雀部 | | 今月号著者インタビューは、9月号に引き続き『大江戸ドクター』を上梓された和田はつ子先生です。和田先生よろしくお願いします。 前回のインタビューで、冒頭は歯科麻酔のシーンからとお聞きしていたので、楽しみにしていました。 この作品も『藩医 宮坂涼庵』と同じく、「しんぶん赤旗」日曜版に連載された作品だそうですが、書かれる上で一番苦労されたところはどこなのでしょうか。 |
和田 | | 医師である義兄の書架にあったトールワルドというドイツの作家が書いた『外科の夜明け』という本を読んだのがきっかけです。医師たちの苦闘が小説の手法で描かれているのですが、その本を19歳の時、一気に読んでとても感銘を受けました。麻酔なしの手術で、患者は痛みで死んでいく。手術する医師の精神的苦痛も相当なものです。 アメリカの歯科医による麻酔の発見は、まさに近代医学の夜明けでした。小説家になってから、いつかは書きたいとずっと温めていた題材だったのです。 日本医学史のような文献を調べても、当時の手術の様式はほとんど書かれていません。当時の帝王切開の手術など残っている史料を見ながら、次第にエピソードを膨らませていきました。物語をつくる上では手術の様子を詳細に描くというよりも、医術が命を助けるというドラマを見せたいと思いました。苦労といえば、そのあたりでしょうか。 |
雀部 | | その想いは十分感じられたと思います。 この『大江戸ドクター』や《口中医桂助事件帖》シリーズの手術シーンの描き方――具体的に言うと一般の方に分かりやすく、しかも勘所はちゃんと押さえてある描写――にはいつも感心しているのですが、この専門的な描写をどこまでするかという線引きはどうやって決められているのでしょうか。 |
和田 | | 素人のわたしが読者になって読んでわかるものをと心がけています。文献を読んでいてどうしても理解できなくて、何度も読むことも多いです。ああ、こういうことかと納得してやっと文章にします。 |
雀部 | | なるほど。 『大江戸ドクター』は、和田先生の時代小説の集大成とも思える作品で、麻酔を使った歯抜きに始まり、舌岩の手術もあるし『藩医宮坂涼庵』に登場する“ゆみえ”にも似た沙織嬢や、なにより孝右衛門、和之進、克生の固い友情(こちらは《口中医桂助事件帖》の桂助・鋼次に匹敵か)も素敵でした。 各章でそれぞれ山場が設けられていて読みやすかったのですが、これは新聞連載されたことと関係しているでしょうか。 |
和田 | | はい、そうです。日曜版ということは週に1回ですので、読んだその時に面白かった、この続きはどうなるのだろう、と読者に思っていただかなくてはなりません。限られた紙幅の中での格闘でした。しかし、一冊の本ということになると少々事情が異なります。読者には、その本の世界観というものを読んでいただくわけですから、連載時にはあまり触れなかった恋愛模様を加筆しました。 |
浅野 | | 最後、それぞれが相愛の人と結ばれてゆくのに、主人公の克生だけが一人淋しく、と思っていましたが、一番最後の三行を読み、納得しました。 この辺は、瑠璃を思う『料理人季蔵捕物控』の季蔵さんと、一脈相通ずるところがあるような…… |
和田 | | 現世での恋愛の成就は素敵ですし、おめでたいことですが、現世で実ることがなかった恋愛にも深い関心を持っています。実らせることができない恋愛は、傍からみれば、切なくて悲しいものかもしれません。しかし、一瞬でも魂と魂の触れ合う経験をして、それを糧に生きて行けるというのは、精神的にかなり豊かな生き方といえるかもしれません。 |
雀部 | | 関係ないんですけど、SFファンはあまり恋愛模様は求めてなかったりします。普遍的なヒューマニズムとか人類全体の行く末のほうが興味があって(笑) 沙織やゆみえ、はたまた志保は医学の心得があるのですが、義兄さんが医師であられるという和田先生は、医学の道に進もうと思われたことは無いのでしょうか。 |
和田 | | わたしは理科系の頭ではないので、医学部の試験は受かりません。二人の娘には女性が自立できる道として女医を勧めました。長女は腎臓内科医で次女は救命医です。独身ですが年齢はバラすと叱られるでしょう。よく会って話をするのですが、不思議に医学の話にはなりません――笑い―― |
雀部 | | え、娘さん二人とも女医さんなんですか。それは凄い。 和田先生は、文系+理系の頭を持ってらっしゃると思います。そもそも論理的な思考が出来ないと、ミステリは書けないし。娘さんとは医学の話はされないとのことですが、『大江戸ドクター』の感想とかは聞かれないのでしょうか。 |
和田 | | わたしの父は理工系出身で大学の物理学のテキストを中心とした出版社をやってきました。もしかして、多少は遺伝子を受け継いでいるのかも――でも、中学、高校と数学は不得意というか、まるで興味がありませんでしたよ――笑い―― 実は『大江戸ドクター』の沙織は、おちゃっぴい気味ですが、医学の手技が大好きで、血管注射に限ってドクターXと言われている次女に、冷静沈着で学究肌の長女のキャラを足して創りました。沙織がベターハーフを見つけるのも娘たちの幸せを願う親心です。 娘たちも『大江戸ドクター』が広く読まれることを願ってくれています。 |
雀部 | | 沙織嬢は、娘さんがモデルだったんですね。 ところで、三楽亭遊平治師匠のエピソードに、昔読んだ絵本の曾呂利新左衛門の話が出てきていて懐かしかったです。頓知で人を笑わせたり、作った刀の鞘には、刀がそろりと入るのでこの名がついたとか。ひょっとして、和田先生も幼少の頃読まれたのかなと思いました(笑) |
和田 | | 三楽亭遊平治のところは古典落語の史料をあたりました。 |
浅野 | | 後半、チンパンジーのクレバーは二度ばかり出てくるのに、期待の三遊亭遊平治は現れず、ちょっと残念でした。 『噺まみれ 三楽亭仙朝』もどきの活躍をを期待していましたが……。 |
和田 | | お察しの通り、三楽亭遊平治のモデルは幕末から頭角をあらわした三遊亭圓朝、「噺まみれ――」の三楽亭仙朝です。圓朝は梅毒を病んでいたようですが、この仙朝の清々しいイメージがあったので、痔疾に止めました。そうですね、この遊平治、他の方々にも好評なのでももっと活躍させるのでした―― |
雀部 | | 弟子を取る時の試験として“ももんじ屋より美味い薬食い料理”を作るというのは、最近「医食同源」と良く言われることに通じていて、なるほどなと思いました。 |
和田 | | ここは克生が実はたいして弟子を取りたくない、今、テレビでやっている「ドクターX」に出てくる“御意”と唱えるような弟子は不要。試験の代わりに料理をさせると言ったら、誰も応募してこないだろうというとタカを括った一面もあります。 他の男子のように料理が試験と聞いて傷つくプライドもなく、“できます”と手をあげておいて、いざとなると実はできない、実力行使で克生の弟子になってしまう――ここは沙織の逆転勝ちです。 |
雀部 | | そうなんですか。里永克生診療所は慢性的な人手不足なので、助手(弟子)は居るだろうなあと思ってましたよ。 |
浅野 | | 当時からラベンダーやカモミールなどが薬草として活用されていたようで驚きました。カモミールは、ひと頃、大分育てていて、お茶やお酒にして楽しんでいました。 |
和田 | | お江戸のハーブ事情には興味深いものがあります。ヒロハラワンデル(ラベンダー)やカミツレ(カモミール)はオランダ語のようです。あとマンネンロウ(ローズマリー)も入ってきていました。タイムは明治元年とあります。きっと、本格的な西洋料理を模倣しようと仕入れられたのでしょうね。 けれども、本格派は日本人の口に合わずに、近年、空前のハーブブームが到来するまで忘れられていたのです。アロエなどは食用にはされませんでしたが、民間薬としてわりに広く栽培されていたようです。 |
浅野 | | アロエは我が家にもあり、火傷の時に使ったことはありますが、食べるのはちょっと抵抗があります。(笑) 花は綺麗ですね。 |
和田 | | アロエは薬用、食用が分かれます。 キダチアロエだけが外傷対応の薬効を含み、食用として美味しいアロエベラ等、他の種類は整腸作用だけで火傷を癒すことは不可です。 そちらのお宅にあるのが花が綺麗なキダチアロエだとすると、薬効だけではなく食用にも適します。キダチアロエは両刀の優れアロエなのです。 |
雀部 | | そうなのですか。アロエには保湿成分が含まれているので、手荒れにも効くような気がします。
『大江戸ドクター』に出てくる数々の手術は、トールワルド著の『外科の夜明け』へのオマージュということなのですが、麻酔の無い時代の舌岩切除から、歯科麻酔、腎臓摘出、帝王切開、心臓手術まで幅広いですね。 |
和田 | | 江戸時代の外科手術は『JIN - 仁』のようなSFの手法を使わずに、どこまで可能なのか、読者に伝えられるかが、『大江戸ドクター』の一つの読み応えにつながると思ってのことです。 それから念のために書いておきますが、これを書いたのは「ドクターX」より一年前のことです。 江戸という時代に固執して書いていますので、当時可能だったか、偶然が生み出す後の時代に成功例がある手術しか書いていません。 当然、内視鏡やスコープ、拡大鏡が必要な手術は登場していないはずです――笑い―― |
雀部 | | 内視鏡が出てきていたら、『仁』を超えちゃいますね(笑) ごく最近、「『麻沸湯論(1839)』の現代語訳・英訳」を紹介されて読んだのですが、当時我が国においては、西欧に先んじて麻酔術があり、清酢布を使うなど衛生面への配慮の萌芽も見られて興味深いです。吸着式の総入れ歯製作も日本が最初のようだし、どうしてどうして江戸時代の医学技術も侮れないですね。 |
和田 | | 漢方医師や漢方医学を排斥した一件を含めて、明治政府による西洋医学至上主義は間違っているとわたしは思っています。 ところで、『大江戸ドクター』の主人公里永克生が生きている時代には、まだ、西洋で抗生物質が発見されていませんので、明治政府が崇拝していたのは、漢方医学とは別分野の外科術ということになります。 しかし、その外科術は、順天堂の施術料金表に項目を見ればわかるように、当時の西洋の外科術に負けていなかったのです。鎖国をしていても、長崎から情報は入るわけですから当然といえば当然ですが、患者の命を助けたいという医者の一念がなし得たことです。気負わずにスーパードクターであり続ける、里永克生もそんな熱い医者の一人です。 |
雀部 | | 後書きに、3・11のあと“物語を通して、絶対的な希望や自信を多くの人に届けられないだろうかとの思いから筆を執りました”とかかれてらっしゃいますが、まさに里永克生は、それを具現化したような主人公ですね。 それと、TVの『JIN-仁-』ではあまり描かれなかった、開業医としての苦労――経営・従業員・お上との関係・同業者との軋轢――が見てきたように描かれていて面白かったです。まあ里永先生は、親友の二人が居なかったらどうなるんだとも思いましたが(笑) |
和田 | | わたしの初期の作品に、医者、据物師、同心の三人が力を合わせて事件を解決する《やさぐれ三匹事件帖》シリーズというものがあります。 実は『大江戸ドクター』は、彼らの十年後を設定し、医者ー克生中心に描いたものです。ですから三人にはかなりの思い入れがあります。現在、この《やさぐれシリーズ》を改変して、『大江戸ドクター エピソードゼロ』として刊行してはという話をいただいています。 |
雀部 | | ええっ!! 名前は違うけど、蘭方医・同心・首斬り役人と職業は全く同じ三人組なんですね。 なんと、『大江戸ドクター』は、《やさぐれ三匹事件帖》シリーズの後日談としても読めるんですね。 |
浅野 | | 確か、この小説は華岡青洲の時代から60年後のお話という事でしたが、克生先生が手鞠から吸わせていた神薬とは何だったのでしょうか? また、当時、アメリカの歯医者さんは笑気ガスを使っていたようですが、日本には未だ無かった……? 終戦直後(1948)に上映され、「ボタンとリボン」の歌で一世を風靡したミュージカルコメディ西部劇映画『腰抜け二挺拳銃』の中で、歯医者さん役のボブ・ホープがこの笑気ガスを使っていました!(笑) |
和田 | | クロロフォルムです。 1846年上半期にアメリカの歯科医によってもたらされたエーテル麻酔の効能は、この年中にヨーロッパ中に知れ渡り、イギリスでは自国の誇りを保つために、クロロフォルムの方がより有効であることを数々の臨床例を経て証明し、1853年と1857年にはこれを用いて医師ジョン・スノウがヴィクトリア女王の無痛分娩に成功しています。 医師ヘボンが日本で歌舞伎役者の足を切断する際に用いたのもクロロフォルムのようです。 それにしても今と違って情報の伝達が遅い時代にどうして、ここまで早く普及したのかと感心させられます。それほど医師も患者も手術の際の激痛を無くしたいと切望していたのですね。 『大江戸ドクター』は、もちろんフィクションですが、史料を基に推測を混ぜています。そのバランスが難しいところです。 「講釈師見てきたような嘘をつき」という句がありますが、まさに小説の醍醐味もそこにあるのではないかと思っています。 映画で使われた笑気ガスですが、1844年にウエルズというアメリカの歯科医が利用を思い立ったのですが、患者が亡くなるなどのアクシデントもあり、汎用には至りませんでした。 しかし、映画では(わたしは観ていませんが)笑気ガスがあったという史実を踏まえ、楽しい映画に仕立てたのではないでしょうか。小説も同じではないかと思います。 ありそうだけれども、無理、ありえない。ボツ なさそうだけれども、可能、あった。 イキ
そういう試行錯誤を繰り返してエピソードを作り、膨らませています。 |
雀部 | | 和田先生は、その虚実ない交ぜ具合が絶妙でいつも楽しませて頂いてます。SFも時代小説もリアリティを増すには、そのさじ加減が重要だと思いますから。 医療人の端くれとして、和田先生には、これからも医療に携わる人々のユニークな活躍譚を書き続けて欲しいです。『大江戸ドクター』と《口中医桂助事件帖》シリーズ以外の医療系歴史小説の執筆予定はおありでしょうか。 |
和田 | | わたしは明治政府によるドイツ医学偏向が日本の医療の発達を妨げてきたと感じていて、ドイツ医学に追い払われるかのように姿を消したアメリカ医学――居留地の横浜医学――の全貌に興味を抱いています。文献をお持ちの方がおられたら、ご教示ください。このあたりはヘボンを師と仰いだ克生とも関わることなので、できれば『大江戸ドクター』の続編または、それに匹敵するものをいつの日か書きたいものだと思っています。 |
雀部 浅野 | | 前回に引き続き、お忙しい中著者インタビューに応じて頂きありがとうございました。 それでは『大江戸ドクター』続編、楽しみにお待ちしております。――遊平治の活躍も期待しております(笑) |