(前回の続き) |
雀部 |
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八杉先生・上田先生引き続きよろしくお願いします。
「ミューズ叢書<1> 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー」を読ませて頂いて感じたのですが、“小説を書く”ことってかなりの部分がシステム化されている印象を受けたのですが。そろそろコンピュータが書いたライトノベルがベストセラーになるようなことはありませんかね。『冲方丁のライトノベルの書き方講座』や、特に新城カズマさんの『物語工学論』を読んだ時にも感じたことなのですが。 |
八杉 |
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こちらこそよろしくお願いします。
ストーリーの面白さは基本的に技術です。たとえばハリウッドの映画の脚本ではそういった技術・システムが確立されていて、そのとおりに創作すれば「面白い」話は作れるんですよ。すべての視聴者・読者が面白いと感じるとは限りませんけど、体裁は整っていますので野球で言うならそれなりの打率が出せるストーリーになるといえばいいでしょうか。基本のフォームと いったところです。
ただ、それらの技術・システムを駆使して面白いストーリーができても、それを読者が「好き」になって惚れ込むかどうかは別なんですよね。そこは個々の作家の思想や感性の問題になってくると思います。ですから面白さの基本を損なってまでそこを追求した作品が傑作と呼ばれることもときどきあるんです。細かいことを言えば、それをいかに効果的に演出し、表現するかという部分ではシステマティックな技術があるんですけどね。
ディープラーニングを利用した人工知能に小説を創作させる試みが行われていますが、そのような主観的な思想性を柱として持たせることができないと、少なくともたくさんのファンがつくような作品にはならないと思います。 |
雀部 |
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なるほど。映画の話で言うと、故野田大元帥閣下がSFマガジンの連載で『インディ・ジョーンズ』を例に挙げて、小説を書く人はぜひこの構成を参考にして欲しいと書かれてました。
そうすると、前号のインタビューで“個人的に褒められるより、反感を買われるぐらいの作品のほうがいいのかもしれないと思ってます。”とおっしゃられていたところと相通ずるところがありますね。
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八杉
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そうですね。それぐらい頑固に一本筋の通ったものがなければ、出来上がった作品は印象が残りにくいものにしかならないと思います。もしくは内容に統一性がなくて意味不明になったりするでしょうね。
実際、アメリカで人工知能に脚本を書かせて映画化したショートムービーが発表されましたが、そんな感じですし。
「Sunspring | A Sci-Fi Short Film Starring Thomas Middleditch」
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雀部
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半分以上わからないけど、相当意味不明だということはわかる(笑)
ちょうど、「文藝春秋」(2016年7月号)に“人工知能作家が芥川賞を狙う(松原仁)”という記事が載っていて、芥川賞のほうが可能性が高いのか?と思ったりしました。
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八杉
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記事を読みました。人工知能なら定跡を外した小説が書ける可能性があるので芥川賞を狙えるのではないかということですね。
そういえばこのあいだオーストラリアの研究チームが人工知能にボース=アインシュタイン凝縮状態を作り出す複雑な実験を学習、再現させたんですが、人間には思いもよらない実験手法を使って見事に成立させたそうです。つまり人間の定跡を外したわけですね。
ただ、こうした実験では「答え」があります。だからこそ意味のある定跡外しがしやすいんです。でも、小説にはそんな物理実験の結果のような答えがありません。だいたい現在の人工知能は「自分が何をしているのか」をわかってないので、出来上がった作品は、読者側が内容すべてを解釈しなければならないんです。ようするに「著者は何を言いたいのか」という問いに対する本当の答えがない。主体のない作品といえますかね。(人工知能の方向付けは人間が行っているのでそこに主体があるといえますが)でも、もしそれで評価される作品ができたとしたら、小説とは何か、作家とは何か、批評とは何かといった本質的な問題が浮き上がってくるでしょうね。それはそれでたいへん面白いと思います。芥川賞がそれを受け入れるかどうかはわかりませんけど(あの賞なりの定跡があるらしいので)、どちらかといえばそのような文学賞向きかもしれませんね。
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雀部
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円城先生がプログラミングすると? あ、それでは二番煎じにしかならないか(汗;)
上田さんは、この度「ミューズ叢書<1>」と「ミューズ叢書<2>」を上梓されましたが、作家の方がどうやって構想を練るか、またどんな苦労をされているかが如実に書かれていて面白かったです。「ミューズ叢書<1> 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー」で、八杉さんと作家としての目線が一致していて、やはり読者目線とは全然違うなあと感じるところが多々ありました。読者にとっては、そういう作家目線を考慮しつつ再読すると、「なるほど、ここなんかがそうなのか」と、違う面白さを見つけられる楽しみがありますね。
特に『妖怪探偵・百目』の構成の話、理想は全5巻くらいの長さなんだけど、諸処の事情で全3巻になったので、ああいう構成になったとかは、一読者としては全く考えたこともなかったです(汗;)
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上田
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ああいう形でストーリーをいったんまとめておくと、続きを出せる可能性がありますから。シリーズものは書いている途中で打ち切りになるのが一番困るので、まず大枠を仕上げておいて、機会があれば、四巻以降を一話完結方式で続けていくという作戦です。この方式だと、四巻以降、どの巻で中断してもストーリーが中途半端になりませんので。
個人的には、物語内の時間を少し前後する形で、忌島のパートを彼が赴任してきてから退職するまでの物語として書きたいです。この形だと、百目も邦雄も再登場させやすいので。
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雀部
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また小説家を志す方たちにも非常に参考になるというか、「自分の小説は、こういうところを補強すれば更に良くなるのではないか」というチェックにも役立つように感じました。
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上田
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小説の書き方は作家ごとに全然違うので、できるだけ、たくさんの作家のやり方を参考にしたほうがいいでしょう。小説だけでなく、漫画、映画、ゲーム、伝統芸能など、あらゆるクリエイターと演者の談話にアンテナを張っておくと楽しいですよ。
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雀部
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それはわかります>アンテナを張る
上田さんの「ミューズ叢書<2> トークイベント記録 〈オーシャンクロニクル・シリーズ〉(1)『薫香のカナピウム』」で、筒井康隆先生のエッセイから“小説というものは、ロジカルにテクニカルに書くことができる”ということを教わったと書かれてますが、変な聞き方ですけど、小説を書く時間で言うと何割くらいがそれにあたるのでしょうか。
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上田
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何割という答え方は難しいですね。ごく単純に、エディタに文章を打ち込んだり作品を構築する作業そのものに対して言うなら、それは10割、論理的な思考だけでも進められるので。これは、先に、八杉さんが、ハリウッド脚本術を例にあげて説明して下さっているのと同じ理由です。でも、雀部さんのご質問は、そういう意味ではありませんよね。雀部さんには、作家が小説を書くとき、論理では書かない部分も相当含まれているんじゃないかという感触が、なんとなく直観的にあるわけですよね。
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雀部
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直観というか、何人もの作家の方にうかがった結果ではあります(笑) 資料集めとかアイデアのメモ帳とかこれまでに蓄積してきた様々な分野の知識とかが、頭の中でぐつぐつ煮詰まっていて、それに出版社の意向とかご自身の(こういう作品を書きたいという)創作欲が触媒となって作品の方向性が決まる。それから先はある程度論理的に進められるのかなと漠然と想像していました。
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上田
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そのメモを作るとか、こういうのを書きたいとか、創作に対して能動的になっている段階で、既に、何らかの論理が働いているような気がするんですよ。どこかの段階で論理的に切り替わるんじゃなくて。だから、何割という答え方は難しい。
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雀部
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まあ、難しいだろうなということは想像が付いていたので、「時間で何割」という問いにしたのですが、切り分けがそのものが難しいんですね。
「ミューズ叢書<1> 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー」の方で言うと沖縄地方の方言の分厚い本(竹富方言辞典)を買われて読んだり、播磨に三線を使わせるために、自ら三線を習い沖縄本島から八重山諸島の民謡を聴きまくったりされたという話も、物語が動き出すための必然性があったということですね。そこが面白かったと同時に、そこまでやらないとリアリティのある小説が書けないだろうなということが想像できて、想像だけで書くことが出来そうなSF作家さんも実は大変なんだなと(笑)
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上田
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取材が好きな方は、いろいろ、やっているでしょうね。
三線の件は、単に、私が撥弦楽器(ギターやウクレレ)を好きだからという理由がまず先にあって、作品のためというよりも、ちょうどいい機会だから——という感じでした。出身地じゃない土地を舞台にすると、文化的な意味でのフックを探すのが難しいんですが、音楽つながりなら何とかなりそうだと。リアリティについては、あまり拘りはありません。昨日今日習い始めた私のような人間が、何十年も民謡を続けている方の感性に追いつけるはずがないし、文化としての真髄を理解するのは難しいので。
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雀部
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でも、ちょうどいい機会だからと習い始めちゃうというのが凄いです。最近色んな三味線系の音を聞く機会があったのですが、元となった中国の三弦には、三味線よりも三線のほうが近いですね。
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上田
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三本弦の楽器は、中国→沖縄→本州という経路で伝播しているので、基本は同じなんです。その中で、弦の太さやバチの形や演奏法が変わっていく。奄美三線だけは弦の太さやバチの形が違っていて音色も違うので、機会があったら聴き比べてみて下さい。Youtubeにも動画があります。
言語(方言)に関しては、世界基準で絶滅言語に指定されている地域なので、これはちゃんと知っておかないと大変だと思ったんですね。将来、調べたくても調べられない状況になってしまうかもしれないと。
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雀部
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言語は思考の大本ですから、ある言語が失われるということは、その言語を使った思考体系が失われるということですよね。
本筋には全然関係ないのですが、世代によって連想するものは違いますよね。私らの年代だと(幼少期の雑誌には、戦争マンガや戦闘機・戦車・銃器の図解が載っていた。有名戦車や零戦なら今でも描ける)「凶銃」というと「ワルサーP38」を連想するかな〜(笑)
小松先生の「凶銃」は、全然知りませんでしたが(汗;)
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上田
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未だに「そのネタは知っていた」「わかった」という人に出会わないので、きっと、覚えている読者のほうが珍しいと思いますよ。
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雀部
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コマケンで聞くと珍しくない気もするなあ(笑)
他に筒井康隆先生から影響を受けたと思われているところはありますでしょうか。
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上田
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「小説という形式の自由度の高さ」を学ばせてもらったのは、やはり、とても大きかったですね。ひとりの作家が、デビュー以来ずっと第一線に存在し続けて、娯楽作品から前衛作品まで自由自在に書き分ける——それは筒井さんだからこそ出来た驚異的な在りようですが、同時に、小説という分野の可能性を教えてくれるものでもありました。
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雀部
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ですよねえ。いまだに第一線で御活躍なさっているのは驚異でもあります。故小松先生でさえ晩年は小説をお書きになってないし。
小松左京先生から受けられた影響はおありでしょうか。
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上田
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「SFの本道とはこれだ」という「型」を教えてもらったことが、一番大きな影響でしょうか。「型」がわかっていると、そこから反転させて別の型を探せますし、隙間領域も見つけられますので。私自身は「辺境棲息型隙間生物作家」なので、小松先生みたいな書き方はしていないんです。「型」からちょっとずつずらして、何か別のものを探していこうというスタイルなので。
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雀部
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私も含めて、上田さんのSF系作品は「王道」だと感じている読者が多いのではないかと想像していました。小松先生のスタイルとは違うというのはわかるのですが……
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上田
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いやあ、隙間生物でしょう。王道だったら、「これはSFではない」とか、絶対に、誰からも言われないはずなので。
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雀部
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私なんか、単純ですから「小松左京賞」や「日本SF大賞」を受賞されているんだから、これはSFの王道まっしぐらだぞと思いますけどね(笑)
まあ、SFだとかSFじゃないとかどうでも良いことですけど、「これはSFではない」と決めつける方のほうが超稀少なのでは。
私の中で「SF」というと、“現代とは異なった(異常な)環境下で人間(知性体)がどういった行動をとるかが考察されている作品”ですかねぇ。その反対の“現人類とは異なった知性体が現代でどういう行動をするか”なんてのも当然ありますが。
「SFの王道」というと、その考察が世界や人類全体にも及んでいる作品でしょうか。 当然バリントン・J・ベイリーなんかも、私の中では王道です。
で、王道じゃないSFというと、作者自らが敢えて「王道」を外して書こうと思った作品。森奈津子さんの“異星人は美味そうだから食べちゃった話”とか“自分さえ良ければ人類は滅んだままでもかまわない話”とか(爆笑)
昔《SFバカ本》というアンソロジーがありましたが、あれなんかコンセプトとして「SFの王道を外した作品」を収録していた感じがします。
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上田
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森奈津子さんの本とか《SFバカ本》とかは、むしろSFの「真ん中」だと私は感じているんです。ああいう作品群と比べると、一見、王道に見えても、私のほうがよほど辺境棲息型だろうと。「隙間生物」という言葉以外で喩えるなら、国境線の位置を気にせず、定住もせず、辺境の地を放浪しながら狩猟生活をしているような——自分の書き方というのは、そういうイメージで捉えると自分自身でも納得できます。
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雀部
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ありゃま、ご本人がおっしゃるならそうなんでしょうけど、少なくともコアSFではないような(笑)
「王道」の話と似た話なんですが、『ミューズ叢書<2> トークイベント記録』で、青澄のことを“理想に燃える善人”として書いたのではなくて、“マキがいないと、まったく働けない人”として書いたとあって、「おお、そうだった」と思ったり、その二つは全く両立しないというわけではないよなと思ったり。
以前に、小川一水先生のインタビューの際に「小川先生のライトノベルの主人公たちは、なにか自らを律しているように感じています。」と書いたら、「いや、私としてはみな好き勝手にやらせているつもりです。」と返されたのを思い出しました(汗;)
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上田
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そういうことは、やはり「小説そのものに対する概念」や「小説を書くことの意味」が、読み手によって違うからじゃないでしょうか。「人間」という存在に対して何を期待しているかという、読み手の内面が最も反映される部分なので。
人間という存在に対して私は期待や希望をあまり持っていないので、理想や善悪という基準ではものを見ないし、そういう動機で登場人物を動かすこともないんです。単に、想像し得る可能性や社会の複雑性を、できるだけ洩らさず、細かく記述しておこうという意思があるだけで。
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雀部
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SFファン、特にオールドSFファンは性善説とか文化の多様性とかが小説の根本に置かれていると心地良いんですよ。
「ミューズ叢書<2> トークイベント記録 『薫香のカナピウム』」で、“SFとファンタジーのいいところが両方混じり合った、広大な可能性を持つ世界があるように思える”とあり、『薫香のカナピウム』は、ローファンタジーに属する作品として読むことが可能とありました。この小説の舞台となっている森は、実はアジアの熱帯雨林なんですね。そのことに気がつかなかった私は、異世界SFかと思って読み始めていました。ま、途中から気がついたのではありますが(汗;)
ディッシュの『人類皆殺し』とかオールディスの『地球の長い午後』にも雰囲気が似ているし。
以前『華竜の宮』を読んだ時にあるサイバーパンクの短編を思い出したんですが、題名も作者も忘却の彼方でした(汗;) で、今回『薫香のカナピウム』を読んでこれは探してみなくちゃと思い、'80年代以降のSFマガジンを発掘して目次の一行紹介を見ていってたらやっと見つけました。「系統発生」(ポール・ディ・フィリポ、SFマガジン92/2月号)でした。題名がわかって検索すると『20世紀SF5 冬のマーケット』にも収録されていたのを忘れてました(汗;;) “侵略者のため,生態圏が根本的に破壊された地球。遺伝子操作により、異質の環境に人類を適応させるべく作り出したのが宇宙をさまよう「ウィルス」タイプの小嚢。こいつが首尾良く宿主に侵入出来たときにだけ、宿主の生体内で繁殖し子孫を残すことが出来るという。” 『華竜の宮』の構成やラスト、『薫香のカナピウム』の設定と何か共通する物を感じました。
人類が他の形態に変化して生き残るというのは、わりと昔からあるテーマで、ブリッシュの短編「表面張力」(SFマガジン、1963年)にも、ミジンコ大になって生き残る人類が描かれてました。
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上田
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身体変容は古典SFの時代からある大きなテーマですよね。外見が変わるけれど人間性はある程度までは保持されるという形と、身体変容によって精神性も変わってしまうという方向性があって、前者は巨大化や縮小化、そして身体の機械化まで含めれば、サイバーパンクも視野に入ると思います。後者は、描き方によってはホラーになりますね。私は、どちらかというと後者に興味があって、後戻りがきかない感じがすごく好きなんですよ。
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雀部
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身体が変容すると当然精神も変容すると思いますが、両方が変容した知性体を描くと“宇宙人を抽象画で描く”(by 今岡清)感じになるので一般的には理解するのが難しいかもしれません。上田さんの作品では『ゼウスの檻』がそうだったし、これから書かれる“ルーシィ”篇もそうなる可能性が高いような気がします。
また人間に見えるけど、精神性の面から言うと異星人というと「小鳥の墓」でしょうか。
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上田
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ストレートな形ではマイーシャ篇で、ルーシィ篇ではちょっとひねった形でそれを書くつもりです。その他にも、単発の短編で「人間の視点無し」を予定しています。自分では、物語という形式をとる限り——つまり、生物の一人称でやろうが神の視点でやろうが、「創作者という人間の視点」を通して語っている限り、どれほど前衛的な描き方をしても、“宇宙人を抽象画で描く”の一歩手前で止まるはずだと考えているんです。一歩手前ですから、これは受け手に対するフックを仕込む余地があるはずで、だから、最後にもう一度そこで遊んでみてもいいかなと。
「小鳥の墓」の主人公は、異形ではあるけれどまだ人間かなあという気がします。開き直ってからもまだ人間に執着しているし、あれはどこかで、人としての性質を取り戻したいんでしょうね。それを間違った方法で押し通し続けて、最後には破滅してしまうという話ですから。
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雀部
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そういう一歩手前の作品は、SFファンは大好物ですので期待してお待ちします(笑)
参考文献としてあげられていた『熱帯雨林の生態学』(2001年、井上民二著、八坂書房)が大変面白くて一日で全部読んでしまいました。知らないことだらけで、特に日本とは異なるイチジクの戦略には驚嘆しました。
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上田
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私たちは普段、本物の自然や、メディアの中にある自然に触れる機会を多く持っているので、なんとなく頭の中にできあがっている「森」の印象があります。『熱帯雨林の生態学』は、そういう「漠然とした森の印象」を次々と書き換えていってくれる、まさに蒙を啓く書でした。アジアの熱帯雨林はアマゾンの熱帯雨林とは気候が違うし、植物の種類も違います。世界中で最も古い原生林が残っており、ほとんどが虫媒花という特異な性質を持っているので、生物(特に昆虫)と植物との進化の関係性が、とても面白い。イチジクの話もそのひとつです。これは絶版になっているのが本当に惜しい本で、こういうものこそ、電子化して永遠に残して欲しいですね。
この本には、イバン族のロングハウスを訪問する話も載っていますが、ちょうど同じ頃に私の友人も別筋でアジアの熱帯雨林の調査に入っていて、当時、現地で撮影した植物や部族の写真をたくさん見せてもらったことがあります。そういう意味でも、このあたりの話は思い出深いですね。
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雀部
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私には全く出来ませんが、こういうフィールドワークの成果を読むのはSFを読むのと同じ感覚ですね。《デューン》とかが好きな方にはお薦めです。
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上田
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生態系SFと呼ばれる作品群が好きな方は、たぶん、現実の自然観察記録も好きな方が多いでしょう。プロの作家だと、川端裕人さんのフィールドワークは本当にすごいですね。そのリポートを有料メルマガで配信しておられるんですが、私は初回から非常に楽しく読んでいます。自然科学や文化人類学、動物園や水族館の管理問題、民間団体によるロケット開発の話題まで、幅広い題材を扱った、ものすごく面白いメルマガなんですよ。
■川端裕人さんのメルマガ(有料)
「秘密基地からハッシン!」
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雀部
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フィールドワークの本、面白いですね。「生物界のインディ・ジョーンズ」こと長沼毅先生の本も面白かったです。
川端さんもtwitterではフォローさせてもらってます。ご著書もほとんど読ませていただいてますがメルマガは読んでなかったので、ちょっと見に行ってきます。
上田さんの発言に「“ファンタジーでは、何らかの形で、必ず、登場人物に救いが訪れたほうがいいんじゃないか”という約束事を守っている」とあったので、共感しました。ジェフ・ライマンも『夢の終わりに・・・』で「ファンタジーとは、痛めつけられた子供が、最後に逃げ込む隠れ場所だ」と書いていて、その時も“全くだ!”と感じたんですが。ま、私にとってはSFも同じではあるのですが……
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上田
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創作物が受け手に救いをもたらす形には二通りあると思っていて、ひとつは、登場人物が救われる形式を通して受け手も救われるという形、もうひとつは、登場人物は作中のエピソードによって必ずしも幸福とはいえない結末を迎えるんだけれど(場合によっては破滅してしまうのだけれど)それを見届けた受け手は、なぜか、なにがしかの感動を覚えながら鑑賞を終える——という形です。自分で作品を書くとき、ファンタジーでは、なるべく前者にしたいという気持ちがあります。でも、SFだったら後者でもいいなと。このあたりは、書き手によって線引きする場所が違うでしょうし、そもそも線を引かない人も大勢いるでしょう。人によって、価値観の違いが大きく出る部分だと思います。
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雀部
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そうですね、クラークの『幼年期の終り』を引き合いに出すまでもなく、SFでは主人公さらには人類全体が滅び去っても、それがさらに大きな規模(宇宙全体とか)で昇華されるという大団円も好まれているので。
というかそういう展開になったら、魔法が出てきていても少々整合性に難があっても私にとってはそれはSFですね(笑)
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上田
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絶対に線を踏み越えないという縛りを作って枠の中で楽しむのも、その枠を越えることや破壊することに面白さを求めていくのも、等しく、SFの楽しみ方ですからね。どちらでも、好きなほうを選んで楽しむのが一番いいですね。
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雀部
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話が飛ぶんですが、私も『ダーククリスタル』が大好きで、アメリカからビデオを取り寄せて、岡山SFファンクラブの面々と上映会しましたよ。その少し前頃から、アメリカのビデオ輸入代行クラブがあって、最初に買ったのが『スタートレック The Motion Picture』と『ブレードランナー』と『スターウォーズ』『2001』。送料込みで6万円超えしました。もちろん英語版です。二度目に買ったのが『ダーククリスタル』と『ファイヤー&アイス』ですね。この頃になると、都会の方ではぼつぼつレンタルが始まっていたような気がします。
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上田
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地方のレンタル店は、当時、いまほど品揃えがよくありませんでした。マイナー系の作品は入ってこなかったし、うちは再生機がVHSじゃなくてベータマックスだったので、ものによっては借りたくても借りられなくて。映画は、若い頃ほど、好きな作品を繰り返し観ていましたね。なんで、あんなに何回も観ていたのかというほどに。いまはネット配信があるので助かります。
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雀部
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映画もSFも何回も何回も見て読んでましたねぇ。絶対量が少なかったあのころの方が倖せだった気がするのは何故でしょう(笑)
「ミューズ叢書<1> 特集『妖怪探偵・百目』対談&インタビュー」は八杉さんとの対談形式で話が進んでいくのですが、作家の方と普通の読者では聞き所が違うのが新鮮でした。特に『妖怪探偵・百目』での播磨——八杉さんのおっしゃってた「めんどうくさいヤツ」(笑)——のキャラ・立ち位置の設定の必然性とかは「へぇ〜そうなんだ」と。
「小松左京自作を語る」(新潮社『SF魂』収録)で、『復活の日』と『日本アパッチ族』のインタビューを担当させてもらったのですが、そういう方面のお話も聞いておきたかったです。作家じゃないのでちょっとだけですが(汗;)
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上田
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小松先生は、小説の登場人物を「キャラクター」ではなく「人間」(哲学的な意味での)として描こうとした作家ですから、独自の規範はあっただろうと思います。そういう話をおうかがいできると、きっと楽しかったでしょうね。
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雀部
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たぶん小松先生は作品ごとにやり方が違うし短編と長編では当然違うのではないかと思ってます。それともそこらあたりのことは何にも考えずともひょいひょいとお話を紡ぎ出されていた可能性もありそうで。ま、コマケン全体の英知を結集しなければ全貌は掴めなかったとは思いますが。
今回もお忙しいところインタビューに応じていただきありがとうございました。
この《ミューズ叢書》は、上田ワールドのファンには当然お薦めなのですが、SFやファンタジー系の作家を目指している方達にも推薦できると思います。
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上田
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小説講座的なものというと、10月15日(土)に、大阪の創作サポートセンター主催の公開講座で、SF作家の堀晃先生と対談させて頂くことになりました。どなたでも参加できます(一般参加は有料です)ので、もし、よろしければご参加下さい。対談のタイトルは「SFの進化と深化」です。
「創作サポートセンター」小説講座の概要はこちらです。
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雀部
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おっと、それは楽しみですね>SF作家の堀晃先生と対談
それと、最新短編集『夢見る葦笛』出ましたね。
書き下ろしの「プテロス」驚きました。クラーク氏の「メデューサとの出会い」がお好きな人には大推薦出来ます。異生命体を描くには、短編だとこういう形式がベストなんでしょうね。長編だと『凍りついた空』のような形もとれるのでしょうが。
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上田
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「プテロス」や「氷波」は、自分でもとても好きなタイプの短編宇宙SFなんです。クラシックで懐かしい感じがする短編SFですよね。書くうえでは、あまり得意な分野じゃないので苦労するし、数多くは書けませんが。オーシャンクロニクル・シリーズのマイーシャ篇も、人工知性体と宇宙生物(人工生命)しか登場しませんので、あんな感じで進められればと考えています。ただ、人間が一切登場しないSFですから、どうやって面白くしようかと、いろいろ悩むわけですけれど。
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雀部
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個人的には「氷波」が一番好きなんです。広瀬氏が職業としている総合芸術家、この設定が面白いですね。土星のC環の波打ち現象を音楽にとか。『ヴァーミリオン・サンズ』がお好きなSFファンには大推薦ですね。究極的には、上田さんは総合芸術家を目指されているのではないだろうかとも感じました。
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上田
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私には総合的な才能はなくて、いろいろやってみたものの、小説だけがかろうじて突出したという感じですよ。でも、著名な作家さんの中には、小説執筆と同時に多彩な才能を持っている方が珍しくないでしょう。音楽とか絵画とか演劇とか。筒井康隆さん、北野勇作さん、田中啓文さん、津原泰水さん、西崎憲さん、菅浩江さん、町田康さん、等々。海外の作家でも、スティーヴン・キングはずっとロック・バンドを続けていますよね。自分にとって総合芸術家というのは、傍から仰ぎ見て「すごいなあ」と尊敬する存在であって、決して、自分のことではないんです。
でも、鑑賞する側にも、自分の好きなものや自分に影響を与えたものについて熱く語る楽しみはありますから、それで、この叢書に「ミューズ」という名前をつけました。ギリシャ神話に登場する芸術・芸能を司る女神(ミューズ。ムーサとも。九姉妹)からもらって。SF作家同士が対談すると、小説の話だけじゃなくて、映画とか他メディアの話もたくさん出てくるでしょう。だから、芸術・芸能全般にも言及している本ですよ、という意味で「ミューズ叢書」と。
10月発刊予定のミューズ叢書では、町井登志夫さんの『爆撃聖徳太子』(PHP文芸文庫)の特集本を出します。『爆撃聖徳太子』をテーマに、町井さんにインタビューをさせて頂いた本なんです。この作品、初版の刊行は2004年ですが、読者の口コミで、ずーっと人気が衰えていない(いまでも増刷がかかる)。これまで表に出てこなかった面白い話をたくさんうかがえましたので、楽しみにお待ち下さい。インタビューは私が担当しています。
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町井
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上田さんはわたしと年齢的にもとても近いし、どうやら映画の趣味も同じらしい。キューブリック映画では「2001年」が2番目に好きだというのも含めて。だからとても楽しい話でした。
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上田
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こちらこそ、今回、町井さんにはお世話になりました。とても楽しいインタビューでした。
ついでに予告しておくと、「町井登志夫インタビュー」は、町井さんとの企画の番外編でして、この先に、本番(エンターテインメント・創作全般に関する対談)がもう一冊控えております。次回のタイトルは「SF往復書簡」。ログがだいぶ溜まっているんですが、まだまだ話題が広がりそうなので、発刊は来年の予定です。
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雀部
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おっと、来年にもう一冊控えているのですね。それは、たいへん楽しみです。
キューブリックというと、ひょっとして一位は『時計じかけのオレンジ』でしょうか。あ、単に私も好きだというだけなんですけど(笑)
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町井
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おやおや、どうしてこう趣味が合うんでしょうか。キューブリック映画はみんな傑作ですが、大好きときたら間違いなく「オレンジ」でしょう。というかぼくの「ゴミマリア」を読めば「オレンジ」に影響受けまくりなのは明白すぎ。
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上田
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映画も漫画も、町井さんと私は趣味がよく似ているんですが(キューブリックでは「オレンジ」が好きというのも含めて)執筆する作品の形は全然違います。でも、どことなく似ている部分もあるような気がしますね。次回の「SF往復書簡」では、そのあたりの話を深めて参ります。楽しみにお待ち下さい。
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雀部
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上田先生、今回お忙しいところもインタビューに応じていただきありがとうございました。
その他のお話諸々については、《ミューズ叢書》でお楽しみ下さい。
それでは、引き続き町井先生へのインタビューをどうぞ。
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