ゾニの社会は『書物』によって成立する。あらゆる財――日常の必需品から奢侈に供される品々まですべてがゾニ人が『書物』に記述することで創造された『世界』から運ばれた。それゆえ文書の技は彼らにとって最も神聖かつ重要な文化であり伝統だった。そのための特別な紙、インクの製法、ひとつの『世界』を完全に記述する神秘的な書法……それらこそがゾニが無数の世界に君臨し、またその民を支配するために欠くことのできぬ道具であったのだ。だからこそ文書術はもっとも価値ある知識として尊ばれ、そしてそれを若者たちに教え伝える立場の者もまた敬われ高い地位を与えられていた。というわけでゲーアンが文書学研究室につづく学園通りを歩くとき行き交う学生や市民がみな腰をひくくし一歩退いて彼のために道を開けるのはごく当然であった。
とはいえ階段を上り自らの研究室に入るあいだ彼はおよそ周囲の出来事には無関心だった。その心はいまひとつの問題に忙殺されていたのだ。
「どんな具合だね?」
ゲーアンの質問にさきほどから眼鏡ごしに分厚い書物をのぞき込んでいた助手が真鍮造りの書台から顔をあげて答えた。
「うまくないですね――教授。『ノウン』は急速に崩壊しつつあるようです。あと三日ももたないでしょう」
「三日か……。彼が入ってどのぐらいになる?」
「すでにまる一日になります。原因をつかむには十分な時間のはずですが……」
「しかしいまだ帰る気配はない――もはやまかせてはおけないな。しかたない、わたしが『連結』しよう」
助手は驚いて立ち上がった。
「ご自身で行かれるんですか? 危険ですよ! あちこちで大地がひび割れています。もし必要であるなら代わりにわたしが行きます」
「いや、自分の目で確かめないかぎり記述のどこに問題があるのか突き止めることはたぶんできないだろう」
「しかし、教授。いくら彼が商工会長の息子だからと言ってそこまでなさることは……」
「何を言っておる! アロムの父親が誰であるかなんてことはこの際まったく問題ではない」ゲーアンは怒った口調で言った。
「彼のこの作品はわたしが指導したものだ。したがってその『世界』の住人に対してわたしは責任がある。崩壊をくいとめるのは担当教官であるわたしの義務だ」
「おっしゃるとおりです。失礼しました」助手は恥じ入った口調で頬を染め謝罪した。
ゲーアンはその場で手を振り助手を下がらせると立派に装幀された革の表紙に装飾文字で『ノウン』と記された『書物』の前に立った。
「お気をつけて……」
助手が差し出す『連結書』をうなずいて受けとり胸にかかえるとゲーアンは『書物』の表紙におもむろに掌をあてた。
たちまち身体が『書物』のなかに引き込まれるお馴染みの感覚があり、一瞬ののちには彼は荒涼とした平原の真ん中にひとり立っていた。ここはすでにゾニではなく『書物』のなかの『世界』なのだ。
最初にたえまない大地の不快な揺れを感じた。頭上は黒い雲で覆われ、太陽も月も星も見えない。しかし赤黒い光が大地を薄暗く照らしていた。地平線に並んだ山々から灼熱した溶岩が流れ出していたからだ。なにかの力がこの『世界』を引き裂こうとしているらしい。そしてそれがアロムの『書物』のわずかな記述の誤りからきていることは間違いないのだ。しかしその原因を特定し、それを修正することは容易ではなかった。『書物』はひとつの首尾一貫した宇宙そのものを記述する何万行にもわたる文から成り立っている。そのどこか一カ所の瑕疵をつきとめるのはまさに干し草のなかの針一本を見つけだす作業に等しかった。
しばらくあたりの様子をながめていたゲーアンはすこし離れた場所にかなり大きな都市の廃墟があることに気づいた。すべての建物があまりに完全に破壊されていたのでちょっと見には人の手になるものとはわからなかったのだ。アロムがいるとしたらあの町だろう。彼はそちらにむかって歩き出した。
くずれた石組みを迂回し散乱したレンガを踏み渡りながらゲーアンはそれでもまだ多くの市民が廃墟に残っているらしいことに気づいた。『世界』そのものが崩れ去ろうとしているいま、けっきょくどこへ逃げても危険は同じということなのだろう。彼は『ノウン』の人々に強い同情を感じた。『書物』によって産み出された『世界』の住民を虫けらのようにしか扱わない人々が多いゾニ社会のなかで、ひとり教授は博愛的精神で彼らに接していた。『世界』は虚構の産物ではなく現実に存在する宇宙であり『書物』はただそこへ連結する手段を提供するだけである、というどちらかというと異端に属する信念をゲーアンは抱いていたのだった。
彼が『連結書』を胸に抱えて威厳をもって歩む姿を目にして、ぼろぼろの衣服の住民たちは救いをもとめるかのように周囲に集まってきた。彼らにとって教授はまさに創造の神々のひとりにほかならなかったのだ。
「神よ! どうかわれわれをお救いください!」
足下にひれふす人々にゲーアンは励ますように言葉をかけた。
「大変な迷惑をかけ気のどくをしたな。安心するがいい。わたしは必ずやおまえたちの『世界』を安定させ、おまえたちの生命を救うつもりだ」
「ほんとうですか!?」
「約束しよう――ところでおまえたちに尋ねたいことがある。わたしのほかにこの町にもうひとり『神』がいるはずだが」
「おられます。若い神がおひとり。いまはおそらく町の中心の神殿に……」
市民からその場所を聞いたゲーアンは揺れ動く大地のうえを神殿めざして急ぎ歩いた。
アロムの居場所はすぐにわかった。この『世界』独特の奇妙にねじれた様式の柱がすべて倒れた神殿の瓦礫のなかから小さくしのび泣く声が聞こえていたからだ。
「めそめそしていないでしゃんとせんか? おまえは誇りあるゾニ人のひとりではないか!」
ゲーアンに叱咤されアロムは涙でぐしゃぐしゃの顔を一瞬喜びに輝かせたが、すぐにまた悲嘆にくれた様子で肩をおとした。
「ああ、教授……ぼくはもうだめです!」
「なにがだめなものか。この大災害もしょせんはわずかな記述のあやまりにすぎないのだ。それをつきとめて修正すれば必ずすべてはもとどおりになるだろう」
「その修正箇所がわかりません。わかるはずもないんです」
「なにを情けないことを――おまえにわからないで誰にわかる? この『書物』はそもそもお前自身が書き記したものだぞ」
「……ちがうんです」
「ちがう? 何をいっておる?」
「すいません! じつは、密かに『書物士』のひとりを雇い入れ下書きをやらせて……ぼくはただそれを右から左に書き写しただけなんです。だから記述の誤りについてはまったく見当もつきません!」
ゲーアンは唖然とした。
「なんだって? この『世界』はおまえが書き記したものではないと?」
「許してください、教授! どうしても資格が欲しかったんです。期待されてたし……。でも、このことがおやじに知れたら――もうおしまいだ!」
ふたたび泣き崩れた若者を前に呆然と佇んでいた教授だったが、やおら相手のむなぐらをつかんで引き立たせると常日頃の孤高で超然とした彼からは想像もできない素早さで強烈なパンチをその顎におみまいした。
「ぎゃっ!」
アロムは瓦礫のなかにもんどりうって倒れ、しばらく目を白黒させたまま横たわっていた。
「な、なにをするんです? おやじにだって殴られたことなかったのに?」
「根性を入れ替えろ、馬鹿もの! 仮にもお前は創造主としてこの『世界』の住民に重大な責任を負っているのだぞ! 自分のやったことに狼狽えるばかりで何もせずにすべて終わるまでただこの場所で泣きじゃくっているつもりか?」
「でも、そうおっしゃられても……」
「とにかく崩壊の原因をさぐるのだ! さもなければこの『世界』に置き去りにするぞ!」殴られた拍子に落ちたアロムの『連結書』をひろいあげながらゲーアンは宣告した。「口先だけと思うなよ。わたしは本気でやるつもりだ!」
教授の剣幕にさすがにどら息子も怖れいり、青ざめた顔で立ち上がった。
「いったいぼくはどうすればいいでしょうか?」
「やるべきことはひとつ――おまえがこの『世界』に到着して一昼夜たつ。その間ゾニではありえぬ異常な事柄を見聞きしなかったかどうか思い出すのだ。この災いをもたらした要因は必ずやべつの形で世界のどこかに歪みをもたらしているはず。それさえ見つかれば必ずや解決の道も開けよう。さあ! 意識を集中しろ!」
ふたはしらの『神』たちの間の諍いはこの都市中の住民の目をひきつけたらしい。廃墟のただなかで取り巻く群衆の藁にもすがる思いのこもった熱い視線をあびつつ、しかめつらで腕組みするゲーアンのかたわらでアロムはさかんに首をひねりながら自らのおぼろげな記憶をさぐっていた。
「……そうだ」
およそ小一時間が過ぎた後でぽつんと若者はつぶやいた。
「どうした?」
「そういえば――、この世界にはじめてやってきたとき妙なものを見ました。日が暮れても空が暗くならないんです」
ゲーアンは鷹のような目でアロムの顔を凝視した。
「なぜだろう、と一瞬思ったんですが。たいしたことじゃないと思って、いままで忘れていました」
「たいしたことじゃないだと? 夜空が暗くないことが些細な事柄か?」
「申し訳ありません――昔からおれ、あんまり行き届かない性分で……」
教授はため息をついて手をふり教え子につづけるようにうながした。
「空全体が四六時中妙に明るくて、太陽すらあまり目立たないんです。それでどこか変だなと思ったんですけど、大地や樹木や動物たち――住人たちもちゃんとまともに暮らしているようなのでまあいいかな、と……」
「ふん、なるほど――」
ゲーアンはうなずくと若者に取り上げた『連結書』を投げ与えた。
「思いついただけでもましというものだ。試してみる価値はある。ただちに戻っておまえの記述をいまいちど確認するぞ」
そう言い終えると彼は『連結書』を目の前に掲げ掌をおしつけた。たちまち教授の姿は溶け去るように消えうせ、あとに住民たちの衆目をあびつつひとりアロムだけが残された。詳細はわからぬまでも彼らにもおおかたの経緯は感じられたのだろう。生存の危機にさらされた人々の厳しい視線にさらされた若者は周囲に気弱な笑いを送り、やがて『連結書』をしぶしぶ捧げ持つと教授のあとを追って姿を消した。
「チェックしろ! いちばん最初の部分の記述だ」
研究室に出現するやいなやゲーアンは大声で助手に指示した。
「――そこに宇宙の大きさについてどう書かれている?」
唐突な質問にあわててページを繰っていた助手がしばしの無言の時間ののち答えた。
「……『無限』です」
「光の速度については?」
「見た限りでは記述されていませんね」
「天体の赤方偏移は?」
「ええっと……やはり記述されていないようです」
「ふん! 大馬鹿者め!」
教授は叫び、ちょうどそのときアロムが研究室に姿をあらわし、ゲーアンの怒声に怯えた様子でたちすくんだ。
「よく聞くんだ。アロムよ。おまえは『ノウン』世界の背景として無限の静的宇宙を記述してしまったのだ。しかも悪いことにすべての力が無限の速度で伝わるようにした。こんな宇宙は安定するわけがないのだ」
「……すると原因がわかったのですね?」
助手の問いに老教授は力強く頷いた。
「じつに初歩的なミスだよ。夜空が暗くなかったという証言であるいはと気づいたのだ。ひょっとしたらおまえの記述した『世界』は無限の大きさを持っているのではないかとね。無限の大きさの空間には無限の数の天体が含まれる。そして無限の数の天体はすなわち無限大の質量、無限大の引力を意味する。いっそう悪いことにおまえは光の速度に限界をもうけなかった。おそらく時空の記述が複雑になるからだろうが――やってはならぬ間違いだ。この条件のために『ノウン』の全天体は創造のまさにその瞬間から抗しえぬ力で互いに引き合うことになってしまったのだ。大地が引き裂かれるのも当然だし、そのための特別な斥力をあつらえでもしないかぎりは遅かれ早かれ宇宙そのものが自らの重さで潰れてしまうはずだ」
「最悪のシナリオですね。修正にはどこをどうすればよいのでしょう?」
「ひとたび書かれた記述をとり消すことはできない。しかし幸い新しく付け加えることはできる。アロム!」
「は?」
「何をぼやっとしておる。さっさとペンをとって自分の『書物』を修正しないか!」
「――は、はい!」
アロムは書台にとびついた。
「そうだな――とりあえず適当なページに光速度を定数として追加記述しなさい。現実の宇宙のそれに近い数値がよかろう。そうすればひとまず無限遠からの力を排除できる」
「わかりました!」
あわててインク壺にペン先をひたしている彼のかたわらで助手はまだ疑いぶかそうな口調で尋ねた。
「簡単すぎるようにも思えるのですが。それで万事解決しますか?」
「確信をもって断言するのは控えておこう。これはいまだ無限大の大きさをもつ静的な宇宙にすぎない。いわば巨大な箱のようなものだ。しかし現実の宇宙は本来動的でかつ微細な領域から極大の範囲にいたるまで無数の要素が密接に絡み合ってできている。その描画のうち一カ所でも綻んでいればやがて全体が瓦解してしまうのだ。たぶん、この『書物』の場合はさらに様子を見たうえで、あらためて後退速度や宇宙創生の機序についても書きくわえねばならなくなるのではないかと思う。とはいえとりあえず光速度に限界を設けることで当面の崩壊は防げるはずだ。アロム! わかったな? さきほどのことは聞かなかったことにする。おまえは以上のことを踏まえて安定を確実なものとしてのち『書物』を審査会に提出するのだ」
「……あ、あの。教授」
しばらく後ゲーアンを研究室の外まで見送りながらぽっちゃりした顔に愛想笑いをうかべてアロムが言った。
「ありがとうございます」
「なんのことだ?」
「不問にふしていただいて――つぎの学長選挙のさいには父親に教授を応援するように必ず言っておき……ぎゅっ!」
教授に万力のような力でネクタイをぐいとひっぱられアロムは息がとまった。
「勘違いするな! おまえは無罪放免になったわけではないのだぞ。もしあの『書物』が不正行為の産物であることが審査会に知れたら『書物』そのものが廃棄処分されてしまう。そんな恥さらしなしろものを研究所の書架に置いておくわけにはいかんからな。わたしはそれを防ぎ『ノウン』の住民たちとの約束を守りたかっただけだ。それに――」
ゲーアンは手を離し半ば窒息しかけた若者にむかって皮肉な調子でつづけた。
「わたしは簡単にああ言ったが、覚悟しておけ! おまえは安易に宇宙を無限の大きさにしてしまった。実際にあれが審査を通るまで安定させるためには途方もない労力を要するだろう。たぶん一から『世界』を書き上げるほうがよほど楽なはずだ。しかしどんなに大変でも放り出すことは許さんぞ。わたしがおまえの弱みを握っていることを忘れるんじゃない……。ま、そういうわけだから、こののち必死で勉強して『ノウン』を安定させるよう努めることだな。何年かかるか知らんが、それができたあかつきには――もはや父親が何者であるかなんてこととは関係なく――おまえには立派に『書物士』の資格がある、とそういうわけなのだ!」
そう言い捨てると咳き込むアロムに背をむけゲーアンはゲニ様式の瀟洒で美しい廊下を靴音を響かせつつ毅然と歩み去った。
了 |