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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第一章 旅芸人の詩

福田弘生

 その小さな村に旅芸人の一座がやって来たのは、北国の短い夏の盛りの事だった。北の将として恐れられた老将ライバーがシャンダイア軍に滅ぼされ、その兵達も本国に逃げ帰った。現在残された巨大な要塞には、サルパートの聖王マキアの軍が入って赤い旗をなびかせている。そしてその冷たい建物が赤の要塞と呼ばれ始めた頃から、風変わりな旅芸人の一座の噂がソンタール大陸の北部に流れ始めた。
 ソンタール大陸の中央に巨大な壁のようにそそり立って大陸を南北に分けているランスタイン大山脈の北側にあたる地方は、二千五百年前まで月光の将と呼ばれたソンタールの将とシャンダイア勢力のバルトール王国が対峙していた地域で、バルトール滅亡後は北の将とソンタール本国が分け合って統治していた。だが今ではその北の将はいない。ソンタール本国も東のセントーン攻略に多くの兵をさいているため、一時的にこのあたりは軍事的な空白地帯になっていた。
 北国の夏の緑は優しい色をして人々を暖める。旅芸人の一座はまだらになった木漏れ日を浴びながら細いボコボコした道を辿り、旅の途中で集めたらしい花びらと木の葉をまき散らしながら村の入り口にある壊れた門をくぐった。木の柵と錆びた鉄のアーチの粗末で無防備な門は、この地方に永らく戦火が届いていない事を物語っている。
 その日の昼下がり。旅芸人の来訪にいち早く気付いた目ざとい子供達が興味深く見つめる中で、一座は村の中央広場の一角に小さくて色鮮やかな黄色いテントを張った。そしてテントが出来上がると一行八人と一頭の馬はその幕の中に入って行った。それを見た子供達が親の袖を引き、大人達がささやき合って、噂を聞き付けた村人達が徐々に広場に集まって来る。やがて二十人程の人が集まってようやく人声がザワザワとするようになってきた頃、テントの中から腕をむき出しにして、体にぴったりした衣装に着替えた四人の男が出て来た。
 一座の出し物はその四人の男達によるジャグリングから始まった。大柄な男と中背の男、それに小柄な男二人が乾いた木の実に棒を刺したクラブ三本を器用に投げ合った。やがて小柄な一人が大柄な男の背中に乗って三点の投げ合いになり、テントの陰から少年が老いた馬を引いて出て来ると、小柄なもう一人の男が馬の背に立って大柄な男の周りに円を描きながら走り回ってクラブを投げ合った。やがて、少年がもう二本のクラブを投げて五本のクラブの投げ合いになると、村人達は大喜びで喝采を送った。
 次の出し物は馬を引いて来た少年によるアクロバットだった。先ほどの背丈が同じくらいの小柄な男二人が向き合って立ち、その肩と肩の間に幅五十センチ、長さ三メール程の板が渡された。少年は良くしなうその板の上でジャンプを繰り返すと、高々と舞って空中で見事に回転をした。次に大柄な男が三メートル程の長さの太い丸太を持って来ると、少年は丸太のてっぺんに片手で逆立ちして器用にバランスを取った。
 この頃になると話を聞き付けた人々が集まって来て、小さな広場は村人でいっぱいになった。年に一度の収穫祭以外に楽しみの無い村人達は、農作業の手を休めてでもやって来たのだ。やがて少年の演技が終わると、五人は深々と礼をして、丸太を持った男を残して他の四人は天幕に戻った。次に出てきたのは小柄で目つきが鋭く頬に深い傷がある男だった。男は丸太を持った男と五メートル程離れた所で向き合って立った。大男が丸太を体の前で構えると、頬に傷のある男は目にも止まらぬ早さで五本の短剣を丸太目がけて投げ付けた。短剣はすべて大男の顔の前の丸太に見事に突き刺さった。息を殺して見守っていた村人達はホッとしたような顔で、パラパラと拍手をした。おだやかな田舎の村人にはこの芸は刺激が強過ぎたのだ。頬に傷のある男は村人のおびえたような反応を見て早々に引っ込んだ。
 続いて登場したのは、年齢がわからないくらいに年老いた老人だった。鍔が広い灰色の尖り帽子と黒の長いローブも、着ている主人と同じようにしわくちゃになっている。老人は村人に一礼すると、大げさな身振りで帽子を取った。すると何も無いと思われた帽子の中には、赤や白や黄色等の色とりどりの花がいっぱいに詰まっていた。老人は村人の中に子供の姿を見付けるとその花を手に盛って配って歩いた。花と一緒に棒の先に砂糖を固めたお菓子も配られていたが、賢い子供達はもらうなりきちんと服の中に隠した。老人はニヤニヤしながら広場の中央に戻ると両手を高々と掲げて手の平を天に向けた。すると何も無い手の平の上から黄色と赤の火花が上がった。村人達はその美しさに目を瞠って歓声を上げた。老人はさらに体のあちこちから火花を上げて皆を喜ばせた。どうやらこういう派手な仕掛けが大好きらしかった。
 村人達はこの派手な手品で出し物はすべて終わりだと思った。実際、それは充分な程の見せ物だった。しかし一座にはもう一人とっておきの役者が残っていたのだ。その長身痩躯の男がテントから現れた時、村人はまず男が盲目である事に驚いた。憂いに満ちた顔には深い皺が刻まれているが肌には張りがあり、年齢は壮年に差しかかったばかりのように見えた。しかし髪はすでに銀色になって細い顔を薄く縁取っている。男はゆっくりと観衆の前に立つと、胸に手を当てて歌い始めた。その声は高く低く巧みに操られ、決してかすれる事は無かった。そして何より驚く程に美しかった。やがて歌が終わった後、茫然としている村人のどこからかサシ・カシュウだという声がささやかれた。しかし多くの村人達は首を振った。サシ・カシュウは伝説的な吟遊詩人で、こんな田舎周りの旅芸人の一座に混じっているはずが無いのだ。小さな村の広場は鳴り止まない拍手で満たされた。村人達はこの素晴らしい一座に心付けを与えたかったが、残念ながら皆お金を持っていなかった。とまどう村人の中から村長が進み出て、座長らしい老人に話しかけようとしたが、老人は手を振ってそれを止めた。
「村の方々、私達にお金は要りません。一夜の宿と食事を。ただそれだけでけっこうでございます」
 そして村外れの農家の納屋を借りて一夜を過ごした一座は、翌朝早く村の人々に別れを告げて出発した。名残惜しげに見送る村人達が、村の入り口の木に黄色い布が巻き付けられているのに気付いたのはずっと後の事だった。

 その日も天気は良く、一行の行程はかなりはかどった。陽が高く昇った頃、先頭を進んでいたマルヴェスターが休憩を告げた。ベリックは赤い帽子を脱ぐとクシャクシャにして握り、道端の林の中を流れる小川に向かった。そして川に着くと夢中で水に手を突っ込んだ。
「ああ、冷たい」
水は痛いくらいに冷たかった。ベリックは水面に映る自分の顔を見つめて思った。
(僕はどうしてここにいるのだろう)
カインザー大陸の西の将の要塞から助け出されてからしばらくの間、ベリックは自分がなぜ巨竜ドラティの洞窟にいたのか思い出せない状態だった。その後、戦いに次ぐ戦いをくぐり抜けたが、その間は落ち着いて自分の生い立ちについて考える暇すら無かった。そしてようやく北の将の要塞が落ちてから二ヶ月の間に、ベリックは色々な事を思い出す時間を持つ事が出来たのだ。
(二年前、僕をカインザーに運んだ船は、海賊王ドン・サントスの船団に守られていた)
 その頃ベリックは、サントスの大きな船に時々遊びに行った。立派な軍服に身を包んで葉巻をくわえたサントスには中々近付きにくかったが、ベズスレンという派手な衣装のにぎやかな男と、シャクラという寡黙な魔法使いがいつも相手をしてくれた。二人はサントスの幹部だったが、どういうわけかベリックを可愛がってくれたのだ。あるいはベリックの正体について何かを察していたのかもしれない。マルバ海を支配する海賊王のサントスより、むしろ細かい事に気が付いたのだろう。あの二人にもう一度会って、自分の事をどう思っていたのか聞いてみたいとベリックは思った。
 やがてサントスの船団は、カインザー大陸中央部のケマール川河口付近の小さな港に着いた。そこでベリックを送り出したマスター・メソルの部下は、少年を一人の背の高い銀髪の男にあずけた。メソルの部下達がベリックの正体を知っていたという事は無いだろう。だが、
(あの男は知っていたはずだ。超然とした、得体の知れない男。しかし邪悪な感じは受けなかった)
「ベリック様」
 ベリックはカインザー大陸以来、自分を守り続けてくれている忠実なフスツの呼ぶ声で我に返った。フスツは王の後ろに心配そうな顔で立っていた。
「ああ、ごめん。すぐに戻る」
 フスツは声をひそめた。
「ここはすでにロッグのマスター・マサズの支配地域です。旅芸人の一座のふりをすればソンタール軍には怪しまれないでしょうが、マサズの手下にはむしろこれみよがしに姿を見せながら旅をしているようなものです。マルヴェスター様は何を考えているのでしょう」
「僕も最初はもっと早くロッグに向かうのかと思っていた。でも、これでいいと思う」
「そう、ですか。王がそうおっしゃるのならば」
 フスツは納得がいかないようだった。だが賢いベリックは悟っていた。
(マルヴェスター様は、僕を待っているのだ。僕が記憶を整理して、バルトールの風土を知って、マサズと対決する心の準備が出来るのを待っているのだ)
 ベリックは立ち上がると手を振って水を切り、振り向くと顔を上げて皆の元に戻った。フスツが連れて来た四人の部下がホッとした表情で王を迎えた。ベリックは男達を見回した。ビンネという名の色白の男は、バルトール人には珍しい巨漢で怪力の持ち主だった。中背のクラウロはどこと言って特徴の無いバルトール人の典型で、この地域のどこの村に行っても簡単に村人に溶け込んでしまえる。背の低いバヤンはあらゆる薬物に長じており、トリロは見事な料理の腕前を持っていた。
フスツは太い倒木に腰掛けているビンネとクラウロの間に座った。トリロはバヤンに手伝わせて昼食の用意をしている。ベリックはフスツの正面に腰を降ろした。村に入る時は盲目のふりを続けているサシ・カシュウは、年老いた愛馬の体を藁の束でこすっている。馬の周りを無数の夏の虫が飛んでいた。
バヤンが沸かしたお茶を皆に配った。サシは馬の横でそれを受け取って静かにすすると、ぶつぶつつぶやきながら歩き回っているマルヴェスターに話しかけた。
「現在のバルトールの最大勢力。マスター議会の議長マサズとはどんな男ですか」
 これには噛んでいた煙草を吐き捨ててフスツが答えた。
「マサズは邪悪な老人だ。あらゆる快楽におぼれて堕落した。そして思い上がってバルトール人の心を失い、自らが王になろうと画策している」
 サシも草の上に腰を降ろした。
「なる程。それでそのマサズを支持しているマスターは誰ですか」
フスツはお茶のカップを両手で持ってその香りを嗅いだ。
「いないはずだ。俺は一時期メソルがマサズの手先かと思っていた時があるが、どうやら違うらしい。だがマサズは一人でも王位をねらうのに充分な力を持っている」
 マルヴェスターも足を止めて顔をしかめた。
「うむ、マサズは難物だな。今、ベリックを支持しているバルトールマスターはサルパートのモント。セントーンのリケル。ユマールのケイフ。そしてカインザーのアントか」
 そこでマルヴェスターは言葉を切ってベリックを見た。
「アントンとは思い切った指名だったな」
 ベリックは楽しそうに笑った。
「すぐれたマスターになるはずです」
 マルヴェスターは軽く手を上げてニヤリとした。
「かもしれないな、父親のレドが知ったら驚くだろうが。さてと、この四人のマスターにザイマンのメソルが加わったとしても、マサズを敵にまわしたらその財力と組織の大きさにはかなり手を焼くはずだ」
 フスツが頭を抱えた。
「むしろ相手にならないと言ったほうが良いでしょう。メソルはどこにいるのかさえわかりません。モントは老人、アントはカインザー人でまだ着任したばかり。ケイフは遠く、リケルはソンタール軍の包囲の中にいます。せめてロトフ様が生きていれば」
 ベリックは西の将の要塞で最初に自分にひざまずいた子供のような顔をした男を思い出した。トリロが蒸かした穀物をお椀に入れて皆に配った。お腕を受け取ってフスツが続けた。
「マサズも危険ですが、我々が直接相手にする危険はイサシかもしれません」
 ベリックが尋ねた。
「マサズとイサシって、北の将ライバーと黒い短剣の魔法使いギルゾンのような関係なの」
「少し似ています。マサズはロッグに構えて動かず、もっぱらイサシが各地を駆け回って様々な事を画策している。ただイサシはギルゾンよりも複雑な駆け引きをする男です。そして何よりマサズとライバーとの大きな違いは、マサズは歳をとっても権力や快楽に異様に固執している事です」
 ベリックはジンネマンの大洞窟を出た後、イサシと会った時の事を思い出した。危険極まりない男である事はすぐに察しが付いたが、単なるマサズの手先では無さそうだ。イサシはイサシの目的で動いているような感じを受けた。食事を口に入れたベリックは明るい顔をして微笑んだ。
「僕らはマサズと戦いに行くんじゃ無い。僕らの目的はまずロッグのバルトールマスターと話し合い、バルトールをまとめてサルパートと共にもう一度北を守る事なんだ。それに」
 ベリックが胸をはった。
「バルトールマスターはもう一人いる」
 サシ・カシュウがお茶をすすって顔を上げた。
「ソンタール帝国の首都グラン・エルバ・ソンタールに潜入しているマスターですね」
 フスツの顔が青白くなった。
「ジザレ。この男がマサズについてベリック様に敵対したら、残念ながらバルトールの大半はシャンダイア連合から離れるでしょう」
「ならば、どうしても両方を味方にしよう」
 ベリックは少年らしい期待を込めてそう言った。フスツが立ったまま食事をしているマルヴェスターを見上げた。
「ロッグはまだまだ遠い、老師、そろそろ先を急ぎましょう」
 マルヴェスターは口をモグモグさせながら答えた。
「いや、ベリックが王であるならば、その前に会わなければならない者達がいる」
 フスツが蒼白になった。
「いけません」
 ベリックが尋ねた。
「誰に会うんですか」
 マルヴェスターが答えた。
「ここから北に行くと広大な荒れ地がある。そこがバリャノギワキと呼ばれる古戦場だ」
「古戦場。そこでは誰と誰が戦ったんですか」
 サシ・カシュウがお椀を膝の上に置いて、記憶を探るように話し始めた。
「ロッグを陥落させ、バルトールを制圧したソンタールの将は月光の将と呼ばれていました。月はバステラ神が最後に創った創造物です。ソンタール本国に最も近い場所に要塞を構える将にこの月の旗印が与えられていたのです。月光の将はその後セントーンに攻め込みましたが、結局攻略出来ずにユマール大陸に渡りました。月光の将の軍がいなくなったその時に、旧バルトールの貴族達が決起したのです。旧都ロッグ近郊で旗揚げした貴族達の軍は次第に勢力を強めて、一時はバルトールを復興させるかと思われる程の勢いでした。しかし西から進軍して来た北の将の軍とバリャノギワキで戦い、敗れました」
 ベリックはこの話を聞いのは初めてだった。
「貴族達を率いていたのは誰」
「ボック公爵。バルトール王家最後の家の当主でしたが、バリャノギワキで敗北した後、ロッグに残した妻と子供は北の将の兵に惨殺されました」
 サシ・カシュウは立ち上がってベリックに歩み寄ると、その肩に手を置いた。
「バリャノギワキの古戦場では今も剣撃の響きが絶えないと言われています。あなたが静めなければ、彼らは永遠に戦い続ける事でしょう」
「戦っているって、誰と」
 マルヴェスターが言った。
「バルトール人は激情の民だ、そうすんなりとは敗戦を認める事が出来なかったのだ。死してなお、自らの心が作り出した幻の敵と戦い続けている」
 フスツは訴えた。
「おやめください。バリャノギワキに今この時期に行く必要はありません。ボック公爵達の霊を静めるのはバルトールを統一して、バリオラ神を探し出してからからしかるべき準備をして行けば良い事。ボック公爵の霊は狂っているとさえ言われております」
 だがベリックは首を振った。
「行こう。一日も早く僕が帰ってきた事を伝えて、バルトールの復興を約束してボック公爵に眠りについてもらうんだ」
 サシが険しい表情で言った。
「死者との約束は重いですよ」
「わかっているよ。でも僕は行く」
 ベリックはそう言って北の空を見上げた。

 グラン・エルバ・ソンタールの王宮。巨大な六角形をした尖塔型の建築物の中央にある皇帝の謁見の間に、かつて西の将と呼ばれたマコーキンは立った。この王宮の壮麗さはかつての西の将の要塞など足下にも及ばないが、久々に戻ったマコーキンも一年の間にすっかり見慣れてしまっていた。
 かつては夜の公子とうたわれた背高く整った顔立ちの若き将軍は今日も黒い衣装に身を包んでいるが、その下の獣のようにしなやかな筋肉は隠しようが無い。その筋肉を流れるように動かして林のように立ち並ぶ兵達の間を進み、謁見の間に入って視線を上げた時、階段の上の玉座には皇帝の姿は無かった。その宝石に飾られた巨大な玉座の下の向かって右にハルバルト元帥が、左に魔法使いガザヴォックの二大老が立っている。マコーキンはゆっくりと歩を進めた。ソンタール帝国にはこの二人と同格の人物がもう一人いる。しかしそのゼイバーという名の海軍提督はエルバン湖に浮かぶ湖上要塞に篭っていて、めったに首都には顔を見せなかった。金糸の刺繍を施した豪華な軍服を着たハルバルトが口を開いた。
「マコーキン。ガザヴォック殿のお口添えもあって、そなたの罪は許された」
 マコーキンは胸に右手を当てて二人に向かって頭を下げた。
「要塞を失い、ゾノボート殿を死なせた私に寛大な処置をくださいまして、感謝に堪えません」
 ガザヴォックの思慮深い顔には、何を考えているのか表情は映らない。魔法使いは驚くほどに落ち着いた声で言った。
「ハルバルト元帥はそなたをすぐに戦場に戻したいとおっしゃっている。しかし、そなたの武勇を見込んで特に頼みがある」
 マコーキンがハルバルトに目を向けると、元帥は渋い顔をした。
「わしは、直ちにポイントポート攻略に向かって欲しかったのだ。だが、ガザヴォック殿にもお考えがあるらしい」
「ガザヴォック様。私に出来る事でしたらば、力の限りお役に立たせていただきます」
「うむ。ここから北東、ランスタイン山脈を越えた向こう側にクリルカンという峠がある」
 マコーキンはうなずいた。
「昔のバルトール領ですね」
「そうだ。その峠に一匹の鬼がいる」
 マコーキンは耳を疑った。
「鬼、ですか」
「ザークだ」
「何と、伝説の大鬼ザークがまだ生きているのですか」
「そうだ。月光の将がユマールに渡る時に解き放った。その鬼を捕まえて来て欲しい」
 ハルバルトが唸った。
「ガザヴォック殿。マコーキンは大軍を指揮してこその将だ。ライバーが死に、グルタス・ゼンダが戦死してその郎党が散々に敗れて逃げ帰って来ているこの時期、必要なのは強い将軍だ。なぜ鬼を捕まえるためにマコ−キンを送り出さねばならんのだ。他の者ではいかんのか」
 長身の魔法使いは左手の人差し指を立てた。
「ザークは現在までに生き残っている太古の生物の中で、最も不思議な力を持つ最も危険な怪物。マコーキン殿の類いまれな知力と判断力と剣の技をもってしなければあの鬼は捕まらん」
 ハルバルトは太い腕を組んだ。
「捕まえて何となさる」
「皇帝陛下の守護獣となす」
 マコーキンはうなずいた。
「ならば喜んで参りましょう。兵はいかほど連れて行ってよろしいでしょうか」
 ガザヴォックがマコーキンを見つめた。
「兵の数は問題にはならん。必要なのはそなたの持つ力だ」
 そう言ってガザヴォックは右手を宙で振ると、何も無いはずの空間から細い鎖を引き出してマコーキンに手渡した。
「かつてサルパートの狼バイオンを繋いでいた鎖だ。ザークを見付けたら投げ付ければ良い。後はわしが繋ぎ止める」
 マコーキンは鎖を手にしてたたずんだ。
(不思議な使命を与えられたものだ)
 そのマコーキンを見て、ガザヴォックがもう一つの鎖を宙から取り出した。マコーキンは首をかしげた。
「それは」
「褒美を先に渡しておこう」
「褒美ですか」
「グルバの要塞のデルメッツを繋いでいた鎖をザラッカが返してよこした。左手を」
 マコーキンは先ほど受け取った鎖を右手にして、左手を魔法使いに差し出した。ガザヴォックがマコーキンの手に鎖を落とすと、一瞬赤く光ってマコーキンの手に繋がるかのように見えた。しかしその光はすぐに消えて元の冴え冴えとした鎖に戻ってマコーキンの手の中に収まった。ガザヴォックが説明した。
「これはそなたが繋ぎ止めたいと思った者に使うが良い。そなたの心で相手を操れる」
「なぜこのような魔法を私に」
 ここで初めてガザヴォックが恐ろしい微笑みを浮かべた。
「この魔法は他の魔法使い達にも渡していない。だがそなたの行く手に何かが待っておる。わしの勘がそれを告げているのだ」
 マコーキンはそれ以上何も問わずに二つの鎖を服のポケットに入れると謁見の間を後にした。外ではかつての西の将の参謀であり、今でもマコ−キンを支えてくれている参謀のバーンが待っていた。
 中肉中背の特に特徴の無い容姿の男だが、さすがに家柄の高さか、豪勢な服を着ると貫録がある。
「マコーキン様、どちらに参られます。ポイントポートですか、それともセントーンですか」
「いや、ランスタインの向こう側だ」
 バーンはちょっと意外と言った顔をした。
「何と、昔の月光の将の要塞を復興させますか」
「いや、違うらしい。鬼を」
「鬼、ですか」
「ああ、ザークを捕えに行く」
 二人はゆっくりと天井の高い廊下を歩き出した。窓から明るい光が縞模様に廊下を照らしている。
「意外な話でございますな。なぜ鬼を一匹捕まえるためにマコーキン様程の将軍を使うのか」
「俺もちょっと残念だ。ポイントポートのトルソンを打ち破って、要塞で死んだキアニスの仇を取ってやろうと思っていたのだが」
「どういたします」
 マコーキンはポケットに手を突っ込んで、鎖を掴んだ。
「どうやら俺一人で行っても良いらしい。君は必要とされている戦場がたくさんあるはずだ」
「残念ながらそうでもございません。と言うか、仕えたい将がマコーキン様以外にございません」
「ならば政治の世界があるだろう」
「それも私の性にあいません」
 二人は立ち止まった。
「俺は明日の朝早く出発する」

 マコーキンはポツリとそう言ってバーンを残して歩み去った。バーンはじっとその後ろ姿を見送った。
 翌朝、自分の家の兵のみを引き連れたマコーキンがグラン・エルバ・ソンタールの巨大な北の門に差しかかると、そこには馬に乗った二人の男が待っていた。
 マコーキンが馬を止めると、門の影の中から、背の低い方の男が進み出て来た。身軽な皮の上着に鍔無しの茶色の中折れ帽子。マコーキンはその戦支度姿の懐かしさに思わず声を上げた。
「バーン」
 涼やかな笑顔のバーンが答えた。
「たまには山道の行軍も良いでしょう」
 続いて真っ赤な鎧に派手な鷲の羽飾りの兜をかぶった色白の大男が、バーンの隣に軍馬を進めて来て笑った。
「東の将と喧嘩をして追い出されて来ました」
 マコーキンは苦笑した。
「バルツコワ。つつしんだ方が良いぞ」
「仕方がありません。東の将キルティアはある意味化け物だ。俺とは相性が合いません」
 バーンが手を振ると、二人の後ろに黒い鎧の兵が続々と姿を現わして整列した。バーンが説明した。
「ハルバルト様のお言葉です。月光の将の要塞の掃除をしてこいと」
 マコーキンは笑った。
「よし、行こう。だがこの人数で山を越すのは大変だぞ」
「大丈夫です。ここから一度西に進み、そこから北進すれば、ランスタインの一番低い尾根を越えられます。そこにかつての月光の将の要塞へ続く旧道があります」
 バルツコワが兵士から旗を受け取って高々と掲げた。黒の地に銀の竜が刺繍された将旗が再びひるがえった。これがマコーキンの果てしなく続く戦いの運命への出撃だった。そしてガザヴォックから渡された二つの鎖がいくつかの運命を繋ぎ止める事になる。その中には黒髪の美しい魔術師の運命も含まれている事を、この時点ではガザヴォックですら予測していなかった。

 途中の村で馬を購入したベリック達が踏み込んだバリャノギワキへの道は、道と呼ぶには広過ぎる何も無い荒野だった。夏なので雪は降っていなかったが、白く乾いた大地は時折雪原のようにさえ見えた。風はひんやりしていたが、海が近付くに連れて次第に暖かさが増してきて、旅には快適な気候になった。サシ・カシュウがマルヴェスターに話しかけた。
「さすがに夏だとこの地方も暖かいですね」
「海が近いとなぜか暖かいものなのだ。もっとも昔はこのあたりまでバルトール領だった。バリオラ神は元々にぎやかな神だったので、寒さを嫌がって気候に何か細工をしたのかもしれない」
 ベリックは豊富な知識を持つサシ・カシュウとマルヴェスターが、この旅の中で色々な事を自分に教えようとしている事に気が付いていた。サシ・カシュウが続けた。
「老師はこの三千年の間、様々な使命を抱えてこられたのですよね」
 マルヴェスターが苦笑いした。
「あまりにもたくさんだ。なにせシャンダイアの王と王子は手のかかる奴が多いからな。王女に至っては、わしの手にすら負えん。ミリアとセリスがマルトン神に仕えたおかげで、セントーンをミリアに。ザイマンをセリスにまかせたはずだったのだが」
 そこでマルヴェスターはため息をついた。
「セリスには早過ぎたかなあ」
 ベリックが尋ねた。
「セルダン王子達が探しに行った、マルトン神のもう一人の弟子ってどんな人ですか」
「ふむ。トーム・ザンプタと言う名だ。セルダン達がうまく見付け出してくれれば、そのうち会えるだろう。ロッグが陥落した時にロッグの見張りをしていたのだが、ガザヴォックの侵入を許してしまった。侵入したガザヴォックは策略を使ってバリオラ神に神酒を飲ませ、酔った女神が踊りに我を忘れている間に首都ロッグを陥落させた。その後、ザンプタはマルトン神の元を去った」
 少し後ろに馬を進めていたフスツが厳しい声で追うように言った。
「ザンプタという方には、一度会わねばなりませんな」
 マルヴェスターが首を曲げて後ろを見た。
「責めるな。彼には翼の神の弟子の務めは無理だったのだ。なぜか憧れに弱い生き物だった」
 ベリックがその言葉に反応した。
「生き物ですか」
「人間では無いのだ。ホックノック族という海の精霊だ」
 ベリックは素直に驚きの声を上げた。
「驚いたなあ。僕の知らない生き物がたくさんいるんですね」
「そのうちに会える。皆にな」
 フスツが馬を近付けてきた。
「我々バルトールの民は、あなたが助けに来ないからロッグが落ちたと信じてきました。なぜザンプタの事を我らにお話しにならなかったのですか」
「わしはある使命でロッグに戻るのが遅れ。わしがロッグに着いた時にはすでに都市は陥落の混乱のただ中だった。わしはバリオラ神が消滅したと思っていたのだ。その事をしかと確認するまで、バルトールの民に話す事が出来なかった。そうこうするうちにすっかり嫌われてしまったのだよ」
「陥落時にはロッグにいらっしゃったのですか」
「おったよ」
「王や王子の行方は探されたのですか」
「もちろんだ。だがどうやらひと足先に巫女達が王子を連れ出したらしい。ボック公爵の決起の時にかつぎ出さなかったのは賢明だった」
 ベリックは話が懐かしい人物に関わってきたので嬉しそうだった。
「その巫女達が、メソルおばさんに繋がるんですね」
「そうだ。マスター議会には代々巫女が一人おったから、その巫女が守ってきたのだろう。どうしてドラティの所におまえを送り込んだのかはわからん」
「それも会えばわかりますね」
 マルヴェスターはニヤリとした。
「そうだ、この大地を旅して、歩いて、そして多くの人に会うのだ。おまえはバルトールの王なのだから」
 ベリックは鞍に取り付けた箱の中に入れてあるピンク色の薔薇を思い出した。エレーデの薔薇だ。
(その前にエレーデにも会いたいな。これをエレーデに送る前にもう一度、会えるだろうか)
 その時、突然身を切る程の冷たい風が吹いて来た。風は次第に強さを増したが、不思議な事に地面に土埃が立たなかった。ベリックが見上げると、空に黒い雲が湧き起こり、その裏側で黄色い光が明滅した。茫漠とした大地が一瞬、ゴンと揺れると、あっという間に剣と剣が叩き付けあう騒然とした響きに包まれた。マルヴェスター以外の七人が思わず耳を塞いだ。ベリックが叫んだ。
「これがボック公爵の軍ですか」
 マルヴェスターが長い白髭をしごいた。
「そうだ」
 剣の響きの次に聞こえて来たのは、大地を轟かす馬蹄の響きだった。荒野に闇が舞うように踊り、軍馬の群れがはるか彼方を疾走するのが見えた。その馬群の上には血まみれの鎧を着た男達がまたがっている。サシ・カシュウがつぶやいた。
「目を開くと、驚くべき物が見えるものだ」
 軍馬の群れはあっという間に近づいて来ると、地響きをたててベリック達の周りを回り、取り囲むように止まった。やがて三騎の鎧を着た戦士がベリック達の方に馬を進めて来た。中央の小柄ながらがっしりした体格の男がベリックを見てあえぐような声を上げた。
「王子、カベル王子、生きていらっしゃったんですか」
 フスツが進み出ようとするのをベリックが制した。
「僕はあなたの王子では無い。僕の名はベリック、バルトールの王だ」
 中央の男は馬を降りた。その顔はどこかベリックに似ていた。
「王ですと、確かにアンザラ王はお亡くなりになった。あなたが王だ。カベル王だ」
 マルヴェスターがベリックの後ろに立った。
「ボック、ここにいるのはベリック。カベル王子の遠い子孫だ」
 ボック公爵はベリックを見つめた。ベリックがボックの目を見返した。
「あなたがここで北の将の軍と戦ってから二千五百年が経ちました。あなたの戦いはすでに終わったのです」
 ボック公爵の亡霊は髪の毛を振り乱して叫んだ。
「嘘だ。戦いはまだ終わっていない。あなたはカベル王だ」
 ベリックは凛とした声で説明した。
「シャンダイアは戦い続けています。すでに西の将は退却し、北の将は滅ぼされました。そして今この時にも、南の将と戦うためにカインザーとザイマンの王子が南に向かっています」
 ボック公爵はドンドンと胸を叩いた。
「ならば戦おうでは無いか王。このままソンタールに攻め込もう。我々が従いますぞ」
 ベリックは首を振った。
「ボック公爵。これは僕の世代の戦いだ。あなた達はここで安らかに眠ってください」
「いやだ。戦う。俺達は戦う」
 ボック公爵の霊は、剣を抜くと高々と掲げた。いつの間にか公爵の後ろに勢揃いしていた軍団の兵達が、一斉に剣を抜いて空気を切り裂くような甲高い雄叫びを上げた。
「黙れ」
 ベリックが叫んでバザの短剣を抜いた。
「これは私の戦いだ。邪魔をする事は許さん」
 ボック公爵の軍勢に沈黙が降りた。ベリックは少年とは思えない程の朗々と響く声で続けた。
「おまえの眠るはずの世界に戻れボック。バルトールは私が必ず復興させる」
 フスツ達は息を殺して成り行きを見守った。大地がグロングロンと唸り続けている。やがてボック公爵は振り上げた剣をストンと降ろした。そしてベリックの前にひざまずくと、頭をたれた。
「王、ご帰還をお待ち申し上げておりました。我らが無念、お晴らしください」
 ベリックも短剣を降ろした。
「約束しよう」
 ボック公爵は涙に濡れた顔に笑みを浮かべて馬に跨り、片手を高々と掲げて挨拶をすると軍勢を率いて去って行った。その騎馬部隊の姿が遠くにかすれて消えると、突然空が晴れ渡ってあたりに静けさが戻った。マルヴェスターがベリックの肩を叩いた。
「見事だった」
 ベリックは手に貼り付いたようになっている短剣を引きはがして鞘に納めた。フスツが涙を流しながらベリックに言った。
「王、ありがとうございました。ボック公爵は我らがバルトール人の心の痛みだったのです」
「バルトール人の心の痛みは、僕の痛みだ。僕が必ず、必ずバルトールを復興させる」
 マルヴェスターがうなずいて言った。
「ボック公爵達の魂が本当に安らぐ事が出来るのはその時だ」
 ベリックはボック公爵が去って行った北の彼方を一度眺めてから、東に視線を移した。
「行こう、僕たちの都ロッグへ」

 エレーデが通う智慧の峰の巫女を育てる学校の付近も、さすがにこの季節には雪が消えて柔らかい緑色の木々が美しく茂っていた。サシ・カシュウの姪、エレーデが花を手に自分の部屋の窓を開けると、中庭に白い衣をまとった美しい少年が立っていた。エレーデの黒い瞳が真ん丸くなった。
「エイトリ様」
「驚かせてすまんな」
 エレーデは少女らしい探るような目で、まじまじとエイトリを見つめた。
「少し大きくなられましたか」
 知恵と医療の神は少し照れたように笑った。
「少しずつではあるが力が戻ってきている。美しい花だな」
「母に捧げています」
「すまぬな。あの頃、わしは無力であった」
 エレーデは悲しげに目をふせた。
「死んだのは母ばかりではありません。多くの人が死にました。そして父も」
「すまん、悲しい事を思い出させた」
 エレーデは気丈そうな顔を上げた。
「エイトリ様、ベリック様はご無事でしょうか」
 エイトリは首をかしげた。
「私の知覚の届く範囲はまだとても狭い。だが信じて待つが良い。その間そなたはここで勉強をして、馬と話す能力を磨きなさい」
「この力はエイトリ様がくださったものだと聞きました」
 エイトリはうなずいた。
「サルパートの民は私の子供達。だが私でも誰にと意図してこの力を与える事は出来ない、そなたにこの力が与えられたのは何か別の力の意図があったのだろう」
 エレーデは難しい話に眉をひそめた。
「今は理解出来なくて良い。やがて再びそなたの力が必要になる日が来る。健やかに育て娘よ」
「はい。皆様のご恩に報いるためにも」

 エイトリは慈悲深く微笑むと姿を消した。

 千里を見はるかす目を持った鬼は、クリルカン峠の上から西を見た。そしてこの星の最初の狼バイオンが、ガザヴォックの魔法で魂を引き千切られて絶命するのを見た。しばらく前に死んだドラティに続いて古いなじみがまた姿を消してしまった。
 そしてまたしばらくして、東と西から魔法の力を持つ者が近付いてくるのに気が付いた。より近いのは西からやってくる魔法だった。鬼はその魔法が自分の命を絶ってくれるかと期待したが、どうやらその小さい剣では自分の命は奪えないと知った。自分の命を絶つ事が出来るのは、東から海を越えてやってくる大剣のはずだが、その剣は一度大陸に立ち寄ると、南に向かって去って行ってしまった。
 身の丈三十メートル、赤味が差した鉄色の肌。枯れ草のような色のボウボウとした髪。真っ赤な口、牙のように尖った歯、高い鼻梁に爛々と見開かれた巨大な目。腰にわずかな布を巻いただけの裸の鬼は咆哮しながら毎日峠をさ迷った。鬼の首からは太い縄が背中に向けて下げられていた。その先には鬼の巨体から見ればとても小さい棺が吊るされている。棺の中には情熱的な彩りの衣装を来た美しい女性の姿があった。しかしその顔は蒼白でまるで息をしていないかのようだった。
 何者が自分にこの棺を背負わせたのか鬼は知らなかった。だが背負わされた棺と自分との相容れない存在が鬼に苦痛を与え続けた。それは棺の中の存在にも苦しみを与えているはずだった。二千五百年の苦痛から鬼は逃れたかった。
 ある日、今度は巨大な鳥のデルメッツが珍しく北の方までやって来て、乗り手を降ろして南に去った。その乗り手は奇妙な魔法の気配を漂わせていたが、破壊とはほど遠い感じも受けた。鬼はその者の存在を心に留めてまた徘徊を続けた。鬼の名はザークと言う。

 (第二章に続く)

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