異邦で暮らすのにもっとも重大な問題は疑うべくもなく言葉にまつわるそれである。自国でさえ辺境の地に赴けばその土地独特の言い回しにとまどうことが多いのだ。ましてここはすべてが完全に異質な世界――日常生活の些細な物事さえも生まれ育った故郷とは大きく違っているのであり、そうした環境に暮らす人々が使う言語がおよそ風変わりなものであったとしても意外ではない。
たとえば故郷の言葉で「相手の顔をなぐった」という言う場合、それは当然「たわませ手を離すとそれは自らの弾力性によってもとに戻った」という言うのとはまったく違う状況を述べているのであるし、言い回しそのものもぜんぜん別のものと感じられる。しかしイムカヒブ族の言語ではこれらは――わずかの単語が入れ替わるだけで――信じがたいことにほとんど同一の簡素な構文で語られるのである。
すなわち「ム・テサイ・ン・ペニ」が前者「ム・テス-オ・ヘリ」が後者を意味するのであるが、特にわれわれの言語では複雑な言い回しを余儀なくされる事柄を表現する後の文の単純さは驚愕に値する。
彼らの社会でしばらく暮らすうちになぜこうした不思議な表現が用いられるのかわたしにも何となく理由がわかってきた。ふたりの人間が諍い取っ組み合うとき、彼らあるいは彼女らは決して怒りにまかせて相手を殴り倒してやろうと目論んだりはしないのだ。重さを欠いた世界で「人を殴る」という行為はあらかじめ何かにしっかり身体を固定させて行わないかぎりけっして上手くはいかない。相手に十分な打撃を与える前にかならず反作用で自分自身が反対側にはじき飛ばされる。そしてそれは「枝を押し分けようとして弾力によって押しもどされる」体験とある意味非常によく似ているのである。そう考えれば両者が同一の構造を持つ文で語られることは納得できないこともない――とはいえ彼らが人の頭と木の枝とを同じような事物と見なしているのかどうかまではわからないのだが……。
とにかく一事が万事、こうした個々の単語のみならず文法構造そのものから完全に異質な言語を格段外国語の習得を得意とするわけでないわたしが短期間のうちに身につけようとするのがはなはだ難事であろうことは間違いなかった。それゆえ日常会話を曲がりなりにも扱えるようになるだろうまでの長い道のりを想像するにつけただただ途方に暮れる思いであったのだが、一方で運命の女神はそうそう不都合ばかりを連れてくるわけではなく、幸いにもわが世話役ナヤンは『コドリガ』乗りをめざす若者のひとりだったのである。
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