| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[kikuo]&[浅野]

日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで
『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』
>長山靖生著/小杉未醒筆装画(押川春浪「鉄車王国」口絵)
>ISBN-13: 978-4309624075
>河出書房新社
>1200円
>2009.12.30発行
 日本SFの誕生から百五十年、“未来”はどのように思い描かれ、“もうひとつの世界”はいかに空想されてきたか―。幕末期の架空史から、明治の未来小説・冒険小説、大正・昭和初期の探偵小説・科学小説、そして戦後の現代SF第一世代まで、近代日本が培ってきたSF的想像力の系譜を、現在につながる生命あるものとして描くと同時に、文学史・社会史のなかにSF的作品を愛を持って位置づけ直す野心作。

 前号の続き)
雀部> いよいよ最終章の昭和時代に入りますが、海野十三氏は、自分の後継者として、最初は蘭郁二郎氏を考えていたのですね。海野十三と蘭郁二郎の作風は似ていたのでしょうか。
(會津先生の「蘭郁二郎の生涯」はこちら)
長山> 蘭郁二郎は、はじめは幻想耽美的な短編で登場しましたが、まもなく海野の勧めもあって科学小説中心に書くようになっていきます。海野自身も最初期の「三角形の恐怖」以来、「火葬国風景」「深夜の市長」「十八時の音楽浴」など、科学小説と同時に幻想味のある作品も書いていましたし、二人は気質的にも合っていたようです。蘭は「探偵文学」という同人誌をやっていたのですが、資金難で継続できなくなったとき、海野十三・木々高太郎・小栗虫太郎がこれを引き継いで「シュピオ」という同人誌になり、蘭もその編集担当として残り、さらには共同編集者になりました。この雑誌の編集は、世田谷の海野邸で行われており、編集以外のことでも蘭は海野によく相談に来るようになりました。
 海野作品に比べて、蘭郁二郎の科学小説は生真面目でハードSF嗜好が一段と強い一方、大胆な想像力には欠ける気がしますが、何しろこれから活躍すべき若い作家でしたから、戦時中に亡くなったのはとても残念なことでした。
雀部> 浅野さんとKIKUOさんは、蘭郁二郎氏の作品を読まれたことがおありでしようか。
浅野> 丁度、私の世代と合っていますが、残念ながら記憶に残っていません。
KIKUO> 蘭郁二郎さんの作品は、會津さんのHPで作品題名をざっとチェックしてみても心当たりがありません。太平洋戦争がはじまったのが国民学校3年生のとき、敗戦が中学1年の夏ですから、その間、自分で本を買うことは無く、親に買ってもらった少年倶楽部や友達の家の本棚あたりがネタ元でして、子供と離れた分野の雑誌に掲載されていたとすれば目にする機会は少なかったと思います。
雀部> 蘭郁二郎氏の作品は、当時はあまり人口に膾炙してなかったんでしょうか。
長山> 『海底大陸』(昭和14)や「硝子の島」(昭和15〜16)、「怪力電波」(昭和15)、「謎の空中魚雷」(昭和15)、「蒸気爆撃隊」(昭和16)、『奇厳城』(昭和16)、「謎の怪電波」(昭和17)など、ジュヴナイル作品もありますが、海野十三に比べると活躍期間が短かったこともあって「人気作家」とまではいえなかったでしょうね。それに蘭の作品は学年誌に書かれたものが割に多いので、年次が一年ずれると読んでないというケースも多いかと思います。少年誌でもややマニアックな雑誌「譚海」「機械化」には書いていますが、一番メジャーな「少年倶楽部」にはほとんど書いていなかったと思います。もう少し長生きしていたら……と思います。
雀部> 蘭氏と海野氏のお二人とも、戦後の日本SFの隆盛を見ることなくお亡くなりになったのは、日本SF界にとっても返す返すも残念ですし、大いなる損失ですね。
長山> 本当にそうですね。蘭は海軍報道班に徴用されている最中に飛行機事故で亡くなりました。海野も若いときにわずらった結核が、戦中の報道班徴用中に再発し、それが原因で昭和二十四年に亡くなっており、こちらも戦争とは無関係ではない死です。戦後になると、米英中心にSF作品も日本で読めるようになりだし、雑誌「宇宙と哲学」の創刊など、ささやかなものですがSFを志向する文芸運動なども起きたので、もうちょっと長生きしてくれたら、戦後SFは大きくその姿を変えていたかもしれません。
雀部> 蘭郁二郎氏が夭逝した後、海野十三氏はその才能を惜しみつつ、次なる後継者として手塚治虫氏を考えていたんですね。
長山> はい。これは海野十三(本名:佐野昌一)の奥様である佐野英様からうかがったのですが、手塚治虫のマンガを目にした海野は、とても興奮して「この人に科学小説を書かせたい。この人ならできる」と言い、東京に出てきてほしいと手紙を書いたらしいです。もっとも、そのすぐ後に海野は亡くなり、この話は実現しませんでした。しかし手塚は、海野から直接指導されたわけではなかったものの、海野作品は確実に読んでおり、その影響は特に初期作品には濃厚に現れています。
雀部> 奥様にも、そう語られていたということは、よほど気に入られたんですね。
 当時、リアルタイムで読まれた読者としては、手塚先生の作品から、そういう海野氏の影響を感じてたのでしょうか。
浅野> 『メトロポリス』などには、若干感じられますが・・・。
 私は彼の『火の鳥』的なものが好きですが、これらは海野十三の世界とは違いますね。
 映画になったので、『MW』を買ってきて読みましたが、これは好みに合わず、映画も観るのを止めました。
KIKUO> 手塚治虫さんが海野十三の影響を受けていたとしても、作風にそれが色濃く出ていると感じたことはありません。海野十三が科学又は疑似科学的な記述や文の運びを駆使して読者、特に少年を魅了した科学エンタメ作家だったのに比べ、、手塚治虫の作品は反戦争、自然界・生物界を巻き込んだ平和共存指向、超越者の存在を背景にした時空絵巻的な色彩のメッセージ作品が多く、むしろ宮崎アニメにどこか通じるノン・ハードSFファンタジー作家だったように感じます。
雀部> 私たちの世代ですと、もろに手塚治虫=鉄腕アトムですから(笑)
 手塚氏も、「火星兵団」が連載されたときは、食事も忘れ学校に行くのも忘れて読みふけったそうですから、ここらあたりは浅野さんやKIKUOさんと同じですね。
長山>

 同時代のSFマインドを持った少年たちは、みなさんそうだったんでしょうね。ちなみに、手塚の「アトム大使」ではアトムの頭部にはセンサーがあるだけで電子頭脳は胴体の方にありますが、この構造は「火星兵団」のタコ型星人がロボット型防圧胴(パワースーツ)を着ていて、その頭部ではなくて胴体の中に入っているという設定があるのに由来しているのではないか――と塩崎昇氏が指摘していました(しおざき・のぼる「鉄腕アトムのルーツを探る」、霜月たかなか編『誕生! 手塚治虫』収録)。さらに余談ですが、手塚の『来るべき世界』の表紙は海野の『地球人最後の冒険』(高志書房、昭和23)の表紙絵にそっくりです。

雀部> 手塚治虫氏の本は、どうやって読まれていたんでしょうか。
 私は、貸本屋で『0マン』を借りて読んだ記憶があります。
 サンデーとかマガジンなどの少年誌を、毎号借りたり買ったりして読むようになったのは、中学生になってからです(昭和40年ころ)
KIKUO> 少年倶楽部を卒業した中学、高校時代がちょうど昭和20年代の戦後復興期と重なり、世の中も自分自身も前のめりになって新しいものを吸収するのに大忙しだったものですから、子供じゃあるまいし「マンガ」はもう卒業、というわけで手塚治虫さんの漫画の本をまともに買った記憶はありません。といっても貸本屋にも行かなかったし、たぶん、散髪屋さんやお医者さんで待っている間に読んだのかもしれません。
 だから、シリーズものを最初から順番にではなく、ランダムアクセス読みでした。
浅野> 表紙に『OSAMU TEZUKA』と書かれた、ほぼB4版の大きさの資料(厚さ:2cm強、目方:1.5kg)が手元にあります。1990年の夏、東京国立近代美術館で『手塚治虫展』が開かれたときに購入したものですが、その中に載っている『0マン』を眺めてみると、読んだことがあるような気がします。
 特に、買った覚えもないのにと思いながら、記憶を辿って行くと、どうもKIKUOさんが仰るように、私も床屋で読んでいたのかも知れません。当時は20日ごとに床屋へ行くのが楽しみで、床屋が空いているとガッカリしたものでした。(笑)
雀部> あらま、手塚治虫さんの本でも意外と買って読む人は少なかったのかな。
 まあ私も単行本を買って読んだのは、少数です。
 長山先生は手塚作品の出会いはどうでしたですか。
長山> 私は昭和37年生まれなので、手塚作品にふれたのはマンガよりアニメが先でした。それも「鉄腕アトム」(昭和38)は最初の放映の記憶はなくて、後から再放送で見ただけ。「ワンダー3」「ジャングル大帝」(共に昭和40)は覚えていて、翌年の「ウルトラマン」(これは手塚作品ではないですが)、「マグマ大使」にハマりました。マンガを読んだのは年長の従兄弟に「バンパイヤ」を見せてもらったのが最初だと思います。まだ幼稚園生だったので、怖かった思い出があります。ずいぶん“新しい”思い出で肩身が狭いです。
雀部> 『日本SF精神史』で、明治時代の日本のSF系小説は、国権小説・架空誌小説と啓蒙小説の流れから始まっていると書かれてます。小松左京先生とかいわゆる第一世代の日本SF作家の小説は、小説としての面白さだけでなく、「社会とは人類とは?」を考えさせる思索小説としての側面も持っていると思います。
 手塚先生の作品も、その傾向があると思うのですが、海野十三氏の作品はどうなのでしょうか。
長山> 海野十三は本格的に科学的想像力を駆使した小説を書いたという意味で現代SFに直結しており、社会的な空想力・ユートピア文学につながる面は、相対的に弱いタイプだと思います。これは戦前戦中という時代には、そうした作品が書き難かったという理由もあったのかもしれません。宇宙あるいは異次元からの侵略を描き、人類間の闘争克服を訴えたのは、海野の思想の表れといえるかもしれません。また人間の欲望が、科学を制御不能のものにしてしまうという恐怖(これは昭和2年の「遺言状放送」から、既に見られます)は、彼の科学観と同時に人間観・社会観を表しているといえるかもしれません。
雀部> なるほど。間接的には、日本SF作家第一世代の諸先生方に影響はありそうですね。
 『0マン』掲載誌は、「週刊少年サンデー」('59〜60)なんですが、当時「サンデー」とか「マガジン」を読まれたことがおありでしょうか。
KIKUO> 新聞社系以外の週刊誌が出始めたのは昭和30年代になってからですから、そのころは大学生か社会人。どっちにしろ貧乏で、週刊誌のような値段の割に読みでのないものは買いませんでした。仕事が忙しく、新聞の連載漫画以外はマンガとは縁遠い毎日でした。
雀部> 学校を卒業して就職すると、読書時間が減るし自由になる小遣いが減るというのはいつの時代も同じなんですね(苦笑)
 長山先生は、資料収集も兼ねてらっしゃるから、また事情は異なるでしょうが。
長山> 私の場合、本を公然と読み続けるために、無理やり仕事にしているという面がございます。ホントは経費過剰で、とても“仕事”とは言えないのですが、本を広げて「仕事だ」と言っていれば、とりあえず子供を遊園地に連れて行かなくてすむという……(笑)。
雀部> やはり(笑)
 SFマガジンが創刊されたときは、どうだったのでしょうか。
浅野> 元々社の「最新科学小説全集」で大分潤っていましたから、何となく、やっと日本でもSFの雑誌が発行されたなーといった感じでした。
雀部> また、ハヤカワSFシリーズ(初期の頃はハヤカワファンタジイ)が出版され始めたときの感想はどうでしょうか。
浅野> ハヤカワファンタジイの出版は、いつ頃ですか?
雀部> 昭和32年(1957)からみたいです。
浅野> いま、書棚から一番古そうな本を引き出してみました。
 A・C・クラークの『火星の砂』で、昭和30年2月25日発行、発行所は「室町書房」となっています。この他、アシモフの『遊星フロリナの悲劇』も持っていたのですが、見付かりません!これらは、「世界空想科学小説全集」の最初の二冊なのですね。裏表紙の解説は、木々高太郎が書いています。
雀部> 室町書房のシリーズは、その二冊で終わったんじゃなかったっけ。
 私の、普通に本屋で買ったヤツで一番古いのは元々社の『新しい人類スラン』(1956)ですね。
KIKUO> 昭和34年にSFMが発行され始めると、創刊号から欠かさず買いました。銀背のハヤカワファンタジイはSFM発刊の数年前から刊行されていましたが、全部買うのは財布が許しませんでしたので、本屋でまず立ち読みし、気に入ったものを買いました。今手元にある銀背で一番古いのは、R・マティスン著、田中小実昌訳「吸血鬼」で、発行が昭和33年、HF番号が3005ですから5番目に発行された本ですね。HFとSFMのおかげで、 いろいろな作家とその作品に接することができるようになり、作家の好き嫌いもだんだんはっきりしてきました。当時はペーパーバックでアシモフ作品にはまり込んでいたのにSFMにはさっぱりアシモフが登場しないので、早川書房に手紙を出しましたら、福島編集長から“載せたい作品はいっぱいあるが、書き手がすくなくて困っている”といった内容の葉書がきました。
雀部> うへっ、福嶋編集長からお返事を頂いたんですか。それはすごい。
 長山先生は、SFマガジン創刊当時はご存じないでしょうが、SFマガジンを読み始められたのはいつ頃からでしょうか。
長山> 中学生になってからで、1975年頃からでした。当時は半村良先生の『亜空間要塞』や横田先生の『日本SFこてん古典』が連載されていました。それから76年の何号だったかに、横田先生訳の『西征快心篇』が載ったと思います。
雀部> 昭和30年代は、白黒TVが一般にも普及し始めたころで、SFぽい番組も数多くありましたが、ご覧になっておられたのでしょうか。
 私は、「海底人8823」とか「ナショナルキッド」とか「七色仮面」とか、夢中で見てました。 ← もちろん実写版アトムとか鉄人28号も(笑) 月光仮面とかまぼろし探偵も見ていたなぁ。
浅野>

 私が卒業したのが昭和30年。
 この年も不景気で、就職難でした。
 やっと就職し、配属されたのが「テレビジョン技術課」。
 そんなわけで、かなり早い時期から我が家にテレビがありました。
 しかし、これはキャビネットがない試作品で、気を付けないと、チャンネルを回すたびに感電する代物でした!
 この剥きだしテレビで観たSF番組で、記憶に残っているキーワードは“アンチクトン”。
 最近のwebの検索力は凄いもので、この“アンチクトン”だけで、次のことが分りました。

「タイトル:『誰かみている(誰か見ている、誰かが見ている)』
キー局 KR 放送曜日 木 放送期間 1956/07/26〜1956/12/06
放送時間 21:50-22:20 放送回数 20 回 連続
番組名 宇宙物語
主な出演 江川 宇礼雄、原 保美、金子 亜矢子、桂 典子
局系列 JNN
脚本 北村小松」

 「太陽を挟んで地球と反対側にある惑星“アンチクトン”に住む宇宙人の暗躍」、というお話。SFといっても味付け程度で、前衛的で理解困難な筋書きでした。
 ちょっと後になりますが、1960年代に放映された『トワイライト・ゾーン』や、『タイムトンネル』などは夢中で観ていました。
 日本の番組が出てこなく、済みません。(笑)

KIKUO> 白黒テレビ受像機は出始めたころに親が買いましたが、チャンネル権は父にあったので、見るのはニュース、スポーツ、落語など。SF系の番組があることも知りませんでした。 テレビのある生活にまだなじんでいなかったのかも知れません。
長山> 私はものごころ付く頃はテレビがあった世代で、『トワイライト・ゾーン』はかすかに記憶がありますが、再放送だったのかもしれません。『スーパー・ジェッター』や『エイトマン』も白黒でしたね。当時はカラー番組だと画面の隅に“カラー”と表示が出ることがあって、調整していなくて白黒で見ていると、あわてて直したりしました。
雀部> 『ミステリー・ゾーン』(日本放映時のタイトル)は、怖い内容のものもあって、ちょっとおっかなびっくりで観てました(笑)
 昭和30年代には、巡回映画といって、小学校の講堂で映画を観たものですが、そこで見た「遊星王子」とか「ゴジラの逆襲」「地球防衛軍」「宇宙大戦争」などの特撮映画に ショックを受けたのが、こういう映画・本が見たいという直接のきっかけになった気がし ています。
浅野> 『ゴジラの逆襲』、『地球防衛軍』、『宇宙大戦争』などは、映画館で観ました。
 当時は未だ娯楽が少なかったせいか、映画館が混んでいましたね。
KIKUO> 映画は「ゴジラ」もの以外はもっぱら洋画で、SFものも洋画で見ました。「キングコング」がSF映画かどうかは何とも言えませんが、仕事で初めてNYに出張し、初対面のアメリカ人と会ったときに「初めてNYに来た感想は?」と相手が聞くので、「キングコングがよじ登ったエンパイアステートビルを実際に見られて興奮している」と答えたら、いっぺんに意気投合してしまいました。
雀部> わはは(爆笑)
 反対だと、モスラが繭をかけた東京タワーが見られて興奮したとか(笑)
長山> あのシーンはイメージを掻き立てますね。アメリカにもディープなゴジラ・ファンが多くいて、アメリカ版『ゴジラ』を見たあるファンは「違う。ゴジラは撃たれても逃げないんだ!」と叫んだという逸話があります。
雀部> そのファンに座布団三枚!(笑)
浅野> アメリカでゴジラというと、思い出すことがあります。確か1960年代の後半だったと思いますが、仕事でアメリカへ40日ばかり出掛け、大陸を二往復しました。
 丁度、ハリウッドのホリデイインに泊っていたとき、朝の4時頃、突然、隣の部屋で大きな咆哮が聞こえ目が覚めました。人間ではないようだし(笑)と思い、寝ぼけた頭で考えた結果、これは『ゴジラ』だということに気が付き、早速、テレビを点けたらば果たせるかな『ゴジラ』(1954)をやっていました。結局、最後、外が完全に明るくなるまで観てしまいました。
雀部> 寝ぼけていてもゴジラと気が付くところは、さすが浅野さんですね(笑)
 アニメの「鉄腕アトム」はご覧になってましたか。私は中学生のころで、それはもう夢中に。
浅野> もう大人になっていましたので、ときどき観る程度でした!(笑)
KIKUO> ペーパーバックの米英SFで、裏の裏のそのまた裏をかくような複雑な性格の登場人物や話の筋書きに鍛えられてきましたので、「鉄腕アトム」アニメはなんとなく子供っぽく、さほど感激しませんでした。人間がすれてきたのかもしれません。
雀部> やっぱり、ああいうアニメは子供時代に出会わないと、のめり込むまではいかないのかなぁ。
長山> 私は『鉄腕アトム』の最初の放送は見られなかったのですが、『スーパー・ジェッター』『ソラン』は覚えて、今も、主題歌を歌えます。ゴジラ、ウルトラマンと共に『スーパー・ジェッター』の刷り込みは、かなり大きかったと思います。それとNHKの少年ドラマシリーズ。
雀部> 「流星号、応答せよ、流星号」は密かに真似してました(爆)
 少年ドラマのほうは、手塚治虫原作の、「時間よとまれ!」という名セリフで有名だった『ふしぎな少年』は楽しみにしてました。生放送なので、時間が止まったとき人間が微妙に動くのは、どうにかならないかとみんなで言ってましたが(笑)


[長山靖生]
1962年茨城県生まれ。評論家、歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。歯科医の傍ら、文芸評論、社会時評などの執筆活動を展開。96年、『偽史冒険世界』(ちくま文庫)で大衆文学研究賞を受賞。著書に『テロとユートピア』『人はなぜ歴史を偽造するのか』『日露戦争』『日米相互誤解史』『不勉強が身にしみる』『若者はなぜ「決められない」か』など。
[KIKUO]
1932年、新潟生まれですが、戦前の幼稚園、小学生時代は東京で過ごしました。家にあった世界大衆文学全集でH・G・ウェルズの「宇宙戦争」など海外のSF秀作に接し、「火星兵団」や「見えない飛行機」など、雑誌「少年倶楽部」や少年向けの空想科学小説で品質の高い日本の作品群にはぐくまれる環境で育ったわけです。そして戦争、そして敗戦。
戦後の一時期、まだ日本のSF作品は出ず、海外SFの翻訳物も少ない、一種のSF飢餓時代が何年か続きました。が、そんな時、神田の古本屋街の一軒の店先で、暗い異星の表面で銀色の武骨なロボットが、赤い宇宙服の人間を抱き上げている表紙絵のペーパーバックを見つけ、思わず買ってしまったのが運のつき、またSF病に感染し、現在に至っています。
その本が、アイザック・アシモフの“I, ROBOT”でした。
[浅野]
1932年、東京生まれ。
小さい頃、縁日の本屋で、シリーズの科学マンガ本(10銭?)を買うのが楽しみで、これがSF本の原点だと思っています。
小学校に入ってからは同好の友人を探し、山中峯太郎や海野十三などの本を貸し借りして読み耽りました。
戦争末期から戦後は、食料と同じようにSF本が手に入らず、飢えていました。高校を卒業、大分経ってから、中学・高校時代の一年下のクラスに、海野十三氏のご子息がおられたことが分かり、そのころ、お知り合いになっていたらば、と悔やんでおります(同窓会名簿で確認済み!笑)。
就職後、暫くして、やっと本格的なSF、「元々社 最新科学小説全集」に巡り合え、全巻購入、続いて、早川書房から「S−Fマガジン」も発行され、これも創刊号から読み始め、潤いました。
また、当初の予定通り10号で終了しましたが、社内の同好の士を集めて、同人誌を発行したこともあります。
小学校入学前に、浅草で母親と『キングコング』、『透明人間』などの映画を観た後遺症から、以来、SF映画にも嵌っています。
[雀部]
1951年岡山県生まれ。アマチュアインタビュアー、歯科医師。東北大学歯学部卒。歯科医の傍ら、SF作家の先生方にメールインタビューする毎日です。


トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ