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メトリックの彼方

高本淳

  ブリッジが揺れ、艦長が報告を求めるより早く桜園航宙士が叫んだ。
「本艦は攻撃を受けています!」
「戦闘態勢! 状況を報告せよ」
「ラムラン艦隊に囲まれてプラズマ魚雷の集中攻撃をうけています。遮蔽シールドの能力30パーセントダウン。これ以上もちこたえられそうもありません!」
「エンジン出力をすべてシールドに投入! ミスター・ストック、どうやら罠にはめられたようだ」
「あの遭難信号はわれわれを誘き出すためのトリックだったようです。民間のクルーザーがこれほどブラックホールに近い位置にいること自体、0.1パーセント以下の確率でしか起こらないことでした」
 この期におよんでもなお冷静にストックは分析した。
「反省は後でいい。とりあえず今どうするかだ」
「出力をすべて防御にまわしている以上、手も足も出ません」
「どうやら輝かしい冒険旅行もこれで最後らしいな、角」
 ドクター真古井が無念そうに言った。
「いや、まだ終わりと決まったわけじゃない」
「どうするつもりだ?」
 角艦長は浦賀中尉をふりむいた。
「敵艦にむけ回線をひらきたまえ。送信メッセージは『降伏する』だ」
「……でも、艦長!」
 彼は安心させるように彼女に微笑みかけると片目をつぶった。

「するときみがあの高名なる角艦長というわけか。ようこそわが帝国軍旗艦コンプレックスへ。光栄に思うよ」
 艦長は黙って立っていたが、ドクターは相手の時代がかったファッションを見てふんと鼻を鳴らした。
「どうにもありきたりの台詞だな。昔からかの帝国に憧れるのは時代錯誤の懐古主義者と相場がきまっているんだが……きみのところの皇帝のファーストネームはひょっとして『ベニト』とか言うんじゃあるまいね」
「皇帝陛下のお名前を気安く口にするんじゃない」
「やっぱり」
「わたしは司令官のナップ・ザックだ……偽の救難信号に見事にひっかかりおって、やはり宇宙連邦の者どもはお人好しの馬鹿ぞろいとみえる」
「現状認識に問題があります。実際に連邦がお人好しの馬鹿ぞろいだったらいまよりはるかに住みやすい世界でしょう……」
「めずらしく意見が一致したな、ミスター・ストック。きみもだいぶ人間らしくなってきたようだ」
「おほめにあずかり光栄です。ドクター」
「なにをごちゃごちゃ言っておる。おまえたちが現在われわれの捕虜であるという事実を忘れるんじゃない。諸君にはUSS艦隊についての情報をすべて提供してもらうつもりだ。おとなしく喋ればよし、さもなくば特別注文のSM娯楽室でたっぷりと楽しんでもらうことになるぞ……ところでそれは何だ」
 ザック司令官はようやくミスター・ストックが小脇に抱えているものに気がついた。
「リュック・サック副司令官! なぜ捕虜がこんなものを持っている」
「はい、それはバンカン・リレット、あるいはハープと呼ばれる楽器であります」
「そんなことは見ればわかる。どうしてこんなものの所持を許した」
「バンカン人の副長がそれがないと眠れないと……」
「馬鹿もの! こんな軟弱な品物を我らが誇り高き戦闘艦に持ちこむなど許せん。直ちに捨ててしまえ」
「ああ、それはあまり賢明な判断とはいえないですよ」
 ドクターが口を挟んだ。
「バンカン人の『ポン・パー』の発作を押えるためにはこのバンカン・リレットに勝るものはないのです。あなたもミスター・ストックにさかりのついた猫みたいに船の中で暴れられたくはないでしょう?」
『ポン・パー』と聞いてナップ・ザックは急にその態度を変えた。バンカン人の恋の発作の恐ろしさは銀河にあまねく知られていたのだ。
「そういうことなら捨てるのはやめておこう。だが、それはわれわれの手で保管しておく。……副司令!」
 部下がその妙な楽器を捧げ持って廊下を去っていくと、彼は艦長たちを振り向いて言った。
「さて……、どこまで話がすすんでおったかな」
 角船長はにっこりと微笑んだ。
「確か厚生施設の説明があったと思うが、その前にまずこの船をブラックホールから引き離すことをお奨めしたいね。ホーキング放射の絶叫のなかでは落ち着いて話もできないものね」
 司令官は彼をにらみつけた。
「エンジン始動。基地へ進路をとれ」
 しかし旗艦のエンジンは沈黙したままだった。角艦長たちは乗員の狼狽あわてぶりを落ち着きはらって眺めていた。
「隊長! 艦のすべての機能が停止してしまっています。離脱不能。このままではブラックホールに落下します」
「何だと! くそ、どうしたわけだ」
 ザック司令官は涼しい顔をしている捕虜たちを恐ろしい顔で振り向いた。
「いったい何をした!」
「ウイルスだよ。きみの艦のコンピューターはウイルスに感染しているのだ」
「コンピューター・ウイルスだと? そんな馬鹿な。われわれのシステムは『インターステラー・セキュリティ(TM)』で完璧に防御されているはずだ!」
「勘違いしてはいけない。わたしたちが持ってきたのはソフトウエア構成物ではなく本物の『ウイルス』だよ。生物には無害だが超伝導回路に感染して電気抵抗を無限大にしてしまう……確かニーヴンとかいう探検家が銀河の北軸のはずれあたりで発見したものだ。『インサープライズ』を出るときに、わたしはそれらをバンカン・リレットの弦にたっぷりぬりつけてきた。きみの部下たちがリレットを退屈紛れに掻き鳴らすたびにウイルスの結晶が空中に撒き散らされることになる」
 逆上した司令官はディスラプターを引き抜こうとしたが、からくも副司令官にとめられた。
「……よし、おまえたちの条件を聞こう。ワクチンの化学方程式を教えるかわりに何が望みだ」
 真古井は肩をすくめた。
「残念だが、そのウイルスのワクチンはまだ開発されていないんだよ」
「何だと……。それじゃわれわれはブラックホールへの落下を避けることができないというのか? いったい何を考えているんだ、きさまたちは……!」
「何しろ馬鹿ぞろい、なものでね」

  いかに栄光ある帝国旗艦といえども万有引力の法則に勝てるはずもなく『コンプレックス』は刻一刻と事象の地平面めがけて引き寄せられていった。
「ぶっ殺せ、こいつらを。いや、その前に拷問だ!」
「落ち着いて下さい、司令官。今あらゆる電子部品を交換しています。そんなことをしている場合じゃありません」
「無駄なことだ。やつらのために空調システムはすべて汚染されておるんだぞ」
「だから超伝導材料を使わない回路を組み立てているんです」
「今から間に合うものか! 艦は亜光速で落下しているんだ!」
「それじゃ……救命艇で脱出しますか?」
「皇帝陛下からお預かりした栄えある旗艦を失った上、おめおめ生きのびて恥をさらせるわけがない!」
 目を血走らせたザックはついにディスラプターを抜きはなった。
「覚悟するんだな。われわれだけ死にはしないぞ。きさまらも一緒に道連れにしてやる」
「最後の最後まで聞いたような台詞だな」
「しかも非論理的ですね。わたしたちのほうであなたを道連れにしたんです。それにまだ死ぬときまったわけじゃありません。ブラックホールの内部から脱出する方法はあるかも知れないんですから」
「そんなことは絶対に不可能だ!」
「本当ですか? いったいどうやって?」
 サック副司令官がストックに尋ねた。
「あっ、こら! わしを差し置いて捕虜と何を相談している。皇帝陛下に反逆するつもりか?」
「とんでもありません、司令官」
「いいや怪しい。前から貴様の忠誠にはいまひとつ疑問があった。ただちに逮捕だ。軍法会議にかけてやる」
 そのときブリッジからの報告が聞こえた。
「艦はいま『事象の地平線』を通過しました」
「不思議だ。なぜわかるのでしょう?」
 ミスター・ストックが首をかしげる間にサックはすばやく司令官のディスラプターを奪っていた。
「や、何をする」
「艦はただいま皇帝陛下の統帥権を離れました。今後はわたくしが乗員の指揮をとることにいたします」
「何だと! それは正真正銘の……、は、は、反逆だ!」
「いいえ、すでに事象の地平線を通過した以上、われわれにとって帝国を含む全宇宙の歴史は終了したも同じです。したがってあなたの権威および命令はすでに意味を失っています。……連行しろ」
 いつのまにか背後に立っていた親衛隊員たちが両脇からザックの腕を取り、怒り狂う彼をどこかへと連れ去って行った。
「角艦長。わたしたちは以後あなたの指揮に従うつもりです。どうぞ、われわれをブラックホールから連れ出していただきたい」
 艦長は意外な申し出に驚いた。
「なぜわたしを……?」
 ラムラン人はちょっと赤面した。
「本当は『インサープライズ』に乗りたかったんですよ。幼いころからTVシリーズを欠かさず見ていたものですから……」

  ストックはコンピューターに命令を下し、モニター画面にひとつの方程式を呼び出した。

「直角三角形の斜辺をx、他の二辺をyとzとするときにの関係があることはご承知でしょう。この『ピタゴラスの定理』はもちろん三角形という図形の持つ幾何学的な性質を表わしているわけだけれど、見方をかえるとこれはユークリッド平面そのものの特徴をある不変量で表現したものとも考えられます。こうした考え方を拡張して、リーマンは多次元の空間の幾何学的性質を表わす数学的な道具――『不変線素』を表わす式を考案したのです。この『シュバルツシルトの式』は……」
 彼は画面を指した。
「その不変線素dsを、ブラックホール周辺の時空の性質を表わす重力ポテンシャルψとの関数関係で示したものです。ご覧のとおりこの式の第一項には時間の変数tが含まれ、第二項には特異点からの距離rが含まれています……さて、ここで
という距離を考えて見ることにします。すると、その距離rの外側と内側とではこれらふたつの項の符号が入れ替わることがわかるでしょう。つまりではの係数はそれぞれプラスとマイナスだが、の領域ではマイナスとプラスへと逆転するわけです。言い換えると、これは時間軸tと空間軸rが入れ替わることでもあります。……どこか痒いのですか?  ドクター?」
「わかっているだろ? 昔から方程式を見ると必ず背中がむずむずするんだ」
「あなた以外の医者に見てもらうことをお勧めしますね――まあ、それではこうしましょう。同じことを光円錐を使ってもっと直感的に説明することもできます。平坦な空間ではそれは垂直の時間軸を中心に原点からすべての方向に斜45度に広がっていく円錐面を持ちます。ブラックホールに近づくにつれて光円錐は歪みながら傾きはじめ、距離rに達するとそれ自身の時間軸はブラックホールの内側に向かって特異点からもっとも遠い円錐面上の母線がちょうど全宇宙の時間軸に平行――つまり垂直になるまで傾きます。このときブラックホールから遠ざかる方向に動くためには光速度以上で円錐面を横切るスペースライクな世界線を描いて運動しなければならないことがおわかりでしょう。さらに距離rを越えれば光円錐はますます傾き、最終的にその時間軸は完全に横倒しになってしまいます……」
「その距離rがすなわちシュバルツシルト半径――事象の地平線ということだな」
 艦長が言い、ストックはうなづいた。
「そうです……その内側ではあまりにも重力が大きいので光すらr=0の点へと引き寄せられてしまう。つまり時間の流れの一方向性は特異点にむかっての一方通行の空間的な落下で置き換えられているのです」
「つまりブラックホールからの脱出――内部から外側への運動――がもし可能なら、それは時間の流れを逆行する旅でなければならないということだ」
「ワープエンジンが使えればわけはないのだが!」
「こんなに時空が歪んだ場所で使ったら脱出する前にワープコアが爆発するよ。ドクター」
「じゃあ、いったいどうするんだ? 手をこまねいたまま特異点で押しつぶされるのを待つのかね?」
「まあ聞いてください。地平線の内側では時間軸が横倒しになっているので特異点は空間的なある方向というよりすべての者にとっての時間的な未来に存在する、と言えます。そこで曲げられた時間軸をふたたびまっすぐにして特異点を長さを持つ直線であらわし、ミンコフスキー図での無限遠点も同様に有限の距離で直線になるように描きます。これがペンローズ図とよばれるものです」

「タイルをならべたみたいだな。これが例のペンローズ・タイルかね?」
「残念ながら違います。白いタイルが通常の宇宙。黒いタイルがブラックホール。それらの継ぎ目が事象の地平線です。ごらんのようにひとたび黒いタイルの内部に入ったタイムライク――つまり光速度以下の世界線は光円錐面を横切れない以上、遅かれ早かれすべてが特異点に到達します」
「それじゃ助からんじゃないか」
「いいえ……いままでの話はすべてブラックホールが回転していないとした場合のアインシュタイン方程式の解、つまりシュバルツシルト・メトリックに関してです。いっぽう現実の宇宙では角運動量保存からもブラックホールは高速で回転しているはずなので、シュバルツシルトでなくロイ・カーによる回転する時空での厳密解、カー・メトリックが適用されるべきです。そこでのペンローズ図はつぎのようなものになります」

「わ、複雑だな」
「複数の並列宇宙が描かれているので見にくくなっていますが、この話に関連するポイントはひとつ――タイムライクでありながら特異点を通らないブラックホール内部の世界線の存在が許されるということです。こんどは特異点を表わす直線が横ではなく縦になっていることに注目してください。つまり回転するブラックホールの特異点はもはや点ではなくリング状のいわば『特異線』となっているのです。われわれは不可避的にこの『特異線』に引き寄せられているけれども、うまくリングの中心を通れば無限大の潮汐力にさらされずにすむはずです」
「……しかし特異リングを通過する際には極方向から接近しなければなりませんよ。さもないと粉々に破壊されてしまいます」
 三人の会話を聞いていたサック副指令が言った。
「言うまでもないことだ。エンジンの最大出力をふり絞る必要があるな」
「でもウイルスが……」
 ドクターが笑った。
「あのウイルスは通常の環境ではわずか十数分で死滅してしまうしろものさ。生物兵器としては本来まるで役にたたないんだが……独裁体制は『内憂外患』によっておのずから滅ぶというところかな?」
 船医の言葉どおり『コンプレックス』は航行の自由を取りもどしていた。乗員は重力と潮汐力に対抗して懸命に舵をとり、船はその無限の密度を持つリングの中央をからくも擦り抜けた。
「ここはいったいどこなんでしょうか?」
 何も映っていない空白のスクリーンを見て副司令官は叫んだ。
「率直なところ、ここがどんな宇宙であるのかはわからない。すでにわたしたちは人知の及ばぬカーの解の外側――いわばメトリックの彼方にいるんだ……」
 そのとき航宙士が叫んだ。
「惑星です!」
「……何だって? こんなところに?」
「地球とよく似ています。生命反応がある! 信じられません」
 ストックはスクリーンの惑星をしばらく観察していた。
「あれは惑星モイクサだと思われます。確かジェンキンズ博士とともに消え去った謎の星です」

「ジェンキンズ博士……!」
「ドクター・ジェンキンズ!」
「どうやらこの近くにはいないようですね、艦長」
 この孤立した惑星上の唯一の研究施設には博士の姿はなく、空き缶や汚れた食器の山が乱雑に積み上げられているだけだった。
「なにかあったんでしょうか?」
「突然消滅するまでこの惑星には危険な生命体の存在は報告されていなかった」
「ひょっとしたら敵対する航宙種族に……」
「……生命反応です」
 ミスター・ストックが探知器を前方の茂みに向け、彼らはそろってその場所を見つめた。長い首が二本、茂みの上から突き出していた。
「草食動物だ」
「キリンだ」
「縞模様だ」
「縞模様キリン型草食生物です」ストックが言った。
 二頭のモイクサ生物たちは人間を無視して草を食みながらのんびりと茂みから出てきた。
「……こいつは白地に黒縞なのか、それとも黒地に白縞なのか?」
「興味ある問題です、艦長。しかし回答不可能です。ごらんなさい、二頭の模様は互いに相手の反転像になっています」
「こりゃ奇妙だ。こいつらは別々の種類なんだろうか?」
「さよう、一方は他方の『否定種族』なんじゃ」
「……博士!」
 彼らが『縞キリン』に気をとられているうちにいつのまにか背後にその天才科学者が立っていた。
「一体どこにいらしたんです?」
「もちろんフィールドワークじゃよ。そこにあるメガネ・ミーアキャットの巣穴にもぐり込んでおったのじゃ」
 彼の乏しい髪の毛はすべて逆立ち、埃まみれの衣服はあちこち破れて惨憺たる有様だった。
「『否定種族』とはいったい何です? 博士」
「ついて来たまえ、説明しよう」
 彼は艦長たちを自分の部屋に導き、テーブルの汚れた皿の下からケチャップとマスタードにまみれたキーボードを引っぱり出した。
「見たまえ!」
「……モニターはどこです?」
「おお、そうか」
 博士がだし殻のこびりついたコーヒーメーカーの位置を動かし、ペットボトルと空き缶の堆積物が一気に崩れるとそこに薄汚れたモニターが現われた。
「このグラフィックはモイクサ生命体の進化系統樹じゃよ」
「でも、……二本ありますよ」
「そのとおり、艦長。この惑星のあらゆる生命はこれら二本の系統から進化してきたのじゃ。それぞれはDNAの螺旋の捻じれ方が反対であることを除いて、まったく同じ遺伝情報を持っている」
「それが『否定種族』なんですね」
「それだけではない。それらは否定命題にもなっておるんじゃ」
「『否定命題』?」
 ストックが聞き咎めた。
「生物進化になぜ論理学が関係するのですか?」
「それがまさにわしの研究課題なんじゃよ……。わたしは生命の遺伝子コードが論理命題として理解できることに気づいた。きみもDNAが糖とリン酸の鎖の上に並んだ四種類の塩基の化学暗号であることは知っておるじゃろ」
「一応は……それらはアデニン、グアニン、シトシンそしてチミンですね」
「そのとおり。それらの組み合わせを論理記号に対応させるんじゃよ」
「そんなこと出来るんですか?」
「うまいこと対応規則を選ぶ必要があるがね。わしはそれを発見して以来この惑星のあらゆる生物種の遺伝コードを記録しつづけてきたのじゃ」
「大変な作業ですね」
「なあに近頃は完全自動の高速DNA解読機があるからな。まあ、それでもほとんどのコードが解読できたのはごく最近じゃが。……それで進化樹の根元にはすべての遺伝コードを生成するための公理が一セットあることがわかった。これらの公理に推論規則――つまり生化学的法則の論理対応物じゃが――を適応することによって進化の道筋を完璧に再現できるんじゃよ」
「それは素晴らしい発見です」
「この場合、逆方向に捻じれたDNAを生成する生化学法則は論理命題の全体をそっくり否定する論理規則を意味する。だからある種族と否定種族とはその遺伝子レベルではひとつの論理命題とその否定命題の関係にある、というわけなんじゃよ」
「つまり、あの『縞キリン』と『反転縞キリン』はその遺伝コードを論理命題として見ると互いに相手を否定したものとなっているわけですね」
「まさしく」
「しかしそれが何の役にたつんですかね?」
 艦長はひそかにドクターの脚を蹴飛ばしたが、天才科学者は別に気にした様子もなかった。
「……役に立つとも。この方法によってある生物種が進化樹のどこに位置づけられるかを完全に決定することができる。さらに今はまだ存在しない将来の生物種を予言することさえ可能じゃ。最終的にはどんな遺伝コードもこの公理システムから作り出されることになるのじゃからね」
「……博士。その結論には少し疑問が……」
 ミスター・ストックが言い終わらないうちにサック副司令官が飛びこんできた。
「大変です艦長。急いで外に出てください」
 表に飛び出した彼らの目の前にふたたびあの茶色い直方体があった。
「またチョコレートか!」
「ということは、近くにあの『トリックスター』が……」
「やはりモイクサの消滅には奴がからんでいたのか!」
「しかも恐らく事態はかなり厳しいものになるでしょう」
「どうしてそう思うんだね、ミスター・ストック」
「ご覧なさい。こんどは『セミスイート』ではなく『ブラック』です!」

 角艦長がブリッジに入ると不協和音がそこを満たしていた。
「この不快な音響は何とかならんのか? ドクター」
「文句を言いたいのはわたしのほうだよ、角」
 副長が『バンカン・リレット』を掻き鳴らしながら思索にふけっていた。
「君は何を考えているんだね、ミスター・ストック」
「『論理』についてです」
「ふん、別に意外な答えじゃないね……」
「茶化しちゃいけない、ドクター。副長の論理的傾向は『トリックスター』との戦いに不可欠なんだから」
 ストックはふいに立ち上がり出ていった。
「気でも悪くしたかな」
「まさかね」

 ふたりはストックの後を追って惑星の地表へと移送された。
「何をしているんだ。ミスター・ストック」
 彼はジェンキンズ博士の前でコンピューターを作動させていた。
「一緒にご覧ください。艦長、ドクター」
 モニターに進化系統樹が映しだされていた。
「博士、これは現在の生態系を反映しています。二本の樹は互いの枝を密に絡めていますがまだそれらのあいだには空間が多く残されていることがおわかりでしょう」
 彼は指にケチャップがつかないように注意してキーボードをあやつった。
「……これが今から五千万年のちのモイクサです。樹はますます細かく枝分かれし互いに密に絡み合っています。博士が言っていたように一見この二本の樹のあいだの空間は最終的にすべて枝で覆い尽くされてしまいそうに思えます」
「当然そうなるはずだ」
「いいえ、お言葉ですが博士。ちがいます」
「根拠があって言っているのかね、ストック?」
「はい、艦長。例のゲーデルの定理からそうはなりません。……そして二本の樹の間のこのフラクタルな論理空間こそ、あの『トリックスター』の本来存在する場所なのです」
「どうしてそんなことが結論できるんだ?」
「ある理由から……。のみならず現在、奴はわれわれの一人に成りすましています」
「なんだって!」
「思い出して下さい。わたしたちが最初にこの星に到着したとき『縞キリン』の生命反応はありましたが博士自身のそれはありませんでした」
「だからメガネ・ミーアキャットの巣穴にもぐりこんでおったのじゃよ」
「いいえ、あの後わたしは慎重にすべてのメガネ・ミーアキャットの巣穴を調べてみましたが誰かがもぐりこんだ形跡はありませんでした。そもそもメガネ・ミーアキャットは両手を『めがね』にして遠くを眺める習性のある体長30センチほどの小動物であり人間がその巣にもぐり込むのはきわめて困難です。それに加えてあなたがいま着ている白衣の染み――ポケットのすぐ上にある茶色いそれはケチャップでもマスタードでもない。あきらかにチョコレートです!」
 艦長とドクターは息を呑んでジェンキンズ博士を見つめた。
「あなたこそあの場所にそれを置いた真犯人にちがいない!」
 ストックがそう叫ぶのと同時に博士の身体は微細な光へと分解し、彼らが唖然とするうちに突如周囲の空間から声にならぬ声が聞こえた。
『見破られてしまったようだね。……然り。わたしはまさにこの領域に遍在する』
「『トリックスター』!」
『半バンカン人よ。わたしのあの要求を真面目に考えてくれたらしいね』
 ストックは虚空をにらんで言った。
「あの要求に答えることは最初から不可能だとわかっていた」
『なぜ?』
「きみは超越数πの十進展開のなかに出現する偽の文だけを選り分けるプログラムを要求した。しかしそうしたプログラムは遅かれ早かれ、それ自身では真偽を決定できないような文に出会うことになるからだ」
『それがどんなものか示してみなさい』
「たとえばつぎのような文だ。『この文は偽の文だけを選り分けるプログラムAによって偽に分類される』……もしもこの文が正しいのならそれはAによって偽に分類されることはない。しかしこの文は自分がAによって偽に分類されると主張しているのだから、それは正しいことを言っていないことになる」
「静かに、ドクター」艦長はそばでぶつぶつ呟いている真古井に言った。
「逆にもしもこの文が偽であるならAはそれを偽に分類するだろう。しかしそれこそまさにこの文が述べていることなのだから、この文は正しいということになる。これは矛盾だ……。結局このようなプログラムAはもしそれが間違いなく完全に働くとしたら、必ず真とも偽とも決定することができない文を持つことになる」
「しかしストック。そうした奇妙な文はそもそもの初めから論理的に真偽の決定できる文、つまり『意味のある文』から除外しておけばいいんじゃないかね?」
「艦長、残念ながらそうはいきません。例えば『この命題は偽である』といった文なら、あらかじめ無意味なものとして『意味のある文』から排除しておくことが可能です。しかしこの文の場合、パラドックスは文それ自身の性質に由来するものではないのです。……例えばプログラムAとまったく同じ能力を持ちながらアルゴリズムは異なった第二のプログラムBがあるとしましょう。この文はBによってもやはり真偽が決定できないでしょうか?」
「それは『この文はプログラムAによって偽に分類される』と言っているんだから、プログラムBによって……」
「偽に分類されるんじゃないかね」
「正解です、ドクター。そしてそこには何の問題もおこりません。つまり、このパラドックスはある特定の文とプログラムとの関係だけから生じているものなのです。ほかのプログラムによって真偽が決定できる以上、そのような文を『意味のある文』から除外することはできません」
「それじゃ、つねに二つのプログラムを働かせておけばいいんじゃないか。どちらかが問題の文にぶつかっても、もう一方のプログラムによってその真偽を判定することができるだろう」
「それはうまくいきませんよ、ドクター。たとえばつぎのような文がありうるからです。『この文はプログラムAあるいはBによって偽に分類される』」
「おお……」
「この文はさらにもうひとつ別のプログラムCによって偽に分類されるでしょう。しかし前もってどんなプログラムを用意しても、それによって分類することのできない文がすくなくともひとつ必ず存在します。あるプログラムが失敗した時点で新しいプログラムを作り出すことによって任意の文を最終的に分類することは可能ですが、πのなかに出現するすべての文を分類するためのそうした手続きは、すでにお気づきのように有限の時間のうちには終了しないのです」
『きみの推論は合理的だ』
 ストックは尖った耳を自慢げにそばだてる誘惑に打ち勝てなかった。
「……『π』のなかの文ということにかぎる必要はなく、以上のことは実はごく普通の論理命題についての議論でもまったく同じです。ここで『この文はプログラムAによって偽に分類される』という文は、『この命題は公理システムAによって証明されない』という命題に対応します。つまり、ある公理系が作り出す正しい定理のなかには、その公理系の内部ではそれを証明することのできないものが必ず含まれています。これは言い換えると、ひとつの公理システムの生成する真の命題の集合と偽の命題の集合の間には、ちょうどモイクサの二本の系統樹のあいだに埋め尽くされない空間があるのと同様に、そのどちらにも含まれない命題が少なくとも一つは、必ず存在する、ということです」
『きみはわたしが「π」にこだわった理由もすでに理解しているのかね』
「誰も『トリックスター』を理解することなどできはしない。しかし、それが超越数――つまり整数係数の代数方程式の根とはなりえない無理数であり、その性質はいまだ研究されつくされていないということから、恐らくきみはπによって人間の知識の総体を象徴させているということが想像される……」
『トリックスター』は陽に光る細波のような笑い声をたてた。
『……それは自然の数的秩序を象徴する故に、あなたがた人間が宇宙の構造を探ろうとして編み上げる科学理論の諸命題によく似ているのだ』
「もとより科学が宇宙のすべてを語り尽くしていないことはよくわかっている」
『なぜわたしがここに存在するときみが結論したのかを知りたい』
「それに答えることはあの『ふたつの問題の類似点』の謎に答えることでもある。……『トリックスター』。君はつねに論理を逸脱し、価値を逆転する存在だ。そうした存在が位置しうる場所はただひとつしかない。……ある公理システムによって生成される真偽どちらにも含まれない命題の領域。一般相対性理論における『特異点』の問題のように決定不可能な諸命題の存在する場所――すなわち、あらゆる『仮説』と『空想』の支配する世界だ」
「つまり『空想科学』の領域というわけか! ……いやはや、なんと懐かしい言葉だろう」
 ドクター真古井が感慨深げにつぶやいた。
「……そこでは『超光速航法』が成り立ち、人間ははるか銀河の彼方の星々を巡り、永遠の時を駆け、無限の時間と空間を支配することさえも可能だ。われわれが存在し活躍する世界もまたそこにある」
「と言うことは……ミスター・ストック。われわれ自身、『トリックスター』と同類ということかね?」
「そうです、艦長。わたしたちはみな厳密な科学的真実と途方もない夢の中間地帯、……薄明るい『トワイライトゾーン』の宇宙に生きる者たちなんですよ」
『……これでわたしたちの間にも友情と信頼が結ばれたというわけだ。わたしは以前からきみたち人間が宇宙を理解する仕方のなかにわれわれに似たものがあることに気づいていた。重力方程式における『裸の特異点』がそうであるように精密な推論の体系はその内部に決定不能な命題を含む。それはしばしば理論の根底をゆるがす危機となるが、しかしそれらの帰結を無視することで既成の体系を擁護しようとするのは空しい努力でしかない。なぜなら完成した知識の絶え間ない破綻と矛盾しつつ発展する認識こそが未来へと続く永遠の道なのだから……」
「……『トリックスター』よ、その言葉は永久にわれわれの胸に刻みつけられることだろう。ただ、この出会いの記憶をわたしたちが人類世界へ持ってかえることができなければそれも無意味だ。出来ればわれわれを船やこの惑星と一緒にもとの宇宙へ送り届けてはもらえないだろうか?」
『角艦長。きみのその望みをかなえることは不可能ではない。しかしそれは使い古された「デウス・エキス・マキナ――機械じかけの神」による解決ではないだろうか? ……わたしは「トリックスター」であり「神」の役割を受け持つつもりはないのだ』
「そうか……」
 艦長は肩を落とした。
『がっかりすることはない。……そのかわりわたしはあなたがたを「多様性の領域」に置くことができる』
「そりゃ、どういうことだね」
『すべての可能性が重なり合った場所だよ、ドクター。そこではきみたちは並列する無数の宇宙とそのなかの無数の意識を同時に共有することになる。そしてその無限の可能性のなかのどれを選ぶかは、あなたがた自身にまかされているのだ』
 突然、描写不可能なめくるめく世界が彼らを包んだ。それは描写不可能であるがゆえに描写はできない。……やがて七色の光が頭上に閃き、気がつくと見慣れた星空がそこに広がっていた。
『ここはきみたちが落下したあのブラックホールの近くの空間であり、その事件からまる一日たった後の時間だ』
 彼らは互いに抱き合い、生還を喜んだ。
「感謝するよ、『トリックスター』。……ところで話は変わるが今度のチョコレートのメッセージには一体どんな内容が含まれていたんだね? われわれのコンピューターはずっと計算し続けているが、いまだ解読できずにいるんだ」
『別に何も。あれはデパートの地下食品売場で購入したごく普通のチョコレートにすぎない。わたしは『トリックスター』、同じ手は二度と使わないよ』
 そう言い残すと呆然とした彼らを残して超存在は消え去った。
「……友情と信頼だと? クソ!」
 我にかえった角艦長は腹に据えかねるように言った。
「『その言葉は永久にわれわれの胸に刻みつけられることだろう』だって? やはり歳がいもないお人よしだな。きみは」
 艦長は船医を睨みつけ『インサープライズ』への回線をオープンにした。
「われわれはここだ、桜園君。今から帰艦する。さあ、地球に帰るぞ」

(おしまい) 

 この作品を慎んでハンドルネーム『謎の二面相』氏に捧げます―― 高本淳

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