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空飛ぶスリッパ

中条卓

男の正体は誰も知らない。引退したプロサーフィンの世界チャンプだという説も、伝説のスケボーキングだという説も、いや、たまたま太平洋を漂流していた捕鯨船の船長だとも、船長ではなく銛打ちだという説もあって結局何がなんだかわからないのだが、目撃者の話で共通している点がひとつだけあった。

男は巨大なスリッパに乗っていた、というのだ。

目撃者といっても実際に男を撮影したという某国営テレビ局クルーは例の津波にやられて生き延びたはずがないし、男の姿をトウキョウの巨大なスクリーンで目撃した連中も同じ津波に飲み込まれて死に絶えたはずなので、男の姿を見たというのは、たまたま衛星中継をどこか山奥の小さなポータブルテレビで受信していた者に限られる。その後の混乱を思えば、彼らの記憶が実にあやふやなのも無理ない話ではないか。ともあれ伝説は言う、

男は巨大なスリッパに乗って津波の先頭に立っていた。

それはたぶん幅広のサーフボードに風よけのカバーを取り付けたものなのだろう。でなければ時速二百キロを越えていたとも言われる津波の上に立っていられるはずがない。いや、そもそもトウキョウタワーを一瞬で倒壊させた津波に「乗る」などということが人間に可能だろうか? だが伝説は言うのだ、

男は巨大なスリッパに乗って津波の先頭に立ち、トウキョウタワーを飛び越して行った。

男は何ごとかを大声でわめいていたらしいが、その言葉はもちろん誰にも聞き取れなかった。あるいは笑っていたのかも知れないし、泣いていたのかも知れない。いくら風よけがあったといっても、そんな状況で目を開けていられるかどうか疑わしいものだが、なおも伝説は言う、

男は巨大なスリッパに乗って津波の先頭に立ち、トウキョウタワーを飛び越しながら遠くの一点を瞬きもせずに見つめていた。

男がその後どうなったか、もちろん誰も知らない。あるいは男の映像というのは誰かがあの日にそなえて作っておいたでっちあげで、男もスリッパも実在しないのかも知れない。でも男の目の光だけは本物だったのではなかろうか。それが証拠に、男の子孫を名乗る人々がその後世界中に現れ、彼らはみな自分たちの先祖は大洪水の日に天から巨大なスリッパにまたがって降臨したと言い張るのだが、それはずっとずっと後の話だ。

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