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バギラ

中条卓

地図にない国がひとつある。バギラというのがその名前だが、これは国名というよりも国民の自称であり、彼らを結びつけているひとつの行為あるいは習慣の名前でもある。それはひとことで言ってしまえば人肉を食らうことだ。偉大な人間の肉体を食べることはすなわちその人物に対する最大の敬意の表現なのだ、とバギラのひとびとは言う。

わたしがバギラの存在を知るきっかけとなったのは、自分が受け持ったがん患者の奇跡的な治癒だった。国王の肉をいただいたからです、わたしの執拗な問いに対して、その患者はこともなげに言い放ったのだった。彼自身の名誉のために述べておくが、わたしの患者は高名な作曲家であり、迷信や妄念とはまったく無縁な人物である。書きかけの作品を完成するためにどうしても王の力が必要だったのです。そのことば通り、彼は作品を完成したその晩に息を引き取ったのだが、遺言で国王宛の紹介状をわたしに託したのだった。

国王に謁見するための手続きはなんとも煩雑なもので、何人もの仲介者を経なければならなかった。彼らの言によれば、医者であるわたしはすでに拝謁の要件を満たしているのであり、すべての手続きはまったく形式的なものにすぎないのであるらしい。あなたはいわばすでに名誉バギラ国民なのです。いやしかし、誓って言いますがわたしはこれまで人肉など…もちろんさようでございましょう、でもあなた様は人体解剖を経験してこられたのでしょう。いわば人体をその指で味わわれてきたわけですから。そう聞くとわたしの中に不思議な共感が湧いてきた。確かにわたしは解剖学実習の前と後では自分がまったく違う人間になってしまったと感じたものだ。そしてこの感慨は同じ経験をくぐってきたものでなければ共有できまい。

そして今、わたしは王の面前にいる。超高層ホテル最上階の開け放たれた窓からはさわやかな風が入ってくるばかりで、地上の喧騒は決してここまで届かない。王は齢300歳を超えているといううわさだったが、その外見はよく日焼けした中年男性に過ぎないようだ。だがその皮膚には一面に細かいしわが刻まれていて、張りのある声とは対照的だ。そしてこの圧倒的な存在感はなんだろう。ゆったりと肘掛椅子に腰かけてくつろいでいるだけなのに、その体が絶えずこちらへ膨れ上がってくるような気がするのだ。

儀式的なあいさつの後は昼食となり、豪華な料理が次々に運ばれてきた。メインディッシュのレアステーキが運ばれてきたとき、給仕はそっとわたしに耳打ちした。王の胸肉でございます。それが合図だったかのように、王はシャツの前をはだけて真新しい傷口を誇示するのだ。バギラの王となるためには前王と戦って倒し、その肉を食らいつくさねばなりません。しかし、挑戦者の肉を食べ続けてきた強大な王を倒すのは極めて難しく、これまでに23人の挑戦者が王の胃袋に消えていきました。仲介者の語ったそんな逸話が思い起こされた。まさかそんな、わたしはただ王のお姿をひとめ拝見したかっただけで、決してバギラ国民になろうと思ったわけではないのです。言葉はのどに張り付いたままいっこうに口から出てこない。わたしはただ首を横に振ることしかできなかった。もしもこの料理を辞退したら?

王はにこやかに微笑み、黙って開いている窓を指さした。

そんなわけでわたしはもはやこの世にあり続けることはできない運命であるらしい。わたしに残された道はふたつにひとつ、王の肉を食べてみずからもバギラとなるか、それとも窓から身を投げてこの生を終わりにするか。わたしの目の前では王の肉がじゅうじゅうと音を立て、食欲と同時に吐き気を誘う匂いを放ち続けている。

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