月の光が届くことは決してない永久の闇のなかでも生き物たちはその気配を感じることができた。巨大な衛星の公転にともなう潮汐は四千メートルの深海にも無視できない影響を及ぼす。かさ上げられた海水の重みは海底にのしかかり、火山起原の多孔質の岩盤を抗しがたい力で圧縮する。引潮とともに海水圧は減衰し、岩盤はゆっくりと膨張する。こうして日に二回、まるでスポンジを握りしめるようにして月は、地殻の奥深くから豊富にミネラルを含んだ湧水を汲み上げるための自然のポンプを作動しつづけてきた。つまり光ではなく闇、太陽ではなく月こそが……地球生命圏のもうひとつの領域、全陸地面積をはるかに上回るこの奇妙な生き物たちの暗黒の王国を生かし支配してきたのだ。
海面近くで植物プランクトンが果たす役割をここでは嫌気性バクテリアが担う。地底からの湧水の勢いが強まるごとにそれらは活発に増殖し海底の泥を有機物のスープで満たす。酸素をほとんど含まない深層泥のなかでつぎにそれを食料とするのはメタン酸化細菌を体内共生させる動物プランクトンたち。さらにそれらを補食する小型環形動物へと、食物連鎖のピラミッドは次第に大型の生物へと続く階梯を昇っていく。
数百メートルの厚さに堆積した軟泥の奥で蠢くこの盲目の生物群のほとんどは人間には知られてはいない。しかしまれにそのひとつが……ダイオウイカのような捕獲者によって引きずり出されたあげく海中を漂い岸辺に打ち上げられて悪夢の中の怪物にも似た姿を陽光のもとに晒すこともある。1998年にはタスマニアでそれが目撃された……。
そして今日、数十万年ぶりに彗星核落下の衝撃波が海底を駆け抜けた。しかし中央海嶺やプレート同士がぶつかる海溝から遠く離れた土地に住まうこれらの生き物たちがわずかでも危険を感じることはなかった。数十億年もの長きにわたって暗黒の世界はゆるぎなく繁栄し続けてきたのであり、かつて恐竜たちを滅ぼした地球規模の災厄すらこの楽園の安寧を損ないえなかったのだ。
やがて『上』から新たな難民たちがやってくるだろう。光の世界が一見華やかでありながらもその実脆くはかないのに対して、闇の申し子たちの王国はつねにまどろむごとく平穏で豊かであった。だからこそ太古からさまざまな種族が滅びゆく世界を逃れこの深海にたどり着くことで生きのびてきたのだ……。
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