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蜘蛛の一刻

中条卓

腕が折れたのか、神経をやられたのか、右手が利かない。あんな高いところから落ちたんだなあ。まだ生きているのが不思議なくらいだ。

握りしめた掌の中には紅い花がひとつ。珍しい花だと思って思わず手を伸ばしたとたんに崖から落ちたのだった。左手で一本ずつ指をほどき、ようやく取り出した花を目の前にかざした。強烈な芳香を感じたとたんに男は意識を失っていた。

「…あなた、あなた、起きてくださいな」
「パパったらおねぼうさん!」
妻と娘に揺り起こされて目を開けると木漏れ日がまぶしい。一瞬どこにいるのかわからずに首を振っていたら、妻が手を伸ばしてさすってくれた。
「お疲れでしたのね。でも、もう心配ないのでしょう?」
そうだった。おれはスサノヲの軌道予測にずっと駆り出されていて、あいつがぎりぎりで地球をそれて遠ざかりつつある今、ようやく家族そろって郊外の公園まで出かけてきたのだった。

角を曲がったら無数の電球に飾られた我が家が夕闇の中で輝いていた。おれは息を呑んだ。
「ママとふたりで飾ったんだよ。お祝いだからって」
「ありがとう、こんなにきれいなものは初めて見たよ」

本当にきれいだ、と手を伸ばしたとき家の姿はぼやけて消えた。あとには水滴を散りばめた蜘蛛の巣がひとつ。男は起きあがってあたりを見回した。あの紅い花がそこら中に咲いている。

妻子を失い、生きる気もなくしてさまよい込んだ山奥で、利き腕と引き替えに紅い花を手に入れた男は、貴重な幻覚植物を人界に持ち帰ったのだった。

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