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三万円で買った石の来歴

木谷太郎

 大神くんという青年がいた。夢見がちな、どちらかというと社会不適応者で、それでも独り身の頃はなんとか気楽にやっていけたものだが、持ち前の計画性のなさを発揮して無謀にも妻帯なんぞしてしまったものだから、向きもしないと自ら考えるところの月給奉公を余儀なくされている。現実は向かい合うには辛すぎるとうそぶき隠遁者をきどっていたのは遥か昔。今や現実は彼をしっかりと捉えて放さない。家庭と職場と、まさに内憂外患。絶え間ない圧迫に心安らぐときがなく、休日ともなれば逃げるように安アパートを脱け出すのだった。そうしてどこへ行くかといえば、古道具屋や骨董市をぶらぶら流し、すえた臭いを胸いっぱいに吸い込むのだ。こいつらは、と思い入れたっぷりにがらくたを眺めやる。俺と同じだ。実用本位の社会じゃ二束三文。けどここなら期待値込みで値がついて、更にしかるべきところに出せば高値を呼ばないとも限らない。わかる人だけに価値がある。齢を重ね、時の審判を受け、それでも生き長らえた蓄積がこいつらにはある。
 大神くん自身没落した古い一族の末裔で、今の境遇が境遇だけに好古趣味に走るのもわからんではない。現代に見捨てられたと感じたとき、過去に慰めを見出す人間のなんと多いことか。当然血統に対する誇りは拭い難く、一族史の編纂に着手すべく盆暮れごとに帰郷を計画するのだがいまだ果たせていない。というのはやはりここでも現実が立ち塞がるのだ。「何が悲しくて」と妻は言う。悲しむどころか侮蔑もあらわに、「せっかくの休みにあんな田舎くんだり行かなきゃなんないのよ。絶、対、に、嫌ですからね。人が住めるような環境じゃないのよあの家は。構えだけは大層ご立派ですけどね。あんな埃の中で暮らして御覧なさい。病気になるわよ。掃除しにいくようなもんじゃない。それだって結局片付かなくて、やっと生活できるくらいになる頃にはもう帰んなきゃいけないんだし。徒労なのよ。いーえ、あなたが構わなくてもこっちが構うの。あなたが病気になって面倒見るの誰だと思ってんの? ああ、もう、いい加減手放しちゃいなさいよあんな家。ほんとお願いだから」
 もちろん大神くんに現実に立ち向かう気概などありはしない。穏やかに失望を表明し、妄想の中で妻を八つ裂きにすると、なおいっそう古いもの、いわくあるものへの偏愛を深めるのだった。

 しかし立ち向かわずとも追いすがってくるのが現実というもの。

「ちょっと、そんな遠い目をして。また例の世界に逃げ込もうってんでしょ」その日の妻は執拗だった。「こんな石っころに一万円ですってえ? あんたもう大概にしなさいよ」乳白色の小石を乱暴に投げつける。大神くんは萎縮してこそこそ石を拾い上げた。なじみの骨董屋が、こいつはちょっとした掘り出し物でしてねと秘密めかして見せてくれた石だ。月の石なんです。鑑定書付きですよ。なに、英語は読めぬ。しかしほらここ御覧なさい、moonstoneって書いてあるのはわかるでしょう。ええうちでは素性の確かなものしか扱いません。そこにしかるべき値がつくわけでして。
「ばっかじゃない。月の石ってのはもっとごつごつ無骨なやつなのよ」妻の罵声が容赦なく幻想を切り捨てる。「がらくた、石ころ、与太話。いっつもそう。もっと現実を直視しなさいよ。あなたが大切にしている、例えば、自分の出自とやらにすがりついたところでそんなもの、何の役にも立ちやしない。一族史ですって? はっ。ただの自己満足じゃない。大神家とやらがそんなに大層なものならどうしてあなたはこうもうだつが上がらないのかしらね。どうなのよ。答えなさいよ。答えられないなら教えてあげる。駄目、ちゃんと聞きなさい。つまりすべて妄想なのよ。あなたがどう思おうと何を信じようと、現実に残っているのは古びた田舎の屋敷だけ。確かに地方の小金持ちだったかもしれないけれど、それってそんなに自慢なの?」
 妻は正しい。そう思わざるを得なかった。なにしろ現実を味方につけている。いつも空想で我慢している大神くんには痛いほど理解できた。いくら頭の中で慰めを得、平安を手にしたと思っても、強引に引き戻されてはわかりきった小言を聞かされる。しょせん現実には敵わないのだ。
 大神くんの変容は急激だった。尖った顔を傾けるや妻に悲鳴を上げる暇さえ与えず、ぴたり正確に喉笛に牙を立てる。強靭な顎でぶるんぶるん荒々しく振り回し息の根を止め、今度は腹部にかじりつく。現実の温かい内臓の味はなるほど、空想よりずっと甘美だった。

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