〇〇一年の時のものによく似ている。今回は期待できそうだわ――もちろん、いつものとおり、ただの『ダストデビル』で終わる可能性も否定できないけれど」
 ダストデビルとはすぐに消えてしまう小規模な砂嵐だ。そうしたダストのつむじ風が惑星規模の大砂嵐へ発達するまさにその瞬間のデータを得る、という目的をもって飛翔探査機による観測を彼らはねばりづよくつづけてきたのだ。これまでのところその意気込みはめぼしい成果もなくダストデビルとともに空しく消えるのが常だった。しかし計画の中断に至らないかぎり彼らはこのさき幾度でもそれをくりかえすつもりだった。火星の大気中でいったいどんなメカニズムがあれだけ強大な擾乱をひきおこしているのか? ――それをつきとめることは、やがて遠い将来行われるであろう火星のテラフォーミング計画の成否の鍵をにぎってもいるのだ。
「ここ数日、慎重に推移を見守る必要があるわね。もしも全球規模の砂嵐の徴候があればすみやかに探査機を最適な観測ポイントに移動しなければなりません。幸運が味方すればあなたがたが上げるつぎの『ヴァルキリー』がおおいに役にたつでしょう」
「期待どおりだといいですがね。予期せぬトラブルがなければV号機は予定どおり投入できるはずです」
 その頼もしい返事を聞いてもなぜか晴れない女性ふたりの顔つきを見て技師は肩をすくめた。
「今度こそかならず決定的なデータがとれますよ」
 マーガレットが縮れた髪を編み込んだ頭を起こしてぎょろりと横目を送ってきた。
「予期せぬトラブルがなければ、でしょ……」
「なんです? なんか含みのある言い方ですね?」
「やっぱり忘れているようね、サム。もしこいつが大砂嵐の前兆だとしたら、ちょうどまずいタイミングであるイベントが起こるかも知れないわ」
「イベント?」
「……『食』よ」

*

 ほぼ真正面から太陽の光をあびてこうこうと輝く火星が『地平線』にかかっている。ダイモスはつねに同じ面を火星に向けているからその位置が動くことはない。つまり観測室の窓からいつでものぞけるわけなのだが、こうしていざ気密服に身をつつんで漆黒の星空を背景に眺めるといまさらながらその存在感に圧倒される。わきあがる唾を飲みくだしながらタケミヤはその光景をファインダーにおさめた。まちがいなく太陽系屈指の眺望だ。むろんフォボスからのそれのほうが数十倍迫力は増すだろうが、あまりにも近すぎるために地平線から天頂までの半分にとどくその全景はハンディカメラの最大広角でもとらえきれない。むしろドキュメンタリー画像としてはここからの眺めのほうがはるかに絵になるはずだった。
 しかし……これほどの至近距離から火星を眺められることになぜ自分はかすかなうしろめたさを感じているのだろうか? カメラのバッテリー残量を確認しながらタケミヤは心の片隅でその理由をさぐっていた。――けっきょくこれは冒険を夢見る子供心をときめかす眺めなのだ。だからこそ自分のなかの少年は目を丸くしてこの光景に見とれている。しかし本当にそれを見せてあげたい者ははるか遠く離れた別の場所にいるのだった。
「もうじきサムが扉を開くわよ」
 ヘルメットの中にイリーナの声が聞こえてタケミヤは短い内省から現実にひきもどされた。半分遮光パネルを下ろした観測室の中で額にバンドエイドを貼った彼女がさかんに合図を送っている。了解のしるしに片手をあげると過剰なモーメントに配慮しつつ彼はカメラをゆっくりとそちらにむけた。
 タケミヤがいま立っている場所からゆるやかな勾配で下る軌条がクレーター外壁のきり通しを抜けて銀白色に輝く気密扉まで続いている。組み立て格納庫自身はすっぽり土砂に埋まって外部からはそれとはわからない。格納庫だけでなく『クラウドキャッスル』基地は観測室をのぞいてそのほとんどが地下にあるのだ。
 ゆっくりと扉が外側に向かって花弁のように開きエアロックの内部におさまった降下カプセルの黒い鼻先があらわれた。気密服姿のサムがその脇をすりぬけてただよいでてくるとカプセルの台車の前にかがみこみ地上に置かれたケーブルの端のフックをとりつけはじめた。この世界ではその気になればカプセルと台車の重量をたした数十トンを人間一人が持ちあげることもできるだろう。しかしそれらを一定の距離ひきずるとなると話はまたべつだった。牽引力を発揮するにはまず大地を踏みしめなければならない。しかしおよそダイモスの上で何かを踏みしめるなどということは不可能なのだ。エアロックからカタパルトまでの勾配にそってカプセルを引き上げるために彼らは機械の力を借りるほかなかった。
 じれったくなるほどゆっくりと台車は動いていき、連絡船ランディングポートへの分岐点を過ぎ、十数分後にようやく電磁カタパルトのかたわらに到着した。バランスをとるためにカメラを身体に密着したもの入れに納め両手を自由にするとタケミヤはわずかにつけた反動から一飛びでサムのかたわらに移動した。
「――技師さん、カメラマンの手助けはいらないのかな?」
「手伝いたければ手伝うがいいさ、ヒデキ」
 バイザーの下から彼をじろりと見ながらサムは答えた。
「手伝うとも。ぼくがドキュメンタリー制作の特別講習を受けた宇宙飛行士であって、その逆ではないことをきみに証明しなきゃならないようなのでね」
「誰がそれを疑っていると言った? むしろ、そういうきみこそ自分自身を納得させたいんじゃないのか? ……しかしまあ、もうやめよう。先日のことは謝罪するつもりだ。おれが悪かったよ。あんたの仕事のやりかたにとやかく口をはさむつもりはなかったんだ」
「……気にしちゃいないさ。こちらが撮っている相手とぶつかりあうのもドキュメンタリー取材ではよくあることだからね」
 台車のとめ金を所定の位置にロックしながらタケミヤは言った。
「あれはあれでよかったというのか?」
「世間では宇宙飛行士というのは超人的に聡明で協調性のある連中だということになっている。その通りいっぺんの思い込みを覆すのもぼくらの仕事のうちさ。あのアクシデントではからずも、おれたちだってごくふつうの人間だ――ヘマもすれば口喧嘩もする、という衝撃的な事実を一般視聴者に伝えることができたわけだ」
「なるほどね」
「しかし、そうは言っても……正直、個々のケースになると迷うことばかりだよ。あんたがぼくに対して抱いている不満はそのまま自分自身の中途半端な立場へのうしろめたさでもあるんだ。まして突発的な危険事態がおこったときはたして自分はどう行動すべきなのか? ――たぶん銃弾が飛び交う最前線で兵士たちといっしょになって取材活動するジャーナリストもこんな気持ちなんだろうな」
「ふうん、あんたのやっていることの意味がなんとなくわかってきたよ」
 そうした『友好的な』やりとりで周波数帯を占領しながらふたりは一致協力して降下カプセルを電磁カタパルトにセットした。準備がすべて完了すると彼はふたたび撮影に最適なポイントまでジャンプし、カメラを構えると管制室のイリーナを呼び出した。
「オーケー、ふたりとも規定の距離までさがった。射出のカウントダウンをはじめてもらってけっこうだ」
「ようやくおわったわね――了解。『ヴァルキリーV』の投入シークェンスを開始します。……三、二、一……リフトオフ!」
 およそ『リフトオフ』とはかけ離れた光景だった。カプセルはエンジンノズルを先におもむろに動きだし、心配になるほど緩慢な加速とともに三十メートルの軌条の端まで達し、そして虚空のなかに投げ出された。
 数十秒のちにはそれは赤い惑星が浮かぶ『地平線』の下に消えていきタケミヤはなにやら頼りない思いで撮影をとめた。たとえそう感じられなくともカプセルが『リフトオフ』されたことはまちがいない。ダイモスの脱出速度は秒速わずか六メートルにすぎないのだ。
「うまくはばたくんだぞ! ひな鳥ちゃん」タケミヤのヘルメットのなかにサムのつぶやく声が聞こえた。
 以後は低出力かつ高効率のアポジモーターがきちんと仕上げをしてくれるはずだ。それは衛星の軌道速度を打ち消してカプセルを火星大気圏への突入軌道へ自動的に送り込んでくれるだろう。しかしいまここでタケミヤたちにできるのは突入カプセルをダイモスの重力圏から送りだすことだけであり、そしてその作業は夜空に輝く惑星に探査機を飛ばすというよりはむしろ故障して道を塞いだ車両を崖からつきおとす感覚により近かった。
 そうして沈黙のなかでしばらく火星をながめた後、ふと思い出したようにサムは言った。
「……頼みがあるんだ。カメラマン、こいつでおれを写してくれないか?」
 技師がもの入れから取り出したのは宇宙服の内ばりに使われるアルミ蒸着マイラーの小さな包みだった。見ると一方の端の穴からレンズがのぞいている。どうやら市販のデジタルカメラを手製の耐真空ケースに納めたものらしい。
「気密グローブでシャッターが押せるように工夫してある。そのうちリタイアしたら宇宙旅行のためのデジカメグッズとして商品化するつもりなのさ」
「ふふん? 飛ぶように売れるだろうな。あと百年もすればだが……」
「わからないぞ。ファッションアイテムとして若者にうければたちまちひと財産だ。なんだって早い者勝ちさ――なるべく身体で影をつくるようにしてくれ。大事な試作品を微小隕石で壊されちゃかなわんからな」
「ぼくは遮蔽シールドか?」
「うまく撮ってくれよな。火星を背景にして絵になる構図で――」
「だれに向かって言ってるつもりだ?」
 そう言いながらもタケミヤはサムの姿をその小さなカメラにおさめてやった。
「すまんな、子供の誕生日にメールに添付して送ってやろうと思ってね」
 大切そうにそれをしまい込みながらサムは弁解めいた口調で言った。
「男の子がいたっけな? 幾つになる?」
「息子もいるが今回は長女のほうだ。明後日で七歳さ」
「七つか。目に入れても痛くないって顔だな」
「まあね。しかしときどき母親にそっくりななまいきな口をききやがる。――ヒデキ、あんたにも子供はいるだろう?」
「ああ……」かれの返事はあまり弾まなかった。
「どうした? なにか心配ごとでも?」
「いや、べつに。息子は五才になるよ。訓練のため日本を出てからもう三年も会っていないけどね」
「それは誰もおなじさ。幸いおれの家族は基地の近くに住んでいるが、それでも子供たちには二年前におやすみのキスをしたのが最後だ。女房にだってずいぶん心配や苦労をかけてるはずだ」
「宇宙飛行士である以上、家族にある程度の負担をかけることはしかたないと自分を納得させるんだが……」
 かれはフェイスプレートごしにサムの目を見ていった。
「この計画に志願する以外の選択肢もあったことも事実だ。ごまかすべきじゃないと思う。これは自分自身のために選びとった生き方で、妻や子供の人生とはなんの関係もないんだ。父親が何億キロも離れた単身赴任先に赴いていて学校の行事やサマーバケーションにつき合ってやれないことを家族に納得しろと強制するわけにはいかないだろうな」
「まあ、そのとおりかも知れないが――。しかしこんな間近に火星を見るチャンスを他の者に譲って投げだせたと思うか? 考えてみろよ。地球に住む百億の人間のなかでここダイモスのダストを踏める者がいったい何人いる?」
「たしかにそうだな。でも――ときどき死んだ親父のことを思い出すんだ。今世紀初めの不況で働いていた工場が閉鎖されたとき、親父は遠隔地の子会社に再雇用される道を選ぶこともできた。しかし自分の息子の成長を間近に見たいと言って父は地元の町工場に就職するほうを選んだんだ。おかげで収入は半減しておふくろは大変だったろうし、おれはおれで大学を出るのにひどく苦労もしたんだが――でも、その決断のおかげで毎日夕方に帰ってくる父親に玄関で抱き上げてもらえたよ」
 タケミヤのグローブをはめた手が無意識にあごに触れようとして持ち上がりフェイスプレートにはばまれた。そのときの父親の頬のうっすらとのびたヒゲの痛さとくすぐったさに身もだえして笑った遠い日の記憶がよみがえっていた。彼の息子はあの感覚をたぶん一生味わうことがないだろう……。

*

 技師の願いが天に通じたのかパラシュートを切り離した『ヴァルキリーV』は無事に翼を展開し火星の空のもと飛行を開始した。『クラウドキャッスル』からのマイクロウェーブが翼上に並ぶ整流アンテナを通じ電力に変えられ、蓄電池に充電をおこない、双発モーターを駆動する。中継用成層圏プラットホームのノウハウを生かして設計された高推進力プロペラは地球で言えば高度三十五キロに匹敵する低い気圧のなかでも効率よく作動した。単純だが信頼性の高いこうしたメカニズムは浮遊するおびただしいダストを含む環境中でも長期間の耐久性が期待できるのだ。
「ほら、ちょうどいまキャンベル大佐たちのランディングポイントの上を通過しているわ」
 イリーナの声に観測室にいた全員が飛翔探査機からのカメラ映像を映し出しているモニター画面に注目した。赤い砂になかば埋もれて小さく着陸船の台座、観測機材、そして空しく乗り捨てられた探査用バギーがかすかに認められた。
「なんかもの悲しい光景ね。まだ二年もたっていないのにすでに遺跡って感じ」
「この星では人のつくり出すものの寿命がいかに短いかってことかしらね」
 他の天体に人間を送り込み、住まわせ、無事連れ戻す――それらがあまりにも莫大な費用を飲みつくす一方で、人工知能とロボット工学のめざましい発達が一度だけの有人火星探査をすでに過去のものにしつつあった。とはいえその数々の探査計画の歴史を通じてこの砂の惑星の地表におりたったロボットたちはすべて数カ月以内に通信途絶してしまうのが常だった。静電気を帯びた微細な粉塵は電気回路をショートさせ歯車やモーターの軸受に侵入し摩滅させる。くわえて大気中にただようそれらが降着するために太陽電池の出力がわずか三日で一パーセントもの割合でダウンしてしまうのだ。
 バギータイプのかわりにダストの影響の比較的少ない上空を移動する飛行船型探査機が考案されたが、それでもやはり電力が最大のネックとなった。ボイジャーやカッシーニに搭載されたように原子力電池はひとつの解答だが、生命体の発見すら期待される未知の環境を放射能汚染の危険にさらすわけにはいかない。マイクロウェーブによる電力供給が試みられるのはある意味必然だった。しかも火星にはその目的にちょうどおあつらえむきの衛星がある。ただし近いほうのフォボスは軌道が低すぎるので高緯度地帯にむけての送電に問題があった。たいしてダイモスはより外側の軌道をゆっくりと公転することで火星上のほとんどの地点と四十時間近いコンタクトをとることが可能であり、また重力井戸の高い位置にあるので機材と人員の輸送コストが節約できる利点があった。そうして『アスガード計画』がスタートし、『クラウドキャッスル』が建設され、一年前から五人の常駐スタッフが地球を離れてそこで暮らしはじめることとなったのだ。
「対地風速は?」
 マーガレットの質問にイリーナが答えた。
「時速七十二キロ。全機もう少し西に移動させたほうがよさそうね。まだ強くなりそうだわ」
「二キロぐらい風下に動かしましょう。ただそれ以上離してしまうとこんどは嵐の発生現場を押さえられなくなります」
 砂嵐のなかでは時として時速二百五十キロ近い強風が吹き荒れる。地球の百分の一の希薄さとは言えそんな風に巻き込まれたらいくら頑丈に作られた飛翔探査機もひとたまりもない。強風を避けて嵐の周辺を飛行しながらその発達の様子をタイミングよくモニターしつづけるためには慎重な操作とともに機敏な動きが不可欠なのだ。そのためにも『ヴァルキリー』たちへの十分なパワー供給が欠かせなかったのだが――。
「……どうやら、本格的な嵐になりそうな予感がするわ。まさに絶好の機会ね。できたらもう何日かズレていてくれたらよかったのだけど……」マーガレットがぼやいた。
 ダイモスとフォボスというふたつの衛星は謎めいていると言えるほど規則正しい軌道を描いていた。ほぼ惑星の赤道平面上、真円にかぎりなく近い。そして火星の自転軸は黄道面にたいして二二・五度傾いている。したがってダイモスは一火星年に二度、食を経験することになる。――太陽から見ればそれは火星の背後に隠れ、衛星上にいるタケミヤたちにとっては太陽のほうが火星によって遮られる。つまり基地の電力をすべてまかなっている太陽電池パネルがほんの小一時間ほどであるが完全に機能しなくなるのだ。
 もちろん予備電力としてバッテリーが用意されているから基地の生命維持システムがダウンすることはない。しかし豊富な太陽エネルギーの恵みなしには複数の探査機をすみやかに移動させることは難しい。最悪の場合嵐に巻き込まれて貴重な探査機を失うことになりかねなかった。
「ノアキス地方に三機のヴァルキリーを別々の高度で待機させたいところだがな」
「残念ながらとても無理なようです、博士。ヴァルキリーIIは風を正面から受けるために速度をあげられませんし、Vは横風にあおられてともすれば安定を失い失速しそうです。両機ともいまようやくパンドラ海峡の南にさしかかったばかりですが、あと十二分でダイモスは火星の影に入りますし、そうなったら探査機たちの推進力も大幅にダウンするのは避けられません」
「サム、探査機のバッテリーで全速を出せる時間はどのぐらいだっけ?」
「せいぜいもって十分。ただそれをやるとバッテリーが上がって墜落しますよ。五十分もたせるつもりなら最低の出力で巡行するよりないですね」
「それじゃ風にさからっての移動はできんな」
「なんてことなの。いちばん大事な時だっていうのに!」
「なにか節約できるものはないかな?」
 タケミヤの言葉に全員がモニター画面からふりむいた。
「つまり……『クラウドキャッスル』の使っていないぶんの余分な電力をふりむければ探査機たちの推進力を少しはあげられるんじゃないだろうか? この際、できることはすべてやってみるべきだと思うんだ。何カ月もねばってようやくめぐってきたチャンスをここでみすみすのがすわけにはいかないよ」
 沈黙のうちに見つめあったあとイリーナとサムがそれぞれの端末をふりむいてキーボードを猛烈な速度で叩きはじめた。
「……待機電圧……システム……送信出力……」
 画面の計算結果を見ながらサムが答えた。
「仮にすべての電力をカットすればマイクロウェーブの出力を五十パーセント落すだけですみます」
「でもコンピューターへの電圧を落とすわけにはいかないわ。もし処理プロセスが停止したらせっかく収集したデータが雲散霧消してしまうでしょう」
「いま使っている情報処理プロセスには手を触れずに止められるものだけ止めましょうよ。たとえば……地球へのリアルタイムの送信はしばらく停止して――」
「不要な区画の照明、暖房……冷凍食料倉庫のコンプレッサー……水耕菜園のポンプと照明と換気……水循環システム……」
「生命維持システムは?」
「まさか……」
「やるならとことんやらないと。暖房と循環システムとベンチレーション、二酸化炭素除去装置を止めればかなりうきますよ――そのほかあれこれかき集めればたぶん通常の三分の一程度の出力は確保できます」
「それだけもらえればなんとかなるわ」
「食が続くのが五十分。前後の出力ダウンの時間をいれて合計五十五分。そのぐらいならたとえベンチレーションを停めても二酸化炭素濃度は危険レベルまでは上がらないだろう」
「ここは基地内でいちばん高いし――むしろ暖房のほうが問題かも。観測区画は外壁を宇宙空間に露出しているからかなり冷え込むはずよ」
「耐え切れないようなら居住区画に逃げ込むさ」
「博士はどうぞ。わたしは持ち場を離れられない。ヴァルキリーへの指示があります」
「じゃ、わたしが抱いてあたためてやろう」
「博士はサムかヒデキかお好きなほうを、女は女同士で助け合うわ」
 マーガレットの言葉が合図でもあったかのように全員が立ち上がった。女性ふたりはシステム管理画面を呼び出すとメインシステムの下にあるいくつものサブシステムの電源をつぎつぎに切りはじめた。サムとタケミヤはそれぞれペンライトを手に手動でのみカットできる基本システムをダウンさせるべく各区画のブレーカーパネルをめざした。
「ここは非常灯だけつけておこう。まっ暗闇ではキーボード操作に支障がでるからね」
「了解――格納庫内A列、B列、C列。一号、二号、三号通路照明ダウン。居住区画、観測区画暖房、ダウン。全区画ベンチレーション及び生命維持システム……ダウン。ふう、万一これがあとで立ち上がらないなんてことになったらわたしたちおわりね」
「そんなときには気密服が使えないかね? マギー?」
「三分の一気圧酸素に順応するのに最低半日はかかります。そのころまでには窒息しているか凍え死んでいることでしょう」
「まあ、やっちまった以上しかたあるまい。みんなせいぜい厚着をしてくれ」
 厚着といってもあるのはトレーニング用スウェットスーツぐらいだが、それでも全員がふだん着用している半袖シャツにショーツよりはましだった。暖房を切った観測室内の温度は急速に低下しはじめていたのだ。
 しかしぎりぎりまでカットしてしぼりだした電力のおかげでイリーナとマーガレットは探査機たちを最適のタイミングで大規模砂嵐のまさに巻き起ころうとする最前線に送り込むことに成功した。室内にならぶモニターの中では風速、風向、気圧、気温、ダスト濃度の数値が絶えまなく飛び跳ね、直径三キロ高さ十キロにおよぶプリューム(上昇気団)をシミュレートしたCGモデルをつらぬいてベクトルの矢印が目まぐるしく流れた。ウッズマン博士が画面を切り替えると回転する三次元座標空間のなかでつぎつぎに生み出される無数の点が位相曲線のポアンカレ写像を点描していた。博士は満足そうにそれに見入った。これらが描き出すイメージが示しているものは南極冠のドライアイスが昇華することで生じた大気密度のかたよりが熱潮汐風と結びついて強烈な上昇気流の渦――大規模砂嵐に転じるプロセスの数理モデルであり、惑星大気が多層的に形成する散逸構造の中にそれらの連鎖的生成に関与する自己回帰的な流体方程式の解――ストレンジ・アトラクターが存在するという動かぬ証拠だった。
 ようやくキーボードから両手を離す余裕ができてマーガレットは満足げなため息とともにかじかんだ両手をこすりあわせた。
「いけない。電源を切るまえに窓の遮光パネルを全部下ろしておくべきだったわ。内部からの熱放射をかなりふせげただろうに」
「まあ初めての経験だからうっかりすることもある。次は忘れないようにしようじゃないか」
 白い息をはずませながらウッズマン博士が機嫌よく言った。
「冗談じゃない。まさか日食のつづく間毎日こいつをやるわけじゃないでしょうね?」
「もちろんジェット推進研究所の石頭どもを論破できるだけのデータがあつまればやめるがね」
 室温はますますさがりつづけ、タケミヤはカメラをかまえながら脚と腕のこきざみな震えをとめるのに苦労した。ウッズマン博士は背をまるめ胸の前で組んだ両腕に顎を埋めるばかりにし、サムは五分おきに両手の指に息をふきかけていた。マーガレットはたえまなく二の腕をさすりあげていたが、ついに隣でただ一人平然としているイリーナの背を激しくこすって叫んだ。
「よく平気ね、イリーナ。あなた寒くないの?」
「揺らさないでよ。マギー。わたしの国ではこの程度じゃ温かい晩秋の一日よ」
「うう、信じられない。わたしはまじで凍え死にそうだわ」
「諸君、がんばりたまえ。もうすこしの辛抱だ――ごらん、真上の空がぼんやり薄明るくなってきている」
 照明を落とした観測室のなかでタケミヤにもそれがはっきり感じられた。
「ほんとうだ。淡いピンク色の霞が見える……真空中なのに。どういうわけです? 博士?」
「厳密に言えば外は真空じゃないんだ。あれはダイモスの軌道上にひろがるダストリングだよ。火星大気からもれでたダストが太陽の光を散乱して輝いて見えるんだ。つまり……まもなくわれわれは火星の影からでられるということさ」
 そう言いつつウッズマン博士が両手をさすりながらこちらに近づいてくる姿にタケミヤはいやな予感を覚えた。不幸にもそれは適中し、一瞬の後には彼は博士の熊のような抱擁にとらわれてしまっていた。
「ひやっ! いてて……、博士、もうすこしお手柔らかに、お鬚がちくちくします!」
「きみの鬚もちくちくしているぞ。おたがいもう少し顔を背けることにしようじゃないか」
 父親のような相手と抱き合って身体を擦りあうのは不愉快どころか、むしろ心休まる経験だった。しかし一分ほどでタケミヤはきりあげてカメラをさしあげながらいった。
「こいつを撮らない手はないな。わたしはもうけっこうですから、どうぞつぎはサムをやってあげてください!」
 すこしうろたえぎみに、自分におどろきながら彼は身をひいた。涙をうかべてウッズマンに強く抱きつきたいという不意の衝動にかられたのだった。

*

 赤い平原が眼下にひろがっていた。一見して平らなテーブルのようだが、よく目をこらすと細かいディテールが褐色の淡いコントラストとともに見えてくる。まるで老人の皮膚に刻まれた細かい皺のような地形が地表を覆うダストのベールの底に沈んでいるのだ。ノクティス・ラビリンタス――『夜の迷宮』と呼ばれる断層と無数の谷の連なるあみ目。古代の火星に水が存在したことを物語る浸食地形だった。
 カメラの目は高度を下げ、広大なシリア平野の上空にぽっかり浮かぶ葉巻き型の物体にぐんぐん近づいていく。NASAの広報でよく見かけるCGではない。これはヴァルキリーIVから送られてきた実写映像なのだ。
 飛翔機が旋回するにつれ画面は飛行船――電波中継プラットホームを中心に三六〇度をぐるりとパンする。バタースカッチ色の空を背景に大地にへばりついたようなアスクリス山、パボニス山、アルシア山が順々に現れる。それぞれ高さ二十キロにせまる巨大な盾状火山だ。それらをさらに五千メートル以上凌駕する太陽系最大の火山、オリンポスは残念ながらこの高度からでも地平線に隠れて見えなかった。最後にカメラが後方にまわりこむと、ようやく飛行船の前方に長大なマリネリス渓谷が見えてきた。幅五百キロから千キロ、高さ五千メートルにおよぶ複合渓谷がえんえん四千キロも途切れることなく続く、火星でもっとも名高く印象深い景観だ。
「すっかり砂嵐はおさまったな、ヒデキ」
 いつのまにか観測室に入ってきたウッズマン博士が背後からモニター編集画面を覗き込むようにして言った。
「美しい眺めだ。きみの送る映像は地球でも評判がいいようだぞ」
「ほんとうですか? ――だったらうれしいですけれど」
「ほんとうだとも、見てみたまえ」
 博士は手にしたプリントアウトをタケミヤに手渡した。
「これは?」
「きみの送ったドキュメンタリー用の画像データを利用したちょっとしたプロモーションだ。これのおかげで窮地を脱したと局長はえらく喜んでいたよ。ぜひきみによろしく伝えてほしいとのことだ」
 タケミヤは地球から送られてきたその写真をながめた。ネット配信されたものらしい。画面を縦にふたつに割り、むかって左半分には観測室のなかでたがいに身体をマッサージしあうサムとウッズマン博士の姿が写っている。そして残りの半分にははるか昔、ハリウッド映画産業がまだ健在だったころのいわゆる『ビッグ・ムービーズ』からの一場面。――往年のトム・ハンクス扮するラベル船長が発熱で震えるヘイズ宇宙飛行士を抱きかかえながらけんめいに背中をさすっているシーン……。
「いったいなんです? こいつは?」
「それが世論と、そして歳出委員会の委員たちの心をうごかしたのさ。とぼしい予算のなか、ぎりぎりの条件のなかで必死でがんばる火星探査スタッフたち――その姿が『アポロ13』の偉大な失敗の記憶とともにワールドワイドウェブに流されて全世界の人々、そしてわが国民の心を打ったわけだな」
「うーむ」タケミヤはうなった。
「あんまりできすぎですね。ウッズマン博士、まさかあなたはそもそものはじめからこいつを狙っていたんじゃないでしょうね?」
「おいおい、わたしはそんな策謀家じゃないよ。すべては映像を見たブルームフィールドの思いつきさ……それときみときみのカメラのおかげというわけだ」
 ねぎらうように彼の肩を二、三度叩くと博士はでていった。タケミヤはため息をひとつつき、頭をふりながら苦笑をうかべるとふたたびモニター画面に注意をうつした。
 ヴァルキリーIVのカメラは飛行船を画面の中央にシルエットとしてとらえながら背後におきざりにしつつあった。しだいに明るさを失っていく黄色い空のなかで小さな太陽は地平線近くにかたむき、弱々しく、しかしそれでもダストに散乱されることなく抜けてくるあわく青い光を荒涼とした赤い大地のうえになげかけていた。

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