唐突に違和感に襲われてノスタフは歩みを停めた。まるで六本の脚の動かしかたを一瞬忘れてしまったような気分だった。どこか猛烈な飢えにも似たその感覚はしかし立ち止まっているうちに跡形もなく去り、身体をひとつ震わせたノスタフはふたたび転写装置に接続されたロムデンの身体をチェックすべく近づいていった。気管による効率のいいガス交換を行うタッキ人の肉体は生来ほとんど疲労というものを意識しないのだが、さすがにここ数十日間におよぶ不眠不休の奮闘は彼の心身に少なからぬ負荷を与えていた。たぶんいまの奇妙な感覚はそれが原因だろう。そう考えてあらためて胸郭に位置する中枢神経の緊張を高めるとノスタフは十二ある単眼のひとつひとつでモニターの表示をチェックしながら研究室の同僚が自らの記憶をすべてクリスタルメモリーに転写し終わる作業を注意深く見守った。多くの試行の結果、記憶転写プロセスの安全性は確認ずみだったが、それでも何か微妙なミスで装置が誤作動することもあるかもしれない。もはや数少ない「生存者」であり友人でもあるロムデンを記憶を失った抜け殻のようにはしたくなかった。 「……どのぐらいかかった?」 長い時間ののち四対のはさみで胸郭のギアを取り外しながらロムデンは尋ねた。 「二日――年齢からすれば標準的だ。気分は?」 「ひどいもんだね。まるで脱皮の直後みたいに腹ぺこだよ。やってみたらわかる。たぶん同じぐらいの時間できみの記憶も転写できるだろう。ぎりぎりというところかな」 ノスタフは同意の意味ではさみをふった。 「なにしろアイデアを思いついたのが遅すぎた。もうこの都市の住民のほとんどは永遠の眠りを選んでしまった。残っているのはわれわれと『計画』の最終段階を任された者たちだけだ。残った太陽のエネルギーを搾り取ってしまえば本当の世界の終わりがやってくる」 「本当の終わりというわけじゃないさ。種族の未来を卵たちに託してのいわば休止符だ。とはいえ10の100乗年先にどんな世界が待っているか……いまの宇宙より少しはましであることを祈るのみだけれどね」 残りわずかな食料のパックを相手に手渡しながらノスタフは残念そうに言った。 「ロムデン、やはりきみは信じてないようだね?」 「きみの思いつきはじつに面白いと思う。ノスタフ。しかし、あくまで単なる仮説――実証することは不可能だ。評議会を説得することは金輪際できない相談だし、ぼくにしたところで百パーセント信じているかと問われれば否と答えるしかない。しかし同様に否定する根拠もない――そこでこうしてはさみを貸しているわけだ。ま、何よりきみとは友人だしね」 「ぼくにとってはそれで十分だよ。きみの働きのおかげで『計画』のために開発された記憶転写装置の使用を許可してもらうことができた。いままでの協力には深く感謝している」 「容易いことさ。しかしきみの発想はいまさらながら驚くほどユニークだ。重力場方程式にまだ新しい解釈の余地があったとは……」 「ああ。ゾイデル−バンスの方程式を通常の宇宙に適応すると収縮と膨張のふたとおりの解がでる。しかしたまたまあの巨大なブラックホールが間近に存在することでわれわれは宇宙の収縮を自明のことのように思いこんでしまった。そしてエルゴ圏に逃げ込む以外迫り来る終末から救われる道はないと考えた。しかし当然もうひとつの解が正しい可能性もあるんだ」 「無限でかつ膨張する宇宙か――じつに魅惑的なイメージだね。ただそれを確かめる手段はない……」 「うん。仮説を証明するためには何億光年もの彼方の――仮にそれが存在しているとして――天体のスペクトルの偏移を観測しなければならないだろう」 「それがきみの仮説の最大の難点だよ。われわれの太陽系がたまたま宇宙の特殊な場所に存在している、という仮定はどうしてもご都合主義の匂いがある――論敵である評議会のメンバーにはなおのことね」 ノスタフは力なく無数の気門から息を吐いた。 「彼らに何度説いたことか――われわれの希望を託すべき方向はブラックホールじゃない。むしろ外部に向かってだ、と。しかし準光速の宇宙船を送り出したとしても観測データを受け取るまでに最低一万年ほどの時間が必要だと反論された」 「――その間にわれわれの太陽はさらに衰える。種族の存亡を賭ける時期に真偽の定かでない仮説を確かめるためだけにそんなには待てない、という評議会の意向を必ずしも愚かとはいえないさ」 「彼らの決定を覆すことはとうにあきらめたよ。だが自分の説が正しければ宇宙は終わりではなくこの先何億年も存続するだろう。遠い未来に凍りついたこの星を訪れる異星人がいてもおかしくはないのだ。その時のためにわれわれの記録を残しておく――それができるだけで今は満足すべきだと思っている」 「賛成だ。さて――腹ごしらえをして体力も回復した」 空になった食料パックを投げ捨てて転写装置から立ち上がるとロムデンは同僚のはさみをとった。 「その未来の訪問者たちとやらのために記録を残す作業を進めようじゃないか――こんどはきみのばんだ」 友人に代わって転写装置にはいったノスタフは最後に超伝導センサーにつながった胸郭ギアを装着しながらつぶやいた。 「できたら知りたいものだ。もしそんな日が来たとして――ぼくの記憶を読み、ぼくの意識を共有するのはいったいどんな姿形をした生命体なのかをね」
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「博士――ブラウン博士、だいじょうぶですか?」 ジョージ・ブラウンは中断した自己意識と記憶がゆっくりと戻ってくるのを待った。異質な存在との密接な精神共鳴で混乱した脳は正常な働きを取り戻すまで数分の時間を必要とした。沈黙しじっと考え込む彼のすがたは確かに見守る者を不安にさせるものだったに違いない。 「……ああ、もうだいじょうぶだ。ありがとう、サカモトくん。わたしはどのぐらいの時間意識を失っていたのかね?」 遺跡調査班の班長であるレイ・サカモトが彼の身体のうえに屈み込んでいた。 「ずいぶんかかりました。転写がはじまってからすでにまる一日です――」 「一日――驚くほど短いとも言える。完全に異質な代謝を行う存在同士でこれだけ緊密な共感が成立するとは……この装置はわれわれのそれをはるかに凌駕する精神テクノロジーの産物だな」 言葉にするまでもない問いを浮かべている彼女の目を見上げ、安心させるようにひとつうなづくと博士は言った。 「成功したよ。この遺跡を造った種族たちのひとりの記憶にアクセスすることができた」 周囲がらわきあがるどよめきのなか装置から起きあがり、傍らのスロットの中で輝くメモリークリスタルを奇妙な既視感とともに眺めた後、取り巻く隊員たちを見渡すと彼はあらためて説明した。 「この惑星の住人たち――彼ら自身は『タッキ』と呼んでいたが――は、やはりわれわれの想像どおり、はるか昔にすべて死に絶えてしまっている。強烈な放射線にも耐える頑強な身体組織を持ち、その卵は凍結状態で半永久的に保存でき、また自らの星系を支配するだけの高度な科学技術を有しながら、残念なことにタッキ人はわれわれのような超光速航行の技術を持っていなかった。そのため自らの太陽が衰えはじめたとき、彼らはやむなく自分たちの卵を宇宙船に乗せ、ブラックホールのエルゴ圏を周回しつつビッグクランチを乗り越えてホーキング効果による蒸発のときをまつ、という壮大な計画に種の存続を託すしかなかった。幾世代にもわたる労苦を重ねたあげくついに彼らはそれを成し遂げ、完成した揺籃船を星系の全エネルギーをもってレーザー射出し……そして静かに絶滅していったのだ。事前の考古学的調査から大筋はわかってはいたとはいえ、今こうしてその種族自身の記憶データによって推測が直接確認できたことをわれわれは率直に喜ぶべきだろう」 全員の拍手のあと立ち上がる博士の身体を支えながらレイが尋ねた。 「博士……彼らはビッグクランチのあとで再び宇宙が再生すると考えていたのでしょうか?」 「うん。彼らには赤方偏移も宇宙背景放射の存在も知るチャンスはなかった。ビッグバンは想像外の概念だったろう。おそらく全宇宙を飲み込んだブラックホールが蒸発した後、はき出された光子が絶対零度の空間でふたたび物質宇宙を生成する、という一種の脈動宇宙論を信じていたに違いない」 「壮大な悲劇ですね。彼らは滅びる必要はなかった――もし銀河系の全体を見ることができたら渦状腕に無数に移民可能な星々があることがわかったはずです」 「できなかったのだよ。この星系は銀河バルジの古い恒星集団にすっぽり包まれていたのだから――その直径は約一万光年。超光速ドライブを持たぬ彼らには越え得ぬ障壁と見えたに違いないのだ……」 博士のその言葉に、偉大なしかし不運な先人を瞑するべく太陽系連邦調査船のクルーたちは粛然と頭上を見上げた。遺跡の崩れた天井のむこうにとぎれなく空を覆うわずかに黄色みががったまばゆい光の天蓋があった。しかしその光も、またその光の壁の背後にひそむ超巨大ブラックホールから注がれる強烈なX線も、数万年の長きにわたって凍てついた地表をわずかでも暖めることはなかった。 了 |