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書庫の王

高本淳

 

 夕暮れに目を覚ました。雪が降っている。腕から背中まで寒さで痺れたようになっていて、俺は積み重なった毛布を身体のまわりに巻きつけ大きく深呼吸を繰り返して体温を上げようとした。雪は砕けたガラス窓から舞い込んでは腐敗した厚い絨毯に落ちる。シーツの隙間からその不明瞭な着地を幾十と数えて、それでも少しも暖かくはならないと悟った俺は毛布を跳ね除けて冷えきった部屋のなかに起き上がった。
 凍えた指で煙草に火をつけ崩れかけたツインルームの床をせわしなく歩く。直人と玲子は抱き合ったまま目を覚ます気配もない。身体を擦り寄せていれば少しは暖かいのだろうか。青ざめた残照のなか二人は少年と少女の寝顔で眠っている。軽く咳こみながらベッドを離れ俺は窓辺で震えながら雪降る街に眺めいった。
 部屋は街の中心に臨んでいて高層ビルたちが手の届きそうな近さで聳え立っている。それらは官公庁やビジネスセンターやこの建物と同じ高級ホテルだったはずだ。だが今すべての建物は放棄され年月を経たあげくゆっくりと朽ちつつあった。
 街の名は知らない。どれほどの昔それが人々とともに活きていたのか、本当にそんな時代があったのかすら俺は知らない。この街は背景にすぎないのだ。世界に充填する微細な機械たちの描く物語の精巧な舞台装置なのだ。
 それでも寒さは両手を痺れさせ、膀胱は満ち、空腹は階下の調理室へ降りていって錆びた缶詰を捜しだすという面倒な仕事を促す。そしてたとえ身体に潜む奴等の作り出したものであってもそれらは間違いなく現実の要求だった。煙草を指先で丁寧に揉み消しいとおしげにシガレットケースにもどした俺は穏やかに眠るふたりを残したままそっと暗い廊下へ忍び出た。

「あんたは親父というわけじゃないんだぜ」

 玲子に携帯コンロで暖めた缶詰を手わたしながら直人は言った。

「確かに食わせてもらったし戦い方も教えてもらった。でも……」

 曇った銀色のフォークを女に差し出しながら微かにためらった。台詞の無言の続きが俺には聞こえるような気がした。この玲子という女は俺たちが長い年月とともに経験した数えきれないほどの血みどろの闘いや身をすり減らす労苦、そして片手の指でわずかに数えるほどのたまさかの安寧を知っているのだろうか? たぶん何一つ知りはしないだろう。
「ともかくこれが終わったら玲子と出ていくつもりだ」
「どこへ行く? どうやって生きていく? 物語がそれを許さんだろうよ」
「物語なんて糞くらえだ!」直人は握り潰した紙コップを壁に叩き付けた。

「機械たちに何が出来る? 俺は自分がやりたいように生きてやるさ」
「それはどうかな?」

 俺は虚空を見つめつつ口を動かしている玲子の横顔を見つめながら言った。

「めしいた女を連れてこの世界で生きるのは難しいぞ。もっとも……」

 暗い笑顔になった。「指輪を手にいれるのはもっと難しいだろうがな」
 直人も笑う。若々しい笑いだ。

「手に入れてやるさ」
「本当に彼女が話しているとおりだと思うのか?」
「玲子を疑ってるのか?」厳しい目つきで直人は尋ね俺はゆっくり首をふる。だが若者はおさまらない。乱暴に女の肩をゆすり耳のそばで脅すように叫んだ。

「言ってきかせてやれ。玲子!」

「兄は間違いなく行って帰ってきた……なぜならその背に刺さった矢羽は奴のものだから」

 いつものとおり、まるで意味のない台詞を暗唱するような口調で玲子はつぶやく。

「本当に案内できるのか? ……兄さんが死んだ場所まで」
 彼女は見えない瞳を宙にさまよわせつつ答えた。
「この手で辿った記憶は消えない。……恨みもまた」
「あるいは言葉も、だろ?」
「おまえなら『王』を倒せた……最後に兄はそう言った」

 すでに何十回となく聞いた話のしめくくりを俺は女のかわりにしてやった。

「そして、何をそれで意味したかったのかはわからない――そういうことだな?」

 何を意味したかったのか? がらんとした闇の白い底にうずくまって俺は呟いた。

 直人、もうおまえは自分の道を歩いていくがいい。俺だっておまえ同様この先何も見えやしないんだ。

 しかしそれでも生き続けるために進まなきゃな――。

 ひとつ確かなことがある。『書庫の王』がどんな力をもっているにせよ、所詮はひとりの男だ。そして知られている限り今まで奴の聖域に同時にふたりの挑戦者が踏み込んだことはない。そうともどんな物語にだって終わりはくるはずだ――。
 突然甲高い夜鳥の鳴き声がしじまを切り裂いた。合図だ。俺はゆっくり立ち上がると前方のかがり火に向かって歩きはじめた。
「勝也だ。夜に来るよう言われて出直してきた」
 立ち止まりそう告げると聖域を守るサイバー教徒たちが無言のうちにいっせいに立ち上がった。その場のリーダーらしい大柄な一人が無表情なまま口をひらく。

「物語から脱落する覚悟は?」
 男たちは人種も服装も様々。唯一左耳に光る集積回路のピアスが教団の目印だ。
「宣誓したように『追憶の指輪』と『朔望の頭巾』を求め生命をかけてゲームに挑むつもりだ」
「結構、おまえの運命はおまえのもの。ただし一度にひとり。それが決まりだ」
「承知している。これが挑戦の代価だ」俺は砂金の袋をふたつ足許に落とした。

「十分だと思うが?」……だがさらにシガレットケースとオイルライターをその上に重ねなければならかった。オイルライターもだ……まあいい、『王』を倒せば取り返すことはできる。また倒せなければもう用はない。

 男たちが夜の中を二列に並んで道を作って待つ。そこをゆっくり通り抜けた。ひとりひとりの顔を目に焼きつけるようにして。

 ファサードを通過するとロビー。右手に低いカウンター。左手は階段。つきあたりに開いた戸口から薄明りが差し込んでいる。ためらわず奥へ向かった。
 発電設備が活きているらしく床に設置された非常灯に仄暗く照らしだされた空間は周囲のすべて壁が書物の背表紙で埋まり、さらに大人の背丈より高い書棚が規則正しく床を埋めている。広大な開架式図書室……『書庫の王』の名のゆえんだ。
 そうして部屋を見回すうちに俺は突然凍りついた。何のまえぶれもなく視野に異常が生じたのだ。身体の両側に書棚が幻のように立ち上がって左右に揺れながら背後に流れていく。数秒後その奇妙な光景は消えて俺はもとのように戸口を背にナイフを構えて立ち尽くしていた。
 ……一体いまのは何だ?
「コックニーの王国をイグドラシルの枝や葉で埋め尽くす……トマス・カーライルの言葉だそうだ」
 どこかに隠されたスピーカーを通じて不意に平板な声がひびきわたった。思わず身を伏せ呪詛の台詞を呟いてしまう。
「ロンドン図書館創立にあたって彼はそこに納められるべき知識の体系を北欧神話の世界樹にたとえた。デューイの十進分類が象徴するそれは樹木型の知識だ。その枝は国と時代を越えて張り巡らされ、その葉を作りあげている繊維のひとつひとつが人間の行ないであり言葉だ」
 声は書棚の間で微妙に反響しその主の居場所は判別できなかった。
「あるいは論理式の樹木構造……論理プログラミングの探索木」
 ……俺がいることをすでに知ってる。やはり何かの探知装置があるってことか?
 たとえそうでも考えなしに居場所をこちらから知らせるのは愚だ。逃げだすかわりに『書誌学』の棚の前にぴたりと伏せ気配をうかがうことにした。
「機械たちはそうした樹木によって世界を管理しようとする。だがその支配は空虚なものでしかないことに奴等は気づいている。機械はあらかじめそこに茂っている葉によって対象を覆うことしかできない。だが言葉の意味とは見間違うほどよく似たふたつの葉の間の空間にあるのだ」
 ふたたび唐突にイメージが襲いかかって来た。『オセアニア史』と『両極地方史』の書棚が迫り横に流れるとその奥に身を低くして屈み込んでいるひとりの男。妙に見覚えのある横顔を見れば何とそれは俺自身!

 つぎの瞬間視力は回復し同時に矢羽の音が闇を切り裂く。身を縮めた。毒矢は『紀行』の方向から飛来し『図書館学』の棚と身体を掠めて『大英百科事典第14巻』にぴしり突き立つ。跳ね飛ぶように『ジャーナリズム』の背後に滑り込み薄闇をすかしてみるものの低い明りは書棚の後ろに無数の陰を作って射手の姿は見えない。
「“cat”が“cat”であるのはそれが“cap”でも“hat”でもないから……“map”が“map”であるのはそれが“cap”でも“mat”でもないから……」
 歯噛みする。明らかに敵はこちらの位置を正確に知っている。しかしこちらには相手の居場所がまったくつかめない。狙い撃ちだった。ようやく俺にも先に入った者たちの運命が想像できた。
「枝と葉によって編まれた黄金のリース。そのボロメオの結び目の中心にこそすべての意味の源がある」
 ……この延々続くたわごとは何のつもりだ? 侵入者を幻惑し居たたまれなくさせるための心理戦術か?

 ふたたび並んだ書物たちの幻……『バウハウス1919-1933』、『善悪の彼岸』、『神の裁きと決別するために』……。幻惑されないよう目を閉じても無駄だった。映像は網膜に……というより脳そのものに直接送り込まれてくるのだ。不意に視覚が戻ったかと思うと同時に『神話学』を通過した矢が『野性の思考』に真正面から命中する。背表紙の三色菫の上で矢羽が震え、たまらず床に伏し次の矢がはずれることを祈る。
「父も母も欲望も身体も持たぬ奴等にとって宇宙は無限後退する差異の混沌から成りたっているのだ。そして差異そのものは本来明確なかたちの対象として認識することも理解することもできない」
 だが撃たれなかった。こちらの生命をもてあそんでいるのか。あるいはわけのわからぬ御託を全部聞かせるまでは殺さないでおくつもりだろうか?
 ともあれ身を低くし『文化人類学』、『宗教学』を横目に『東洋哲学』までみじめに後退する。
「それゆえ機械はわれわれ人間を……その物語を必要としている。われわれの物語が指し示す虚無。その内側にこそ奴等が世界を知り始めるための不動点がある」
 視力が何か不可思議な手段で混乱させられていた。書物たちの棚の列が虚と実双方に絶え間なくたち現われて幻惑する。ほとんど動くことすらできない。つまりこれが『朔望の頭巾』の魔力なのか?
「そうして機械たちは舞台を整え、ふさわしい登場人物を填め込み、同時に観客をも用意した」
 矢をつがえ奴自身密かに書棚の間を移動しているはずだ。だがどうやってこちらの位置をあれほど正確に知ることができるのだ?
「物語に填め込まれ、弄ばれ、しかし自らが何者であるかを知るために物語を了解しようとするわれわれ人間をだ」
 『地誌』、『芸術』、『文学』を四つん這いで前進し『言語学』を背にして覚悟をきめる。すべてがゲームの様相を呈してきていた。『朔望』の謎を解くか、さもなければ死という遊戯。……この『王』の絶え間ないお喋りにもおそらく大きな意味があるのかもしれない。それは自分自身の謎を解く手掛かりを与えているのだ。
「だからこそ物語はその内部につねに揺らぎを持つ。命ある存在として登場人物自らが筋書きをねじ曲げて産み出す逸脱。さらに樹木状知識が崩れ各自の偶然的経験に照らしての読み以外の根拠が失われたために生じる意味のずれ動き」
 弦のはぜる音! 矢羽の唸り! からくも倒した上体をかすって鏃は『ドイツ・イデオロギー』を打つ。俺はあえいだ。
「物語……なんと愛おしい! その主題も結末もつねに揺れ動いて機械たちは繰り返し繰り返しそれらを限り無く生成するほかない。われわれもまた幾度も消滅し再生され続ける」
 つっぷしたままの姿勢で手が触れた本を半ばやけくそで引き抜いた。戯言をほざいてろ……俺はいつ喉を射ぬかれるかだけ知りたいんだ。
「ただ一人『追憶の指輪』を持つ者だけが複数の物語を通じ意識の自己同一性を保つことができる。彼はこの変転する世界にあって仮そめの不滅性を付与されている」
 『図書館の天使』に祈りつつ見ればそれは大辞典。静かにページを繰って『朔望』の項をひく……太陰月一日と十五日がその意……つまり新月と満月。見えないものと見えるもの。そしてやはり二の矢は飛来しない。
 ……さきほどと同じ。こちらの視野が塞がれているとき矢は飛ばない。

 

 気がつくと矢羽の唸りが遠くで盛んに聞こえていた。まるで見当違いの方角だ。そして圧し殺した若者の叫び声も。どうやら直人が抜け道からの侵入に成功したのだろう。奴は二人を相手にしなければならなくなったわけだ。……だが俺たちの作戦は失敗に終わったようだ。この部屋にすべてを見通す視点などない。にもかかわらず奴は直人の侵入を直ちに知ることができた。ということは……?
 あの無意味な反復が思い出された。“cat”が“cat”であるのはそれが“cap”でも“hat”でもないから……“map”が“map”であるのはそれが“cap”でも“mat”でもないから……。
 こういうことか? もし『見る』という基本的行為のなかでも自分自身の存在の仕方につねに別の存在がかかわってくるとしたら? 自分自身を見るために他人の目を必要とするような状況が仮りにあるとしたら? それこそが秘密なのかも知れない。つまり『朔望の頭巾』が持つのはあるいは他人と自在に視野を交換できる力?
 あわただしく書棚をよじ登り俺は天井との隙間から黒々と書棚の列が並ぶ薄暗い書庫を見渡す。直人も『王』も姿を見ることはできない……だが声を限りに俺は叫んだ。
「直人、目を閉じろ。おそらく奴は俺たちの目を通じて見ている。だから……げふっ!」
 最後のは間一髪飛来した矢をかわし棚からころげ落ちたため。たぶん直人にも伝わったはずだ。これこそ謎の答えに違いない。登場人物としての勘、ってやつがそう教えている。だが……俺は書棚の間をあわただしく這いずりまわりながら冷静になって考えた。それがわかったとしても一体どうやって奴と戦う? 手探りで迷路を辿る盲目の男ふたりに弓矢を構えた敵。しかも地の利はあきらかに相手にあるのだ……。

 やむなくそうして目を閉じて書物の間を必死に逃げ回っているうちに突然恐ろしい苦痛の叫びが俺を凍りつかせた。誰かが床にぶっ倒れる音。直人か? あいつがやられたのか?
 すると今度は俺が物語から転げ落ちる番か? つぎに来るものをおののきつつ待った。
 だがやがてまったく予期していなかった声が部屋の片隅から聞こえたのだ。
「もう出て来ても大丈夫。『書庫の王』はここに倒れてる」
 玲子だった。

 

 書庫にはふさわしくないおびただしい血潮のなかに『王』は倒れていた。逞しい初老の男。複雑な突起をもつ王冠にも似た『頭巾』がその顔を半ば覆っている。
「なるほど物語はずれうごく。ブリュンヒルデが大蛇ハフナーを倒してしまったわけだ」
 彼は呟くように言った。
「おめでとう。それで一体どちらがジークフリートなんだね?」
 俺と直人は互いの顔を見つめ、玲子は書庫を模した隠し扉の前に立っていた。
「奴はここから天井裏にあがろうとしていた。通気口で待ち構えて下を行く相手をしとめれば確実だから」
「このことをあんたは?」
「兄もあなたがたと同じことをし、そして背を射抜かれた。わたしはその脇で――なすすべなくすべてを“聴いて”いた」

「俺たちをだましていたのか――?」

 怒りに震える直人を制して俺は尋ねた。
「なぜ言わなかった? そうすれば……」
「そうすれば復讐を遂げる機会を失ったでしょう。『朔望の頭巾』に守られた者にとって唯一の盲点はわたし自身なのだから」
そのとおりだった。囮となった俺と直人を仕留めるため隠し扉を開けようとした奴はじっとこの場所に潜んでいた玲子のナイフを背に受けたのだ。彼女の兄の言葉どおりに――。

 

 『王』が咳き込み、虚脱したように立ちすくんでいた俺たちはまるで古くからの忠臣であるかのようにそのまわりに集い、ひざまづいた。
「……それが誰にせよ、ゲームの勝者よ。わしがここでおまえに話して聞かせたことを覚えておくがいい」
 彼は苦痛に口元を歪めつつその指から『追憶の指輪』を抜き取った。
「さもなければ人間は自らの存在の理由を永久に失ってしまうだろうからな。やがてこの物語が終わりこの世界が解体されても指輪を持つ者は記憶を保つことができる。そしてまた別の誰かが指輪を奪いとるまでのわずかな間、彼はネミの湖の祭司王のようにつねに挑戦者の影に脅えながら暮らすことになる。思えばわしも……」
 不意に言葉を止め驚いたように男は目を見開いた。そして指輪が掌から床にころげ落ち――『書庫の王』は死んだ。俺はその頭から『頭巾』を外しそっと両目を閉じてやった。

 それから俺は立ち上がり、足許に転がっていった指輪を拾ってやはり立ち上がった直人と目を合わせた。互いの心のなかであの『王』の言葉を噛み締めつつ。

 

 ……それで一体どちらがジークフリートなんだね?


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