前期量子論のしめくくりに原子モデルの変遷について話しましょう。
原子、つまりアトムというのはギリシャ語で、レウキッポス Leucippus のアイディアを弟子のデモクリトス Democritus
がまとめた概念で、これ以上分割できない根源的なものとして導入されました。ただ、前5世紀のこの当時は物理的な実体としてではなくて、哲学的な概念として考えられていただけでした。その後、アリストテレス
Aristotle によってこの原子論 atomism は否定され、18世紀にイギリスのドルトンDalton が化学的現象の説明として原子説を唱えるまで原子はかえりみられることはありませんでした。
ちなみに、アリストテレスは歴史に名を残す哲学者でありますが、物体の運動や天動説のことなど、後世にあたえた悪影響はかなりあったりします。
さて、そもそもは最小単位として考え出された原子ではありますが、19世紀のファラデー Faraday の電気分解についての考察から原子とはまた別に電気的な粒が存在するかもしれないことがわかってきて、実は原子にも内部構造があるのではないかということになりました。
物理学者は陰極管 cathode ray tube という真空のガラス管の中を流れるなにかの正体について頭を悩ませていました。トムソン
Thomson が、それは水素原子よりもずっと軽い物質の流れであることをつきとめました。(それは後に電子と名付けられました。) 陰極管は今も使われています。ブラウン管とかの真空管がそうです。
原子は電気的に中性でなくてはなりませんが、原子がイオン化することで電荷を持ちうることも知られていました。そこでトムソンは正の電荷をもつなにかの中に、まるでスイカの種のように電子がつまっているような原子モデルを考えました。日本ではスイカ型などと言われることもあるモデルですが、オリジナルではプラムプディングと言われてたみたいです。
トムソンが原子モデルを考えたのと同時期に、日本の長岡半太郎もまた原子のモデルを考えていました。こちらはトムソンのものと違って、中心に正の電荷を持つなにかがあって、そのまわりを電子がまわっているという土星モデルでした。
原子のモデルがこのふたつ以外になかったというわけではなかったのですが、このふたつの説は対照的なことからよく知られています。どちらの説も20世紀初頭に出されていますが、当時はまだ原子の構造にそれほど注意がはらわれていなかったようです。御存知の通り、長岡のモデルの方が実体に近いのですが、当時の日本の物理学会ではまったく取り上げられず、イギリスの学会に投稿してはじめて陽の目を見たのでした。
それはともかく、原子モデルの検証はトムソンの弟子のラザフォード Rutherford の実験で行われました。
ラザフォードはヘリウムのイオンとして知られていた正電荷を持つα粒子を金属の箔に当てて、それがどのように箔を通過するかを調べたのです。トムソンの説が正しかったなら、α粒子は金属箔の中の原子を通過してしまって、まっすぐ後ろに届くはずです。それに対して、長岡の説が正しかったなら中心の核にぶつかってはじきかえされるα粒子があることになります。
実験結果は長岡の説を支持していました。
実はこの実験の前にも同様の実験が別の人によって行われていたのですが、その時はトムソンの説に固執するあまり、α粒子の軌跡が曲げられたのは中の電子によって何回もα粒子が曲げられた結果だと解釈していました。しかし、ラザフォードは実験結果を分析して長岡の説が正しかったと結論付けたのでした。
これで正の電荷のまわりを電子がまわっているというモデルの正当性が確認されたのですが、このモデルには困難性がありました。
まず、以前ド・ブロイ波の説明でしたように、電子がぐるぐるまわってるとしたなら電磁波を放出して原子はあっというまにつぶれてしまうはずでした。(原子の崩壊時間は計算によると10のマイナス11乗秒になるそうです。)
また、原子のスペクトルの吸収線の説明もできませんでした。原子にある波長の光を当てると吸収されるのですが、その波長は飛び飛びの値しか取らなかったのです。原子を通過してきた光のスペクトルはその吸収された波長の光のところだけ黒くなってしまいます。その黒くなった部分のことをスペクトルの吸収線といいます。光は原子の中の電子に吸収されると考えられ、ニュートン力学的に作られた原子モデルから得られる電子は、本来どんな波長の光でも吸収してしかるべきなのですが、実際にはそうなっていないのです。
第3にこのモデルは原子の大きさを決定することができませんでした。
そこで登場するのがデンマークの物理学者ニールス・ボーア Niels Bohr です。彼は水素原子に着目して、水素原子内の電子の角運動量がプランク定数を2πで割った量の整数倍であるというボーアの量子条件というものを導入しました。(1911年、ボーアはこれによって博士号を得てます。ボーアの原子モデルそのものは1913年に完成しました。) 角運動量という物理量は量子力学ではよく出てきますが、いずれ古典的な意味は薄れてきてしまうので、ここでは回転する物体の状態を表す量であると思ってもらえばいいです。
ボーアの量子条件を適用すると、ただちに水素原子内の電子のエネルギーや電子の軌道半径が飛び飛びの値を取ることが導き出されます。この計算そのものは19世紀までの既知の理論で無理なく計算できます。ただ、ボーアの量子条件が加味されてることだけが違うのです。
電子の軌道半径が飛び飛びということは、電子が原子の核に落ち込んでしまうことを禁止します。ニュートン力学と電磁気学を組み合わせて電子の軌道を計算するときは電子が連続的に軌道半径を変化させながら落ち込んでいかないといけないからです。(厳密には、これだけの議論で電子が原子の核に落ち込まないということは言い切れないのですが、この時点では状態的に禁止されているので落ち込まないのだろうと解釈されたのでした。)
また、光の吸収の問題についてもボーアの量子条件が解決してくれます。電子が光のエネルギーを吸収すると、外側の軌道にジャンプします。それぞれの軌道での電子のエネルギーは決まっていて、吸収する光のエネルギー(つまり波長)はそのそれぞれの軌道の電子のエネルギーの差となるからです。当然、吸収される光の波長は飛び飛びの値となるわけです。
原子の大きさについても、こと水素原子についてなら、電子の軌道半径が理論的に求まったことから計算で求めることができます。
こうして考えられた原子モデルをボーアの原子モデルと言います。
ボーアのモデルはフランク Franck とヘルツ Hertz の実験によって確かめられました。
陰極管の中に水銀のガスを封入して、電極間の電圧を変化させたのです。これによって水銀ガス内の電子のエネルギーが周期的に変化することが確かめられたのでした。しかし、ボーアの原子モデルにも問題点はありました。
ひとつは根本的な問題ですがボーアの量子条件が唐突に導入されていて、その根拠がなかったことです。それにボーアの量子条件をニュートン力学や電磁気学などの古典論に取り込んで計算するという風に理論的な一貫性がないのも難点でした。
これらを解決してはじめて量子力学が完成するのでした。
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