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テレビ
高本 淳

 暇にまかせて『日計トレンド』だとか『週刊テラミス』だとかを読んでいる妻は会社づとめの俺なんかよりもよっぽど世の中の動きに敏感だ。この間の今世紀最後とかいう財テクブームのときもうまく立ち回ってちよっとした小金を稼いだらしい。『らしい』、というのは彼女が全部を自分の口座のなかでやりくりしているからで、夫である俺には自分の連れ合いがどれだけ貯めこんでいるのかさっぱりわからない。もちろんしがないサラリーマンの女房が目の玉が飛び出るほどの資産家であるはずもないのだが、毎日プリペイドカードの度数を気にしながら社員食堂で昼を食べている身としては、妻が朝刊のむこうで証券会社の損失補填の記事に怒声をあげるのを聞くと妙な気持ちになる。
 「まあ、マスコミは大騒ぎしているけれど、こっちにはあまり実感ないよねえ。」
 俺は妻の怒りを静めようとわざと脳天気な口調で言ってみた。朝っぱらからこう不機嫌でいられてはお互い精神衛生上よろしくないし何かのはずみでこちらに矛先がむくかわからないからだ。
 「だいたい株で何億も損するわけもないし…。」
 女房はニュース・プリントアウトの越しにじろりと俺を睨みつけて冷たく言った。
 「『あなた』はそうでしょうよ。」
 ひょっとしたら女房のやつどこかの有望なベンチャー企業にでも投資しているんじゃないかと思う。どこの会社がいつどんな新製品を出したか全部知っているのだ。なにしろ暇にまかせて情報を読みあさっているうえにもともと記憶力が恐ろしくいい、あげくのはて理工系の専門学校を出ているときてる。ちなみに俺は某三流私立文学部だ。
 ある日帰宅した俺は三LDKの我が家の食堂兼居間に入ってびっくりした。妻が俺のいないうちに部屋の壁紙をすっかり張り替えていたのだ。そればかりではない。冷蔵庫や食器戸棚が廊下に出されていて部屋の中は奇妙にがらんとしている。
 「どう。木下電気の新製品よ。」
 どうって言われても返答のしようがない。以前の安っぽい花柄が今度は冴えないのっぺりした灰一色に変わっているのだ。数字に強いかわりに女房はあまり美的センスのいいほうではないが、それでもこの壁はひどすぎる。しかしそんなこと正直に言えるわけがない。
 「ちょっと地味じゃないかな。…悪くはないけどさ。木下電気は室内装飾もやっているの?」
 妻は得たりとばかりにやりと笑った。
 「違うわよ。これ今度開発された壁紙テレビ。知らなかった?」
 「へーえ。」
 知らなかった俺は本音で感心した。それで家具が壁ぎわから撤去されたわけがわかった。
 「ついにテレビがここまできたのか。」
 小さいころ白黒のガチャガチャチャンネルのテレビで育った世代としては感無量といったところ。つい最近、ミクロン単位のフレキシブルプリント何とかが開発されたとは聞いていたんだが…。
 「…高かったんじゃないか?」
 安月給取りの身としては真っ先にそれが気になる。
 「心配無用よ。モニターに応募して当たったんだから…。三年間使用して料金はただ。」
 「そりゃすごい。」
 目端のきく実行力のある女を女房にすることの利点のひとつは出版社やメーカーのこうした応募にしばし当選することだ。去年はそのお陰で夏休みに家族そろってグアム島へ行って来た。もっとも不要な製品が家中を占領していることと、月々の電子メール代がばかにならないのが問題だが。たまにはこうしたおいしいこともあるんだから文句は言えない。
 「試してみたのか。」
 「まあね。」
 「つけてごらんよ。」
 女房がちよっとためらったのが少し不吉だった。
 「食事をすませてからの方がいいんじゃない。」
 俺はリモコンらしい小さなカードをテーブルからつまみ上げた。
 「『オン』と…。これかな。」
 たちまち部屋の壁全部にテレビ画面が映しだされた。野球中継だ。すごい臨場感。しかも大音量のステレオ・サラウンドだ。
 「うわ。こりゃすごい。」
 投手の投球モーションが実物の百倍ほどの大きさで迫る。まるで昔の映画館の最前列で見ているようだ。
 「まるで球場にいるみたいじゃないか。」
 それ以上だった。
 『斉藤、百球目の投球になります…。ボール! わずかに外角にはずれた…。』
 いきなり、ぐわっ、とピッチャー斉藤の無念そうな表情の超特大アップが現われて、俺は腰を抜かしそうになった。悔しそうにむすんだ唇の皺と膨らんだ鼻孔、汗が吹き出し剃り残した針金のような髭の並んだ皮膚が迫ってくる。と、カメラが切り替わり、どだっどだっどだっ、と巨人の巨人ランナーが一塁に戻る画面。ばふん!とでっかいスパイクシューズにふまれて埃だらけのベースから土煙が舞う。ぶわるん、ぶわるん。バッターが縄文杉のようなバットで素振りをくれながら、ざがしん、ざがしん、土木工事現場のようなでこぼこのバッターボックスに足場を決めた。キャッチャーから直径一メートル半のボールが戻って、ふたたびピッチャーはセッティングポジション。汗をだらだら流した顔が、ぐらっ、と振り返って走者を見る。ずわら、ずわらとランナーは塁を離れ、ばさしゅわっ。ノーワインドアップからわずかにあまいカーブが投手の手を離れ、ぐわっきいいいん。バッターはすかさず痛烈な一打。ぞばっ、がざっがざっがざっ。三塁線ぎりきりの打球に泥まみれ汗まみれのサードのユニフォームが飛びついた。どどうどどうど、ずざばずざばあん! ぐわっし!
 プチンと俺はスイッチを切った。
 「どうしたの。」
 「…ちょっと目がまわるな。どうやら野球はいつものテレビで見たほうがいいようだ。」
 妻は残念そうな顔をした。
 「やっぱりね。…実は他のテレビを見ないことがモニターの条件だったのよ。それで前のテレビは…。」
 「持って行ってもらったって?」
 「こんな大迫力とは思わなかったのよ。」
 「おいおい。今夜は巨人‐大洋の首位攻防戦なんだ。」
 俺は不吉な予感が的中したのを知った。
 「もうラジオじゃ野球はやってないし…。」
 「食事にしたら…。」
 いささか不機嫌な声で女房が言う。
 「いや、先に風呂。」
 俺は元気なく言った。少し眩暈がしていたのだ。
 しかし湯船のなかでいい知恵が浮かんだ。
 「思いついたぞ。」
 風呂からあがってみると妻と娘たちは灰色の壁に囲まれてむっつりと食事をしている。どうやらいつも見ているクイズ番組もスポーツと同じように目が回るらしい。
 「今度単身赴任から帰ってきた奴がいるんだ。きっと携帯テレビを持っていっているはずだから明日にでも借りてこよう。」
 俺は番組表をめくった。このごろは衛星放送やら有線放送やらがあってテレビ番組表はまるでかつての電話帳か辞書のようにぶ厚い。
 「確か、あったと思うんだが…。見ろよ。二千三十二チャンネルで環境放送をやっている。」
 「ほんと?」
 子供たちも興味を持ったらしい。明日学校での話題についていけないとふくれていた長女も少し機嫌を直した。
 「今日は『美しケ原と上高地』だってさ。」
 「よし、二千三十二と…。」
 灰色の壁が清々しい初夏の高原の風景に変わった。
 「ふーん、いいじゃない。」
 「すってき。」
 日光キスゲの群落がそよ風に揺れている。
 「こんな景色を見ながらの食事も悪くないじゃないか。壁紙テレビの最上の利用法は環境ビデオを流しておくこと、だな。」
 「こんどレンタルショップで幾つか借りてきましょうか。」
 妻も面目を回復して少しは機嫌をなおしたようだ。俺は満足して廊下の冷蔵庫から枝豆とビールを取り出して食卓についた。本当は東京ドームの景色のほうがいいのだがこのさいやむをえない。
 俺が一気に冷えたビールを飲みほそうとするとすぐ目の前で牛がじょーっと小便を始めた。
 「ぷっ、」
 驚いた俺はうっかり鼻の穴にビールを流し込んでしまい、あやうく溺れそうになった。
 「げほげほ…。な、なんだこの番組は…。」
 よく見るとその牛は仔馬が草を食むのどかな牧場の遠景に写っている牛舎のなかにいるのだ。普通のテレビの画面ではまったく気づかないのだろうが、壁紙テレビのあまりの大画面にそんな小さな部分までがよく見えてしまうのだ。
 「きゃ、ゴキブリ。」
 娘たちが悲鳴を上げる。見ると牧草の間の地面をグロテスクな虫が這い回っている。
 「ゴキブリじゃない。こりゃダンゴ虫だ。」
 しかしそれが体長三十センチぐらいに写っているのだ。ダンゴ虫だけじゃない。大蟻がいる。大蜘蛛がいる。巨大オケラが土をほじくり返している。そうかと思うと戦闘爆撃機みたいな蚋が飛び回り、挙句の果てには体長二メートルのミミズまでのたくっている。
 「お父さん。気持ち悪いよ。」
 「こりゃたまらない。」
 俺はあわててスイッチを切った。
 それから全員黙り込んで食事をしたんだが、テレビなしじゃまったく食った気がしない。女房はむっつり不機嫌だし、子供たちはふくれている。俺だって野球中継やニュースなしじゃ調子が狂うこと著しい。これから毎晩これではたまらんので、あくる日さっそく俺はいきつけのレンタルビデオショップに行ってみた。いつもは懐かしの名画とか、たまにはアダルトビデオを借りたりする店だ。
 「環境ビデオもだめですか…。そりゃ難しいな。」
 「臨場感が過剰なんだ。」
 俺はげんなりして言った。
 「臨場感があるってならアダルトものなんてのはどうです。…刺激的でこりゃたまりませんよ。」
 店長はイヒイヒと下品に笑った。
 「じょうだんじゃない。月面クレーターみたいな毛穴だらけにきびだらけの裸を見て気持ちがわるくなるだけだ。ありきたりのホームドラマだって絨毯にうじゃうじゃダニが見えるんだから。」
 俺は悲壮な声をだした。
 「あのテレビを見たあとは、なんだかそこら中に虫がいるみたいで体がむずむずしてしょうがない。このままじゃ近いうちに家族全員が強迫神経症にでもなってしまうだろう。」
 どうやら彼にも俺たちの苦境がわかってきたらしい。ようやく難しい顔をして考えはじめた。
 「臨場感のないものでなければいけないわけでしょう…。」
 「アニメはどうだろう?」
 「さあ、あれはけっこう動きが激しいですからね。」
 「そうか…。」
 俺は頭を抱えたが、しばらくして店長はにんまりと笑った。
 「そうか。…ひとつだけありますよ。」
 どうやらおかげで俺の家は壁紙テレビのモニターをやめずにすんでいる。食事のときだけでなく一日中壁紙テレビはつけっぱなした。お陰で電気代は馬鹿にならないが消したときのあの間の抜けた眺めよりはましだし、だいいちそんなことをして女房が口をきかなくなるのも困る。
 あのビデオショップの店長はいいことを教えてくれた。俺はエンドレステープを使ってちょっとした細工をした。いま居間兼食堂の壁には色彩り豊かな落ち着いた幾何学模様が終日映っている。これならどんなに細部を拡大しても問題はないし、他の家具ともそれなりに調和する。そう、テストパターンだ。これならほかの番組のように騒がしく不愉快なコマーシャルも入らない。つまりは壁紙テレビを壁紙として使っているというわけ。汚れることもないし、日にやけて退色することもない。まったく技術の進歩は大したものだ。おかげで冷蔵庫はまた部屋のなかに入った。やっぱりこいつは廊下というのはまずいからね。

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