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医邦人・4

中条卓

 

治療の最終段階では体内の悪しきものをすべて祓うことになるらしかったが、その前にもうひとつの段階を経なければならない、と呪医は告げた。

「あなたはいったん死を体験しなくてはならないのです。死の中であなたのからだは組み替えられ、悪しきものと善きものが分離されます。厳密に言うとそれは生と死のはざまで起きることなのですが…」

わたしは石造りの浴室に案内された。巨大な浴槽になみなみとたたえられた緑色の液体は生ぬるく、とろりとしていた。

「これは特殊な海藻を溶かし込んだもので、あなたのからだと同じ比重に調製してあります。液体の温度はここからあなたがふたたび戻ってくるその時まで、つねにあなたの体温と等しくなるように保ちます。この液体には味も匂いもなく、鼻から吸い込んでもむせることはありません。それどころか、その気なら全身を沈めても息が詰まることはないのです」

PFC? あるいは液体呼吸といった単語が脳裏をかすめたが、原理などどうでもよいことだ。リラクセーション用の恒温槽なら入ったことがあるが、ここから受ける印象は全く異なっている。部屋は半球形で、どこに光源があるのかわからないぼんやりとした薄明かりに満たされている。耳を澄ますとかすかな潮騒と風の音。まるでこれは…

「空腹やのどの渇きをおぼえたら浴槽の湯を飲みなさい。どちらも癒してくれるでしょう。排泄はこの中で行えばよろしい。心配はいりません、浴槽に棲む微生物たちがただちに分解してくれますから」

やはりこれは来るべき死ではなく、私が生まれてくる前の状態を疑似体験するための装置らしい。呪医から与えられた指示がさらにそれを裏付けた。

私の課題はこの中に浸かり、すでに習った呼吸法を実践しながら、これまでに会ったすべての人々を思い起こすこと〜それも今この時点からさかのぼって記憶の原点に至るまでそれを続けることだった。思い出すときには自分がその人に向けて発したことば、為した行いをその人の側から体験することが要求された。つまり、彼または彼女がわたしから何を受け取りどんな思いを抱いたか、それを「思い出し」なさいというのだ。

普通の状態では不可能なことだろう。だが、生暖かい羊水の中でからだを丸め、目をつぶりながら(あけていても動くものは何も見えないのだから同じことだ)記憶がほどけていくのにまかせていると、やがて自他の境界が消滅し、他者の思いをすべて自らのものとして想起することができるのは不思議だった。

わたしはこれまでに何と多くの人に出会い、好意と反感をまき散らし、それとは意識せずに人々を傷つけてきたのだろう。あるいは人々からどれほど多くの愛を受け取ってきたことか…わたしはいつしか止めどない涙を流し、それを飲み下してはまた排泄するという無限循環を繰り返すのだった。

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