※本作品は、立教大学卒業生であり、付属高校時代は応援団に所属していた作者が、立教大学第一応援歌「行け立教健児」の歌詞にインスピレーションを得て創作致しました。
火星の軌道上を、太陽を挟んで火星と正反対の位置を公転するスペースコロニー『セントポール』は、直径六キロメートル、全長三十キロメートルの筒型で、ほぼ全体を黒い太陽電池パネルで覆われているため、まるで巨大な卒業証書を入れるための賞状筒のように見えた。
人口は一千万人、そのおよそ一割が、コロニーを保守するための、何らかの業務に就いている。中でも宇宙空間に出て、気が遠くなるような遠心力や、その他の様々な悪条件と戦いながら、コロニーの外側を直接メンテンスする技術者たちは、『セントポールの勇者たち』と呼ばれていた。
彼らは優秀なエンジニアであると同時に、六つのコロニーの全住民が熱狂する国民的スポーツ、スペースフットボールの選手だったからである。
3Dサッカーとも言うべきスペースフットボールの公式戦は、各コロニーに連結されている、無重力を保たれた資材倉庫ユニットで開催される。これは競技発祥当時の名残りであるだけで、特段深い意味はない。何しろ天然資源の全くないスペースコロニーである。熱戦の模様はテレビ中継されるだけで、競技場に観客を入れることがないから、新たに必要以上のコストをかける理由もない、ただそれだけの話であろう。
縦百五メートル、横六十八メートル、同じく高さ六十八メートルの直方体に仕切られたフィールド内には、もちろん空気はない。選手たちは、普段から着慣れた宇宙服を着て競技に臨むのだ。だが、この競技専用の宇宙服が少々変わっている。専用の宇宙服の存在自体がスペースフットボールのルールである、と極論してもいいくらいだ。
接触プレーによる宇宙服の損傷、つまり生死に関わるような重大な事故を未然に防ぐため、通電するとその表裏にN極とS極の磁力が発生する、特殊な複合素材が宇宙服の外生地に採用されており、選手同士がプレー中に近づくと、無重力空間内で、敵味方なく互いに猛烈に反発し合うのである。この複合素材は、ボールとフィールドの壁面にも使われていて、スペースフットボールの選手たちは、競技中は決して何物にも触れることなく、反発する磁力のみをうまく使って、幅七・三メートル×高さ二・四メートルの長方形のゴールマウスにボールを叩き込み、歓喜の得点をあげるのだ。
また、フィールド内を移動する際に使われる、圧縮酸素を使った二基の小型ブースターの推力は、各選手の体力に忠実に連動しており、試合開始から高速で移動し続ければ、あっという間に動けなくなってしまう。残りの推力を睨んだ、ペース配分上の駆け引きも、スペースフットボールを観戦するうえでの大きな醍醐味と言えた。
「ああ、あった。ここだ」
髭のニックがあきれたように英語で笑う声が、ヘルメット内のスピーカーから聞こえてくる。六九エリアの八二八パネルからの電力供給が突然止まり、緊急呼び出しを受けた俺とニックは、飽きもせず今日も『セントポール』の外側にいた。
親父たちの世代よりもずっと前から、コロニーの外側に非公式に張り巡らされたままになっている、親綱と呼ばれるワイヤーに安全帯のフックを引っかけ、太陽電池と太陽電池の間に設けられたメンテナンス用の細い通路を、マグネットブーツで一歩一歩踏みしめながら、ロボットのように機械的に歩いて行く。
俺たちの生まれ故郷、スペースコロニー『セントポール』は、遠心力を使ってその内側の居住区に擬似重力を生み出すために、一分五十秒の周期で自転していた。つまりコロニーの外側にいると、五十五秒間隔で太陽が見え隠れし、アホみたいに明るくなったり真っ暗になったりするわけだ。
常に頭の方向に一Gちょっとの重力を受けながら、目まぐるしく明滅する中での緻密な作業。こんなことができるのは、コロニー広しと言えども、俺たち『勇者』くらいしかいない。要は、環境の変化に極端に鈍感なんだ。
「ニック、パネル側のブレーカーは切った。どうなんだ、丸ごとやられちゃってんのか?」
状況から推測するに、小さな隕石が電源ケーブルをかすめて行ったことによる、単純な物理的エラーだとしか思えなかった。周囲にパネルが傷ついて、供給電力が低下している太陽電池もなかったから、ホントにピンポイントでケーブルだけをかすめて行ったんだろう。ケーブル内の赤、黒、白の三線が全部やられていたら面倒だったが、損傷を受けたのが、どれか一線だけだとしたら、修復作業はグッと楽になる。
「ああ、ジョー。当たった角度が浅かったみたいだな。赤(レッド)がブチ切れてるだけだ。こいつは幸先がいいぜ」
来週開幕するスペースフットボールの第一戦は、火星に一番近いスペースコロニー『レッドゲート』との、アウェーでのゲームだった。『レッドゲート』は、赤い星、すなわち火星に向かうための門のように見えることが、その名前の由来である。
一枚が二十五メートルプールほどもある太陽電池パネルの五枚先、いや、五ブロック先と言ったほうが分かりやすいかな、に、しゃがみ込み、ニックが切れたケーブルを器用に継ぎ足しているのが見えている。その向こうには満点の星空が胸を打つほどに美しく輝き、そして、正確に五十五秒後に、太陽の眩しい光の中にホワイトアウトした。ヘルメット内のスピーカーから鼻歌が聞こえてくるくらいだから、わざわざあいつを手伝いに行くこともないだろう。
見よや十字の旗かざす セントポールの精鋭が 火星の軌道をいでゆけば
若き心の血は燃えて われらの行く手に敵ぞなし
コロニー セントポール おおわが故郷
愛と正義の心もて いざゆけわれらの強者よ 勝利の力われにあり
セントポールの旗の下 猛き血潮の尽きるまで
コロニー セントポール おおわが故郷
開幕戦は実力通り、一方的な展開になった。ゴールキーパーである俺からの正確なロングフィードを、トップ下のニックが心憎いほどトリッキーに周囲に散らし、ベテランツートップの佐藤さんと鈴木さんが、おもしろいようにゴールをゲットしていった。日系の二人は、今シーズン限りで引退することを決めている。一つの時代が終わろうとしていた。
第二戦もアウェーでの『ユニコーン』戦だった。大方の予想を覆し、この試合も一方的な展開となった。試合の前日、大規模な太陽電池パネルの損傷事故が起き、ホームである『ユニコーン』の選手たちは、不眠不休で復旧作業に当たっていたんだそうだ。対戦する相手をことごとくノックアウトするという願いを込めて名づけられた、スペースコロニー『ユニコーン』が誇るKOボーイたちは、試合中盤にして次々と小型ブースターの推力を失い、ゴール前に集結して失点数を減らすことにのみ集中し、最後の抵抗を見せたわけだが、鍛え抜かれた巨体にスタミナを満載したわれらがリトルジョンが、尽きぬ推力と反発する磁力を存分に使って、ボーリングのピンのように軽々と相手選手たちを蹴散らし続け、俺たちは大差をつけて勝利を収めることに成功したのだった。
続く第三戦の『グリフィン』、第四戦の『トマホーク』との二試合をホームで引き分け、第五戦はアウェーでの『ビッグベアー』戦。スペースフットボールに限らず、俺たちが『ビッグベアー』に勝てるものなど、まあ、ルックス以外はほとんどなかったんだが、日本の山手線で言えば、ちょうど池袋と高田馬場くらいに位置するお隣さん同士ということもあって、開幕から四連勝して首位を独走する『ビッグベアー』を、二勝二分の二位で追う俺たちは、いつになく、絶対に負けないという強い意志を持って試合に臨んだ。
ゴールキーパーは不動の俺、通称コンドルのジョー、背番号1。スクエア型に並んだフォーバックには、時計回りにケイジ、カービー、ブロッケンマイヤー、マッコール。守備的ボランチにヘンリー、攻撃的ボランチにサンダースを並べ、トップ下には髭のニック、トップ下を守るガーディアンにリトルジョン、ツートップは佐藤さんと鈴木さん。対する『ビッグベアー』は……、まあ、いいよな。
試合は序盤から激しく動いた。エンジ色の宇宙服に身を包んだ相手の背番号10が、俺たち自慢のスクエアフォーバックを嘲笑うかのように、カウンターから無重力空間を縦横無尽に切り裂いて、立て続けに二点を決めやがったんだ。俺は二点とも絵に描いたように至近距離から股間を抜かれ、これまでに味わったこともないような屈辱にまみれていた。
歯を食いしばり、無言のまま、ゴール前に静止したボールを、前方のニックに向かって思い切り蹴り飛ばす。もちろんゴールキーパーといえども、ボールに直接触(さわ)れるわけではない。蹴る格好をとることによって、宇宙服とボールが反発する磁力に、明確な方向性とスピードを与えてやるのだ。
ターゲットであるトップ下のニックには、相手のマークが集中していた。そのニックに向かって虚空を一直線に進んで行くボールに、中盤でサンダースがすっと近づき、センターサークル付近でボールが一気に右上方に軌道を変える。そのスペースに駆け上がるように飛び込んで行ったのは、金髪のディフェンダー、ブロッケンマイヤーだった。
ボールが壁に近づき、磁力で反発してバウンドしようとする絶妙のタイミングで、ブロッケンマイヤーがボールを抱え込むような姿勢をとる。ボールは壁とブロッケンマイヤーの宇宙服との間から逃げられなくなって固定され、ブロッケンマイヤーの背中に積まれた二基の小型ブースターの思うがままに、高速で相手エリアに侵入して行く。壁面ドリブル、通称、壁ドリだ。相手ディフェンダー三人が、たまらずブロッケンマイヤーを上方から取り囲んだ。
「ゴー!」
中盤の底で試合をコントロールする、主将のヘンリーが力強く叫んだ。その声を合図に、壁面をオーバーラップしていたブロッケンマイヤーが唐突に壁に近づき、反発する磁力によって、糸の切れた操り人形のように、思い切りフィールド側にリバウンドする。
げー、あれは気持ち悪いんだぜー。俺らでさえマジでゲロ吐きそうになるから、一回やってみな。
まるでビリヤードのブレイクショットのように、白いアウェー宇宙服のブロッケンマイヤーの磁力に反発して、三人のエンジ色の宇宙服を着たディフェンダーたちが、キレイに弾き飛ばされた。
ボールは……、ニックだ、ニックがキープした! ニックを徹底マークしていたはずの相手のダブルボランチは、ここが勝負と見たスタミナバカのリトルジョンの、献身的なガードに翻弄されている。
今だ!
手薄になったゴール前に、ニックが宇宙一美しいと評されるクロスを放り込んだ。ゴールマウスのニアサイドに、定石通り佐藤さんが飛び込んで行く。うわっ、うめえ! ヘディングと見せかけて、ボールを後ろにそらしやがった。あのじじい、やっぱり只者じゃねえ! これは相手のゴールキーパーがかわいそうだ。無人のファーサイドに、相棒の鈴木さんが反撃の一発目を難なくキメる!
GOOOOOAL!
さらに一点を追う後半二十五分、ヘンリーからの縦パスに、トップ下のニックが反応すると見せかけて、鋭くターンしながら相手のダブルボランチをブロックすると、ぽっかり口を開けたシュートコースに、リトルジョンが鮮やかなミドルシュートを叩き込んだ。これで同点!
だが、その直後から、前線の四人の運動量が、目に見えてガクッと落ちる。スペースフットボールに選手交代の概念はなかったから、すぐさま職長(かんとく)からの指示が無線で飛び、佐藤さん、鈴木さんのツートップと、トップ下のニック、ガーディアンのリトルジョンをゴール前に下げ、スクエアフォーバックと合わせて守りをブ厚くすると同時に、前に押し出された形のダブルボランチのヘンリーとサンダースが、縦気味のツートップへとポジションチェンジした。
今シーズンの俺たちの強さの秘密は、実はここにあった。飛び抜けたスター選手も、期待の大型新人もいなかったんだが、何でも小器用にこなしてしまう『セントポールの勇者たち』の伝統が、高いレベルで結実したんだ。フォーメーションを変化させても、俺たち十一人の絶妙なバランスは決して崩れやしなかった。逆に『ビッグベアー』に瞬間的にマークのズレが生じて、ディフェンダーでありながら背番号11を背負ったマッコールが、左サイド下方でキレイにフリーになる。
こぼれ球を拾ったサンダースが、ワンタッチでヘンリーに速いパスを送ると、ボールは恋人を迎え入れるように前方に両腕を広げた主将のヘンリーの、白い宇宙服の右腕から左腕の前を、流れるように美しいカーブを描きながら通過して行き、無人のスペースをオーバーラップするマッコールの頭の先に、ピタッと収まった。磁力の魔術師と称されるヘンリーの、面目躍如たる芸術的なプレーだった。
マッコールがボールを器用に頭で押すようにしながら、ゴールに向かって、そのまま三十メートル近くを独走して行く。これがもっとも基本的なドリブルなんだが、普段から無重力空間での作業に従事している者でなければ、まずこれができない。エンジ色のディフェンダーたちが、マッコールの行く手とシュートコースを完璧に塞ぐ。
俺はマッコールほど冷静なエンジニアを他に知らない。フィールド内でも、それは少しも変わることがなかった。マッコールは相手ディフェンダーを十分に引きつけてから、ひょいと頭を後ろに反らすと、小型ブースターの推力と全身の筋力をフルに使って、ノーマークの逆サイドに、エビのような姿勢からの強いヘディングで、実に正確なパスを繰り出したんだ。
この時間帯、もっとも推力に余裕があるのは誰だか分かるかい? そう、ゴールキーパーであるこの俺さ。ゴールキーパーのブースターは、横方向に鋭く加速するために、他のフィールドプレーヤーと違って横向きに付いている。俺はカニのような格好でフル加速したまま、混乱を続ける『ビッグベアー』のマークを鮮やかに振り切って、ペナルティーエリアに豪快に侵入すると、マッコールからの珠玉のラストパスを、反発する磁力でそらさないように、半身になった自分の体ごと丁寧に相手ゴールに押し込んだんだ。まあ、エビとカニの夢の競演ってわけだな。
GOOOOOAL! GOOOOOAL! GOOOOOAL!
それが決勝点になった。
「よう、パパ」
まるで男の子のような言い方で、娘のルナが小さな手を上げた。スペースコロニー『セントポール』の中でも有数の、高給ケーキ店の前だった。ルナは俺が十八歳の時の子供だから、早いもので、もう十一歳になる。スペースフットボール専用のアウェー宇宙服を模した、公式レプリカのキュートな白いツナギ姿が俺を泣かせた。背番号は、もちろん1だ。
「前節の俺の逆転ゴール、ちゃんと見ててくれたか?」
「もちろん見たわよ。テレビの前で、ママまで絶叫してたわ。前半に立て続けに二失点くらった時の顔は、まるで般若みたいだったけどね」
絶品のブルーベリーのタルトにかぶりつきながら、ルナがケタケタと屈託なく笑う。気の強いあいつと離婚してから、既に五年の月日が流れようとしていた。
「で、どう? 優勝できそうなの?」
「バカ、『セントポール』は優勝から二十五年も遠ざかってるんだぜ。そうは簡単にいくもんか」
冗談めかしてスッとぼけながら、カッコつけて流し込んだ濃いエスプレッソが、不思議と胃に染みた。
前半戦を終了して、わが『セントポール』は三勝二分の勝ち点十一。四勝一敗で勝ち点十二の首位『ビッグベアー』との勝ち点差は、わずかに一だった。だが、前半戦は不運に泣いた『ユニコーン』だって、決してこのままでは終わらないだろう。頭脳偏重技術者集団の『レッドゲート』はともかく、体力自慢の『グリフィン』、『トマホーク』の底力も侮れない。絶対的なエースの不在が、俺の心に不安の影を強く落としていた。
「ジョー選手、サイン下さい」
ルナよりも小さな男の子が、Tシャツのおなかの部分をかわいらしく前に引っ張り出しながら、俺たちの座る席にトコトコとやって来た。向かいのルナが、テーブル越しに黙って俺に紫色のマジックを差し出してくれる。一緒に暮らしていないこの俺が、ルナに父親としてしてやれることはと言えば、スペースフットボールの選手として、『セントポール』を代表し、全力を尽くして戦い続ける姿を見せること、それくらいしか他になかった。
「ジョーでいいぜ」
俺は小さなTシャツにサインしながら、男の子の頭を優しく撫でてやる。お礼の代わりだろうか、男の子がとても嬉しそうに歌い出した。
見よや十字の旗かざす セントポールの精鋭が 火星の軌道をいでゆけば
若き心の血は燃えて われらの行く手に敵ぞなし
コロニー セントポール おおわが故郷
向こうの席に座る、男の子の両親が控えめにその歌声に加わった。若いウェイターが、年配の夫婦が、主婦だけのグループが、次々と一緒になって歌い出し、ついに店中が大合唱になった。
愛と正義の心もて いざゆけわれらの強者よ 勝利の力われにあり
セントポールの旗の下 猛き血潮の尽きるまで
コロニー セントポール おおわが故郷
ルナが俺の瞳を誇らしげに見つめながら、みんなの期待がぎっしりと詰まった力強い歌声の中に、母親譲りの一際美しい声を響かせる。千載一遇のまたとないチャンスが目の前に転がってきていることに、スペースコロニー『セントポール』中の誰もが気がついていた。
俺は……、いや、俺たちは、絶対に負けるわけにいかなかった。
後半戦のスタートを、アウェーの『グリフィン』、『トマホーク』相手に辛勝し、俺たち『セントポール』イレブンは、首位の『ビッグベアー』をピタリと追走していた。ホーム三連戦の初戦となる『ユニコーン』とのゲームは、雪辱に燃えるKOボーイたちの執念の前に屈しはしたものの、続く『レッドゲート』戦を順当に大差でモノにし、待望のホーム初勝利をあげて六勝二分一敗の勝ち点二十。一方の『ビッグベアー』は、俺たち同様に伝統の『ユニコーン』戦こそ落としはしたが、それ以外は順調に白星を積み重ね、七勝二敗の勝ち点二十一。わずか勝ち点一差は変わらぬまま、ついに最終節の直接対決を迎えることとなった。
たとえ四半世紀ぶりの優勝がかかった大切な試合の前だろうと、スペースコロニー保守業務の工程表に変更が加えられることはない。俺とニックは、ははっ、相変わらず飽きもせず、今日も『セントポール』の外側にいた。だが、いつもと違っていたのは、今回の作業が定期の大規模修繕で、ニックどころか、スペースフットボールに選手登録しているほとんど全てのエンジニアが、俺たちが普段担当しているこの六十番台エリアに集結していることだった。ここ一週間というもの、俺たちは朝から晩まで、ひたすら愚直に『セントポール』にペンキを塗っている。特別な技術は全く必要なかった。ただ忍耐力さえあればよかった。
しかし、予期せぬ事故というものは唐突に起こる。
親父たちの世代よりもずっと前から、コロニーの外側に非公式に張り巡らされたままになっている、親綱と呼ばれるワイヤーのうちの一本が、前触れもなく突然切れたんだ。運が悪いことに、その親綱には金髪のブロッケンマイヤーが、安全帯のフックをかけていた。まるで龍が天に昇って行くように、遠心力によって太い金属製のワイヤーが、『セントポール』の外側に向かって一気に立ち上がって行く。マグネットブーツが一瞬だけ見せた小さな抵抗も虚しく、白い宇宙服を着たブロッケンマイヤーの体も、その親綱に連れ去られるかのごとく、恐ろしいほどのスピードで外宇宙に向かって上昇して行った。
俺はスキーの板からブーツを外すように、両足首を一気にひねって、ペンキを塗っていた通路からマグネットブーツを瞬間的にフリーにすると、同時に右手で自分の安全帯のフックを頭上の親綱から解放し、小型ブースターを全開にして、絶望的に小さくなって行くブロッケンマイヤーの後姿を必死に追った。
「フレッチャー! フレッチャー・フィスト・ブロッケンマイヤー!」
狂ったような俺の叫びに、いつもの陽気なドイツ語の応答はなかった。きっとヘルメットの中で脳震盪を起こしているのに違いない。ブロッケンマイヤーの体が、ついに切れたワイヤーの先端を越えて、完全な虚空へと放り出される。俺たちの生まれ故郷である『セントポール』からは、既に五百メートル以上も遠ざかっていた。距離だけで考えれば、小型ブースターの燃料タンクに残る圧縮酸素の残量は十分だったが、遠心力でコロニーから弾き飛ばされるように飛び出しながら、さらにフル加速し続けたこのスピードを止めるための逆噴射に、一体どれだけの推力が消費されてしまうのかが全く計算できなかった。ルナの心配そうな小さな顔が、俺の脳裏を鋭くよぎる。
「すまねえ、ルナ。パパ、ここで死んじまうかもしれねえ……」
体をよじって急制動をかけ、俺はブロッケンマイヤーの下半身に抱きついた。体中の筋肉が悲鳴を上げる。胸のLEDは……、オールグリーンだ! よかった、本人も宇宙服も無事だ!
希望と不安が、胸のうちで激しく交錯する。
俺は海というものを見たことがなかったが、真夜中の大海原で、浮き輪につかまって漂流する遭難者の気持ちってやつが、少しだけ分かるような気がした。
ガクン!
唐突に俺の長い右足を、何かが明確な意思を伴って力強く引っ張った。
「よう、コンドルのジョー。誰がここで死んじまうんだって?」
海底に潜む魔物ではなかった。いや、魔物のほうがいくらかマシだったかもしれない。
「……ク、クソ髭だ! ちくしょう、クソ髭、てめえがここで死んじまえ!」
どんなに気が動転していようとも、このニクい声を俺が聞き間違えるはずがない。ルナが一歳の時にこいつと組んでから、もう十年になる。
相棒のニックだった。
俺の右足を利き腕の左手でしっかりとつかんだ髭のニックが、丸いヘルメットのシールドの中で、やけに人懐っこく笑っていた。そのニックの足をヘンリーが、ヘンリーの足をカービーが、カービーの足を鈴木さんが、鈴木さんの足をマッコールが、マッコールの足をサンダースが、サンダースの足をケイジが、ケイジの足を佐藤さんが、そして、佐藤さ
んの臭い足をリトルジョンがガッチリとつかみ、俺たち『セントポール』イレブンは、まるで白い連凧のように、ただ宇宙空間に浮いていた。
こいつらは……、こいつらは本当に最高だ!
「帰るぜ、バカども。もう昼メシの時間だ」
背中に緊急時用の特大ブースターを背負った、しんがりのリトルジョンの低く落ち着いた声が、まるで何事もなかったかのように、スピーカーから静かに聞こえてくる。
はるか遠く足元に、満点の星空を従えたわれらがスペースコロニー『セントポール』が、
巨大な賞状筒のように、誇り高く自転していた。
擬似重力のある医務室に担ぎ込まれる頃には、ブロッケンマイヤーは意識を取り戻していた。だが、ヤツの十八番である壁面ドリブル・ブレイクショットをよく知るドクターは、この美しい金髪をたなびかせる鷲鼻の男に、明日の試合への出場を許さなかった。
普通に考えれば、ブロッケンマイヤーの抜けた穴を埋めるためには、リトルジョンを最終ラインに下げ、二軍(サテライト)リーグでガーディアンとしてピカイチの実績を誇る中堅のビリーに、トップ下のニックを守らせるのが定石だった。機動力はグッと落ちるが、チームとして破綻する可能性も極端に薄い。実際のところ、引き分けでも優勝できる状況であれば、そのフォーメーションがベストな選択だっただろう。だが、俺たちは勝ち点で『ビッグベアー』を逆転するために、運命のラストゲームで絶対に勝たなければならなかった。
この大一番に、ブロッケンマイヤーの代役に職長が抜擢したのは、若干十九歳、二軍リーグで急成長を遂げている新人サイドバックの、ヘンリージュニアだった。そのセンスが非凡なものであることは、練習中にレギュラーの誰もが肌で感じていたし、何よりここ三ヶ月間の宇宙空間における累計作業時間が、タフでニートであることが信条の『セントポールの勇者たち』の中でも、群を抜いていた。異論を口にする者は、一人もいなかった。
胸のパネルに黄色いユリの紋章が鮮やかに描かれた、紫色の揃いの宇宙服を着て、俺たちはロッカールームにいた。ここにはまだ重力も酸素もある。だからヘルメットだけは被っていない。空気が重かった。
重苦しい雰囲気の中、佐藤さんがおもむろに口を開く。
「『セントポール』がこの前に優勝した時は、俺も鈴木も十四歳だった。コロニー中が大熱狂して、興奮は何週間も収まることがなかったよ。子供たちは、みんなスペースフットボールの選手になることを胸に誓ったもんさ。今日、俺と鈴木は、この試合をもって現役を引退する。その最後の試合で、こうしておまえらと一緒に、夢にまで見た優勝を争うことができるなんて、本当に今でも信じられんよ。みんな、ありがとう。心から礼を言う」
それを聞いたヘンリーが、そっとベンチから立ち上がった。
「ふう。おまえらはバカだからな、この俺サマがいいことを教えてやる」
まるで負け試合の後のように沈んだ試合前のロッカールームで、色男のケイジ、色男でないカービー、冷静なマッコール、情熱家のサンダース、髭のニック、大柄なリトルジョン、足の臭い佐藤さん、その相棒の鈴木さん、そして若いヘンリージュニアが顔を上げて、頼れる主将の顔をじっと見つめた。
「いいか、おまえら。一度しか言わねえから、よーく聞けよ。どうやら勘違いしてるようだがなあ、奇跡ってやつはこうしてお通夜のように、お行儀よく黙って座って待っていたって起こるもんじゃあねえ。奇跡はなあ……、奇跡は自分の足で立ち上がって起こすもんだ! 行くぞ、バカども! 勝って優勝するのは、この俺たちだ!」
「おおっ!」
最終節の試合開始を告げるホイッスルの音が、ヘルメット内のスピーカーから静かに鳴り響く。
案の定、引き分けでもいい『ビッグベアー』は、前線に曲者の背番号10一人だけを残し、残り全員が自陣に引いて、ガッチリと守りを固めてきた。小型ブースターの推力を最大限
に温存しながら戦える、もっとも現実的な戦法だった。俺はパブリックビューイングの会場から届く音声を、小音量ながらもオンにしていたから、熱い『セントポール』の住人たちが、『ビッグベアー』の消極的な戦い方に、一斉にブーイングするのを聞いていた。こんなことができるのも、ホーム開催試合におけるアドバンテージの一つだった。
肝心のゲームの方はと言えば、ものの見事に相手の術中にハマり、パスこそ回せるものの、なかなかシュートにまで持ち込めないまま、貴重な時間だけが、ただ冷酷なまでに過ぎて行った。そんな前半四十二分、相手の苦し紛れのクリアボールが、前線で意図的に孤立していた憎き背番号10の足元にピタッと収まる。こいつは、自ら蹴り出したボールを相手ディフェンダーの宇宙服の磁力で反発させ、自身が走り込んだスペースに再びボールを戻させる、一人パス&ゴーが天才的にうまかった。最終ラインに残っていたケイジとカービーが、あっという間にそのテクニックでブチ抜かれ、ゴールキーパーの俺は、ゴール前でヤツと一対一になる。
スピーカーからファンの悲鳴が轟いた。アウェーの『ビッグベアー』戦で、俺が立て続けにこいつに股抜きされて二点を失ったのを、みんな悪夢のように覚えていたからだ。少なくとも、ここで先制点を取られれば、二十五年ぶりの優勝はほぼ絶望的となる。
だが、俺は冷静だった。
俺がヤツなら、今度は股間を抜くと見せかけて、もっとも確実なコースにシュートを放つだろう。俺はほんのわずかだが、長方形のゴールマウスの右側に寄って、左側を空けていた。ヤツから見れば、ほんの少しだけ利き足の方向が広いわけだ。
白い宇宙服の背番号10が、シュートの体勢に入る。俺は両手を大きく広げたまま、ギリギリのタイミングで足を閉じた。まるで紫色の十字架だ。ご丁寧に胸には、黄色いユリの紋章まで刻まれている。と同時に、俺は左方向にフルブーストしていた。確信はあったが、大きな賭けであったことは間違いない。俺は股抜きを強く意識していると、ヤツに瞬間的に誤解させるためだけに閉じた両足を、今度は高速で横に移動しながら、素早く開いた。
シュートは……、やはり左側だった!
ボールがゴールラインを割ろうとしたその瞬間、俺が大きく伸ばした長い左足の磁力に反発し、ボールは奇跡的に大きく左サイドへと軌道を変えた。耳元でファンの絶叫が聞こえる。そうさ、奇跡はなあ……、奇跡は自分の足で立ち上がって起こすもんだ!
しかし圧巻だったのは、むしろそこからだった。クリアしたボールが壁に近づき、磁力で反発してバウンドしようとする絶妙のタイミングで、そのボールを壁際で抱え込むような姿勢をとってキープしたのは、絶対にそんなところにポジショニングしているはずのない、新人サイドバックのヘンリージュニアだった。あいつは……、あいつは相手エースのシュートコースだけでなく、そのシュートにゴールキーパーのこの俺がどう反応し、最後にどこにボールがこぼれて来るかまで、この直方体に閉鎖された神聖なフィールドの中で、唯一正確に見通していやがったんだ!
ヘンリージュニアが、ブロッケンマイヤーのような完璧な壁面ドリブルで、相手陣内に高速で侵入して行く。その予想外のオーバーラップに、相手ディフェンダー三人が思わず引っ張られた。ニックとリトルジョンも、ブレイクショットの後のこぼれ球の位置を予測して、ヘンリージュニアの右斜め後方にすかさず移動を始め、そうはさせじと『ビッグベアー』のダブルボランチが、二人の進路を磁力で激しく妨害する。期せずして、白いアウェー宇宙服を着た敵のフィールドプレーヤーの半数が、左サイドに集中した。
「ゴー!」
ヘンリージュニアの父親であり、チームの主将でもあるヘンリーが力強く叫んだ。その声を合図に、壁面をオーバーラップしていたヘンリージュニアが唐突に壁に近づき、反発する磁力によって、糸の切れた操り人形のように、思い切りフィールド側にリバウンドする……、はずだった。
ところがヘンリージュニアは、フィールド側にリバウンドしながらも体のバランスを全く失わず、ヤツと同時に壁面から強烈に反発したボールは、恋人を迎え入れるように前方に両腕を広げたヘンリージュニアの、紫色の宇宙服の右腕から左腕の前を、流れるように美しいカーブを描きながら通過して行き、ガラ空きのゴール前に、まさに神の矢のように鋭く放たれたんだ。
磁力の魔術師の息子は、やはり磁力の魔術師だった。そう、それも最上級の!
今までの常識ではとても考えられない、そのクレージーなクロスにも本能的に反応し、ファーサイドに飛び込んだ佐藤さんが、自身二度目の得点王を決定的にするシュートを、豪快にゴールマウスに叩き込む!
GOOOOOAL! GOOOOOAL! GOOOOOAL!
ヘルメット内のスピーカーをブチ破らんばかりの大歓声が、耳元で嵐のように鳴り響いた。
俺の渾身のスーパーセーブは……、ふう。あっけなく熱狂の渦の外側へと消し飛んだよ。
後半は前半と打って変わって、俺たちは『ビッグベアー』の怒涛の大反撃の前に、自陣に押し込まれ続ける、我慢の展開となった。俺はきっちり四十五分の間、まさに息する暇もなく、ディフェンダーたちにシュートコースを消すためのポジショニングの指示を、ひたすら飛ばし続ける羽目に陥った。だが、ゴール前の混戦は、交錯する宇宙服同士の磁力が複雑な相関関係を無重力空間に描き出し、逆に相手の背番号10の得意技である、一人パス&ゴーを封じ込める結果となった。
飛び道具さえ恐れなくていいのなら、互いの信頼関係が命である『セントポール』イレブンの今シーズンの守備力は、まあ、押し込まれている時間帯限定、という後ろ向きの条件付きではあったんだが、常勝軍団である『ビッグベアー』の攻撃力より、一枚も二枚も上手だった。俺たちは凄まじいまでの集中力で、相手の猛攻を一つ一つ丁寧に凌いでいった。
スペースフットボールには、ファールもスローインもないから、ロスタイムもない。
「十、九、八、七……」
俺は初め、突然、耳元から流れてきたパブリックビューイングの会場からの、その大歓声の意味が全く分からなかった。右サイド上方で相手の横パスを強引にカットし、前線に大きく蹴り出したサンダースが、勝利を確信して両手の拳を頭上に力強く突き上げる。その直後に、試合終了のホイッスルが高らかに鳴り響いた。
……公式応援歌『行け! セントポール』の歌詞は、実は三番まである。三番は、全ての競技において、スペースコロニー『セントポール』の代表チームが優勝した時にしか、公けの場では歌ってはいけない、という厳しい決まりがあった。そして俺たちは、実に四半世紀ぶりの熱狂的な歌声を、ヘルメット内のスピーカーから聞くことになったんだ。
ああわれ勝てり おお覇者ぞ 聞け列強の勝ち歌を みよ紫の旗風に
セントポールの鐘の音は われらの勝利を告ぐるなり
コロニー セントポール おおわが故郷
鳴り止まぬ歓喜の大合唱の中、いつものように、試合終了のちょうど一分三十秒後に、宇宙服の外生地に使われている複合素材への通電が切られ、と同時に俺たち十一人は、互いに飛びつき合い、狂ったように抱き合って、優勝の喜びを爆発させた。ケイジが、カービーが、マッコールが、ヘンリーが、サンダースが、ニックが、リトルジョンが、佐藤さんが、鈴木さんが、ヘンリージュニアが、テレビカメラの目もはばからず号泣していた。無重力のフィールド内では、ヘルメットの内側を、涙が丸い水滴になって漂いやがるから、誰も泣いていることを隠せなかったのさ。
「よう、コンドルのジョー! 優勝賞金は何に使うんだ?」
さかさまになった髭のニックが、その姿勢のまま俺に近づいて来て、人懐っこい泣き顔で、俺のイカした顔を、ヘルメットのシールド越しに覗き込む。俺は最高の相棒と両方の拳を力強く合わせながら、ニヤリ、とやけにカッコをつけて、その問いに大声で答えてやった。
「ルナを地球に連れて行ってやるんだ! まだあいつが小さい頃、優勝したら本物の月を見せてやるって、そう約束してたのさ」
「そうか! そいつはすげえな! 喜ぶぞー、あいつ」
「クソ髭、どうだ、おまえも一緒に行くか?」
「え、いいのかよ?」
「もちろんさ! おまえは俺の大切な……、大切な荷物持ちだからな!」
その日は夜になるまで、スペースコロニー『セントポール』中の、全てのチャペルの鐘が誇らしげに鳴らされ続け、佐藤さんが言っていた二十五年前と全く同じように、コロニー中が大熱狂して、興奮は何週間も収まることがなかった。
俺たちは、試合に出られなかったブロッケンマイヤーや、ビリーをはじめとする二軍の選手たちや、スペースフットボールに選手登録をしていない、その他の仲間のエンジニアたちや、職長やスタッフや、そしてそれぞれの家族全員で集まって、朝までバカみたいに大騒ぎした。
ヘンリージュニアが土壇場で見せた夢のビッグプレーは、いつのまにか、そしてごく当然のように『セントポール・ターン』と命名され、火星六コロニー中の話題を独占すると同時に、ヤツは一夜にしてスター選手となり、……ついでに十年後には、実に小癪なことに俺の義理の息子となるわけだが……、つまり全ての出来事ってやつは、火星の軌道であるとか、俺の渾身のクリアが伝説の初『セントポール・ターン』によって新たな命を吹き込まれ、珠玉の決勝点に生まれ変わったように、見えない糸のようなもので連綿とつながっているものなんだ。
……俺は、この年の『セントポール』スペースフットボールチーム、奇跡の逆転優勝の感動を、そう、あらゆる意味において、生涯忘れることはないだろう。
見よや十字の旗かざす セントポールの精鋭が 火星の軌道をいでゆけば
若き心の血は燃えて われらの行く手に敵ぞなし
コロニー セントポール おおわが故郷
愛と正義の心もて いざゆけわれらの強者よ 勝利の力われにあり
セントポールの旗の下 猛き血潮の尽きるまで
コロニー セントポール おおわが故郷
ああわれ勝てり おお覇者ぞ 聞け列強の勝ち歌を みよ紫の旗風に
セントポールの鐘の音は われらの勝利を告ぐるなり
コロニー セントポール おおわが故郷
二度目の地球にて コンドルのジョー
※ スペースコロニーのサイズや回転速度に関する記述は、ウィキペディアの「スペースコロニー」の項目を参考に致しました。
※ 作中の応援歌は、立教大学第一応援歌「行け立教健児」の歌詞を、作品に合わせて、ごく一部だけ改変したものです。 |