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BookReview

レビュアー:[雀部]&[栄村]

『ソラリスの陽のもとに』
> スタニスラフ・レム著/飯田規和訳/金森達装幀
> ハヤカワ・SF・シリーズ3091
> 290円
> 1965.7.25発行
粗筋:
二重星を公転する惑星ソラリス、計算ではその軌道は不安定で、とっくに主星に“墜落”しているはずであった。そして研究の結果、軌道を安定させているのは、ソラリスの海らしいと判明した。そしてこの“海”の研究を始めてから100年たった現在でも、その本質は不明のままであった。

 「アメリカのSFでは、他の惑星の知性体との接触にはだいたい3つの紋切り型がある。それは『相共にか、われわれが彼らをか、彼らがわれわれをか』で、これでは余りに図式的すぎる。しかし、私は未知のものをそれ自体を示すことによって、予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きかったのである。」と、著者がしているこの本は、45年前に出版されたとは思えない新鮮さで今も健在です。(日本語訳は42年前。当時私は中学生で、初めて読んだ時は、さっぱりわからずつまらなかった思い出があります。当時、一番好きだったのは、クレメントの『重力の使命』。これは都合十数回読みました。しかしこれに出てくる宇宙人は、レムの描くそれとは対照的に極めて人間臭く、そこが分かりやすくて良かった(汗)
 人間に理解できない存在を、あるがままに書いたこの作品はその先駆性でこれからも読みつづけていかれる傑作だと思います。

 レムの人間の理解を超えた存在とのコンタクトを描いた作品は、他に『エデン』『砂漠の惑星』『天の声』があります


『ソラリス』
> スタニスワフ・レム著/沼野充義訳/L'ARCHIVISTE.SCHUITEN&PEETERS装幀
> ISBN 4-336-04501-1
> 国書刊行会
> 2400円
> 2004.9.30発行
スタニスワフ・レム・コレクション第一回配本

 翻訳者の沼野氏は、高校生の頃この作品に出会い、ポーランド語の勉強を始め、ついにはこの『ソラリス』の新訳を手がけるようになったというSFファン。早川版で欠落している個所(約原稿用紙40枚分)を新たに訳出した完訳版です。


『惑星ソラリス』
> アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
 最初の岩波ホールでのパンフレット(左上)とチラシ(右上)とサントラ版LP(左)。

 上中央は1977年6月18日発行のリバイバル版の映画パンフレット。
 ライナーノート執筆陣は、黒澤明、佐藤忠男、白井佳夫、小野耕世、山田和夫、深見弾で、映画のシナリオが全文掲載されています。
 

雀部 >  スタニスワフ・レム氏が、3月27日に享年84歳でお亡くなりになり、とても残念でした。
栄村 >  いつかこんな日が来るとは思ってはいたのですが、いざ来てみると……。調べてみると慢性の心臓疾患で死の数週間前まで、クラクフの心臓外科クリニックに入院されていたそうですね。その以前から彼のホーム・ページを覗いても、長い間、ずっと更新がなかったので、何かありそうだと思っていたのですが……。
雀部 >  そう言えば、なんとレム氏のホームページもあったんですね。
栄村 >  ええ。ここです。
 「Family Pictures(家族の写真)」では、珍しいレムのカツラを被った写真がありますし、「Lem's Drawings」では、彼の描いたイラストを見ることができます。
雀部 >  わっ、ロンゲのレム氏や(笑)
 スタニスワフ・レム氏との最初の出会いは、SFマガジンで翻訳連載された『ソラリスの陽のもとに』が最初なんですが、当時まだ中学生でSFマガジンの定期購読を始めたばかりで、あまりよくわかってなかった(汗) こりゃほんとに凄い本だと感じたのは、高校生になり銀背で読み直してからです。
栄村 >  SFマガジンで「ソラリス」の連載がはじまったのは1964年の10月号で、雀部さんがお読みになったのはその頃ですね。こっちはのちにハヤカワから刊行された世界SF全集で読んだのが最初です。ふたりとも最初に読んだのは、ポーランド語からの直訳ではなく、飯田規和氏訳によるロシア語版からの重訳版ですね。
雀部 >  そうなんです。完全版は国書刊行会のレム・コレクションで初めて読みました。
 それから『金星応答なし』('61)を読んだり、世界SF全集で『砂漠の惑星』('68)を読み、これも凄いと感心。『天の声』は、サンリオ('82)のは読んでなくて、国書刊行会('05)で出てからやっと読みました(汗)
 あ、同社には、『完全な真空』('89)と『虚数』('98)でもお世話になったなあ。
栄村 >  『金星応答なし』('61)も『ソラリスの陽のもとに』もそうですが、はじめて日本に紹介された版は、原著をかなり削除していました。昭和36年に出版された『金星応答なし』など、ドイツ語版からの重訳で三分の一が削られているし、いまハヤカワSF文庫から出ている版が完訳版ですね。
雀部 >  ポーランド語の出来るSF翻訳者が居なかった?(笑)
栄村 >  ロシア語版「ソラリス」は、当時、ソビエト政権下で発行されたので、当局による検閲を受け、最終章のケルビンとスナウトが「欠陥を持った神」について話していた所や、ケルビンがステーションを出て、コロイド状の海に浮かぶ巨大な擬態に上陸する部分がごっそりと削除されていました。77年に刊行されたハヤカワ文庫版で、この部分が削られていたことをはじめて知り、びっくりしました。ところが昨年出た国書刊行会のポーランド語版からの直訳で、まだ削除されたところがあったと聞き呆れてしまいました。
 削られていた部分は、ソラリスの海で起こる現象を延々と描写した場面と、地球のソラリス関連の研究所を子供たちが見学に訪れた際、女の子のひとりが九万巻に渡る膨大なマイクロフィルムの山を見て、「これはいったい何のためにあるのですか」と質問するのですが、研究員の誰もその質問に答えられず、気まずい沈黙が落ちるという場面です。
雀部 >  新訳『ソラリス』の200Pあたりのところですね。
栄村 >  そうです。他にも、まれに「ソラリスの海」から分離した、さながら寝そべるアザラシやペンギンのような形をした奇怪な形の形成物の群れが、岩だらけの島の上に存在し、のろのろと動きだし、這いながら「海」に入り、溶けて一体化するという記述もありましたね。読んでいると、またそこに得体のしれない現象が存在するような気がするのですが……。
 ロシア語版の削除された部分を読むと、どれも小説のテーマを示している大切な部分で、有るのと無いのとでは、小説のトーンが相当変わる。ソビエト政権が崩壊して十数年がたった今、本当に検閲で削除する必要があったのか、あの当局の検閲はいったい何だったのかと、つくづく疑問に思いました……。ほかの作品でも、ひょっとしたら削除された箇所があるかもしれませんね。
雀部 >  ありそうですねぇ。沼野さんはご存じなのでしょうけど。
 日本では(世界でも)レム氏と言えば『ソラリス』が一番有名ですが、これは映画化されたことも原因の一つでしょう。レム氏ご自身は、映画の出来にはいたくご不満だったようですが(爆)
栄村 >  どちらの映画も17兆トンもあるソラリスの海が、ゼリー状の物質を使って、コロラドのグランド・キャニオンを上回る規模の異様な構造体――「擬態形成体」や「対称体」を造りだす様子や、他の海の現象については、あまり描かれていませんでしたからね。
 タルコフスキー版『ソラリス』でも、レムはソラリスの海が生みだす、このさまざまな現象を映像で見たかったし、映画が『ソラリス』ではなく宇宙版「罪と罰」になっていたことが不満だったそうです。でも、いちばん腹を立てたのは、タルコフスキーがケルビンの両親と叔母を出したことで、母親にいたっては最悪だ、とあるインタビューで語っていました。ポーランドに生まれ育ったレムは、あのシーンの背後に「母なるロシアの大地」という民族主義的なメッセージを感じたのですね。
 ソラリスに研究員がいるのは、宇宙における人間の位置という大きな問題について調べるためであり、それ以外のものではない。小説の終わりで、ケルビンはどんな希望もなしにソラリスに留まることを決めるのですが、映画の結末では、ソラリスの海が彼の故郷の家と森の光景を再現していた――このイメージにレムは腹立たしい思いをしたそうです。別のインタビューでは、少しこの主人公をめぐる悲壮感のトーンがやわらぎ、宇宙ではまだ何か驚くべき事があり、ケルビンはそれに出会うことを期待していることを読者に示しつつ、小説を終えたのだと言っていました。ひとつの大きな困難を乗りこえ、今度は静かな、謙虚な気持で、また宇宙に向かっていく気持を表したかったのですね。
 どちらにせよレムは、タルコフスキーが人間はすぐに母なる地球に帰るべきだという結論に従い、不快な宇宙のイメージを作り上げていたと考え、大きな違和感を持っていたようです。「タルコフスキーと私は、馬具をつけられたひと組の馬のようでした。それぞれ反対方向に荷車を引っぱっていました」とインタビューに書いていましたから。
雀部 >  タルコフスキー版『ソラリス』の評判はどうなんでしょう。私は、自主上映会でやっと見た口なんです。一緒に見たおんなのこたちが、あのラストシーンを見て感動し、ソラリスが人間というものを完全に理解して、主人公のためにあの家族の待つ孤島を作り上げてやったと思いこんでいるのには閉口しました(爆)
栄村 >  レムが聞いたら、頭を抱えるでしょうね(笑)。ソラリスの大気は、人間が宇宙服なしでは生きられないほど有毒なんですね(笑)。いくら懐かしい風景をコロイドの海が造り出したといっても科学者のケルビンが、孤島のような形をしたあの構造物の上を、宇宙服なしで平気な顔をして歩くということは、ちょっと考えられない(笑)。映画の初めの方で、査問会の委員のひとりが、バートン隊員の目撃した異様な現象がソラリスの有毒大気による幻覚だと説明する場面がありましたが、話が進むうちに頭から抜けちゃったかな。
 公開時の評判ですが、新聞には好意的な批評が出ていました。黒澤明は、映画冒頭で描かれる森や沼のシーンが、後の宇宙ステーションの場面になると、地球の自然への郷愁ともいうべき気持になって、たまらなく人の心をしめつけてくる、この長い導入部がなければ、基地の中に閉じこめられた人たちのせっぱつまった気持ちにじかにふれることはできない、そして、地球にいるということがとても嬉しいという気持を抱かせるほど、本当に怖いところのある映画だ、という内容の随筆を劇場パンフレットに書いていました。原作者であるレムの意見を知ったいま、「怖い映画だ」という部分は微妙ですね。
 作曲家の冨田勲も映画に強い印象を受け、シンセサイザーで「ソラリスの海」をイメージした曲を発表していました。
 最近では、2004年にイギリスのガーディアン紙が、世界中の科学者60人が選んだ「科学者の選ぶベストSF映画」という企画の中に、この映画が5位で入っていました。
 大阪ではフェスティバル・ホールで映画が公開されたのですが、ケルビンの両親が出てくる場面や、未来都市ということで、いきなり東京の首都高速環状線と、くたびれた運送屋のトラックが走っているのに驚いたくらいで、それほど映画自体には違和感は感じませんでした。もっともタルコフスキーは大阪万博のパビリオンを撮影して、未来都市にしたかったらしいのですが、もしこれが映ってたらお客さんはどう感じた事やら……(笑)。
 私自身は先に原作を何度も読んでいて、タルコフスキーのオリジナル部分はあるものの、小説の解釈で映画を見ていたし、ラストシーンの主人公の故郷の森と家の場面が出てくるところも、ケルビンがソラリスを去った後、海がX線で送られてきた彼の脳電図を元に、何か別の意図で彼の故郷と彼自身のコピーを創り出したと解釈していました。人間の切実な感情、記憶に残る懐かしい光景や願望も、ソラリスの海にとっては単なる擬態形成体の一形態でしかないのかもしれない、たとえそれが人の目に、過去の贖罪や「海」との意思の疎通、人生をやり直すチャンスに見えたとしても……。あの場面では、人間の理解をはるかに超え、強烈な異質さをそなえたものが、厳然として存在し続けてゆくのを強く感じたのですが……。
雀部 >  それは栄村さんだから、そこまで深読みできるわけで。一般的には、前述の女の子たちの反応が普通でしょう(笑)
 『映画と原作の危険な関係』(新宿書房)では「惑星ソラリス 共にSFのジャンルを拒絶する原作と映画の対立」に、永田靖氏が「映画化された『惑星ソラリス』について作家スタニスラフ・レムと(監督・脚本の)タルコフスキーが大喧嘩をしたことはつとに知られている。
 正確には映画が完成する前の段階で、シナリオがレムには気に入らなかったのだが、レムは文学作品の映画化には作家、もちろん原作の作家が支配力を持っていなければならないと考えていた。
 映画化に際しては、文学と映画について、監督と作家は考え方が似ていなければ良い作品は生まれないと素朴にも思っていたのは、例えば『スター・ウォーズ』をSF的な見地からすれば貧弱な精神性しか持ちえていないと糾弾するSF作家レムにしてみれば当然と言えば当然だろう。
 一方、タルコフスキーも『惑星ソラリス』は自分の作品の中では最低の作品だと公言している。何故なら発光体や明滅するランプなどのSF映画らしさを完全に払拭することができなかったからだ。(後略)」
と書かれていますが、タルコフスキー氏の『惑星ソラリス』に対する判定は厳しいんですね。
栄村 >  「レムは文学作品の映画化には作家、もちろん原作の作家が支配力を持っていなければならないと考えていた」
 とありますが、タルコフスキーが読んだロシア語版の小説は、初めからソビエト当局の検閲が入って削られた版で、映画もかなり検閲が入ったそうです。政治が介入してくると作家と監督のどちらも作品に対して完全な支配力を持つことは難しいですね……。
 タルコフスキーが当初考えていたソラリスは、かなり原作をディフォルメし、SF的要素を排したものだったと、どこかで読んだ記憶があります。しかし、原作者と作品の解釈をめぐって激論をした後、ソラリスを製作していく途上でタルコフスキーのイメージも変化したのかもしれませんね。
 それに映画製作は集団作業ですから、製作担当者の中には原作を丹念に読み込み、できるだけ忠実に映画化したいという考えを持った人もいたんじゃないかしら。これは当時、映画製作に関わった人に話を聞いてみなければわかりませんが。
 いずれにせよタルコフスキーが「SF映画らしさを完全に払拭することができなかった」と、語っていることは、彼が頭に描いていた作品と出来上がった作品の間には、かなりの隔たりがあったということでしょうねえ。
雀部 >  あの映画からさらにSF色を払拭したら、少なくともSFファンに受けないのは間違いありません!(笑)
   


[雀部]
ハードSF研所員。レム氏の作品は読めば読むほど奥深いというか分からない(汗)
[栄村]
レムの30年来のファン。「砂漠の惑星」を読んだのが、SFに本格的に身を入れるきっかけとなりました。彼が亡くなる前に一度、ポーランドを訪れたかったのですが……。
生前、レムが言っていたように、インターネットで世界中から情報が入ってきて便利になる反面、駆けめぐる膨大な情報のために、ますます世の中は複雑化し全体像が掴みにくくなっているような気がします。彼のような広い知識と視野をもつSF作家は、これからますます生まれにくい状況になっているのかもしれませんね。

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