収録作:
「機械の精神分析医」「機械か人か」「にせもの」「衝突」「シュムー」(以上、機械の精神分析医シリーズ)
「マカオ」「人事課長の死」「ノンバルとの会話」「魔天楼2.0」「ビブリオグラフィ」
収録作:
「二〇三八年から来た兵士」「渦」「汽笛」「水面」「ザ・ウォール」「五億年ピクニック」「消滅点」「梅田一丁目明石家書店の幽霊」「流れついたガラス」「あらかじめ定められた死」
収録作:
「猫の王」「円周率」「狩り」「血の味」「匣」「決定論」「罠」「時の養成所」「死の遊戯」
収録作:
「千の夢」「呪い」「瞳のなか」「遷移」「同僚」「シルクール」「瞑想」「抗老夢」「見えないファイル」「ファクトリー」「侵襲性」「陰謀論」
スマホ等で書影・粗筋が表示されない方は、こちらを見て下さい。収録作の簡単な粗筋もあります。
20周年・200号記念号の堀晃先生のインタビューの際に“岡本さんにはアニマ・ソラリスでインタビューしていただけませんか。特に書評と創作の両立には興味がありますからね。”とお伺いしていたのでチャンスをうかがっていたところ、岡本俊弥先生も編集に携われた『眉村卓の異世界通信』が上梓されたので、この機会にインタビューをお願いすることになりました。(『眉村卓の異世界通信』は、ブックレビューの方で紹介させて貰っています。)
岡本先生、初めましてよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願い致します。
創作については、まだえらそうに論じられる立場ではありませんが、お答えできる範囲でお話しできればと考えております。
ありがとうございます。
プロフィールを拝見すると、岡本先生が雑誌で書評を始められたのが「サスペンス・マガジン」(久保書店)で、SFレビュー欄「SFパトロール」を担当。これは数冊買った事があるのですが、残ってません。同じ久保書店の“QTブックス”は、何冊か本棚にありますが。
その次が「SF宝石」ということで、本棚の全冊を引っ張り出してきて「SF宝石特製・新刊チェックリスト」を読んでみました。目次を見ただけでも、当時の熱気が伝わってくるようで懐かしいです(岡本先生分は、Webでも読めるんですね)。
この当時は、どういうスタンスで書評をお書きになっていたのでしょうか?
「サスペンス・マガジン」をお買いになったことがあるのですか、うーん。レビュー欄はまともでしたけど、先々使わないペンネームで書くよう勧められました、そんな雑誌です。
間違えて「SMマガジン」を買ったことはあります(笑) 『SF挿絵画家の時代』にも「SFマガジン」と「SMマガジン」を取り違える話が紹介されてましたし。
まあ『サスペンス・マガジン』を数冊買ったのは確信犯なんですけどね(汗;)
その頃(1974年)ははじめて書評を書くというので、SFマガジンなどの石川喬司さんや伊藤典夫さんの文章を研究して書きました。いわゆる評論ではなくレビュー、読者視点に立って分かりやすく書くという姿勢が無意識でも学べたと思います。
「SF宝石」(1979年)の頃になると、すでに大学のSF研などで記事を書いていましたから、ある程度こなれていたと思います。「新刊チェックリスト」は当時出ていたSFと思われる本「全部」をレビューするという画期的な企画でした。
大学在学時から商業誌に書評を書かれていたのは凄いですね。
「SF宝石」では、紹介されている本が多くて、とても全部は追い切れませんでした。
評者紹介が“(典)=伊藤典夫。(鏡)=鏡明。(安)=安田均。(昭)=伊藤昭。(紀)=大野万紀。(俊)=岡本俊弥。”としか書いてなくて、今のようにググることも出来ないので、どういう人かわからないけど書いてあることは的確なのでプロの人なんだろうなぁとは思ってました(汗;) 伊藤昭さんと大野万紀さんもです。すみません(汗;;)
伊藤典夫さんは重鎮、鏡明、安田均といった方々はすでに実績のあるプロでした。それ以外は、まだあまり知られていない若手が欲しいということで選ばれたようです。
そのお三方はさすがに存じ上げてました(汗;)
大野万紀さんのお名前が「ヴォンダ・"マッキンタイア"」からとられたというのも「SF宝石」で知った気がします。
評者がレビューする本の割り振りはどうやって決められていたのでしょうか。
初期のころは、伊藤典夫さんが割り振りを決めていたと思います。書き手の特性に合わせるわけですが、いまいちそうなものは若手にやらせろとかもあって、結構困ったことも。まあ修行ですね。
修行ですか(笑)
「SF宝石」がなくなって「SFアドベンチャー」にそのままの陣容で移動されるんですが、レビューのスタイルが変化してきてますよね。一番の要因は何だったのでしょうか?
最初の1981年の間は、まったく同じだったはずです。「SF宝石」時代の、著者を交えた鼎談部分がなくなっただけですね。別の雑誌のコラムを同じスタイルで載せるというのは異例のことで、伊藤典夫さんがこだわったと聞いています。翌年から、注目作の1~2ページ書評が載るスタイルになりました。
そうそう、長い書評が載るようになったのは途中からなんですね。伊藤さんの「SFスキャナー」(SFマガジン掲載)は、海外SFの紹介そのものが面白くて、読んでないのに読んだ気になるので困るという。岡本さんの書評は、読むとこれは買っておかないといけない気になって、やはり困って、結局購入してしまうという(笑)
ありがとうございます。伊藤さんの「SFスキャナー」は1970年までなので、だいぶ時代は違います。ただ、そういうスタイルが「チェックリスト」に引き継がれたということはあるでしょう。読者に面白さが伝わったのなら、書き手として嬉しいですね。「チェックリスト」がプロから一目置かれているとは理解していましたが、一般読者の声となるとなかなか聞こえてきませんでしたからね。
プロから評価されていたってのは、凄いですね。
この頃は創作活動はされていたのでしょうか。
評価はグループとしてですね。伊藤さんが主催するのだし、既存のメンバーはすでに評価がある。新顔も、それなりに書けるのだろうと思われたのでしょう。
創作については断片的に書いたものがあったくらいで、ほとんどしていません。毎月のレビューと本業とで、あまり余裕がなかったこともあります。それ以上に小説のトレンドが変化していく状況もあり、自分は何を書くべきかに迷いが大きかったのでしょうね。
ということは、最近になって創作活動を再開されたということは、時間的な余裕が出来たことと、書くべき目標が定まったということでしょうか。
時間的余裕については確かにそうです。職責も一気に軽くなって、自分だけの範囲に縮小しましたしね。わたしの作品にもよく出てくる、ヒマを持てあます中高年の登場人物たちというのは、わたしや元同僚たちがモデルです。そこは自営業とはだいぶ違うでしょう。
創作の目標ですが、目標が定まったというより、いまなら昔より文章もそこそこ書けるようになっているし、小説もさんざん読んできたから書けるはずだ、と思ったんでしょうね。
自営業はいつ辞めるかを自分で決められるという利点はありますが、反面いつまでたっても自由時間と職務時間の境目が曖昧で(汗;)
本業のかたわら、毎月あれだけのレビューを書かれるのは大変だったと思います。家庭生活もありますし。私も一時期(1994-2000)、年間50~70冊くらいの簡単な感想文を書いて、ハードSF研公報に投稿していたことがあります。2000年からアニマ・ソラリスに関わるようになってからは、能力的に難しくなって(汗;)
現在も変わらないペースでレビュー記事を書かれているのは本当に頭が下がります。
これだけ多くの本を読みレビューを書かれてきたわけですが、そのことが創作活動にどんな影響を及ぼしたと思われますか。
レビューは、自分の価値観で作品を肯定したり批判するわけです。ただ、作品自体の客観的価値と、主観との違いを明快に分けて書かないと説得力が出ない。そういうスタイルが創作にも表われているかもしれませんね。
短いレビューの枠内で、説得力を出すにはそれなりの技術――もちろん読解力も――が必要ですし時間もかかると思います。個人的にとても興味があるのですが、レビューと創作に割かれている時間はどれくらいなのでしょうか?
どこに書くかでかける時間は変わります。外部から依頼を受けたものだと、本の再読や資料の確認などが必要になりますから、枚数によっては1週間ほどかかりますし、感想主体のblogだと数時間くらいでしょうか。創作はわたしの場合、締め切りはあっても書く書かないは自由ですから、40枚前後の短篇1つで2~3週間くらいかな。まるまる1ヶ月かかるものもあります。でも、その間ずっと机の前でかかりきってはいませんからね。
やはり相当時間をおかけになっているんですね。言うのも恥ずかしいですが、私なんかいつも、やる気が出るスイッチを生み出すスイッチを探しています(汗;)
短編を書くモチベーションはどうやって出されているのでしょうか。それとも、書くことは楽しいから、そんなことは考えたことが無いとかでしょうか。
書くのが楽しいかというと、それは専業のプロの方も含めて、自由業の作家や評論家は楽しいから書いているわけですね。金銭面だけを考えるなら、効率的な仕事は他にいくらでもあるでしょう。
ただし、楽しいからといって、いつもすいすい書けるわけでもありません。わたしの場合、書いた作品に対する反響が乏しくて、そういう面でのモチベーションは上がりませんね。KindleやPODなどでは、紙版に比べて多数売れるわけではないので、読者のレスポンスが少ないのです。
ということで、読者の皆様、読後の感想がありましたら、ぜひご連絡を下さいませ。
よろしくお願いします。
先日、セキュリティ機器のセンサーの故障(?)で、真夜中にバタバタした身としては、「機械の精神分析医」に分析をお願いしたいと思いました。赤外線センサーのみ搭載の単機能機なので、イベントが起きた時間しかわかりませんし。
この短編集が、事故機に使われたあまりセンサを持たないIoTボルトから始まるのは何か象徴的ですね。あと「機械の“精神”分析医」という題名。言い得て妙だと思いましたが、機械にはいわゆる“精神”は無いにも関わらず敢えてつけられた狙いは何だったのでしょうか。
センサだと、感知したか/しなかったか、しかイベントがありませんからね。異常か異常でないかは、感知のパターンで決めているわけです。
今あるAIも学習内容がコーディングされているわけではありません。パターン認識的に学習するわけですね。そうなると、なぜこういう動作をしたのかを知るためには、ソフトウェアのソースコードを読むプログラマではなく、人間の精神分析医のように外部から診断する仕事が重要になる。
それと、わたしが注目するのは「精神」とは何かです。もしかすると人間の精神というのは、AIが機械学習したパターンの集合体と同じなのではないか、われわれが考えるほど崇高な精神などないのではないか、そういう発想が出発点ですね。
(ネタバレなので、以下白いフォントで隠します)
「機械か人か」からもそういう発想が感じられました。人間の時間に換算して、10分間だけ生きる機械知性、存在自体が怖いです。人間も、超速のPCプログラム上で、ある10分間のシミュレーションを延々と繰り返しているだけの存在かも知れないし。
この宇宙そのものが計算機のシミュレーションにすぎないという「シミュレーション仮説」がありますからね。わたしの作品はその1つのバリエーションになりますが、そろそろ計算リソースが生物の物理シミュレーションまで届きそうだという現実が背景にあります。まだ分子レベルですけどね。
もうそんなところまで来ているんですね。>分子レベルのシミュレーション
「腸は第二の脳」とか「皮膚は第三の脳」とか言われていますが、そういう感覚もシミュレーション出来るようになるんでしょうか?「腹が減っては戦が出来ぬ」感覚とか「愛情」とかも。
分子ができれば次は細胞、組織、臓器となっていくわけでね。医薬品業界にニーズがあるので、これからも急速に進むでしょう。ただ、おっしゃっているような感覚が、どのように生まれるのかは分かっていないので、シミュレーションのスケールを上げていったある段階で生じるものかも知れません。
以前の著者インタビューで、宇宙船に積んでいるコンピュータ内で、多くの人間の意識をロードしておく時、いかにリソースを節約するかという話が出て「風呂に入って目を閉じて、好きな球団の試合のラジオ放送を聞く」状況はどうでしょうと聞いたら、「バカになるからダメ(笑)」的なことを言われました(汗;)
こういう、使わないと処理能力が落ちる機能とかも実装できたら、より人間らしくなる気がするのですが、どんなもんでしょうか?
ロードされた人間がもしほんとうの人間と完全に同じものなら、たしかにリアルの人間と同じ環境に置かないと落ち着かないでしょうね。風呂に入ったり、散歩したりとかもしないといけない。ただし、人間がリラックスしているからといって、シミュレーションをするリソースが少なくて良いとはいえません。リラックス=ニューロンが活性化されないという根拠があるとしても、リラックスに関係する大脳部分のニューロンは脳全体の2割しかないんですよ。大半は脳幹や小脳など無意識側にある。それを無視してリソースを下げるとなると、恣意的なものになってしまう。つまり、その段階でほんとうの意識と異なるものになると思います。
無意識側は、万人共通規格にしてOSにしてしまうとか。すいません、脱線です(汗;)
「衝突」も問題作で、色々考えさせられました。AIによる自動運転のドローン同士の衝突事故の話ですが、AIが「トロッコ問題」をどう解くかと、その判断基準となる機械学習の問題点を鋭くえぐってます。
ちょっと世論調査の問題点にも通ずるところがありますね。母集団の取り方次第で、調査結果はいかようにも出来るという、「統計で嘘をつく」世界。
そうですね。「トロッコ問題」など倫理に踏み込んだ問題は世論に左右されます。AIは正直なので、そのときどきの人間の倫理観を無批判に反映してしまう。ただ、今の時代の判断が将来も正しいとは限らない。それは嘘というより、真実がない世界だと思いますよ。
絶対的な正義とか、絶対的な善悪は無いというのは、SFファンが最初に学んで衝撃を受けますよね。というか衝撃を受けてSFファンになるというか(笑)
私がそういう面で最初に衝撃を受けたSFは、シェクリイの『怪物』。妻は沢山居るのでどんどん殺してしまっても良いという価値観の相違。
岡本さんにはそういった衝撃を受けた作品はあるでしょうか。
価値観をひっくり返すという意味なら、最初にSFと接したころは、物語の設定自体が現実の価値観をひっくり返すものでしたね。『重力への挑戦』(『重力の使命』)の超重力惑星メスクリンとかね。今ではありふれているものでも、当時はそう感じました。ただ倫理観という観点では、性風俗、政治や宗教まではあっても、今日的な人権的な見方は時代相応というものだったと思います。
あ、『重力への挑戦』は、もう大変好きな作品で、新しいSF本が手に入らないときは何回でも読み返しました。あの当時のハードSFの古典的名作ですよね。高校生の頃、20回くらいは読んだかも。『重力への挑戦』に関して言えば、良くも悪くも、メスクリン人はなんであんなにヤンキー(アメリカ人)気質丸出しなんだろうとは少し感じてました(笑)
そう言えば、ロボット三原則は出てこないものの、主人公の楳木匠は、どうしてもスーザン・キャルヴィン博士を連想します。アシモフ氏の一連の作品はお好きだったのでしょうか?
わたしの世代は、大学に入る前後にニューウェーヴの波がきて、アシモフが好きとかいうと水鏡子に鼻で笑われた時代です。アシモフは人物も物語も型にはまっていて、奥行きがない作家の典型と思っていました。《ファウンデーション》がリバイバルしたように、いま読めばフォーミュラーなりの面白さ、良さは感じられますから、一概に否定はできませんがね。でも、わたしの作品に出てくる楳木は、位置的にはキャルヴィン博士のAI版と見るのが分かりやすいでしょう。ただし、彼は科学者ではなく技術者ですから、解決方法も異なります。
謎解きの面白さという点では共通項があると思います。アシモフのロボットものがお好きな方や、ミステリファンの方が読んでも面白いと思いますね。
ニューウェーブが隆盛になった当時は私も大学生でした。SFマガジンで特集があったり、バラードやエリスンもわりと好きで読んでましたが、アシモフ、クラーク、ハインラインも変わらず好きでした。SFファン活動をしてなかったので、笑われることもなかった(笑)。スペオペも好きだったし、問題意識も無かった(汗;)。大学でロックアウト、機動隊導入はありましたが(汗;;)
大学生の頃、既にネオ・ヌル(筒井康隆先生主催)の編集という大役を任されてたのは、本当に凄いですね。その後の人生に影響したとかはおありでしょうか?
わたしの時分には、安田講堂攻防戦とかはもう過去の話になっていました。雀部さんより数年あとの世代になります。ネオヌルの編集は実力で任されたのではなく、たまたまその場にいただけですよ。サンデル先生もおっしゃるように、世の中は偶然のたまものだと思います。
当時は作家もファンも若くて距離も近く、いろんな交流がありました。人生に影響したのか、とまで言われると答えにくいですが、専業ではないのにレビューや小説を書き続けているのは、それなりの影響があったせいかもしれません。
笑犬楼さま(筒井康隆先生)の身近で編集をされていて、影響を受けないわけがないと思います(笑) なんとも、うらやましい限りですね。
「機械の精神分析医」が一番好きな作品なのですが、軍事用無人機に使われたインテリジェント・ボルトの異常の分析依頼ですね。また軍用機ということで他の部材(IoT)を同時に調べられない中、どう推理していくかが読みどころだと思います。
(ネタバレにつき白いフォントで)
以下、“この事件はフィクション汚染の最初の事例として登録されている”と文中に書かれているので、まあ違う世界の推理なのですが(汗;)
他の作品でも度々出てくるのが「学習していく際に、機械はリアルとフィクションの区別が付かない」という文言。これは同じようにBATである楳木が、IoTのストレージの情報にアクセスする時、比較対象が無いとストレージ内の実際のデータと捏造されたデータの区別が付かないことにも通じているのではないでしょうか。もし軍用機に使われたIoTの製造元に急戦的平和主義者とかテロリストが紛れ込んでいて(東端金属工業の可能性もありますが)、表面的な偽装として「母親と息子の童話と酷薄な笑みを浮かべる少女」を仕込んだとすれば……
実機による再試験をしてなさそうな七津星重工が、次なる事故に巻き込まれるのは必然ですね。
これをテロに結びつけるのはどうでしょうね。わたしが書きたいのはそういう人間同士の政治的な軋轢ではなくて、人間と機械との違いや似ているところです。リアルとフィクションの違いも、人間は社会環境の中で見ているから分かるだけで、同一の環境にない機械では区別のしようがない。同じことはSNS上のデマに騙される人間にもいえます。人間でもSNSしか見ていないと「ほんとう」と「にせもの」の区別が付かなくなるんですよ。
あ、やはり違うんですね(汗;)
“SNSしか見ていないと「ほんとう」と「にせもの」の区別が付かなくなる”とおっしゃるのは良くわかります。ある程度の知識が無いと、ネット情報の正誤の区別は難しいし、ある状況において本当に必要な情報の取捨選択はさらに困難と思われます。
この「機械の精神分析医」シリーズ、本当に良く出来ていて面白いので、「死の遊戯」以外に続編をぜひお願いします。とくに「機械の精神分析医」になる前日譚とか最初の案件とか希望です。
専門家でも情報を間違うことはあるので、知識も取得するだけではだめなわけです。AIのGPTとかに負けない真偽判定が求められますね。シリーズをご評価いただき、ありがとうございます。引き続き書いていきたいと思います。
ぜひぜひお願いいたします。
GPTというと、最新版が"GPT-3(Generative Pre-Training-3)"とかいうOpenAIが開発している言語モデルですよね。人工知能学会には参加されていらっしゃるのでしょうか?
学会には参加していません。論文発表を(たぶん)しない学会員というのも気が引けますから。
書かれている題材から想像して、参加してらっしゃると勝手に思い込んでました(汗;)
現在求められている人工知能は一足飛びに人間以上の存在で、人間にできないことを代わりにやってもらおうということを主眼にしてる傾向があり、主観を持った人工知能が創れないというより、機能としてそぐわないのでその方向には研究が進まないのではないかというSF作家(八杉将司先生)側からの意見がありますが、どう思われますか。
(主観機能を持った人工知能を創ろうとするなら、よほど世の中が必要としていない、何の役に立つのかまるでわからない、無駄と思われそうな方向に研究を進めていけば、もしかしたら主観を持った人工知能は生まれるのではないか?)
主観とは何かですね。特別に「主観を持ったAI」を作らなくても、たとえばGPT-3を使うと、人と会話する(ソフト的)ロボットとか、絵を描いたり文書を書くロボットは割合簡単にできてしまいます。チューリングテストぐらいなら通りそうですよね。人と見分けが付かないものです。それが主観を持つことになるのか。もしそれは主観ではないとすると、われわれの考えている主観とはいったい何かですよ。わたしと雀部さんがお話ししているとき、双方が相手はAIではないとどうやって証明できるのか。このあたりの議論は工学というより哲学になってしまいます。
まさに(汗;)
ぶっちゃけた話、超AIに主観があるかどうかより、現在切実に求められているのは、地球的厄災の解決役としてのAIだと個人的には思っています。
戦争、流行病、環境破壊、異常気象等々を解決できる方法があれば、指し示して欲しい。
そういう方面への研究は進んでいるのでしょうか。
まあ、それを人間が受け入れるかどうかはまた別の問題ですが……
ワクチン開発などはうってつけのテーマでしょうね。人の気づかない解決策を探してくれるでしょう。
政治についてもAIに任せたほうが良くなるという研究があります。常に国民の動向が把握できるのなら、最適な政策が選択できるのかもしれない。政治的な裏取引や賄賂などの不正も起こりません。
でも、おっしゃるとおり、それを人が受け入れるかどうかです。何しろ人間は合理的な生き物ではありません。具体的な被害がなくても、「何となく怖い」「プライバシーを盗まれる」と拒絶してしまうでしょう。映画でも、機械知性や異星人や、あるいは欧米以外の価値観を持つ国ですら悪役になるのですが、これは理解できないもの=悪とする恐怖心があるからですね。
難しい問題ですよね。
そこで、地球とは違った環境・人間とは違う知的生命体・人間に理解できないものを題材として扱うSFの出番ではないでしょうか(笑)