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Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[栄村]

『ソラリスの陽のもとに』
> スタニスワフ・レム著/飯田規和訳/金森達装幀
> ハヤカワ・SF・シリーズ3091
> 290円
> 1965.7.25発行
粗筋:
二重星を公転する惑星ソラリス、計算ではその軌道は不安定で、とっくに主星に“墜落”しているはずであった。そして研究の結果、軌道を安定させているのは、ソラリスの海らしいと判明した。そしてこの“海”の研究を始めてから100年たった現在でも、その本質は不明のままであった。

 「アメリカのSFでは、他の惑星の知性体との接触にはだいたい3つの紋切り型がある。それは『相共にか、われわれが彼らをか、彼らがわれわれをか』で、これでは余りに図式的すぎる。しかし、私は未知のものをそれ自体を示すことによって、予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きかったのである。」と、著者がしているこの本は、45年前に出版されたとは思えない新鮮さで今も健在です。(日本語訳は42年前。当時私は中学生で、初めて読んだ時は、さっぱりわからずつまらなかった思い出があります。当時、一番好きだったのは、クレメントの『重力の使命』。これは都合十数回読みました。しかしこれに出てくる宇宙人は、レムの描くそれとは対照的に極めて人間臭く、そこが分かりやすくて良かった(汗)
 人間に理解できない存在を、あるがままに書いたこの作品はその先駆性でこれからも読みつづけていかれる傑作だと思います。

『ソラリスの陽のもとに』
>スタニスワフ・レム著/飯田規和訳
>ハヤカワ文庫 SF 237
>1977.4発行
『世界SF全集 23 レム』
>『砂漠の惑星』『ソラリスの陽のもとに』収録
>1968.11発行
 

『ソラリス』
>スタニスワフ・レム著/沼野充義訳/L'ARCHIVISTE.SCHUITEN&PEETERS装幀
>ISBN 4-336-04501-1
>国書刊行会
>2400円
>2004.9.30発行
スタニスワフ・レム・コレクション第一回配本

 翻訳者の沼野氏は、高校生の頃この作品に出会い、ポーランド語の勉強を始め、ついにはこの『ソラリス』の新訳を手がけるようになったというSFファン。早川版で欠落している個所(約原稿用紙40枚分)を新たに訳出した完訳版です。


『惑星ソラリス』
>アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
 1977年6月18日発行のリバイバル版の映画パンフレット。
 ライナーノート執筆陣は、黒澤明、佐藤忠男、白井佳夫、小野耕世、山田和夫、深見弾で、映画のシナリオが全文掲載されています。
『惑星ソラリス Blu-ray』USA版
>日本版、近日発売予定

『ロシア・ファンタスチス(SF)の旅』
> 宮風耕治著/ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会編集
> ISBN-13: 978-4885956171
> 東洋書店
> 600円
> 2006.2発行

『白鯨』
> ハーマン・メルヴィル著/八木敏雄訳
> ISBN-13: 978-4003230817
> 岩波書店
> 987円
> 2004.8.19発行
 「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(1819‐1891)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。

『SFマガジン』2012/06月号
2012/07月号
2012/08月号
第7回日本SF評論賞決定
選考委員特別賞受賞作掲載
「『惑星ソラリス』理解のために[一]――レムの失われた神学」(6月号)
「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族〈前編〉」(7月号)
「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族〈後編〉」(8月号)
忍澤 勉

雀部> 忍澤さんはなぜSF評論を志されたのでしょうか?
忍澤> 最初からこんなことをいうと問題なのかもしれませんが、そもそもSF評論を志したというわけではなかったんですよ。ただもともとSF好きだったので、学生時代にタルコフスキーの「惑星ソラリス」を、無用心にも(笑)観に行って、それでヤラレテしまったというわけです。
 この「惑星ソラリス」は、なにせソビエト映画ですから、ちょっと風味が変わっているかな、でもアメリカ映画に比べると迫力はないだろうなぁ、という軽い気持ちで映画館に出掛けたんです。
 その軽い気持ちゆえだったのでしょうね、とにかく驚きの映画でした。これは拙文にも書きましたが、その宇宙ステーションがまずは汚い。その当時のSF映画といえば、宇宙を舞台にしている限り、キンキラキンのツルッツルなメカに溢れていましたから、これは当時の感覚としては衝撃でしたね。今では汚い宇宙船も「エイリアン」を筆頭に数多く存在するので、若い人にはわかりにくいかもしれませんね。
  またその汚さに対して、地上のシーンの美しいことったらありません。順番としては地上のほうが先ですから、宇宙ステーションの乱雑さは強調されました。さらに映画はよくわからないの連続です。ハリーとクリスの観る「家族ビデオ」、ハリー以外のチラリと出てくる「お客」たち、古風な図書室、ハリーの奇妙な服、そして極め付きのラストシーンです。
 もちろんそのすべてを最初から認識したわけではありませんが、その謎を解くために、まずはレムのハヤカワ文庫版『ソラリスの陽のもとに』を読んだわけです。

 よいしょっと、今日はいろいろと本や資料を参照するだろうなと思って、このマジソンバッグにたくさん詰め込んできました。どこにいったかな、あ、あった。これが最初に読んだ『ソラリスの陽のもとに』です。もうボロボロですね。表紙は鏡を見る「惑星ソラリス」のクリスとハリーですが、これたぶん裏焼きです。でもそうすると鏡に映ったのは正像となって、とややこしい。まあ鏡といえばタルコフスキーの十八番ですね。そしてバックはソラリスステーションですね。

  ということはさておいて、私がレムを読んだのは、まず「惑星ソラリス」ありきだったのです。で、正直いってハヤカワ版を読んでも、イマイチよくわからなかった、というか謎はさらに強まりました。「なんだ映画と全然違うじゃないか」というわけです。
 なので、タルコフスキーの作品の上映館を「ぴあ」で見つけては、観に行っていました。ビデオがほぼ存在していない時代でしたからね。そういった中で、ぼんやりとタルコフスキーの作家性のようなものが見えてきたわけです。やがてビデオ録画ができるようになると、さっそくミッドナイトアートシアターで放送された「惑星ソラリス」を録り、何度も観ては、いろんな「発見」をしました。
 そんなこんなしていると、沼野充義さんのポーランド語からの完訳『ソラリス』が世に出ることになります。私は待ってましたとばかり、「惑星ソラリス」理解のために、それを読み始めたのです。
雀部 >  そういや、銀背の『ソラリスの陽のもとに』では、スタニスラフ・レムとなってますね。
栄村> スタニスワフと呼ぶのが正しいのです(笑)。ハヤカワSF文庫の「星からの帰還」の訳者あとがきで、吉上昭三氏が指摘したらしく、以後その名で出版しますと編集部が書いていましたから。
雀部> ありゃりゃ。以後スタニスワフ・レムに統一します(汗;)
 まずタルコフスキーの「惑星ソラリス」ありきだったんですね。私の場合は、まず銀背の『ソラリスの陽のもとに』を読んで、ただただ圧倒されて、凄いSFだなぁと。
 映画のほうは、最初の上映時には見てなくて、大学を卒業してから岡山で自主上映があったときに、仲間と一緒に見に行きました。女の子たちは、あのラストで「海が主人公を理解してくれた」と感激していたのですが、男達は「ありゃ、小説とは違うだろう」とぶつくさ。
忍澤> おっと前の返答は、質問にはあまり対応していませんでしたね。
 よく考えてみると、なぜSF評論を書くようになったのか、つまりなぜ「惑星ソラリス」のことを書くことになったかというと、たぶんそのきっかけが、雀部さんの青春の一ページを彩った(失礼)とおぼしき、あの「ラストシーン」だったのです。
 私は映画から「ソラリス」の迷宮に入ったので、とにかくあのラストシーンには困りました。ほとんど「意味不明」のあのクリスの帰還の場面の謎を知りたいために、ハヤカワ文庫を読み始めたというわけです。恥ずかしながら、名前を知っていても、レムの作品に接したのはそれが最初でした。

 この映画か先か、それとも原作が先かは、当然のことながら「惑星ソラリス」に対する思いに微妙な差異をもたらすでしょうね。まあ原作が先という人は、すくなくともSFファンに違いなく、対して映画が先の人は、ただの映画ファンということができるかもしれません。
 ちょっとわき道に逸れましたが、原作を読んでもその謎は深まるばかりでした。で、何冊かのタルコフスキーの解説本を読んだのですが、ヒントになりつつも、どうにも納得できずにいました。レム自身が、クリスはソラリスに残ったといっているようだったのですが、当初、そのことには残念ながら触れることがなかったのです。しかもその謎はただ原作で残ったのか、残らなかったのかで解消されるものでもありませんし。
 しかし「海が主人公を理解してくれた」かぁ、うーむ、映画の解釈は人それぞれであっていいし、まったく「そうではない」ともいいきれないし、翻って、じゃあ自分はどう考えるのかと問われると、また原稿用紙何十枚となってしまいそうです。ただ短絡的に書いておくと、「どのような海が、主人公のどういったことを、どんなふうに理解して、いったい何を彼にもたらしたのか」ということに意味があって、それが果たして「感動」に結びつくのかどうか、なのだと思います。
 それからシロウトっぽい(事実、ほぼシロウトですが)質問で申し訳ありませんが、雀部さんが読まれた銀背というと、1977年に文庫となる際に、一部改訂される前の版ということなのでしょうか。
雀部> そうです。調べたらハヤカワ文庫SF版の「ソラリス」は持ってなかったです。
栄村> クリスはソラリスに残ったかどうかというお話ですが、原作では「最後の一週間を、私はつとめて理性的にふるまっていたので……」(ハヤカワSF文庫版311p)という一節があるので、任期を終えたクリスは地球に戻っていったのでしょう。タルコフスキーの映画でも、クリスは、「海」との接触活動を今後も継続すべきかどうかを決定するために派遣されており、任地で仕事を終え最終報告のために地球へと帰っていったのでしょう。映画のラストのシーンですが、タルコフスキーの映画は人間の本質を映す「鏡」が重要なテーマになっており、彼はそれを映画のエンディグに持ってきた――つまり、あのシーンは、クリスがソラリスをあとにしたのち、コロイドの海が彼の心の奥に秘めていた願望を、クリス自身を含めて実体化したものだと個人的に解釈しているのですが……。
忍澤> なるほど!! なんたる失態。その「最後の一週間」を見逃していました。これほど明確にカウントダウンしていたのですね。そのあとのクリスの迷いに気をとられてしまったようです。
 ただ不思議なことに、レム自身はタルコフスキーを批判する文脈で、「私のケルビンは何の希望もなしに惑星にとどまることを決意するが、」(「SFマガジン」2004年1月号・71p)といっているんですよ。また栄村さんから見せていたたいた、イランの新聞のインタビューでも、そのようにいっていますね。頭脳明晰なレムも、だいぶ昔に書いたので、あやふやになっているのかもしれません。
 それから、私を「ソラリス」の隘路へと誘い込んだ、「はたして映画のクリスは残ったのか」という命題は、タルコフスキーの映画を何度も深読みしていくうちに、関心が薄れてしまったのです。
 たぶん私の中でそういった作品理解の逆転現象が起こったのでしょうね。以前は小説でも映画でも、物語の整合性が命だったんですが、それが二次的なことに思えてきたのです。
 確かに映画の展開として、ソラリスの海は最初にハリーを、次に母親を、そして最後に父親とその家をクリスに与えたのだから、彼はまだソラリスにいる、ということになります。ただタルコフスキーはそういった組み立て方には関心がなかったのではないでしょうか。できればそんなことはみんな捨象したい。でもいろいろな事情でそれができず、よって彼自身のストレスが高まってしまった、というのが私の独断的な見方です。
 そしてそのストレスを彼は「鏡」と「ストーカー」で解消しようとしたわけです。 この父親と家が登場するエンディングを論じることは、拙文の一つの大きなテーマで、最後近くでそのことに触れています。タルコフスキーと父親との関係は、大胆にいってしまえば、彼のすべて、少なくとも創作活動のすべてに影響しているでしょうね。もし父親がいつも家にいるような存在であったのなら、タルコフスキーはたぶん誰も知らない人物として終わっていたかもしれませんよ。
 また拙文ではこのラストシーンで、クリスはすでに死んでいるのではないかという仮説を立ててみました。ラスト近くに登場するクリスは心臓のあたりに手を置いています。そして耳毛がクローズアップされますが、スナウトの部屋にいた少年の若々しい耳のアップが生の象徴であれば、このクリスの耳が象徴しているのは死といえるでしょう。
 少し横道に入りますが、冒頭の地上シーンでは、もうクリスが父親とは会えないことが何度も強調されていて、それが最後の「父との再会」を際立たせるわけでが、ただ公開当時の字幕は、現在のDVDやシナリオ採録の台詞と比べると、少し欠落や省略があって、二度と会えないことのニュアンスが弱めなのです。
  それはたぶん英語版から翻訳されたもののようですね。顕著な例としては、最初のハリーをロケットに乗せてしまったあとの、スナウトとクリスの会話の中で、スナウトは「インク壷を投げたのかい、ルターのように」という台詞があるのです。これは実際の逸話を皮肉を込めていったもので、原作にもありますが、公開時の字幕では欠落しているようなのです。
 いえ、公開時の記憶があるわけではなくて、今年開催されたタルコフスキー生誕80周年記念映画祭で上演された作品が、そのようになっていて、いまさらながらに気づいたというわけです。
 それを主催者の方に確認したところ、公開時の字幕をそのままデジタル化したとのことでした。
 しかしDVDの字幕はその点が少し修正されています。さらに実際の字幕ではないのですが、公開当時の映画プログラム、ええっとこれです。このやや奇怪な表紙のプログラムの巻末に、野原まち子さんによるシナリオ訳・採録が掲載されていますが、ここにはDVDの字幕にはない台詞がいくつか見つけられます。例えば地上のシーンで、クリスが草を持っていくといっているのは、このシナリオ訳にしかありません。この草もソラリスステーションで何度も映し出されるわけですから、この台詞が字幕化されていないと、その画面の意味を理解しづらくなりますね。
 このように私たちはレムの『ソラリス』の日本語訳が都合3つのタイプあるのと同様に、「惑星ソラリス」の字幕・翻訳も3つあることになります。そのどれに最初に接触したのかが、細かい解釈の上で大切な要素になっているともいえるでしょう。
 ところで、さらにわき道に逸れると、今年の映画祭のプログラムには、映画にはまったく登場していない、黄色いジャケットと白いシャツ姿のクリスのスチール写真が掲載されています。これって、いったいなんなのでしょう。ソラリス・オタクとしては興味津々です。
栄村> 「インク壷を投げたのかい、ルターのように」は、16世紀、マルティン・ルターがドイツのヴァルトブルク城で聖書の翻訳をしていると悪魔が妨害にあらわれ、ルターはインク壜を投げつけた、という伝説からきたセリフですね。日本で発売されているDVDの方には入っていませんでしたが、去年、アメリカで発売されたクライテリオン版のブルーレイには、英文字幕で入っていました。
忍澤> あれれ、私の手元にあるIVC版のDVDには、日本語字幕でもルターのくだりがありましたよ。「惑星ソラリス」のDVDは紺色のマジソンバッグに入っているはずですが、ええと、これです。このDVDはロシアで制作されていて、それをそのままIVCがパッケージして発売しているみたいですね。字幕制作者のクレジットはありません。
  さて、くだんのシーンは2枚目のDVDの頭近くです。あれ、正しい字幕は「ルターのように、インク瓶を投げたとか?」でしたね。ということはDVDにも何パターンかの字幕があるということでしょうか。
  補足になりますが、公開当時の字幕を担当した岡枝慎二さんは、ご存知のように英語がご専門でしたから、その当時の英文台本を訳されたのではないだろうか、というのが今年その字幕をデジタル化して上映した配給会社の方の見解でした。
  ちなみにそのシーンは原作では文庫の108pに登場し、「……ルーテルのように、思いあまって、インキスタンドをぶっつけたのと違うかね?……」となっています。このレムの表現を深読みして、私は「思想家たち」の章にある「大量のインクが消費されてきたわけだが、それは結局解説不能な主題であって……」に結び付けてみました。くわしくはSFマガジン6月号256pをご覧ください。
 ところで、タルコフスキーはそのインク瓶という表現が気に入ったようで、なんと実物を登場させています。まずクリスと母親が抱き合うシーンで、ゴロゴロとモノが転がるような音が聞こえてきますが、それはインク瓶の栓が動く音だったのです。ということは、悪魔としての母親に、誰かがインク瓶を投げつけようとしたのでしょうか。そしてその栓とインク瓶の前にはなんとレーニン硬貨の入った金属ケースがあるのです。さらに同じシーンの「雪中の狩人」の下にもインク瓶が登場しています。でもこちらはDVDを静止させないと確認できないでしょうね。
栄村> IVC版のDVDでも、うちのはレンタルにも使われているディスク1枚組の古い分でしたから……。

 ところで、「ソラリス」がはじめて日本に紹介されたのはたしか1965年(昭和40年)の7月でしたか。原作の脱稿が60年の6月ですから、ほぼ5年後です。「ハヤカワ・サイエンスフィクション・シリーズ」の一冊として刊行されたと思います。「追悼ブックレビュー」を連載していたとき、掲載された本の表紙の写真がそれでした。その後、68年に「世界SF全集」が刊行され、なかの一冊として、あの名作「砂漠の惑星」と一緒に収められました。雀部さんはその版の「ソラリス」を読まれたのですね。この頃の訳文では、他の惑星の「海」が舞台になっているとはいえ、読んでいると「遠洋航海用の大宇宙船」という言葉がとび出してきて、妙な気分になりました(笑)。なんだか宇宙船がトロール漁船やイカつり漁船、遠洋漁業の捕鯨船に化けたみたいで(笑)。しかし、忍澤さんが「受賞の言葉」で「ソラリス」とメルヴィルの「白鯨」との意外な関連性についてふれておられたのを読み、そのあたりお聞きしようと思っています。「遠洋航海用の大宇宙船」という訳語は、翻訳者もちょっとこれは……と思われたらしく、77年のハヤカワSF文庫版では「恒星間飛行用の大宇宙船」と修正されていました。
忍澤> あれが「ハヤカワ・サイエンスフィクション・シリーズ」だったんですね。表紙はなにやら「惑星ソラリス」冒頭の水草のシーンを彷彿させます。まあ私の場合は「何を見てもソラリスに見えてしまう」というソラリス病なのかもしれませんが。その本は残念ながら持っていません。手元にあるのは、「世界SF全集」版です。ええっと、これです。全集なんであまり味気のしない装丁で、本体背表紙の「レム」という置き方は微妙ですね。
 いちおうここで、『ソラリス』の翻訳が、都合3つのタイプがあることを確認しておきましょうか。一つ目がSFマガジンに1664年の10月号から翌1965年の2月号まで掲載されたものが、「ハヤカワ・サイエンスフィクション・シリーズ」と「世界SF全集」として刊行されています。
 はい、SFマガジンもたまたま古本屋で12月号と1、2月号だけ見つけました。カットがいいですね。
 そして二つ目がその改訂版といえるもので、先ほど鞄から出した1977年のハヤカワ文庫SFです。たくさんの細かい直しとともに、「別れ」の章では6ページが付け加えられています。私も「別れ」のところに鉛筆で線を伸ばして、遠洋航海と書き込んでますね。
 それから三つ目が国書刊行会版で、これはポーランド語原典からの翻訳の、いわば決定版といえるでしょう。ええっとこれです。これもボロボロになりつつあって、付箋が何十枚も貼られていますが、装丁が最高です。国書刊行会さんには、とにかく残りの巻を発行していただきたいですね。
 それで、あの『白鯨』の話になりますが、この沼野充義さんが訳された『ソラリス』の刊行記念トークセッションが開催されて、そのニ次会で、トークのお相手だった巽孝之さんから、「『ソラリス』のことをもっと知りたかったら、『白鯨』を読むといいよ」とのご助言をいただいたんですよ。もちろん映画はテレビで子どもの頃に観ていましたが、文芸大作である小説は触ったこともありませんでした。
 しかし実は、レム自身もそのことに言及しているんです。
 『ソラリス』の巻末で、沼野さんがレムの言葉として取り上げた中に、「世界文学の最高の領域で、それ(『ソラリス』)に似た運命を持った作品を見つけることが可能だ。念頭にあるのは、例えば、メルヴィルの長篇『白鯨』である」(366ページ)とあったのです。
 これはソダーバーグの映画化に関連した文章だったのですが、映画化された原作『白鯨』の運命と『ソラリス』のそれをダブらせただけでなく、その原作の構造相似、あるいはダブりも意味しているようです。
 で、さっそく岩波文庫の分厚い全三冊の『白鯨』(八木敏雄訳)を買ってきたのですが、ね、これです。全部厚さが6センチほどもあるでしょ。このようにかなりの重量級でありながら、字が大きく行間も広く、挿絵も満載のせいか、いやいや、とにかく面白いのであっという間、とはいきませんが、自分でも思いのほか速いテンポで読み終わってしまいました。レムが例として挙げた作品ですが、その読み易さの点では『ソラリス』とはたいぶ違いますね。
 しかし構造的にはやはり類似しています。そのあたりに巽さんが『「白鯨」アメリカン・スタディーズ』(みすず書房)の中で触れています。ええと、この本です。白と青にちょっぴり茶色が混じった美しい本ですね。鯨の頭の部分を表現しているようにも見えますね。それから訳者である八木敏雄さんの『「白鯨」解体』(研究社出版)も読みました。こちらも白と青に、ドーンと鯨のイラストです。ああ、テーブルの上が鯨だらけになってしまいました。でもまだあるんです。レイ・ブラッドベリの『緑の影、白い鯨』は、映画『白鯨』の脚本をブラッドベリが書いていく日々の物語と思ったのですが、意外にその記述は少なかったですね。はい、この緑が美しい分厚い本です。どこにも鯨の影はありませんね。
 あれ、なんか本の行商に来てしまったみたいですね。こんなのでいいんでしょうか。
栄村> 『ソラリス』の巻末で、沼野さんがレムの言葉として取り上げた抄録の文ですが、ポ-ランド語からの英訳版がレムのホームページに掲載されています。これには拙訳があります。
(レムのサイトに掲載されている原文

「世界文学の高い領域に位置している他の作品に、類似性を見つけることができる。」としてメルヴィルの「白鯨」に言及しているわけですが、原作のテーマである「宇宙における人間の位置ついての問いかけ」や「確実に存在する何かと人間との遭遇のヴィジョン」という点から「白鯨」を読んでみると、またおもしろいですね。レムは「ソラリス」に先だつ100年以上前、19世紀半ばに書かれた「白鯨」を、おなじモチーフを扱った作品――この世界においての人間の位置について考察した作品として見ていたのでしょう。

「……こういう孤立し、太古から不変で、停滞した国々では、おぼろにかすむ地球創成期の原初性を近代の今日にいたるまでなお多分に保存していて、それゆえ人類の先祖の記憶はいまだ生々しく、その先祖がどこからきたかは知らぬままに、人間はすべてその先祖の直系の子孫であると思いなし、おたがいに自分たちを生きた亡霊としてながめあい、なぜ自分たちが創造されたのか、その創造の目的が何であるかを太陽や月にたずねるのである」
(『白鯨』八木敏夫訳 岩波文庫中巻111P~112P 第50章「エイハブのボートとその乗り組み」)

「……わたしは時間がまだ始まっていない不思議な世界に一挙に逆戻りさせられるのであった。ちなみに、時間とは人間とともに始まるものではなかったか。この不思議な世界では、クロノスの薄明の混沌がわが頭上にうずまき、小暗い永劫の極地を、わたしは戦慄とともにのぞき見る。くさび形をした氷の城壁が現在の赤道にせまり、二万五千マイルにわたるこの地球の周辺のどこにも人間の住むべきたなごころほどの土地も見当たらない。当時、全世界は鯨のものだったのだ。鯨は現在のヒマラヤやアンデスの山並みに沿って航跡をのこしていたのだ。(中略)このモーセに先だち、底いのない言語を絶する鯨の恐怖に、わたしは心底からおびえおののく。このあらゆる時間に先だって存在する鯨は、あらゆる人間の時代がおわってもなお永遠に存在しつづけるにちがいない。」
(『白鯨』岩波文庫下巻 145~146ページ 第104章「化石鯨」の章より)

 引用した「化石鯨」の前文は、約7千万年前から100万年までの第三紀層から発掘された鯨の化石や、鯨の骨格に言及しているのですが、鯨類を通しそのはるか向こう側にある、膨大な時の流れと宇宙を見ている人間の目の存在を感じます……。

 地球上にかつて存在したあらゆる生物の中で最大の脳を持ち、その頭部から発する超音波は、獲物の位置を正確につかみ、はるか遠方にいる仲間との交信につかわれる、さらに、水深3000メートルまで潜水する能力を持つといわれるマッコウクジラの生態は、いまでもよくわからない部分があります。
 さらに、メルヴィルが生きた時代である19世紀、海の底は、今でいえば木星の衛星エウロパの厚さ3キロの氷の下に存在するとされる、深さ数十から百数十キロの海のように、まったく暗黒で未知の領域だったのでしょう。深海の底についてわかりだしたのは、潜水艦の建造技術が飛躍的に進歩したここ60年あまりのこと――第二次大戦以降ですからね。『白鯨』の第70章「スフィンクス」には「数ある潜り手のなかで、おぬしほど深くもぐった者はいない。いまそのうえに太陽がかがやく頭は、この世の奈落も見たはずだ。そこは歴史に名をとどめることなかりし強者どもの鎧やいくたの船が錆びつき、語られざりし夢と錨が朽ちはて、地球というフリゲート艦が何百万もの水死者の骨を底荷がわりにおさめる呪われた船倉だ。そのおそろしい海底のみやここそが、おぬしのなつかしのふるさとなのだ。」という、エイバブの言葉が出てきますけど。
 そんな暗黒の領域に潜む体長15メートルの巨大生物――マッコウクジラは、漁の対象とはいえ、未知の能力を持つ、異星の生物のような、得体の知れない生き物だったのでしょうねえ……。

忍澤> 栄村さんの『白鯨』セレクションをお聞きして、『白鯨』の偉大さを再確認しました。
 人間が僅かな移動にも苦労していた時代に、縦にも横にも全世界的な移動をなしえていた鯨こそが、全能の存在だったのですね。想像できる世界の広さが地球に限定されていた頃、海はまさに宇宙空間に等しかったといえるでしょう。
 そういえば、ブラッドベリは『永遠の夢』の中の一作として、宇宙を舞台にした「2099年の巨鯨(リヴィアサン)」を書いていますね。それから日本でも久間十義さんが『世紀末鯨鯢記』という小説に、石丸―いしまある、という主人公を登場させています。 そしてまさに余談ですが、イシュメイルといえば、映画「白鯨」で彼を演じたリチャード・ベースハートが、のちにテレビドラマ「原子力潜水艦シービュー号」で、まさにマッコウクジラのように海洋を巡るシービュー号に乗り込む提督役でしたね。
 そしてタルコフスキーにとっては、レムのこの『白鯨』にあたる作品が、『ドン・キホーテ』ということになります。
栄村> 『ドン・キホーテ』ですか……。タルコフスキーが、「ソラリス」を読んで、この作品を連想したところに、彼自身の人間のとらえ方があると思うのですが……。忍澤さんは、「タルコフスキー・オリジナルと判断した場面が、じつは小説の小さな表現を元にいているということが多数見受けられる」と書いておられましたが、脚本に『ドン・キホーテ』の物語が現れたのも、小説の中で登場人物が激白する場面、
「われわれはヒューマニストで、気高い精神の持ち主だ。われわれは宇宙の誰をも征服しようとは欲しない。われわれはただ他の惑星の住人に地球の文化を伝え、交換に、他の惑星の遺産をもらおうと望んでいるだけだ。われわれは自分を聖なる接触(コンタクト)の騎士だと思っている。ところが、それが第二の嘘だ。われわれは人間以外の誰をも求めていない。われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ。他の世界など、どうしていいのかわれわれにはわからない。われわれには自分の地球だけで充分だ。」
(「ソラリスの陽のもとに 飯田規和訳」ハヤカワ文庫118P)
 から連想したからではないかと思います。この一節には、「騎士」という言葉や「われわれには地球以外の別の世界など必要ない。われわれに必要なのは自分をうつす鏡だけだ」、「われわれには自分の地球だけで充分だ」という重要なセリフが出てきますけど、タルコフスキーの映画に強い影響を与えたばかりでなく、この一節のうけとめ方のちがいをめぐって、原作者との意見の相違――人間の宇宙に対する姿勢というか、向き合い方の違い、人間観の違いがあらわになってきたようにも感じます。

 『ドン・キホーテ』は、17世紀当時、ヨーロッパで流行っていた騎士道物語を読みふけって気のふれた下級貴族が、自分を伝説の騎士と思い込み、世の不正を正すため遍歴の旅に出かけたものの、すべてを騎士道におきかえて解釈するため、先々でコミュニケーション・ギャップがおこり、事件をおこす話でした。タルコフスキーは、自分を騎士だと思い込んで諸国を遍歴するドン・キホーテの姿に、滑稽で、どこか悲しい雰囲気を漂わせる人間の姿――「ソラリス」でいえば、宇宙から見れば平凡な存在にもかかわらず、その器の中にすべてのものを収容できると考え、ひたすら地球の領域を宇宙にまで拡大しようとする人間の姿――を重ねあわせて見ていたのかもしれませんね……。
忍澤> 珍しいことにレムとタルコフスキーの共通点として挙げられるのが、『ドン・キホーテ』を褒め称えていることなんです。まあ世界文学の不朽の名作ですから不思議なことではありませんが。
 レムは1965年のソビエト訪問の際のインタビューで「愛読書は?」と聞かれて、「たくさんの中から一つを選ぶのはむずかしい……まあ、『ドン・キホーテ』ですかね」と答えているんです(「SFマガジン」1966年4月号)。またタルコフスキーも、「『ドン・キホーテ』は、高潔さと私欲なき善良さと、誠実さの象徴となり、サンチョ・パンサは、常に正しさと分別の象徴となった」といっています(『映像のポエジア』75p)。
 「惑星ソラリス」ではその『ドン・キホーテ』が本として二度ほど登場します。まず最初はクリスが土と草が入ったとおぼしき金属ケースをリュックに仕舞う際に、ページに土がこぼれた状態でテーブル置かれています。次が図書室のシーンで、クリスが読む場面と無重力の場面でクリスとハリーの前を横切ります。それらすべてでドン・キホーテとサンチョが出立する挿画のページが開かれていますが、これはドン・キホーテがサンチョを従者にして二度目の旅に出るところで、物語としては最初のほうです。ここで驚いたのは、ドン・キホーテがやがて栄達したら、サンチョに島の領主にさせることを約束している点です。そして実際にサンチョは島の領主となるのですが、そこはなぜか陸続きの場所なのです。みごとに「惑星ソラリス」のあのラストシーンと符合していると思います。さらにこの二人は木の馬に跨って、宇宙旅行のバーチャル体験までしてしまいます。
 図書室のシーンでスナウトは、サンチョ・パンサの言葉をクリスに読ませます。
「おれは、セニョール、一つだけ知っている……。おれは眠っている時は恐怖も希望も苦労も幸福も感じない。眠りを発明した人に感謝しよう。これはすべての人に共通の宝物であり、牧童にも王様にも、馬鹿にも賢者にも平等に同じ重さなのだ。ただ一つ困るのは深い眠りだ――それは死にとても似ているそうだ」(プログラムにあるシナリオ訳・採録)。そしてそのあと、スナウトは続くドン・キホーテの言葉を暗唱で、「サンチョよ、いまだかつて、おまえはこんな優美な言葉を言ったことがなかった」と披露します。
 このサンチョの言葉をどう捉えるかが、「惑星ソラリス」理解のための重要なキモの一つですね。拙文ではこの恐怖や希望、苦労と幸福、あるいはまた牧童や王様、馬鹿や賢者という言葉が、語られる背後のブリューゲルの絵と対応しているのではないかと考えました。あの図書室にあったブリューゲルの5枚の絵は、人々の日常を描いた3枚、「雪中の狩人」、「暗い日」、「穀物の収穫」と、その左右にある、いわば天への人間の接近と愚かさを描いた「バベルの塔」と「イカルスの墜落のある風景」の2枚です。つまりタルコフスキーはこの5枚の絵画を掲げることで、人間の属性を、またパンチョの眠りについての言説によって、人間が死すべきものであることを提示したような気がします。そしてソラリスがラテン語の太陽を意味するとすれば、まさに海に沈み込んで、足をバタつかれているイカルスの姿が人間と重なるというわけです。
ところで、この台詞のやり取りからすると、サンチョはクリスで、スナウトはドン・キホーテと見ることもできるでしょう。実際にロシア語初版の小説の中で、いろいろと哲学的な思考するのはスナウトであって、クリスはただ本を読み進めるのと、ハリーへの対応に手一杯という印象がありますから。それにこれはもう妄想の部類ですけれど、クリス≒キリストとすれば、キリストもエルサレムに入るときに、サンチョと同様に驢馬に乗っていましたよね。
 もう一つだけ妄想を付け加えると、ハヤカワ文庫SFの11pには、ソラリスステーションの描写として、
「すでに、その模様は、銀色に光る、細長い、鯨の背中のような建造物の屋根にえがかれていることもわかった。その建物には周囲にレーダー装置が針のように突き出し、黒い窓の穴が幾列も並んでいた」となっているところは、まるでたくさんの銛を打ち込まれた白鯨のようでもあります。
栄村> ソラリス・ステーションは、直径200メートルの円筒形の構造物で、素粒子の消滅エネルギーによる重力制御装置で海面上500メートルに浮かび、海の異変を特殊なレーダーで探知するや、即座に成層圏まで脱出できる機能を備えています。真空中で活動できるかどうかはわかりませんが、ソラリスの有毒な大気から人間を守るため完全な密封構造になっており、その中で人間が長期にわたって快適に生活できる地球環境を再現している。原作では中央部が4階、周囲が2階になっており、映画では内部をトーラス構造になった廊下が外周部を巡っている。ブリューゲルの絵が飾ってある図書室は、そのリング状の廊下の一角にあるわけですが、中はホールになっており、紙の書物、絵画、ステンドグラス、白亜のビーナス像、昆虫標本、シャンデリア、蝋燭の燃える燭台まである。まるで別の惑星上ではなく、地球にいるような印象をうけます。
 忍澤さんはステーション内の乱雑さに、衝撃をうけたと仰有っていましたけれど、この図書室の場面で、16世紀にブリューゲルが描いた「雪中の狩人」の絵やドン・キホーテの「……困るのは深い眠りだ――それは死にとても似ているそうだ」という一節の朗読をきいていると、まるで、宇宙の涯(はて)、いや、遠い未来から過去の脈々と続いてきた人間の姿をふりかえっているような気さえしてきますね……。
忍澤> いまその出典が見つからないのですが、タルコフスキーが最初に構想した「惑星ソラリス」は、すべて地上で展開されていた、という記述をどこかで読んだことがあります。
栄村> 私もどこかで読んだ記憶がありますが、肝心の「ソラリスの海」が出てこないとなると、ちょっとどんな映画になるか想像がつかない(笑)。
忍澤> また日記には、SF的な演出をガラクタと称していますから、彼自身が望んだ背景は地上のシーンと図書室のシーンに集約させるかもしれません。私が乱雑さを感じたのは、まさにそのSF的なシーンなわけですが、考えてみるとタルコフスキーのそれへの嫌悪が汚れをつけさせたとも解釈できますね。
栄村> 当時のソビエトの特撮技術では技術的にいろいろ制約があり、思うような表現ができないから強い表現が出てきたのかもしれません。しかし、「ソラリスの海」がうみだすグランドキャニオンをはるかに超える巨大な構造物や、地球上の都市を連想させる生成物、それにバートンが見た、海面に漂う4メートルの背丈の嬰児、死亡した探検隊員の脳から再現した黄色みがかった石膏のような物質できた実物大の公園など――海がつくりだすさまざまな現象を見たいという思いから映画を見ると、不満が残るでしょう(笑)。
忍澤> 先ほどはいろいろと勝手に空想を広げてみましたが、このクリスが朗読したサンチョ・パンサの台詞の一番ストレートな解釈は、乗組員の眠りについての言及ということになります。最初に「すべての人に共通の宝物」といっているのですから、ソラリスの海は素直に、その宝物たるものを彼らに与えたと見ることもできるような気がします。ところで、タルコフスキーの『映像のポエジア』には、ちょっとおもしろい記述があるんですよ。ええっと、271pですね。彼は自身の監督作品数を当てたというパステルナークの言葉を、芸術家の運命として、「眠るな、眠るな、芸術家よ、眠りに身をまかせてはいけない…… おまえは永遠の人質であり、時間に囚われているのだから……」と引いているんですよ。確かにタルコフスキーは自分が芸術家であり、他の人とは違うという選民意識を持っていたようですね。
栄村> 「彼は自身の監督作品数を当てたと」とは――監督になる前に自分がこれから撮る映画の作品数を予言していたということでしょうか?
 「眠るな、眠るな、芸術家よ、眠りに身をまかせてはいけない…… おまえは永遠の人質であり、時間に囚われているのだから……」という言葉は意味深長ですね。かぎられた生の時間(とき)にとらわれ、さらに心の奥から噴き出してくる情念の永遠のとりこである芸術家という存在――そういう風にうけとれますね……。
忍澤> おっと、慌てて訂正します。ネット上にもパステルナークはタルコフスキーの作品数を予言したなどとアップされていますが、実は本人にではなく彼の霊にタルコフスキーが質問したことなんです。『タルコフスキー日記』によると(137p)、とある降霊会で「今後私は何本映画を撮るかという質問に、彼は四本と答えた」とあります。この記述は「惑星ソラリス」を撮り終えた時点だったので、結局は「鏡」、「ストーカー」、「ノスタルジア」、「サクリファイス」の五本、予言よりも一本多く撮影していますね。
 ただ『タルコフスキー日記Ⅱ』の死のほぼ一年前の記述には、「B・L(パステルナークのこと)は数え方を間違いはした。私が全部で七本の映画を撮ると予言したあの時、彼は『ローラーとバイオリン』も勘定に入れた、あれは数えるべきではないのに。だが結果として、彼は間違ってはいなかった」(230p)とあるんです。彼の長篇映画は「僕の村は戦場だった」から「サクリファイス」まで七本ですから、こちらの予言は的中したことになります。
 しかしタルコフスキーは霊を降ろしてまでアドバイスを得たかったことからも、パステルナークをかなり尊敬していたようですね。2冊の「タルコフスキー日記」の索引でも、レムがなんと二箇所しかないのに、パステルナークは十箇所ほどあります。そしてその多くは彼の作品の抜書きです。
栄村> タルコフスキーに、オカルティストとしての一面があったのですか? 降霊術まで参加していたとは……。パステルナ-クは、「ドクトル・ジバゴ」でノーベル文学賞を受賞した有名な作家ですね。作家としての人生は最後まで不条理な時代に翻弄された人でしたが……。
 (後半に続く)


[忍澤勉]
1956年東京生まれ。明治学院大学経済学部卒。非常勤講師、広告制作会社、出版社を経てフリーランス。「東京シュプール」で第13回長塚節文学賞優秀賞受賞
[栄村]
レムの30年来のファン。「砂漠の惑星」を読んだのが、SFに本格的に身を入れるきっかけとなりました。彼が亡くなる前に一度、ポーランドを訪れたかったのですが……。
生前、レムが言っていたように、インターネットで世界中から情報が入ってきて便利になる反面、駆けめぐる膨大な情報のために、ますます世の中は複雑化し全 体像が掴みにくくなっているような気がします。彼のような広い知識と視野をもつSF作家は、これからますます生まれにくい状況になっているのかもしれませんね。
[雀部]

「レム氏追悼ブックレビュー」は以下から。栄村さんをはじめとして、とりこさん、たなかさんの女性陣によるブックレビューも注目です。
http://www.sf-fantasy.com/magazine/bookreview
以下に簡単なレム氏著作年表あります
http://www.sf-fantasy.com/magazine/bookreview/lem_table.html
ネタもとは、アイザック・アシモフ著『科学と発見の年表』と、AMEQさんの「翻訳作品集成」及び、サンリオの『SF百科事典』、「Twentieth-Century Science-Fiction Writers」(St_J)、GROLIER社の"THE MULTIMEDIA ENCYCLOPEDIA OF SCIENCE FICTION"から。



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