マングローブの気根を巧みによけながら牝虎はアクシス鹿の群に迫った。横腹に美しい白斑を並べる鹿たちは川岸の下生えを食むのに夢中で木立にまぎれこんだ彼女の姿に気づかない。根気よく時間をかけたのち若い一頭に狙いすまして支柱根の影から飛びかかろうとしたまさにそのとき、静かだった川面が激しく波立ち騒ぎ、驚いた鹿たちはちりぢりに森の奥へと逃げ去ってしまった。
がっかりして身を起こすとひとつ欠伸をし、ぬかった泥の岸に打ち寄せる波を眺めながら虎は所在なげにひげをうごめかした。海水の入り交じった川の水は茶色く濁り対岸の奇妙に規則的な森影が揺れている波紋の下に何が潜んでいるか知るすべはなかった。
突然、川面をおしわって黒い背びれが現れた。数分後また同じ背びれがこんどはもっと岸近くに現れるのを見て彼女はゆっくりと流れの縁に近づいた。ふつうベンガル虎は水中の生き物を獲物にはしない。しかしたまたま岸にうちあげられたそれらの肉を頂戴するのをためらうほど意固地でもないのだ。波間に垣間見えた影は何かに追われてでもいるかのようにあわただしく潜っていった。あるいは追い回されたあげくそれが浅瀬に乗り上げてくるかもしれないという淡い期待をいだきつつ彼女は川辺に近寄った。
期待はなかばかなえられ、間もなく岸まぎわの水面が盛大に渦まいた。逃げるものと追うものがぶつかり激しく水飛沫を散らしてあたり一面を水びたしにした。濡れるのをいとわぬベンガル虎もさすがにその場を離れ木陰に逃げ込むとことの成りゆきを見守った。
一声悲し気な鳴き声を残してイルカは水面下に没しそのままねっとりした熱帯の森の静寂が続いた。辛抱づよく川面を眺めていた彼女だったが、やがて水をかきわけ川の中から出現したものを見たとたん体毛を逆立て身をひるがえして一目散にその場を逃げ去った。
虎を怖じ気づかせたザリガニにも似た巨大な生き物は、岸に這い上がると周囲を眺めわたし、苔むして半ばくずれたきざはしに目をとめると歩み寄り、しばしためらった後にそこをよじ登りはじめた。
ブリゴンガ川に臨むアッサン・モンジールは倒壊して久しかった。石段を登り切りかつての宮殿の入口で振り向くとブリムは緑に埋もれたオールド・ダッカの街並を見渡した。
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