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エレベーターのなかで 

高本淳

 正装したひとりの紳士とトランプ札が散らばったテーブルをはさんでアインシュタインは坐っていた。シルクハットを目深にかぶった相手は一見したところその昔相まみえた喜劇王チャップリンにそっくりだったが、チョビ鬚をたくわえた別のもうひとりの男にも似ていた。その指は白く長く驚くほど素早く動いて札をすべて掌のなかにかきあつめ、ぱたぱたと表裏をそろえナイフで切り出された直方体のようにして正確にテーブルの中央に置いた。
 アインシュタインは手をのばしかけ、札の背に描かれている絵柄を見てなぜか不安を感じてためらった。それは彼の名が世界に知られるようになったちょうどその頃、ある心理学者が出版した本の中にあった図版であり、黒地に白く杯が浮き出た絵柄はちょっと見方を変えると互いを見つめる黒いふたつの横顔になるのだった。
「どうぞ……シャッフルしてください」
 そううながされ博士はトランプを手にとると念入りに切り、ふたたびテーブルに置いた。相手は身をかがめ、帽子のつばの下にのぞく口元ににやりと笑いをうかべると一番上に乗った札をめくりテーブルに表を上にして置いた。スペードのエースだった。
「以前こう言いましたね? 博士。神は賽をふらないと……」
「ああ、ボーアくんとの論争の最中にね。そしたら彼はなぜわたしにそれがわかるのだ?と切りかえしてきたものだ」
 男はふたたび手をのばし、つぎの札を表がえした。スペードの2だった。
「であればあるいはこの結果にご満足でしょう?」
 彼が札をひろげるたびにそこに書かれた数字はひとつづつ増えていき、スペードのキングのつぎはハートのエース、そしてハートのキングのつぎにはクラブのエースが順序よく裏返された。
 アインシュタインはテーブルに並べられて行く札を目で追いながら尋ねた。
「でたらめに札をきったのに……見事な手品だ」
「いいえ、博士。これは手品ではありません。あなたがシャッフルされた結果です」
 最後の一枚のダイヤのキングをテーブルに置きつつ男は言った。
「それはとうていありえない。何か神秘的なできごとが起こってでもいないかぎり」
「神の啓示を求めておいでで? 残念ながら出来事に意味などありません。すべては偶然ですよ」
「……だが、きみはべつに驚いていないようだ」
「時間の流れというものが錯覚にすぎず、事象の世界線が時空間にあらかじめ描かれているのであれば……それを見通すことができる知性にとって未来を予言することは容易いでしょう?」
「きみはラプラスの魔物なのか?」
 男はふくみ笑いをした。
「むしろアットランダムな札の配置から秩序を出現させたあなたこそマックスウエルの魔物では?」
 突然、薄闇のなかにまばゆい光が射し天上のトランペットの吹奏とともにアインシュタインの背後に大天使ミカエルがすっくと降り立った。
「よこしまなる者よ! われらの前よりしりぞけ!」
 呵々とこう笑しつつ男は硫黄の炎と煙とともに消え失せた。

「博士?」
 アインシュタインは目を醒まし、自分が天国行きエレベーターのなかの寝椅子の上でうたた寝していたことに気づいた。
「うなされておいででしたよ」
「ああ……」彼は起き上がりながら雀の巣のようなぼさぼさの頭髪をかきあげた。
「悪い夢だった。生前、眠るときにはすべてを忘れ安眠できるようにしたいと願っていた。……だが、ことここに至ってもまったき魂の安息は得られない」
「当然です。なぜなら、あなたはまだ天国の門に入ってはいない――」
「そうだ……あるいはこのエレベーターはわたしの孤高癖に対して神の罰を下すための煉獄なのかも知れないな」
 天使は黙したまま微笑んだ。
「いわばわたしはひたすら純粋に知的な人生の側面だけを生きてきたのだ。そうすることで人生の他のすべてを犠牲にし神に完璧な彼の肖像画をささげたつもりだった。しかしいまや作品はまるでモダンアートのように何ものとも決めかねる不可解な姿を描き出しつつある――」
「もうすこし詳しく説明していただけますでしょうか?」
 少し離れたところに坐ったまま、まるで精神分析療法家かなにかのように静かに天使は尋ねた。
「つまり相対論が世に出て以来、物理学者たちはわたしに予見できなかったさまざまな奇妙な帰結をそこから引き出してきたのだ。たとえばブラックホールにおける裸の特異点であったり確率的なビッグバン宇宙の創世であったり。そしていままた……」彼は眠りに落ちる前に読んでいた学会誌を片手でかざして言った。
「このホーキングという男はブラックホールは十分長い時間の後蒸発し、そこに落ち込んだ物体はふたたびこの宇宙で観測できるようになると主張している。だがたとえ物質とエネルギーが事象の地平面から帰ってくるとしても、そこには永久に失われるものがあるはずだ……」
「――どうぞつづけてください」
「ひとたび特異点に落下した物体はすべての性質――その物体が持っていたあらゆる情報を失ってしまう。たとえ遥かな未来に素粒子やエネルギーがふたたびわれわれのもとに戻ってきたとしても、それが落下する前には何であったのかを再構成することはできない。もしホーキングが正しければもはや時の流れという映画フィルムを逆まわししても決して過去にもどることはできないだろう。まさにそれは時間軸の対称性の破綻を意味する」
「それは深刻な事態なのですね?」
「ああ――なぜならネーターの定理として知られる保存則の対称性への数学的読み替えがあるからだよ。たとえばエネルギー保存則はラグランジュ方程式で表された時間並進の対称性によって保障されている。だからブラックホールの地平面を通過した物体の情報が保存されず時間の対称性が破綻するとしたら――われわれはエネルギー保存則への信頼をも同時に失ってしまうだろう……」
 アインシュタインは学会誌をテーブルの上に放り出すと悲し気に肩をすくめた。
「さすがにこうした結論に対してペンローズなどの時間対称性を擁護する物理学者たちが反論している。しかしその手のやっかいな議論は量子論と相対論が絡むあらゆる場所で頻出しているようだ。どうやらわたしの相対論は手のつけられない鬼っ子に成長してしまったらしい――かつて危機にあるかに思えた物理学的宇宙に安定と秩序をもたらしライプニッツの神を讃えようとしてわたしはあれを産み出したつもりだったのだがね」
 天使は立ち上がり寝椅子に近づくと手をのばしてアインシュタインの掌のなかに重みのある金属製の物体をひとつ落とした。
「どうやらあなたは道を見失っておいでのようだ。これが助けになりませんか?」
「うん? これは……」
 突然それがなんであったか気づいて博士は驚きと喜びにその顔を輝かせた。
「父からもらったコンパスだ……五歳のわたしが病気で臥せっていたときこいつを父はベッドに持ってきてくれたんだよ!」
「幼いあなたはその磁針の動きにたいそう魅せられたと聞きます」
 コンパスを愛おし気に両手で包むようにして坐りなおし、アインシュタインはつぶやいた。
「最初からなぜきみたちがこの小部屋をこうしたモダンアートで飾りつけてくれたのかがわからなかった……わたしは古典派の絵を愛でることはあっても生涯決してこうした芸術運動を理解しようとはしなかったからね。しかしいまおぼろげながらそのわけが理解できた気がする……。わたしは幼年時代手にしたこのコンパスの語っていたもの――目には見えないシンメトリカルな秩序を生涯世界に求めつづけていた。ひょっとしたらそれは母の生きてきた時代……失われてしまった古きよき時代のハプスブルグ的秩序でもあったかも知れない。自分自身を数理構造のエレガントで秩序だった世界の中にあえて閉じ込めてきたのも何ものにも邪魔されずにそうした夢をひたすら追い求めたかったからだ。
 だからナチズムの台頭に対しても理論物理学の象牙の塔にひきこもったままわたしは傍観していた。そしてそれがわが身とわが家族にふりかかる現実の脅威になってはじめて、消極的な平和主義の無意味さと邪悪と進んで戦う必要性とに遅まきながら気づいたのだが……あのとき友人ロマン・ロランから忠告されたように結局わたしは戦うべき相手を見誤っていたらしい。ヒトラーやその取り巻きたちを特徴づける異質さへの敵意と不寛容という陥穽はじつはあらゆる社会の中に潜んでいたのだ。冷戦とマッカーシズムを経るうちにナチスに対抗すべくわたしが自ら製造を進言した核兵器はいつしかわれわれ自身の喉元に突きつけられた自決の剣となってしまっていた。
 パグウォッシュでの宣言は世界に対するわたし自身のそうした悔悟と警告にほかならない……だが正直に言えばそこでもわたしは必ずしも積極的な役割を果たしたわけではなく、そののちもあいかわらず統一理論という孤高の砦に閉じこもりつづけていた。――いまにして思うのだが、もしもファシズムに代表される悪徳こそがわたしが戦うべく神の定められた真の相手であるとしたなら、わたし自身の生き方――真理のためなら家庭生活を捨てて顧みない自己中心性、自らの世界観に反する量子力学に対するかたくなな態度……はかえってそれら人間性の弱点に近いものであり、むしろ煉獄において罰せられるべき罪であったかも知れない。
 そうとも……わたしの罪はわたしには知り得るはずもない神の似姿を現実の宇宙におしつけようと願い、逆にせっかく神から他者を愛し理解すべく与えられていた時間を徒労のうちに過ごしてしまったことにこそあるのだ!」
 父親からのプレゼントを彼は握りしめた。
「……最初の妻ミレーバ、行方不明となった長女リーゼルをふくめた子供たち、そして二度目の妻エルザ……彼女たちに対してなんとわたしは冷淡な夫であり父だったことか? ――ふたりの妻たちはひと足先に天国へ行っているが、果たして家族に暖かな思い遣りをまるで示してやれなかったこのわたしを許してくれるだろうか? そしてわたしを何よりも愛してくれた父と母は……?」
 ミカエルは身を起こし、その背にある白い翼がおごそかに広げられた。
「神は老獪にしてその門にいたる道は平坦ではありません。負わされた(charged)軛の重さこそがむしろ人をしてそこに辿り着く力を与えることがあるのです。あたかも荷電された(charged)粒子が磁界から新たにエネルギーを得るかのように……」
 アインシュタインはコンパスから目をあげて当惑した面持ちで天使を見つめた。
「……だがそのためには加速度が必要なのだ。もしもここが加速しつづける天国行きのエレベーターの中であるなら荷電粒子はエネルギーを得て電磁波を放射できる。逆にここが煉獄であるならそうした出来事はおこらない。大地にたいして静止した荷電粒子はどこからもエネルギーを得ることはなくそれゆえ電磁波を放射できるはずはないから――しかし、いっぽうで相対論が正しければ等価原理により両者は区別できないはずだ……。
 わたしは荷電粒子のふるまいを観測することによって知ることができるのだろうか? 自分が天国の門の前にいるのか、それとも終わりのない煉獄にいるのかを?」

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