「今すぐ式を挙げたいんです」
漆黒のタキシードと純白のウェディングドレスという分かりやすいいでたちで飛び込んできた男女は異口同音に叫んだ。どう見ても訳ありのカップルだった。男の方はこの寒いのに土気色の額からあぶら汗を流し、くぼんだ眼窩の中で目だけが異様な生気を放っている。女の方は男よりふた回りは年下だろう、対照的に血色がよく、幸福でたまらないといった恍惚の表情を浮かべている。どこかの結婚式場に展示されていたものを無断で拝借してきたのだろう、衣装には値札こそついていなかったが、よく見ると肩や腰のあたりにうっすらと埃が積もっていて、表側だけがかすかに黄ばんでいる。
「指輪はありますか?」
銀髪の神父はそう尋ねただけだった。スサノヲが墜ちてこないともかぎらないよりによってこんな日に、避難命令の出た海辺の教会で式を挙げたいというからにはのっぴきならぬ事情があるのだろう。高波が来たら一発で崩れ落ちそうな教会に残っている神父だってそれは同じだ。男の薬指には違う指輪の跡がくっきりとついていたし、女の指輪は3サイズほど大きかったが、なに、かまうものか。
「ちょっと待っていなさい」
指輪の交換のあと神父はいったん式を中断して、説教壇の聖書に隠してあった小さな薬瓶を取り出し、一滴ずつ指に垂らすと男女の唇になすりつけた。
「では、誓いの口づけを」
感きわまって固く抱き合い、熱烈な口づけを交わす男女から離れ、オルガンの椅子に腰を下ろした神父は薬瓶の残りを一気に飲み干した。大戦中に軍から委託され、戦後もひそかに研究を続けて完成はしたものの、結局公表せずに終わった薬だった。公表すれば「組織」の知るところとなり、神父はたちどころに抹殺されていただろう。
…薬の効き目が現れ、波の音が次第に低く間遠になってきた。懐中時計を取り出そうとしたが恐ろしくゆっくりとしたスローモーションでしか手が動かない。時計を取り出すのに体感時間で1時間ほど、さらに文字盤を見るのに2時間以上を要した。秒針の動きがほとんど認められなくなり、やがて完全に静止した。
永遠の口づけを続ける男女と永遠の微笑を浮かべたまま懐中時計を見つめる神父を巨大な津波が襲うのはきっかり5秒後の予定だった。
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