やむなき妥協策から観光都市と化した近未来のチベット。そこには世界最大級の仏教学院(ラルンガル・ゴンパ)があり、赤い無数の僧房が山の斜面を埋めつくしている。そこでは、一万人以上の学員が暮らし、仏教を学んでいる。14歳の少年僧ペーマは、同地を襲った大火で左手を失って以来、どこか周囲から隔絶された感覚を抱いていた。その欠落を埋めるように、彼はひそかにダンス教室に通い、貸与された「羅刹女」のアバターを身にまとってストリートで踊り続けていた。ある日、そのアバターのライセンスを返さなくてはならない事態が起こり、彼はやむなく僧院主催のダンスオーディションに参加し、その使用権利を取り戻そうとするが……。
「大学六年生。密造酒、泥酔オセロ、」(榛見あきる著)
超少子高齢化と教育機関の衰退によって貴重な守るべき“資源”となった子どもたち。高校5年、大学8年、28歳まで延長された就学期間。まだ学生たる身分の竹柴カスミが酒をおおっぴらに飲めるのは祭事の時だけと学則で定められていた。学則の不備を突き酒の密造を始めたカスミたちと、それを阻止しようとする学生自治会書記長のバトルが始まる。
「ヲタロポリス・クライシス―同人誌ブルース―」(榛見あきる著)
メガフロート“浮上都市ヲタロポリス”、そこは独自の法体系を持つヲタクの都市(ポリス)。そこでは二次創作をかけてヲタク警察とヲタクマフィアが争っていた。ヲタク警察の元刑事で現在は探偵稼業のジローは、新米の時先輩だったキリコ刑事に捜査の協力を依頼される……。
『SCI-FIRE 2021』『5G 接続されたSF誌』の収録作その他は別ファイルに
今月は、第4回ゲンロンSF新人賞を「踊るつまさきと虹の都市」で受賞された榛見あきる先生に著者インタビューをお願いできることになりました。
榛見先生、受賞おめでとうございます。よろしくお願いします。
お祝いの言葉ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いいたします。
講評と授賞式の様子をネット配信で拝見しました。なんと誕生日の受賞ということで、運命的なことをちょっとお考えになったのではないでしょうか。
最終講評の日程を見た時に変な笑いが出たことを覚えています(笑)
当初の予定というか、第3期までのゲンロンSF創作講座の最終講評は3月から5月の間に行われていて、第4期でも最初に提示されていたスケジュールはそれを踏襲したものでした。
ですが、同タイミングで最初の緊急事態宣言がなされ、最終講評日が何度か変更された結果あの日程だったので本当に驚きましたね。
いま思い返すとあの発言はけっこう恥ずかしいですね……
嬉しい驚きと初々しさが出てて、微笑ましかったですよ。
『虹霓のかたがわ』(「踊るつまさきと虹の都市」改題)の改稿、相当ご苦労されたのでしょうか。もの凄く読みやすく、物語世界に入りきることが出来ました。
読みやすくなっていれば何よりです。リーダビリティに関してもそうですし、馴染みのない場所へ読者を招くための修正をずっとやっていました。
こういった改稿に関して率直に言えばむちゃくちゃ苦労しました。けれどそれは、初めて編集者の方と校正・改稿を行う新人作家は必ず通るような苦労のはずで、おそらく第一回の受賞者である高木ケイさんから、第三回の受賞者である琴柱遥さんまで、皆さん同じように苦労されたのだと思います。それを考えれば、僕個人としてはかなり大変だったのですが、おそらく皆さんよりは多少楽だったような気はします。
チベット文化や言葉のチェックを、東京外国語大学の星泉先生にご助力いただけたというのがとても大きかったです。受賞後の会場ですぐゲンロン様に「どなたか監修を付けていただきたい」という旨のお話はしていたのですが、まさか参考資料として触れていた諸本の訳者であり著者にお願いできるとは思ってもみませんでした。
星泉先生の解説はもの凄く良かったです。小説が内包している確かな力に気づかせてもらいました。
読む前と後では、『虹霓のかたがわ』から受ける印象が相当違いますね。本質は変わらないけど、サイヤ人とスーパーサイヤ人くらい受けるパワーが違う(笑)
それはもう星泉先生ご本人のパワーですね(笑)
実はご縁があって、星泉先生と挿画を担当して下さった蔵西先生とにお会いする機会があったのですが、お二人ともとてもアクティブでコミュ力も爆発していて、活力に満ちていました。お二人とも当然ながら、何度もチベットに足を運んでいるかたで、流石のパワーだ……と驚嘆しましたね。
なるほど。装画と解説に納得できるのはそうしたパワーも込められているんですね。
最近、映画『クンドゥン』を見ました。それと『セブン・イヤーズ・イン・チベット』も重ね合わせるとチベットは、中々難しい状況にあるということがよく分かりました。
SF創作講座の第一回のテーマ「「100年後の未来」の物語を書いてください」での実作「ブルーだけでは足りなくて(原題:エレクトりシティ・ストりーム)」は、「素服(ルート・ドレス)」とか出てくる、情報のほとんどが配信(ストリーム)されている未来の女子高生の話なんですが、攻殻の光学迷彩じゃんと思ったのは内緒です(笑)
『虹霓のかたがわ』にも情報外套が出てくるし、たぶんお好きなSF系ガジェットですよね。最初は、女子高生が活躍する攻殻的アクション物かと思ったら少し違いました。榛見先生は、冲方先生と山口優先生がお好きとか書かれているのを見たことがあったので、そっちの路線なのかなと。山口先生の著者インタビューで取り上げた本は全部美少女が主人公だったし(笑)
実は第一回の実作でやろうとしていたことは、まさに雀部さんがおっしゃるとおり“攻殻機動隊の世界で下着泥棒”だったんですよ。これは冲方先生と神山監督の2006年の対談で、社会とキャラクター(ひいては物語)をつなげることの重要性のお話をされていたんですが、その中で神山監督が「たとえばですけど小学校が出てきただけで、あの世界は一発で崩壊するんですよ(笑)」といってまして。なるほどじゃあ逆に「攻殻機動隊にないものを、攻殻機動隊で書けば新しいのではないか」ということで“下着泥棒”と。でも、今考えると原作の攻殻機動隊っぽいですよね。
わはは。確かに>小学校が出てきただけで、あの世界は一発で崩壊
洋服をガジェット化するのは色々な作品の影響があって、『CLOTH ROAD』が一番大きいです。簡単にいうと、服やファッションショーをモチーフとした青年向けバトル漫画で、服が変形して武器になったり移動の道具になったりして戦う。そして敵の集団は人体改造をされて服と人体が一体化している。結構破天荒なんですが、たしかに、人間が自己を認識するときって大概服を来た自分をイメージすると思うんですよ、それを考えると人間が自己の能力を拡張するのならまず最初に服を何とかするだろう、っていう考え方が自然に思えたんですね。
服が主役というと、『カエアンの聖衣』からの《キルラキル》シリーズくらいしか知らなかったです。『CLOTH ROAD』を探してみると“ヤングジャンプコミックス”とあるのに覚えが無い(ヤンジャンはもう何十年も定期購読^^;)。読んでみると、「ウルトラジャンプ」誌連載だったんですね。“服は着せるものじゃなく相手を包むもの”というのは名言かも。
加えるなら《シュピーゲルシリーズ》でしょうか。こちらは人手不足を補うために児童の労働が許可された超少子高齢化の世界で、身体に障害を負った少女たちが機械の手足を与えられ公安・警察組織の職に就き、戦闘時には手足を武器と同化したものへ“転送・置換”させて戦うライトノベルなんですが、服や身体をストリーミングする、っていう考え方のルーツをたどれば、僕にとってはおそらくこの作品が祖ですね。
冲方先生と山口先生はめちゃくちゃ好きですね。ただ、お二人ともそれぞれの路線にはもうお二人がいるので……
《シュピーゲルシリーズ》も冲方先生作で面白いです。途中から追い切れてなかったんですけど、あんな大団円を迎えていたとは(汗;) 冲方先生で、面白くないわけがない。
ところどころで言ってはいるんですが、僕は自分が読みたい作品が少ないから自分で書いている、というのがモチベーションの大部分を占めているのでもう僕にとって十分な供給があるものはあまり書かない(書けない)かもしれません。
そうなんですね、冲方先生・山口先生の路線は大好きだけど既に十分供給があるからと(笑)
もうひとつ思ったのは、これは最近よく聞くようになった“シスターフッド”ものも意識されていたのでしょうか?
そうですね、じつはそれは個人的にすごく複雑な思いがあるんですよ。
僕のように「今はコンテンツを追いきれずヲタクと自称することも出来なくなったかつてヲタクだった人間」にとって、“美少女”という概念は性別を超越したものなんですよ。
簡単に言うと「“カワイイ”を中心とした人間愛の一側面の象徴」みたいなものなんですが、その中心概念である“カワイイ”を戦後からゼロ年代付近まで担ってきたのは主に少女という存在だったので、いまでも美“少女”というふうに女性性を付与された言い方がなされている。すると、その“美少女”同士のパートナーシップを描いたものが、女性性の側面に引っ張られて、“シスターフッド”や百合と称されたりもする。
むろんそれは“シスターフッド”や百合と呼ばれるものに含まれるかもしれないのですが、僕はそれらの作品を意識して観てきたわけではないので、百合や“シスターフッド”の真髄的ななにかを体感しているわけではない。
そう考えると、僕が書く百合と思しきものは、おそらく百合の本質を貫いたものではないはずなんです。
もちろん作品のキャッチーさを強調したかったり、ここまで言葉を尽くすことが許されていないメディアであれば、上記の情報をすべてまるっとカットして「百合です」と嘯くこともあります。ですが、より精緻に言語化が許されるなら、僕は百合や“シスターフッド”を意識的に書いたことはない。
なので、意識していたのは、「『“カワイイ”を中心とした人間愛の一側面の象徴』同士による相互補完のパートナーシップ」です。
“僕のように「今はコンテンツを追いきれずヲタクと自称することも出来なくなったかつてヲタクだった人間」”と立ち位置を明確にされているのでわかりやすいです。
実験心理学者の入戸野宏先生の書かれた『「かわいい」のちから――実験で探るその心理』によると、“「 かわいい」は、人やモノの属性ではなく、人やモノに接したときに私たちの中で生じる感情である。”みたいですし。
この実作の登場人物たちの名前が、「萸き雛(ゆきひな)」や「流り烏(るりか)」という漢字カナ交じりになっているのは、数少ない『所有』である下着と同じく、個人名にこだわり抜いた結果だと読んだのですがどうでしょう。現在のキラキラネームの進化形?
「100年後」というオーダーに応えたつもりになっていた部分ですね。日本語の中で命名のモードは変わると思うのですが、それにしてもやり方が良くなかった。講座では東京創元社の小浜さんに原題含め校正と編集が苦労するからやめなさいとたしなめられました。『know』に出てくる「知ル」や「連レル」のような名前のさらに変形させたものをイメージしてたと思います。
残された数少ない「所有」としての名前、とまでは考えていませんでした(汗)
命名は基本的に与えられるものだからですね。少なくとも今の僕たちの本名というか戸籍上の名前はほどんとが両親や親族によって与えられたもので、それを所有と解釈すると本人は所有“される”ものになってしまう。あのお話は、少女たちが大人からなんか大切っぽいもの(自分の意志とか、未来の権利とか、下着とか)を取り返すのを主題として書いたので、そうすると名前まで取り返さなきゃいけなくなる。
本当はそこまで書けたらよかったんですが、それ以前の部分で書ききれていないので、次は名前まで取り返すような話もいいですね(笑)
それは、なかなか深い話です。単純に親御さんが、名前だけでもありきたりではないものにしてやろうという意図でつけたのかと思ったので。100年後だから、自分で好きな名前にできるというのもありかな。
第8回のテーマ「ファースト・コンタクト(最初の接触)」での実作は「無何有の位(むかうのくらい)」でした。
これも面白かったのですが、三蔵法師が悟空・猪八戒・沙悟浄とともに、数学(商売?)の世界で悪鬼と闘い、最終的にゼロの概念にたどり着き、それをブラフマグプタという天文台長に伝えたというバージョンも読んでみたいです(汗;)
計算可能な数字としてのゼロの発見を動かすのは難しいかもしれませんが、三蔵一行の数学勝負話はいくつかネタがあるので、いつか機会があったら書いてみたいですね。西遊記モチーフなので、元ネタとなりうる話は沢山ストックがあるし、そこに対して帳簿や税や株の話を仕込んでいけば、西遊記の新しいバリエーションとして面白くなると思います。
ひたすら数学~金融工学までの勉強が辛そうですが……
数学~金融工学分野で頭角を現す三蔵法師って、かなりユニークでしょう!
「ブルーだけでは足りなくて」は闘いながら会社を設立しちゃうし、「無何有の位」は商売の話で、『虹霓のかたがわ』にも金儲けの話が出てきますから、そういう経験がおありなんだろうなと思ってました。
いえ、まったくありません。毎回苦しい思いをしながら書いてます(汗)
カネというか、法や経済などの個人の善悪を超えた場所で動く(と信じられている)巨大なシステムが、人間の善悪と噛み合って動いていくさまが好きなのでついそういうモノを書いてしまいますね。
なんと全くないんですか。ううむです。
『虹霓のかたがわ』を何度か読み返してみて、面白い要素は色々詰まってますが、やはり一番は舞踏(ダンス)シーンだと感じました。読むと、好きな歌手のライブとか劇団の舞台を見た際の一体感に繋がるものを感じることが出来るんです。
そこで、お聞きしたいのですがライブとか観劇はお好きなのでしょうか。お好きな、もしくは思い入れのある歌手・劇団・踊り手がありましたらご紹介下さい。
ありがたいお言葉です。一番参考になったのは山岸凉子先生の『アラベスク』でしょうか。これはゲンロンSF創作講座の新人賞前の講座で、梗概を提出したときに大森先生がオススメして下さったバレエ漫画で、ダンスの踊り手の雰囲気を掴むために重宝しました。流石の慧眼です。
ぎゃ! 『アラベスク』とは。私らの世代のSFファンでは、基礎教養です。ちょっと話題にしようかとも思ったのですが、世代が違うのでご存じないだろうなと思ってました。
それではと読み返してみると、それらしいところが数カ所。一番は“『白鳥の湖』、黒鳥のグラン・フェッテ。合計三十二回の回転を、完璧にこなせる生身の人間は多くないって”。なんで、ここで気づかなかったんだろ(汗;;)
ええ、バレエに関する認識はとても参考になりました。また作品の中で語られていたテーマの一つにバレエ――より広くは歴史あるダンスや演劇に通ずるすべて――の“型”と個性の相剋みたいなものもあり、あらためて思い返してみても影響は大きかったのだなと思います。
で、ここで歌手や劇団や踊り手が出てこないあたりでお察しなのですが、実はライブも観劇もあまり親しんだものではないんです……
劇団も踊り手もほとんどなじみがない……
好きな歌手はいますが本作を書いている最中にはあまり意識はしていませんでした。ダンスのシーンに関しては、YouTubeでプロのバレリーナの方が公開されている動画を参考に、自分の体を無理やり動かして書いたりしていました。腕を振るだけでも血液が動く感覚がわかった気がするので、実践は大事なのだなと思いましたね。
書き終わった後に筋肉痛と関節痛がひどかったので、あまり繰り返したくはないですが……
わはは(笑) 実際に身体を動かして確かめたのですね。
ということは、あれだけ見事にダンスシーンを描くことが出来たのは想像力の賜物というわけですね。実際には経験したことが無い(もしくは経験できない)ことを書くことを要求されるSF作家にとって、素晴らしい資質だと思います。
リアリティの問題は難しいですよね。一つの実体験の延長線上で、可能であるかのように読者に提示する必要がある。体験できるに越したことは無いけれど、それだけが全てでもない。上手く類例を引っ張ってきてつなげてなんとかしているような感じはあります。
あと伏線というか重要なモチーフとして『拡張身体』と『生得主義』がありますが、「仮面舞踏のオーディション」でのペーマの舞(チャム)が主として『拡張身体』で、オーディションの最終審査での舞(チャム)が『生得主義』に対応しているように感じました。
書いていた時にその二つを分けて考えていたことはあまりなくて、作中でも言っている通り対の概念だと思っています。なので、片方の側面を場面で強調したかったというような作者の意図はあまりないですね。
むしろ「拡張身体≒生得主義」の諸側面を、章ごとに分けて書いたつもりでした。2章では社会的な側面、3章では文化的な側面、4章では経済的な側面、という感じで。
なるほど、そういう区分けだったのですね。思い至らなかったです(汗;)
“神々や文化に、衝突判定は存在しないから。それらはもともと、共有権利だから。”とは確かに理想ではあるのですが、それが主因となって争いごとが勃発している昨今を顧みて、若きペーマの思いは難しいだろうなと感じたのですが……
「踊るつまさきと虹の都市」には無かった、改稿にあたっておそらく最も苦吟されたであろうラストのシーンが付け加えられたことで、『拡張身体』と『生得主義』の統合というか、全人類が踊ることによって一体感を得られる可能性を呈示したことで、SF的にも最高の歌い上げた結末になったと思います。
そう言っていただけると嬉しいです。
とはいえ僕も、ペーマの理想が実現可能なものなのか(それが理念として正しいのかは別問題として)に関しては難しいと思っています。
あの世界観の中で、ラストシーンで辿りついた文字通りの「場所」だからこそ、絵空事ではない現実として踊ることができたものであって、それがより開かれた場所、広い世界で踊れるかどうか、踊る場合にどんな障害や反発があるか、考えると苦しくなりますね。
むぅ、そうですね。14歳のペーマ君の将来が開けんことを祈ります。
『虹霓のかたがわ』と「大学六年生。密造酒、泥酔オセロ、」(「SCI-FIRE 2021 特集:アルコール」所載)、「ヲタロポリス・クライシス―同人誌ブルース―」(「5G 接続されたSF誌」所載)と読ませていただいて、視覚メディアとの親和性が高い作風だなあと感じたのですが、『虹霓のかたがわ』を改稿されていた時、ペーマの舞は「視えて」いたのでしょうか?
おこがましいかもしれませんが「視えて」はいました。ただそれを文章に落とし込み――その上で文章表現ならではの形に昇華できたかどうかは、まだまだ研鑽が必要だなと思っています。
僕は明確に視覚優位の書き方なので、「視えて」いないものは書けないような気がします。
やはり。実写版の『虹霓のかたがわ』、見たいです。
「ペーマ、その後」を書かれる予定はありませんか。短編集が出るときでよいのですが。
まだ考えてはいないですね。『虹霓』はほとんど知識ゼロの状態から書いていて、そのときちょうど休職中だったからそれを形にするだけの時間があったようなものなんです。もう一度チベットの話を書くとなると、よほど時間の猶予がある状態でないと厳しいですね。ですが、チベット関係でいうと、遊牧民の話もいつか書きたいと思ってはいるので、少しずつ勉強しているような感じですね。
新作、楽しみにお待ちしております(笑)
「大学六年生。密造酒、泥酔オセロ、」はマンガで、「ヲタロポリス・クライシス―同人誌ブルース―」はアニメかなあ。「大学六年生。密造酒、泥酔オセロ、」は、大学で酒作りというと『もやしもん』を連想しちゃうのですが、意識されましたか?
SCI-FIREのテーマが『アルコール』で、大学生活を書くとなれば、『もやしもん』は意識せざるを得なかったですね。単行本は実家に置いてきてしまったので、醸造の話がメインになる農大祭編(単行本10~13巻)をkindleで買い直して読みました。
実はメインのネタは第一回のVG+さんのかぐやSFコンテスト「テーマ:未来の学校」で使おうと思っていたものなんですね。なので実は学校の設定をメインで考えていて、その時に学生(未成熟)とアルコール(成人/成熟の証)の取り合わせが面白いと思ってネタを作っていったら全然4000字に収まらなかった。
で、あらためてSCI-FIREのテーマが決まり、そこでネタの再利用ができることに気づき、「しかし、アルコールをメインテーマにしたらこれ『もやしもん』では?」となって出来上がったのがアレです。
「かぐやSFコンテスト」に投稿する予定だった原稿が「大学六年生。密造酒、泥酔オセロ、」へと発酵したわけですね。
「ヲタロポリス・クライシス―同人誌ブルース―」は、リベンジ企画ということですが、ちょっとひねって「第3回梗概『闇同人誌を追え、ゴスロリで』」の実作という形をとっているんですが、リベンジするとしたら実作として世に問いたい梗概は他にありますでしょうか?
SF創作講座に提出した梗概はある種資産なので全部使いたいと思っています(笑)
さすがに取材や下調べのコストとかを考えて割に合わないものはその梗概単品で形にしたいとは思わないのですが。
その中でシンプルに書きやすくて面白そうなのは肥満に陥った美少女ロボットがダイエットする話ですね。『マスティクスにもう一度』
おっとそっちでしたか。昔からロードムービーには面白い作品が多いので期待してます。
なんで梗概の話を出したというと、実は榛見先生の梗概を読んで「メルクリウスの仇花」をSFにするにはどういう設定にしたら良いかを考えていたら、中々難しいことに気がついたという……。
(「榛見先生の梗概で遊んでみた」はこちらから)
遊んでいただいてありがとうございます(笑)
遊び倒し、かつ悪ふざけも入れたりして申し訳ありません(汗;)
以前、櫻木みわ先生の著者インタビューの際にも、『うつくしい繭』の各短編のその後を予想するという企画を思いつきまして、こういう次第になったわけで(汗;)
色んなところで言っているんですが、『仇花』は舞台を水星にしたものの資料が無くてもうお手上げ状態でした。そういう意味では、今度やるロボットSFの大家のシリーズはタイトルに水星を冠しているので、かなり楽しみにしていたりしますね。
水星を舞台としたシリーズは珍しいので注目ですね。
ところで、色々と書いていて思いついたのですが、大まかな粗筋というか結末まで考えて梗概は書かれているのですか?
考えて書いていますね。とはいえ、よく世間では「全部決めてから書き終わらせるタイプ」と「書いていると自然に結末に辿り着くタイプ」みたいな極論で語られていることも多いと思うのですが、ほとんどの人はその中間のグラデーションのどこかにいると思うんですね。
僕もそうで、どちらかというと前者の比率が高い程度。大枠の結末や作中の事件は梗概通りになるんですが、そのディティールは書いてみないとわからない。
なので、最後まで考えているつもりで梗概を書いてはいるけれども、実際に本編を書いてみると、意外と頭の中にあった通りの結末にならない。その齟齬は終盤になればなるほど梗概から開いていくので、やっぱり長い作品をかけるベテランの方々はとんでもないなと思います。
実際に書いてみないとわからない体験談ですね。これは、他の先生方にも聞いてみたいと思います。
ゲンロンSF創作講座の同期生の作品で、これは面白いからぜひ読むべしという作品がありましたらご紹介下さい。
個人的には文学賞に応募中の東京ニトロさんが書かれた長さが大幅オーバーしたという(笑)最終課題作品を早く読みたいです。
いっぱいありますね(笑)
無難かつ雑に言ってしまえば、東京ニトロさん、渡邉清文さん、稲田一声さん、藍銅ツバメさん、宇部詠一さん、あたりは何読んでも面白いですよ。いまプロだったり新人賞の最終候補に残っているのも頷けるというか。ここに挙げた方々は安定して面白いというのが凄いですね。
ミスター・アイドル、今野明弘さんも(今野ワールドに慣れることができれば)、面白い。商業誌では読むことができない面白さという意味では一番かもしれない。
で、あらためて色々な4期の作品を読み返してみたのですが、渡邉清文さんの『こわれたカメレオン』をここではおすすめしてみようと思います。
ファンタジー寄りの作品で、カメレオン族《トライブ》という肌の色が変えることができる人達が、区画ごとに色分けされた都市に住んでいる。そこに生きる不良少年グループが決闘をする話なんですが、流れる少年たちの血潮がとてもイイのでぜひ読んでみて下さい。
多くの推薦ありがとうございます。"note"の「榛見あきる」で、参加者の梗概の感想の一部を書かれていたので、実作についてもうかがいたいなあと思いまして。読み返して頂き感謝です。
「こわれたカメレオン」は、以前読んだ時にもこれは面白いと感じた作品なんです(少なくとも各回の得票数トップの作品は読むようにしてます)。ペーマと同じく障害を持った少年が主人公で、群舞シーンもあったりと見せ場も抜かりない。特に主人公の障害に関わる医学ネタの扱い方が上手くて感心した作品です。
『虹霓のかたがわ』を読んだ読者の方たちも、「もっと読みたいぞ!」と感じているに違いないので、次作もしくは短編集をお待ちしております。
そう思っていただけると何よりです。直近では小説すばる4月号および5月号にてお仕事をさせていただいたので、機会があればそちらも手に取っていただけると嬉しいです。いずれもう1作も小説すばるにて掲載予定があるので、合わせてそちらもぜひ!
楽しく読んでいただけたようで何よりです!
『らーめん再遊記』は単行本で読んでいたので連載分がそんな面白そうなことになっていたとは……。
さておき『ラーメン発見伝』のシリーズの話題を出していただけたのはすごく嬉しいですね。小説すばる5月号の「(Dis)cover of Virtual Ramen」は、タイトルからして、かのシリーズのオマージュ的なものでもあります。このメタバース×ラーメンという着想が、4月号の創作会議の内容の「(人間は)情報を食ってる」という一節からきてるんですね。『ラーメン発見伝』の有名な台詞が、それまでとは違う形で聞こえたのが凄く新鮮で、そこから生まれたのがこの短編でした。
もう一作はまた毛色が違うものになりそうなので、ご期待ください。