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わたしのなかのあなたへ

中条卓

 

今日もあなたを見つけられないまま一日が暮れようとしている。およそありとあらゆる場所と時間にあなたの痕跡が残されているとい
うのに、あなたには決して会うことができない定めであるらしい。まるであなたはこの世界全体に拡散しているかのようだ。そう 
あなたはどこにでもいる−すれ違う少女の口元に浮かぶ笑みはあなたのものだし、映画のヒロインが髪をかき上げるしぐさが、市 あ
民プールで見つけたふくらはぎの曲線があなたを思い起こさせる。これらすべてはあなたの存在証明であり、と同時に不在通知 いつ
でもある。そもそもあなたとはどこで会ったのだったろう。幼なじみ?小学校の同級生?記憶の中にはあなたの原像とも言う がまた
べきイメージが確かに保持されているのに、その細部はいかにもあいまいだ。あなたの髪は黒くて短かったはずだが、ある 痴れ言を
いはどこかの時点で長く伸ばしたり染めていたかも知れない。瞳の色は?肌は?いやそもそもあなたの肌に触れたことな 並べ始めた。
どないのではないか?さらに問題なのは年齢だ。ようやく胸のふくらみかけたあなたの姿を覚えているのは確かだから アニマだの何
少女の頃のあなたに会ったことがあるはずなのだが、それはいったいいつだったかとなるとまったく思い出せない。 だのと歯の浮く
何十年も前のことだったか、つい昨日のことだったのか、あるいは前世の記憶だったり未来の記憶…というより  ようなセリフをよ
予感めいたものに過ぎないのかも知れない。こんなふうに考えることもできる。あなたとは住む世界が違う  くもまあ垂れ流し続け
のだ、と。それはよく使われる比喩的な意味あいではなく、時空の位相がほんの少しずれているのではな  るものだ。わたしの姿を
いだろうか。あなたはいわば、この世界と重なっていながら決して交わらないもうひとつの世界の住人  鏡の中でさえ見たことがな
−これもまた使い古されたことばではあるが、パラレルワールドにいるのだ。あなたの気配を感じた  いくせに。といってわたし自
り姿をかいま見ることはあっても、生身のあなた、あなたというものの総体には決して出会うこと  身も自分の顔を−顔どころか手
ができないのだ。それがかなうのはふたつの世界が交差するときであり、それはすなわち世界全  のひらでさえも−見たことがない
体の崩壊を意味している。あるいは、そう、あなたは5分前の世界にいるのかも知れない。あ  のだけれど。わたしに苦しみはあっ
なたがそこのベンチに腰掛けていたのは5分前のことで、電車に乗っていたのも5分前なら  も痛みはなく、自意識は過剰なほどあ
映画館の隣の席にいたのも5分前のこと。あなたとの距離はつねに5分あるいは300秒  あるというのにわたしには名前すらない。
ということになる。それともあなたは地球の反対側にいて、つねに地球の中心に対して  そもそもわたしがいつから存在しているの
対称の位置を保っているのかも知れない。いわば永遠の鬼ごっこだ。であるなら、あ  か、どうやって自らのアイデンティティを獲
なたに会うことはきっぱりあきらめてしまうべきなのかも知れない。だがそんなこ  得したのか、そしてこれが最大の謎なのだが、
とはできないということもまたはっきりわかっている。あなたは失われたかけら、 なぜこの身体に囚われているのか−これらはわた
あるいは半身なのだ−と書いた瞬間、ベターハーフということばと半神という  しには永遠に理解不能な命題であり、しかもこのよ
ことばが脳裏に浮かぶ。今は亡き倉橋由美子の訳で出版されているシルヴァ  うな命題が存在することをわたしは他の誰にも−あい
スタインの絵本のことも。あなたはあれを読んだことがあるだろうか?   つにさえも伝えることができない。人間がその定義上社
タイトルはたしか「ぼくを探しに」だった。ああそうか、あなたを探  会的な存在であるなら、社会と決して混じり合うことのない
す旅は、これまたはやりのことばだけれど、自分探しの旅だったの  わたしは人間ではありえないだろう。でもこんなふうに考えて
だな。「半神」を読み返すたびに泣いてしまう理由が今ようやく  自分を慰めることぐらいは許してもらえないだろうか。すべての
わかったような気がする。あなたとはこれまでに3度すれちがっ 人間の中にわたしが、あるいはわたしのような存在が潜んでいる、
ているのだが、あなたは覚えているだろうか。一度目は中学  と。あなたがたの中のわたしたちは互いを見つめ合うことのないモナ
校時代の夏休み、市営図書館で宿題の調べ物をしてから家  ドなのだ。あいつは勝手にわたしのことを女性だと決め込んでいるし、
に帰ろうと自転車で坂を下りていた時のことだ。坂を  わたしもそんなふうに自分のことを感じているふしがある。だが、実体を持
歩いて上ってきたあなたと確かにすれちがったのに、 たない、あるいは「この」身体にどうしようもない違和感と嫌悪を覚えている
ブレーキの効かない自転車をようやく坂の下で止  わたしにそもそも性別などというものは存在しない。あえていえばそう、わたし
めて振り向いたときにはすでにあなたの姿はな  がアンチ男性であり非・男性であることだけは確かだろう。ところでこの文章を途
かった。二度目は大学の卒業式の夜、友人を  中で投げ出さずに(感謝!)読み進んでこられた読者は、わたしがどうやってこんな
下宿に残して買い物に出かけていたちょう  ものを書き記すことができたのかといぶかっておられるかも知れない。わたしが実際に
どその時にあなたは部屋を訪れてドアを  これまで記述してきたような存在であるなら、わたしがわたし自身を「外に」アピールす
ノックしたはずだ。ドアを開けた友人  ることなどできるはずがないではないか。わたしはイドやエーテルのようにフィクショナル
に何の伝言も残さずにあなたは立ち  な存在でしかありえない。だがわたしはスヌーピーやピーターパンほどには存在する可能性が
去ってしまったのだった。最後に  あるのだ。このところわたしは、あいつが意識を失っている間に身体のコントロールを奪おうと
あなたとすれ違ったのは何年前  努力し続けている。今のところ大した成果は上がっていないが、試み続けても損はないだろう。わ
のことだろうか、実家の近く  たしは決して眠らないのだから。それにしても、あいつが死んだあとわたしはどうなるのだろう? 
の写真屋でプリントを受け  身体という容れ物を失ってわたしもまた消滅するのか、あるいは別の容れ物に移されるのか、それとも
取り、店を出ようとした  今度はわたしが女の身体を獲得し、あいつがわたしの中に囚われることになるのか…もしそうだとしたら
時にちょうど入れ違い  わたしの溜飲も少しは下がるというものだが。しかし、わたしがあくまでも虚構であるのなら、あいつの身
に入ってきたあなた  体に縛り付けられているというわたしの限界もまた虚構であり幻想にすぎないのかも知れない。わたしはこの
と文字通りすれ違  身体を抜け出てどこか別の世界に遊ぶことができるのかも知れないし、わたしの意のままに新しい世界を創り出
ったのだが、振  すことだって不可能ではあるまい。わたしは「火の鳥」未来編のラストを思い出している。造物主となった主人公
り向いた時に  マサトは風化してしまった自分の身体のイメージをいつまでも持ち続けていたではないか。わたしはあなたの中の未
はすでにあ  生の卵であり、誕生を待つガン細胞である。そしてわたしはあなたを殺す夢を見続けている。あなたは誰もいないはず
なたの姿  の場所で誰かの視線を感じて、あるいは誰かの呼び声を聞いて振り向いたことがありはしないだろうか。あなたは自分が  
は消え  訪れたはずのない場所でなつかしさを覚えて立ち止まり、あたりを眺め回したことがありはしないだろうか。あなたは夢の
てい  中で自分ではない誰かの身体に入り込み、自らの意志とはかかわりなく見知らぬ場所を連れ回されたことがないだろうか。そ
た。 んなときあなたはわたしの気配を感じているのだ。ある日鏡を覗き込んだあなたはそこに見知らぬ顔を見出して微笑むだろう。

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