| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

Author Interview

インタビュアー:[雀部]

『ゼウスの檻』
> 上田早夕里著/田中達之画
> ISBN 4-7584-1040-2
> 角川春樹事務所
> 1890円 (本体:1800円)
> 2004.11.8発行
粗筋:
 地球軌道上から始まった人類の宇宙への進出は、現在では木星圏にまで達し、百名単位の常駐スタッフが勤務する宇宙ステーションの実験都市では、木星及びその衛星の研究と、宇宙医学に関する実験データの回収が行われていた。
 ある日、厳しい生命倫理をスローガンとする過激派組織〈生命の器〉が、一ヶ月以内に、テロリストを木星の宇宙ステーション・ジュピターIに送り込むという情報がもたらされた。そこの〈特区〉では、“ラウンド”と呼ばれる男女両性の機能を身体に備えた新人類とも言うべき人々が居住しているのだ。〈生命の器〉の目的は、〈特区〉で行われている実験を実力で中断させることにあった。たとえそのために犠牲者が出ようとも。
 そんな中、交代要員としてジュピターIに乗り込んだ警備担当者の城崎チーフは、両性種ゆえ従来の人類とは違う価値観を持ち、モノラルと呼ばれる普通人との橋渡しをするドクター・テイと出会う。

作者にとっては『火星〜』のあの結末は必然です

雀部 >  上田さん、小松左京賞受賞後の第一作刊行おめでとうございます。『火星ダーク・バラード』が'03/12月でしたから、一年弱ですね。前回の著者インタビューの際にこの作品を執筆中とおうかがいしたのですが、順調に進まれたのでしょうか?
上田 >  おかげさまで順調に進みました。前作に関しては、発刊後、たくさんの方から応援の声を頂きました。読者からのパワーをものすごく感じました。大変ありがたく思っています。あらためてお礼申し上げます。
雀部 >  ということは『ゼウスの檻』は、書き始める前の予定通りの展開・結末になっているのでしょうか?
上田 >  最初は『火星ダーク・バラード』の世界設定を利用して、少し先の時代の話として書くつもりでした。そうすれば、余計な世界説明をせずに、すぐに物語に入れますので。しかし、それではつじつまの合わない部分が頻出することがわかったので、結局『火星〜』とは別の世界観を作りました。
 結末は決まってから書き出すほうなので、大きな変更はありません。ただ、決まるまではいろんなバリエーションを考えますので、メモの段階では本編と違うラストも作っています。たとえば『火星〜』のときには十通りぐらい結末を考えて、一番テーマに沿ったものを選びました。ですから、作者にとっては『火星〜』のあの結末は必然です。
雀部 >  あのラストについては色々言われたんでしょうね(笑)
 まあ、それだけ人気があるということの証でしょう!
上田 >  いろいろ、というより「ああいう後味のよい終わり方をするとは思わなかったので驚いた」という感想を、ちらほらと耳にしましたので。そんなに意外だったのかなと。自分では、これは絶対にほっとできるラストで終わる話ですよ、安心して読んでいいんですよ――という雰囲気をちらつかせながら書いたつもりだったので、「あんな救いのない話が、なぜ爽やかに終わるのか」と問い詰められても、「必然です」としか答えようがないというか何というか。
雀部 >  あれって、爽やかな終わり方って言うんですか。単に問題が先送りになっただけじゃ?
 まあ救いのない話とは読みませんでしたが、流れるトーンはずっと暗かったから、ふたりがとりあえず助かったラストまで一貫していたのではないかと。だから『火星ダーク・バラード』なんだと一人納得してました(爆)
上田 >  私も全然爽やかとは思っていません。一番ほっとできるところで終わりにした、という意識はありますが。ふたりの問題だけでなく、あれは世界全体が重荷を背負ったままなのです。人間の罪と業の話ですから。

「人間の多様性」に言及する物語

雀部 >  人間の罪と業の話というのは、『ゼウスの檻』にも共通のテーマですね。
 『ゼウスの檻』ですが、これは最初書くべきテーマがあって、それを生かすための設定とか展開を練りに練って考えられているなという印象を受けたんです。私は最初この本は、sexualityとgenderに関する物語だと思いました。
 それを突き詰める→両性具有を一般化しようとする社会を背景にする→当然の反対→反対勢力から遠く離れた場所で最初の実験を始める、とまあ、こんな流れなのかなぁと思いながら読んでいたのですが、後半にかかる頃から、こりゃ人間性そのものをテーマにした物語なのではと……
上田 >  ジェンダーもセクシュアリティも人間性に関わる要素ですので、そういう意味では、雀部さんのおっしゃる通り、人間性をテーマにした物語であると言えます。かつてはSFでこういう要素を扱うと(特に女性作家が書くと)必ずと言ってよいほどフェミニズムとの関係性が取り沙汰されてきましたが、現在ではクィア理論など、ポスト・フェミニズムからの視点が必要になってきています。男性原理や女性原理だけでなく、人間をもっと幅広い観点から捉えた「人間の多様性」に言及する物語が、もっと書かれてもよいのではないかと考えています。
雀部 >  進化でも文化でも、はたまた価値観においても多様性は非常に大切かと。
 作中ではグレイ・ゾーンの人々が、そういう改革に賛成する代表として書かれてますが、SFファンは別として(笑) 現在でもそういう人々は実在するんでしょうか?
上田 >  両性具有という存在は、古代文明の神話から現代の創作物に至るまで、人間が繰り返し繰り返し扱ってきた題材です。これは人間の精神性の中に、そういうことを考えずにはいられない要素が、人種や国境を越えて存在しているからではないでしょうか。本作では、人間のそういう部分を、グレイ・ゾーンという言葉に投影して書きました。ですから、そういう意味では「実在する」と言ってよいのではないかと思います。
雀部 >  作中でもプラトンの『饗宴』に触れられていますが、古代インドのシヴァ神やキリスト教グノーシス主義とか、完全な人間をアンドロギュヌス(両性具有者)にみるのが普遍的、というのはよく分かります。
 人間学の基本的なテーマとされるアンドロギュヌスは、もちろん文学作品にも多く登場していますよね。
 『ゼウスの檻』のなかで、モノラル(いわゆる一般人)が、ラウンド(両性具有人)に接した場合、相手のなかに、男は女性性を、女は男性性を感じ取りやすいといった描写は、バルザックの『セラフィータ』を思い出させました。まあラウンドはもっと人間くさい存在として描かれてはいるのですが。
上田 >  『セラフィータ』は、バルザックが神秘主義思想を展開するために書いた作品なので、オチもちょっとアレで(笑)
 理屈抜きの強烈な吸引力、ということを考えたとき、自分にない要素を相手に見いだすというのは人間関係の基本だと思うのです。差違によって魅了され、差違によって憎悪するのが人間の本質のひとつだと。
雀部 >  セラフィータという名前は、熾天使セラピムの語幹にラテン語の女性語尾をつけたものだそうですから、その時点で内容が想像できるというもの(笑)
 人間間の差異のお話が出ましたが、『ゼウスの檻』では前作ほどキャラ立ちという点では、ちょっと控えられたというか距離を置いた書き方をされているのかなと感じたのですが?
上田 >  今回は「特定の主人公を作らない」という意図があったので、キャラクターは意識的に立てませんでした。均等にならすことで、テーマや作中の価値観の多様性を前面に出したかったのです。たとえば城崎は読者の視点を作品内へ誘導するために登場しますが、主役ではありません。城崎の役割は「リポーター」です。彼は物語内の事件を、カリナの過去も含めて最初から最後まで体験した唯一の人間で、最後にその顛末を書類にまとめて提出する人物。ですから個性は極力殺しました。
 ただ、演劇好きの小説家は皆そうだと思いますが、意図的に抑制を効かせても、自然にキャラクターが「立ってしまう」部分が残るような気はしますね。
雀部 >  城崎は、好人物ではありますが確かに影が薄かったです。その点、ハーディングのほうが、キャラが濃いですね。なんか『火星ダーク・バラード』の水島烈を、オッサンにしたようで(笑)
 キャラが立っているといえば、元テロリストのカリナは際だってますね。SF史上最強の女科学者かも。彼女がタイプな男性読者も多いことと思います。悪の雰囲気が、『ニューロマンサー』に出てくるモリイにちょっと似てますし。
上田 >  水島もたいがいおっさんなのですが(笑) ハーディングは極力地味に書こうとしたのですが、城崎がおとなしい人物なので、結果的に目立ってしまいました。カリナは別格です。他の登場人物を食ってしまうといけないので抑え気味に書きましたが、やはり頭ひとつ突出してしまいました。逆に言うと、このふたりが目立つので、城崎を徹底的に地味に描くことが可能になったとも言えます。地と模様の関係になっているのかも。
 モリイは懐かしいです。ギブソンの『ニューロマンサー』は、私が海外SFを活字で読むきっかけを作ってくれた思い出の作品です。
雀部 >  上田さんは、海外SFは、サイバーパンクから入られたんだ。ちょっと変わり種かもしれない(笑)
上田 >  前にも少し話したのですが、私は海外SFを読み始めたのが社会人になってからで、その頃の年齢というのが、ちょうど『ニューロマンサー』の主人公・ケイスと同じぐらいだったのです。それで妙な親近感を持ちまして(笑)
 当時、たまたま仕事で通信関係のことを勉強していて、日本ではまだ一般の認知度が低かった「ハッカー」という存在に非常に興味を持って関連書を読んだりしていました。そういうことが、偶然にも全部シンクロしたのが『ニューロマンサー』だったのです。ですから、それで入った後は、古い作品も読むようになりました。同時期に、クラークの諸作品やウィンダムの『トリフィドの日』なども読んでいるのですが、ギブソンと同じようにとても好きでした。
雀部 >  ギブスンに、クラーク、ウィンダムですか。共通点は。。。探せないな(笑)
 カリナは、抑え気味にしても他の登場人物を喰ってますね(爆) 普通なら、カリナが〈生命の器〉への協力を了承したふりをして、某所を守るために反旗を翻して闘うという筋立てにしますよね。それでは、上田さんが書こうとされている主題がかすんでしまう。でも面白さを追求するのも大事ですから、そこらあたりの兼ね合いもあって、今回のような展開になったんですね。そして、それはかなり成功しているように思えました。こういうバランス感覚が、上田さんの一番の持ち味かも知れないな。
上田 >  「バランス感覚」については前回も雀部さんからお話をうかがいましたが、自分ではどこがそうなのかよくわからないのです。それがあると、どう面白くなるのか。有名なSF作家で、そういうタイプの方はおられるのでしょうか?
雀部 >  思想とエンタテイメントとの融合というと、小松左京先生でしょうね。人類の未来を案じ、かつ物語的にも面白い。
 海外だとロバート・シルヴァーバーグとか。説教と面白さの融合だったら、オースン・スコット・カード氏かな(笑)
上田 >  小松先生の作品はほとんど読んでいますが、シルヴァーバーグとカードは未読です。これから読んでみます。

完璧に賢かったら、ひとつの未来しか存在しないような気がするのです

雀部 >  上田さんの目指すところは、カード氏の作品とけっこう近いかも。
 『火星ダーク・バラード』での主人公のアデリーンが持つ他人の精神と共振する「超共感性」、これとかいわゆるテレパシーは、感覚とか感情を共有することによって、他人との溝を埋める(理解を深める)ことができます。今回の『ゼウスの檻』の両性を持つ人間も、人類を二分する男女の違いを無くす(相手を理解しやすくなる)ことができます。この二作は、その手段こそ違いますが、同じテーマを追求していると思いました。
上田 >  SFで人間性というものを題材にすると、どうしてもこういう部分を外せないのです。SFを書くとき、人間という存在を楽天的に描くつもりなら、本当はそんな段階はすっ飛ばして、他者への理解が飛躍的に向上した未来が訪れた時点から話を始めればいい。ただ、私はそういう部分に対して疑いの目を向けずにはいられない人間で、こういう段階を抜きにしてその先を語る気には、どうしてもなれないのです。特別にテーマとして選ばなくても、自然に滲み出してしまう問いかけなのでしょうね。
雀部 >  なるほど。
 いや、むしろですね、上田さんには「そういった他者への理解が飛躍的に向上してもなおかつ、人類はどうしようもなく愚かな存在であり続けるのではないか」という懸念を持たれているように思えるのですが。
上田 >  結局、各段階で、尽きることなくトラブルを抱えてしまうのが「人間」であると。おそらくそれは、人間の可能性の広さと表裏一体なんでしょうけど。完璧に賢かったら、ひとつの未来しか存在しないような気がするのです。ラウンドも、ひとつの志向を持ち続ける者として作られたのに、その規範から、どんどん外れる者が出てきます。ただ、そういう部分を内包していないと、あの種族は先がないというか、どこかで多様性を失って続かなくなるんじゃないかと。はみ出す側もそれを排除する側も、そのときどきでは選択に苦しむわけですが。
雀部 >  両性具有種も、それを作り出すことも多様性であると。読んでいて、ここのところは凄く感じました。カリナにテロを強制した〈生命の器〉が出した犯行声明に、《ラウンドは、性差が存在するがゆえの文化の豊かさを消滅させ、人間の個性と差異を均質化したつまらない社会をつくりあげるだろう》とあるのは、なるほど受け入れやすいメッセージではありますが、変化を嫌う保守そのものの偏狭な思想だと。別に全人類を両性具有にしようとしている訳ではないのにですね。
 多様性というと、最近ではクローン絡みで語られることも多いのですが、上田さんはクローンについてはどう思われますか。C・J・チェリイ女史のヒューゴー賞受賞作『ダウンビロウ・ステーション』のなかで、主人公が、粗野な男たちの《艦隊》と、彼らと敵対するクローンによる国家を作り上げている《同盟》とどちらを選ぶかを迫られたとき、クローン国家のほうを選んじゃうんですよね。これはちょっとショックでした(爆)
上田 >  チェリイの該当作品は未読なのでコメントできないのですが、SFに登場する万能クローン(いきなり成人型を作れるとか、オリジナルの記憶を丸ごとコピーできるとか)の話は横に置いておいて、現実的なクローン人間の話をしますと、作ることの是非を議論する段階は、もう過ぎているのではないかと思っています。行政側は、法律を作って規制すれば人類がクローン人間を作る可能性を阻止できると考えているのかもしれませんが、これは極めて楽天的な判断と言わざるを得ません。
 作るための理論と技術を獲得した時点で、人類はもうクローン人間を作ってしまったのと「同じこと」だと思うのです。あとは「誰が」「いつ」「どのような形で作るか」というだけの話で。
 法律が規制した状態で技術だけが流出すれば闇で作られるようになるわけで、なぜ地下に潜ってまで作るかと言えば、確実にマーケットが見込めるからです。不妊カップルへの赤ん坊の提供など生やさしいもので、臓器移植のパーツとしてばらして使う、洗脳して特定の目的に使う、幼児ポルノ・幼児売春産業の要員として確保する、スナッフ・フィルムの材料にするなど、悪いほうへの利用はいくらでも考えられます。すでに現実に存在する闇のマーケットに、戸籍も家族も与えずに育てたクローン人間の子供たちが投入されないという保証はどこにもありません。
 そして、もし仮にそういう所行が明るみに出たとしても、行政側は、法律的には「ない」ことになっているクローン人間たちを救済しようとは考えないでしょう。積極的に戸籍を与え、安住できる場所を提供しようとは考えないでしょう。もし、そういう生まれ方をした子供たちが、何かの拍子に団結し、自分たちの権利を訴え、社会に向かって暴動を起こしたとき、私たちにはそれを拒否する権利も、弾圧するための「正義」もないということです。
 だから、そのとき彼らに「自分たちが生まれてきたのは間違いだった」と言わせないですむ未来を、私たちは徹底的に考えておくべきだと思うのです。どんな形になるにせよ、私たちは将来確実に、従来の生まれ方とは違う出生をする人間と共存する時代を迎えるはずなのですから。
雀部 >  そうです、そうです。いち早くそういう警鐘を鳴らしてやるのも、SF作家の仕事だと思うんですよ。自然科学の発達が文明とか生活にどういう影響を及ぼすか、それは一般の人にはわかりづらい。だから科学者と一般の人々の橋渡しをするのが、SF作家であり、SFの使命の一つであると思うんですよ。以前は小松左京先生あたりが、そういう傾向の作品を熱心に書かれてましたが、上田さんの作品にもそういう意識がかいま見られてとても頼もしく思いました。同時に、なぜ上田さんが〈小松左京賞〉にこだわられていたのか、その理由の一端をかいま見た気がします。
上田 >  たぶんSFを書く人・書きたいと渇望する人は、そういうことを意識するともなく「見て」しまうのでしょうね。「見えてしまう」という言い方のほうが適切かもしれません。暴力的なまでに脳の中に生々しく広がってしまう「世界と人の姿」に、その人自身が驚き、脅え、書かずにはいられなくなるのかもしれません。
雀部 >  そういう「見えてしまう」感覚というのは、多かれ少なかれSFファンも共有しているんじゃないでしょうか。その心の奥底でなんとなく感じている不安を、明瞭に活字として示してくれる作品に出会うと、名作!と呼ぶのではないかと。
上田 >  そうですね。SFファンであるかどうかにかかわらず、こういう性質がないと、SFを読むのは、ちょっとつらいかもしれない。
雀部 >  また、ラウンドたちの体の構造、ラウンド対モノラル・ラウンド同士の人間関係社会生活などの考察も行き届いていましたが、設定に当たって一番ご苦労されたのはどこでしょうか?
上田 >  今回は、設定よりも、作品構成のほうに気をつかいました。編集部が決めた規定ページ数内で、いかにして物語世界内の情報を盛り込みながら、なおかつ物語としての展開を保持してゆくかという……(前回よりも規定枚数が少なかったので)
 本作では、『火星〜』のように最初からスピーディに物語を展開すると、世界設定をカットバックで小刻みに見せてゆく以外に方法がなくなってしまうので、それではかえって読者が混乱すると思いました。ですから、地味だけれども、時系列に沿って少しずつ話を展開していったほうがいいと。前半で基礎になる石を一個づつ積み上げておいて、後半、一気にストーリーを展開しようと考えました。
 『火星〜』と同じ作風を期待していた方には、前半の雰囲気は馴染みにくいかもしれません。しかし、こういったゆるやかな展開法もあってよいのではないかと思います。小説の世界まで、ハリウッドタイプのストーリー構成法しか生き残れないのは寂し過ぎます。
雀部 >  『ゼウスの檻』は、テーマがあってこそ、というタイプの小説だから時系列で書いていただいたほうが読みやすいかと。
 設定に関して一つお聞きしてもよろしいでしょうか。挿入されつつ同時に受け入れることができるというラウンドの特徴がありますよね。それに加えて“向かい合って愛し合う”ことにより、相手の表情とか仕草から超共感性が生じるという設定にすると、まさに肉体的にも精神的にも一体化できる存在になります。そうするとテイの苦悩もより深いものになりますし。
 う〜ん、ちょっとテーマから逸脱してしまうか(汗)
上田 >  実は、最初はその設定を入れて書いていました。排卵もその方法で制御しているんだ、とか(笑)
 ただ、インタビューのはじめにお答えしたように、最終的に「続編ではない形」になったので、該当部分は不要ということで削りました。
雀部 >  あ、やっぱり(笑)
 SF作家なら当然惹かれる設定なんですよね。普通ならこうするのに、なんで作者はそういう展開にしなかったんだろうという読み方は、よくやります。そうすると、作者が何を狙って書いているのかが、分かるときがあるんで。
 ところで上田さんは、書き始める前にこういう設定を考えている時と、書き始めてから展開を考えるときとどちらが楽しい(得意)でしょうか?
上田 >  後者のほうが楽しいです。小説というのは最終的には文体がものをいうのですが、その力を引っ張り出してくれるのは、私の場合は「設定」ではなくて「展開」のほうです。

ようやく自分の中で下準備が整ったという実感を得ました

雀部 >  おお、やはり。
 それでは、これから書きたい小説のテーマ、分野(ホラーとかミステリとか)がありましたらお教え下さい。
上田 >  『火星ダーク・バラード』を発刊したとき、あるSF作家の方から、プログレッシヴの未来をぜひ読ませて欲しいと言われました。私もそのつもりはあった(水島やアデリーンの将来を描くという意味ではなく、プログレッシヴそのものの運命を書きたいという意志ならあった)のですが、何しろ、本格的なSF小説、しかも宇宙系のSFを書いたのはデビュー作が初めてだったので、具体的な方向性がまだ見えていませんでした。今回『ゼウスの檻』を書いて、ようやく自分の中で下準備が整ったという実感を得ました。この作品を書いたことで、男と女しかいない未来、つまり両性種のいない未来というのが、私には全く想像できなくなってしまいました。私が描く「SF未来史」の中では、両性種は人類の中に常にいてあたりまえの存在、必然の存在になったのです。
 ですから、ラウンドの未来をぜひ書きたいと思っています。といっても、今回の続編を書くという意味ではなく、次の物語では人類はとっくの昔に太陽系から出てしまって未知の天体を探索・調査して回っている――つまり何百年・何千年か後の世界を書きたいのです。そこではラウンドとモノラルの境界がさらに曖昧になり、もっと文化の多様化が進んでいる。人としての体の構造も変わり、個々人の社会的役割も変化しているでしょう。他者の愛し方や受け入れ方、憎み方も変わっているかもしれない。天文学上の新しい発見などを取り入れながら、この宇宙に現実に存在するかもしれない……という設定の天体を舞台に、そういう事柄を展開できるような物語を書くことができればと思っています。宇宙や科学に対する尽きない興味と、人間に対する尽きない興味を、見事に両立させることのできる作品が書ければ最高だと思います。
雀部 >  プログレッシブとラウンドとモノラルの未来、私も知りたいですね。
 あと、ラウンドだけが孤立して住むようになって幾世紀経た世界に、モノラルの宇宙船が不時着してというのも読んでみたいなぁ。ユーモアSFで、ラウンドの若者がモノラル的な考え方に目を白黒させるという(笑)
上田 >  (笑)
 多分、一度では書ききれないはずなので、時代と場所を変えて、長編や短編を連作してゆく形になるでしょう。だから、そういう内容で書くこともあるかもしれません。
 ただ、こういう内容だと、どこから出版してもらえるのかということが、非常にやっかいな問題になってきます。誰が読んでくれるのかという読者層の問題もあります。これらの諸問題に解決がつかない限り、活字にすることはまず不可能でしょう。もちろん私自身も努力はしますが、SFを愛する多くの方々の熱意や、SFの神様(天)からの恵みが偶然にも全てそろったとき、書くべき運命が巡ってくるのかなという気がしています。
雀部 >  角川春樹事務所さん、よろしくお願いしま〜す! 売り上げに協力しますよって(笑) ハヤカワSFシリーズ Jコレクションか、ハヤカワ文庫JAにも入って欲しいぞ。
上田 >  その他の分野では、冒険小説色の強い歴史小説や、ほのぼの系の現代ものとか。それと、ファンタジーや幻想小説は、もともと私の基盤になっている分野ですので、何とか活字にする方法はないものかと考えています。日本では売りにくいジャンルなのですが、特に良質の幻想小説は、一生に一度でもよいので何らかの形で本にしたいところです。
 ミステリの分野では、私はパトリシア・ハイスミスが好きなので、ああいう人間の心理に深く入りこんだサスペンスが書ければと思っています。
 悪とは何かということをよく考えるのです。悪を描くというのは大変むずかしいことだと思っています。悪役や小ずるい卑劣漢や小悪党を「小説的に描く」のは、書き手にある程度の技量があれば可能だと思うのですが、たいがいの悪人というのは、視点を切り換えると「ただの人間」になってしまうのです。悪そうに見えても、ただの欲の深い弱い人間だったりする。殺人すらも、立場を変えることで価値観が揺らいでしまうことは、多くの小説(ことにミステリ小説)が指摘してきたことです。
 しかし、そうではない、絶対的な「悪」としか呼びようのない何かが、世の中や人の中には必ずあると思うのです。その本質――とまでゆかずとも、尻尾ぐらいは掴まえたい。それらに抗ったり翻弄されたりする人々の物語を、生々しく力強く描いてみたい。人間の本質を突き詰めるというのは、悪の本質を突き詰めるのと同義であるような気がするのです。そこから逆に、美しいものや崇高なものも見えてくるのではないですか。その回答を、他者や国家や自分自身の中にストレートに求めるのではなくて、トータルでの関係性の中に求めるというか……。ちょっと抽象的な感覚なので、言葉で説明するのは難しいのですが。
雀部 >  それはまさに小松左京先生を彷彿とさせるお話になりそうですね。まあ、SFファンとしては「絶対」と枕詞がつくと、世の中に「絶対」ということはあり得ない!と混ぜっ返したくなりますけど(笑) 価値観の揺らぎそのものが、昔からSFの大きな魅力の一つですからね。
上田 >  絶対といっても、どこかに固定された対象があるという意味ではないのです。それは、人間が自分の意志で生きようとする限りついてまわるモノであって、永遠に切り離すことができない――そういう意味での絶対ですね。第一、人間にとっては都合が悪いものでも、宇宙全体にとってはなくてはならない「いいモノ」なのかもしれない(笑) 困っているのは人間だけでね。宇宙全体から見れば、どこかで収支決算が合っていたりするのかも。
雀部 >  実はそういう「モノ」は、いっぱいありそうで怖い(爆)
 上田さん、前回に引き続きインタビューに応じて頂きありがとうございました。
 今回『ゼウスの檻』を読ませて頂き、前作の『火星ダーク・バラード』ではおぼろげだった上田さんのSFに対する姿勢というか目指している方向性が明瞭になってきた感があり、とても頼もしく思いました。眼高手低の書き手の方とか、その反対の方とかは数多くいらっしゃいますが(それが悪いという意味ではありません)その双方を高いレベルでバランスよく合わせ持った上田さんの作品からは目が離せそうにありませんね。


[上田早夕里]
兵庫県生まれ。神戸海星女子学院卒。2003年、『火星ダーク・バラード』で第四回小松左京賞を受賞してデビュー。現在姫路市在住。本作品は、受賞後第一作目。
公式サイト:http://www.jali.or.jp/club/kanzaki/s/
[雀部]
実のところ、フェミニズムSFは、大の苦手。一念発起して、『イラスト図解 “ポスト”フェミニズム入門』という本を買ってはみたものの、あまりのスカスカな内容に絶句(爆)
あ、『ゼウスの檻』はフェミニズムSFじゃありませんので、ご安心を(笑)

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ