|
|
(前号の続き) |
雀部 |
|
しかし『怪獣はなぜ日本を襲うのか?』は素晴らしいネーミングですね。実は私が長山先生の本を初めて買ったのがこの本で、題名に凄く引きつけられたからなんですよ。 |
長山 |
|
ウルトラマンとゴジラで育った世代ですので(笑)。その頃から「よく日本にばかり、怪獣が出るなあ」と思っておりました。子どもの頃は『怪獣図鑑』が宝物でしたが、あれは大伴昌司さんの企画だったんですよね。思えばその頃から、SFの掌のなかで胸躍らせていたわけで、お釈迦様の前に出た孫悟空の気持ちです。 |
雀部 |
|
大伴さんでしたねぇ。ウルトラマンの頃、私はもう高校生でしたので図鑑を買うほどではなかったんですが。自分で絵を描いて、怪獣たちを分類とかはされませんでしたか? |
長山 |
|
やりました(笑)。『ウルトラマン』の時、私は四歳で、ちょうど幼稚園に入ったんですが、緑や赤や紫色で怪獣ばかり描いていました。 そうしたら、幼稚園の先生たちが集まってヒソヒソ話しているんですよ。そしてひとりの先生が私のところに来て「これは何?」って聞かれました。「怪獣」って答えたら、他の先生たちのところに行って、それを伝えて「あーっ」ていう感じで納得したのを覚えています。まだ“ウルトラマン”がはじまったばかりで、先生たちはそういうものを見慣れてなかったから「紫色のイヌを描く異常な子供」と思われたんでしょうね。 |
雀部 |
|
やはり(笑) わたしも似たような経験があるんで、もしかしてと思いましたが。 そういう幼少時代を過ごされた長山先生が、博物学や文学の道に進まれず、史学ならぬ歯学を志されたのは、どういうわけでしょうか?(笑) |
長山 |
|
ひとつには家庭の事情で、私は田舎の長男なものですから、家を離れてはいけないという育てられ方をしました。ですから地元でも出来る仕事に就くことを考えていました。もうひとつは、“怪獣好き”と関係するのですが、歴史好きの一方で博物学や形態学にも興味がありました。リンネの系統分類で、脊椎動物の分類では歯が重要な意味を持っていますが、現代人には親知らずの欠損が増えているという話を聞いたので「霊長類の定義の32本は、どうなる?」と興奮し、「これだ!」と思いました。それで今も、地元で開業医をしながら、ちょこちょこ書かせて頂くという生活をしております。 |
雀部 |
|
そういえば、SFマガジンの連載で、石原博士が現代人の知歯の欠損について取り上げられてましたね。 しかし、「霊長類の定義の32本は、どうなる?」と興奮する少年というのは、確かに変わってます(笑) 『奇想科学の冒険』の最終章「詐欺に触発された発明――横光利一と長山正太郎」で、横光氏作の小説『紋章』のモデルになった発明家・長山正太郎氏について書かれてますね。この正太郎氏と長山先生は縁続きみたいなのですが、ご自分の親戚が、こうした“過剰な人”だったことについて、どういった感想をお持ちでしょうか。 |
長山 |
|
う〜ん。実は“長山正太郎”は親族のあいだでは禁句のようで、私は大学院生の頃、横光利一の研究書ではじめて知ったんです。それまで誰も教えてくれませんでした。でも、気付いてから墓地に行ったら、曾祖父の墓の隣が正太郎の墓でした。 発明家らしく(?)変人で、経済的にもルーズだったので、親戚は借金の肩代わりもしたようです。そういうわけで、私は大人になるまで“過剰な人”が親戚にいたとは思ってなかったのですが、知った時は「血がっ、呪われた血が……」と、ちょっと横溝正史に思ってしまいました。 |
雀部 |
|
長山先生くらいだと、適度に“過剰”なのかなと想像してるんですが(笑) 第一部「怪獣出現」に“ゴジラはなぜ「南」から来るのか?”とありますが、『偽史冒険世界 カルト本の百年』の第二章も「なぜ『南』は懐かしいのか?」ですね。これを読ませて頂くと、江戸時代(もっと前から)からの民族意識やなにやらから、綿々と続いてきた流れがあるんですね。 |
長山 |
|
柳田国男や北原白秋の南方幻想は有名ですが、日本人には昔から南方幻想がありますね。全国的に漂着伝説は南方系のものが多いようです。日本SFはもちろん、偽史や怪獣映画も、日本文化の伝統や感性と深い部分で結びついていると感じます。オタク文化もそうで、これはとても日本的な心性に由来していると思っています。だいたい平安時代の和歌とかも「好きもの」なわけですし、幕末に書かれた合巻などは妖術・化物・異装のオンパレードで、「ヤオイ」です。そうした面も含めて、日本文化にはSF的な空想力を育む土壌がしっかりあるんです。 |
雀部 |
|
『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん」の歌が好きなんです。個人的には「遊ぶために生まれてきたのが知的生物」だと思っているのですが、どうでしょうか(笑) |
長山 |
|
夏目漱石も他人のためにする職業ではなくて、道楽のように損得勘定抜きでうちこめるのが、本当の仕事だと述べていますね。日本人の職人気質的な部分も、やはり仕事のなかにオタク的な道楽(漱石的な意味での)を見出すというところから来ているのかな、と思います。 |
雀部 |
|
漱石といえば、『「漱石」の御利益』や『鴎外のオカルト、漱石の科学』でも取り上げられてますね。あ、『父親革命』も漱石と鴎外の父親像の分析がメインでした。特に鴎外とその父親、また鴎外と子どもたちの関係は面白いです、まるで小説みたいだ(笑) 今の日本にも知識人は沢山いますが、漱石・鴎外のような並はずれた大物は居ないような気がしますね。 |
長山 |
|
漱石も鴎外も作家であると同時に学者としても立派な人物で、その作品や発言が当時の社会でも重く受け止められた印象がありますね。たしかに現代ではそれほどの巨人は見あたりません。学者として優れた人はいても専門の細分化が進んでトータルな世界観が示し難くなっているし、作家が社会問題にコミットしても影響力は小さいように感じます。しかしあるいは、時間が経つと現代文学や現代思想の大物として、大江健三郎や村上春樹が〈時代の精神を描き、人々を思想的にも導いた〉というように歴史化されるのかもしれません。私は現代の小説でもSFも純文学も両方好きで、SFの中でも幻想的なものから笑えるもの、ハードSFと何でも好きです。近代文学でもSFの源流に当たるような冒険小説も漱石・鴎外も両方好きで、その両方について書いてきましたが、現代文学が百年後に歴史化される際に、誰が巨匠として残り、誰が忘れられてしまうのか気になります。SF評論に力を入れないと、いい作品があっても歴史的に残り難いのではないかと懸念しています。幸い近年では日本SF評論賞が制定され、SF評論の新たな書き手も登場しているので、小説と評論の双方が盛り上がって、きちんとSFが評価され、文学史的にも残ってくれるといいですね。 |
雀部 |
|
それは私も感じてました。今あるSFが将来埋もれてしまうのが惜しくて、どうにか作者の声を残しておけないかと始めたのがこの著者インタビューなんです。 長山先生の『不勉強が身にしみる』は、題名とは裏腹に長山先生の蘊蓄が楽しめる好著なんですが、「あ、私は『旦那』という高等消費者を目指しているのかも」と思い当たりました。 そういえばSFにおいては、漱石の言うBに近い頭脳の高さで書かれた(庶民にはよく分からない)作品が名作と呼ばれる傾向もある気がします(笑) |
長山 |
|
いや〜。私も最近……といっても十数年前頃から、特に海外SFの新しい作品は、あまり読めなくなってしまいまして(笑)。難しさとは別に、何か世代的な感覚なのか、理由の分からない違和感を抱いてしまうことがあります。小松左京、筒井康隆、豊田有恒、眉村卓といったあたりを読み返すと安心しますね。それでも日本作家のものは若い人の作品でもついて行きたいと思っています。伊藤計劃さんが亡くなられたのは残念でした。 |
雀部 |
|
伊藤先生は、本当に惜しいですね。あの世界観は誰にも継承できない気がします。 ところで現在執筆中のご本があると聞きましたが…… |
長山 |
|
『日本SF精神史』が程々に売れてくれれば、SF史でもまだまだ書きたいことはあるのですが、営業的に苦戦中ですので、とりあえずは以前から約束のあった若者論というか家庭論を書いています。ひとつは『自立の困難とどう向き合うか』(講談社現代新書)で、もうひとつは『「ふつう」の子育てがしたい』(ちくま新書)です。どちらも仮題ですが。 |
雀部 |
|
読者の皆様、『日本SF精神史』を、ぜひよろしくお願いします(笑) 若者がテーマというと『若者はなぜ「決められない」か』というご著作もありますね。 SFがお好きな長山先生が『日本SF精神史』とか『怪獣はなぜ日本を襲うのか?』とかいうお題で執筆されるのは、これはしごく真っ当な気がするんですが(笑)、こういった人生論的な著作を書かれるようになった契機は何でしょうか。 |
長山 |
|
私は自分がSFオタク、古本オタクだという自覚があります(昔はオタクという言葉がなくて単にマニアといってましたが)。「好きなんだから仕方がない」というスタンスで生きてきましたが、その一方で私のなかには「自分が好きなことばかりしていてスミマセン」という気持ちも、ずっとありました。家庭を持って親になり、自分の親が亡くなった頃から、「自分の好きなことと他人の役に立つことを両立させる生き方」について切実に考えるようになりました。自分が周りの人に支えられて生きていることを実感するようになったことと、子供に何を伝えるかということから、そういう関心が強まりました。もともと『偽史冒険世界』(筑摩書房、現在はちくま文庫)を書いた時の編集者さんと会った際に、そういう話をしたら「それを新書にしましょう」といわれて、それで書いたのが『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書)でした。だから私の「人生論」的な著作は、他人に説教するとか、導くという立場からではなく、〈私はこれで困っています〉〈私はこうして何とかバランスをとっていますが、どう?〉的に書いてきました。自己責任を負えない若者は「私」であり、不勉強を思い知っているのも、『論語』を読み直して「ああ、子供に説教している場合じゃない」と思い知ったのも実話です。それにしても同じ月に『日本SF精神史』と『「論語」でまともな親になる』(光文社新書)を出すことになるとは思いませんでした。「何がやりたいんだ、いったい」って感じですよね。 |
雀部 |
|
やりたいことは長山先生の著作を並べて眺めると、おのずと分かる気がしますよ(笑) |