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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第二章 月光の要塞

福田弘生

 北国の夏は短く、ボック公爵の軍団と遭遇してから一か月が過ぎる頃にはすっかり風が涼しくなっていた。ボスボスと地面を踏みしめる蹄の音の単調な響きがベリック達を追うように着いてくる。馬上のベリックは時々振り返り、それが自分達の乗る痩せこけた馬の足音である事を確かめた。
 マルヴェスター一座の巡業はすでに終わっていた。セルダン王子達がセントーン王国の首都エルセントに立ち寄った後、グーノス島目指して旅立ったと女魔術師ミリアの伝令鳥が伝えて来たのだ。そこには南の将の要塞の巨大な鷲デルメッツがセントーンに飛来したという報告も添えられていた。そろそろ急がなければならないと老魔術師は判断したようだ。
 栄華を誇るソンタール帝国も北部のこの地方では道も狭く、時々馬を一列にして進まなければならない時もあった。先頭にはこの地域に詳しいフスツが立ち、次に吟遊詩人のサシ・カシュウ、ベリックの順で続く。ベリックの後ろにはフスツの四人の部下、ビンネ・クラウロ・バヤン・トリロが続き、マルヴェスターはいつも通りしんがりに馬を進ませていた。
 一列になって両側の視界が広がると、森の背が高い真っ直ぐな木の下生えの中に灰色の狼の姿が見える時があった。一行の誰もがその事に気付いていた。ベリックはある日、マルヴェスターに馬を寄せて尋ねてみた。
「森の中に狼がいますね」
 マルヴェスターは気にした様子も無く、短く答えた。
「うむ」
「襲ってくると思いますか」
 老魔術師は馬の上で体を揺らしながら笑った。
「この季節は獲物も多い。狼は賢い生き物だから、わざわざ面倒な事をして人を襲う事は無いだろう」
「そうですか」
 ベリックは少し物足りなそうな顔をした。マルヴェスターは笑った拍子に傾いた帽子に手をやった。
「智慧の峰にいたルフーかと聞きたいんだろう」
「ええ」
 マルヴェスターはうなずいた。
「あれはルフーだよ。魔法使いギルゾンも最初の狼であるバイオンもいなくなって、彼らは自分たちで行動しなければならなくなった。彼らなりに何かを考えているのだろう、しばらく放っておきなさい」
「はい」
 ベリックはおとなしく引き下がった。わからない事が多過ぎたのだ。様々な事を考えながら進んで行くと、赤味がかった陽はあっという間に落ちた。一行はフスツが見付けて来た小さな洞窟にその夜の屋根を求めた。石で囲って小さな赤い火を焚くと、昼間の疲れが消えるような暖かさが室の中に広がった。料理自慢のトリロの用意した食べ物は沈みがちな心すら癒した。厳しい生活に慣れていたはずのベリックだが、カインザーで経験した貴族の生活と冒険の野宿の落差はさすがに辛く、まだ成長期の体はゆっくり休めるベッドとたっぷりの食事を求めていた。
 八人は洞窟の中に車座に座って食事を始めた。皆押し黙ったままお腕の中の粥のような物を口に運んでいたが、お茶が配られるとようやく一息つく事が出来た。サシ・カシュウが銀色の髪をたき火の炎に赤く染めてべリックに話しかけた。
「ベリック王、もうすぐかつての月光の将の要塞に着きます」
 ベリックは目を輝かせた。
「そうか、そんな物があったんだっけ。ボック公爵に会って以来、僕は一刻も早くロッグに着く事しか頭に無かった。月光の将の要塞って、今はどんなふうになっているの」
「私も見た事は無いのですが、城下のベーンゼルの町は現在に至るまで営みを続けていて、要塞自体は無人の巨大な建築物だと聞いています」
「そっかあ、早く見たいな」
 髭に付いた粥をしゃぶっていたマルヴェスターが、それを聞いて首を振った。
「あの要塞に寄るつもりは無いぞ」
「どうしてですか」
「どうにも気に入らん場所があるのだ。お前さんは寄らないほうがいい」
 ベリックは不満そうな顔をした。
「まさかそう言えば、僕が反抗して嫌でも行くようになると思ってるんじゃ無いでしょうね」
 マルヴェスターは真顔でベリックを睨んだ。
「わしは本気で言っているんだぞ」
 サシがとりなすように割って入った。
「月光の将がユマールに渡ってすでに二千五百年が経っています。いまだに危険が残っているのですか」
 マルヴェスターはたき火から小枝を抜き出してパイプに詰めた葉に火を付けた。あたりに妙に甘い匂いが漂う。
「危険かどうかすら良く解ら無いのが嫌なのだ。二千五百年前まで、あの要塞はソンタール本国に最も近い要塞として極めて重要な位置にあった。ガザヴォック本人ですら度々滞在していたんだ」
 その名前に皆が耳をそば立てた。サシが尋ねた。
「大魔法使いガザヴォック本人の魔法が残っているのですか」
「ほぼ間違いなく」
「それを見てみたい」
 ベリックが訴えるような目をして言った。マルヴェスターはしばらくベリックを見つめていたが、少年の視線が揺るがないのを見てあきらめ顔で頭を振った。
「やれやれ。いずれ聖宝の守護者の誰かを連れて行かねばならんと思っておったが、お前になるとは思わなんだ」
「どうして僕ではいけないんですか」
「替わりがいないからだよ。ほかの守護者達ならば血縁者がいるからな。どうだ、もう数年待って子供を作ってからにせんか」
「マスター・マルヴェスター」
 ベリックのお目付け役のフスツがあわてて叫んだ。マルヴェスターがヒヒヒヒと嫌らしい声で笑った。
「いかんか、エレーデあたりと」
「マルヴェスター様」
 今度はベリックとサシが同時に叫んだ。あまりに皆が非難の眼差しを向けるので、マルヴェスターはぶつぶつ文句を言いながら洞窟の外に出て行ってしまった。しばらくしてベリックが外に出てみると、魔術師は東の方角を睨んで微動だにせずにつっ立っていた。その視線の先の地平線に、昼間には気付かなかった尖塔を持つ建物の影が小さく見えた。月光がその建物を含む山の稜線をくっきりと浮き上がらせている。ベリックが魔術師の横に立って聞いた。
「あれが要塞ですか」
「そうだ。お前の祖国を滅ぼした軍団がいた要塞だ。憎いと思うか」
 ベリックはそうは思わなかった。
「いいえ、あまりに昔の話で実感がありません。ボック公爵に会ってようやくバルトールが滅びていたという事実を感じたくらいです」
「それで良い。ボックには悪いがお前には新しい時代の王になって欲しい」
 ベリックはマルヴェスターの月光に照らされた青白い顔を見た。
「僕は本当の王にはなりません。バルトールの人々の代表でいい。王は本来シャンダイアの王だけが名乗るものです」
 マルヴェスターが少年を見おろした。
「ザイマンのブライスも似たような事を口癖にしておる。お前は本当のシャンダイア王が戻ってきたら喜んで従うのか」
「もちろんです」
「それが誰であってもか」
「ええ」
 マルヴェスターはそれ以上何も言わずにベリックの肩を叩いて洞窟に戻った。
 二日後、一行が進む道の彼方にその巨大な建造物が姿を現わした。サシがつぶやいた。
「おお、月光の要塞だ」
 フスツと四人の部下がベリックを守るように馬を並べて王を囲んだ。
「王、くれぐれもご用心を」
 要塞に近付くと道幅が一気に広がって人の行き来が多くなってきた。サシが感心したように言った。
「さすがに歴史のある町だ。昔はさらに賑やかだったのでしょうね」
 フスツが皆に説明した。
「すでに通り越してしまいましたが、ここまで来る途中で南に向かう道がありました。あれを行くとリナレヌナという大都市に着きます。この要塞と町からはリナレヌナに向かう別の街道が通じています」
 やがて東に向かう道は南北に分かれた。道行く馬車や旅人達は皆南の道に進んだ。だが北に向かう者はいなかった。フスツが指差した。
「南がベーンゼルの町。北が要塞」
 マルヴェスターが短く指示した。
「北に行く」
 北の道は町を迂回するようにして、山を背にしてそびえる要塞に真っ直ぐに続いていた。ダラダラとした登り坂を上って要塞前の広場に入ると、遠くに見える巨大な城門は開け放たれていた。ベリックはそれを見て、ちょっと残念そうな顔をした。
「本当に無人なんですね。中は泥棒に持って行かれて空っぽなのかな」
 フスツが答えた。
「いえ、ここはまだソンタールの軍事施設になる可能性があるので、地元の者も泥棒もめったに足を踏み入れません。無人ですが、荒らされてはいないはずです」
 門をくぐって分厚い城壁を抜けると、要塞はベリックが思っているような荒廃した廃墟では無かった。それどころか、艶のある石をふんだんに使ったその建築物は、西の将の要塞の荒々しいたたずまいや、北の将の要塞の寒々とした姿に比べて優美でさえあった。
 吟遊詩人のサシ・カシュウは楽しそうだった。
「いくつかの歌に歌われた場所に立ち入るのは、私の楽しみの一つです。この要塞では麗しき月光を映す泉の歌が有名ですよ」
 マルヴェスターが先頭に立った。
「その泉に行く」
 幾重にも塀をめぐらして、まるで迷路のようになった道を辿って要塞の東にある建物の中庭に入ると、そこには大理石で囲まれた泉があった。泉の回りの敷石には様々な模様が刻まれているが、すでにすり減って何が記されていたのかはわからない。あたりには人影どころか獣の姿すら無く、柔らかい日差しの中に鳥の声だけがチチチチと聞こえている。泉には要塞の外の山から水が水路を辿って流れ込んでいるため、魚が泳いでいるのが見えた。サシが泉にかがんで手を泉の水に浸した。
「冷たくて清涼です。これ程おだやかな場所だとは思いませんでした」
 マルヴェスターがベリックの肩を抱くようにして泉に近付いた。
「水の中に魚がいるのが判るな」
「ええ、たくさん泳いでいます。大きな魚もいますね。食べられますか」
「もちろんだ。ランスタインの山々の恵みはバルトールの人々の生活の支えだったのだから。何か他に気が付いた事は無いか」
 ベリックは透明な水の中を覗き込んで観察した。
「金色の魚の置物が沈んでいます」
 その魚の置物らしい物は浅い泉の水面のすぐ下に置かれてあった。マルヴェスターが言った。
「サシ、その魚の下に手を入れてみてくれ」
サシ・カシュウは魚の下に手を入れて探ると、怪訝そうな顔をして魚の回りの水中を探った。
「これは置物ではありません。どこにも支えが無い」
 ベリックが伸ばした手をマルヴェスターが掴んだ。
「お前は触ってはいかん。これがわしの気に入らん物なんだ」
 ベリックはしばらく水の中の魚を見つめてハッとした。
「生きているんですね」
「その通り」
「でも動かない。まるでこの魚だけ時が止まっているようだ」
 それを聞いたサシ・カシュウが青ざめた顔でつぶやくように言った。
「この星を創ったバステラ神は兄神のアイシム神にこう言いました。おお、何と美しい星が生まれた事でしょう。兄上、この星を生き物達のなりわいで汚す事が私には耐えられなくなってまいりました。それに他の欲深い兄弟達が欲しがって争うかもしれません。いっそこのまま誰の目にも触れないよう、時の流れを緩めた闇の中にしまってしまいましょう。と」
 そして吟遊詩人は身震いをして立ち上がった。
「私はガザヴォックの最大の魔法の力とは、あの古代の生物達を繋ぎ止めている魔法かと思っていました」
 マルヴェスターがうなずいた。
「そう思っている者は多い。少しでも魔法をかじった者や魔法に関する知識の豊富な者達は皆そう思っている。わしもここに来るまではそう思っておった」
 ベリックは興味深く泉を覗き込んだ。
「古代の生物を繋ぎ止める魔法よりも、この魔法のほうが凄いって事ですか」
「ドラティやバイオンを支配していた魔法はもちろん大変な代物だ。何しろ魂を縛るのだから。しかしここにかかっている魔法は次元が違うのだよ」
 いつの間にかベリックの後ろに立ったフスツが、少年王の腕を少しずつ引いて泉から引き離しにかかった。しかしベリックは興味しんしんで魚に見入った。
「どうして魚を止めたのでしょう」
「一種の警笛では無いかとこれを見付けたセリスは言っておった」
 サシが驚いた。
「セリス師が発見したのですか」
「そうだ。若いセリスがマルトン神の弟子になった後、わしはセリスを連れて世界中を旅した。その途中で見付けたのだ。研究熱心だったセリスは月光の将の要塞付の魔法使いが冠の魔法使いである事に注目した」
「現在のユマールの将の魔法使いですね」
「そうだ。黒の秘宝と聖なる宝はその力が対応し合っている。黒い冠の魔法使いの魔法は聖なる冠の守護神エルディの持つ力と同じ、ある種の予知。加えてここにはザークもおった。あの鬼は千里を見はるかすという、驚くべき知覚力を持っている。ガザヴォックはそれらの力を借りて何かを予見したのだ」
 サシがつばを飲み込んだ。
「ガザヴォックですら恐れる事をですか」
「ガザヴォックだから恐れる事をだ。ガザヴォックはバステラ神の力をこの世に具現させる魔法使いだ。しかし宇宙は光と闇の均衡の上に成り立っている。と言う事はアイシム神の力を具現させる魔法使いがどこかに存在するはずなのだ」
「ガザヴォックと対立する存在はあなただと思っていました」
「わしは翼の神マルトンの弟子だよ。コウイの秤が闇に傾き過ぎないように、ミリアやザンプタと一緒に真ん中で支えているだけだ。もし秤が光に傾いたら、今度は闇の味方をするだろう」
 サシが話を整理した。
「つまりガザヴォックは、アイシム神の力を引く魔法使いが現れた時に判るように。この魚の時を止めた。ガザヴォックが予見した者がここに現れれば魚の時は流れ出して再び泳ぎ出す」
「そうだ。そしてガザヴォックはその者に総攻撃をかける」
 その時、チャポンという音がした。皆が驚いて振り向くと、ベリックが泉に手を突っ込んで金色の魚を掴んでいた。
「ベリック」
 マルヴェスターが叫んだ。ベリックは残念そうに手を水から引き出して、シャッシャッと振って水を切った。
「僕ではありませんでした。魚は動かない」
 マルヴェスターが真っ赤な顔をしてベリックを睨みつけた。
「どんな罠が仕掛けられているのか判らんのだぞ」
 ベリックはニコニコしながら答えた。
「でも、僕はガザヴォックの仕掛けである事を知っているし、いざとなればマルヴェスター様もここにいます。もしアイシム神の魔法使いが何の知識も無しにここに来たら、たちまちガザヴォックに殺されてしまう。それよりはいいでしょう」
「お前という奴は」
 蒼白になっている大人達の中で、ベリックは冷静だった。
「他の聖宝の守護者でもこの魚を動かす事は出来ない気がします。可能性があるとしたら、すべての聖宝の力を操作するアスカッチの指輪の守護者だけでしょう。あるいは守護者が全員集まって力を合わせればいいのかもしれません」
「なる程、それは新説だ。だがガザヴォックが一人である以上、アイシム神の魔法使いも一人の可能性のほうが高いと思うよ」
 ベリックは首をかしげた
「その魔法使いが具現するはずの、ガザヴォックの魔法と正反対の魔法ってどんな物なんでしょう」
 まだ怒っているマルヴェスターは息を荒げて答えた。
「闇に対する光、静止に対する躍動、死に対する生」
 そこまで言ってマルヴェスターは言葉を止めて息を飲んだ。ベリックが魔術師を見上げた。
「それならば一人、心当たりがあります」
 マルヴェスターは顔に片手を当ててうめいた。
「うっかりしておった、あの魔法使いだ。ここに来るまで思いつかなんだ」
サシ・カシュウが尋ねた。
「誰の事ですか」
「小鬼の魔法使いだ」
「牙の道でセルダン王子にテイリンと名乗った若い魔法使いですか。しかし彼は黒の神官でしょう」
「もしあの男がアイシム神の魔法使いだとしても、まだ自分で気付いておらんのだろう。力が目覚めておらんのだ」
 サシは感心した。
「もしそうだとすればアイシム神は巧妙だ。ガザヴォックの足元で育てているんですから」
「まだ彼がアイシム神の魔法使いと決まったわけでは無いがな」
 マルヴェスターは振り向いて森の中に向けて話しかけた。

「聞いていたか」
 皆が不思議そうに見守る中で、森の中からルフーと呼ばれる狼が一匹出て来た。いつの間にか森の中には無数の狼の目が光っている。そのリーダーらしいルフーは人の言葉で話した。
「聞いていた。テイリンは我らが父の恩人。知らせねばならん」
「うむ。どこにいるのか判るか」
 ルフーはうなった。
「わからない。あの魔法使いは南に向かってソンタール大陸を縦断して行った。我々は平地を追いかける事は出来ない。これから東に向かい、ランスタインの山沿いに南に下ってみる」
 マルヴェスターは目を細めた。
「サルパートの狼にしては遠い所に行く事になるなあ。決して死ぬなよ」
「我らは狼だ。故郷に死ねるとは思っていない。それよりあなた達のほうが危険な旅をしているように思える」
「それでついて来てくれたのか」
 狼はしばらく沈黙した。そして質問した。
「もしテイリンがガザヴォックと相対する存在ならば、両者が出会った時にはどうなる」
「さて、テイリンがガザヴォックの最初の攻撃を生き延びたとしての話になるが、両者が死力を尽くして戦った後は共に滅ぶかあるいは魔法を失うかだろう」
「そして残る魔法の使い手の中で最強の者は誰だ」
 マルヴェスターは頬をポリポリとかいた。
「わしかもしれんが、そうなったらわしはマルトン神に頼んで魔法を捨てるよ。ミリアとてそうだろう。使命が終わればただの女に戻りたいはずだ」
 それを聞くとルフーは黙って向きを変えて森の中に消えて行った。見送ったマルヴェスターは両手の平をパッと上に向けた。
「さて、ここは離れたほうが良いだろう」
 ベリックはニヤリとしてフスツに命じた。
「ベーンゼルの町にはバルトールの宿や酒場があるんだろう。近い将来最強の存在になるかもしれない方に最上の部屋と酒を用意してくれ」
 フスツはちょっと驚いた顔をした。
「はい。しかしここはマサズの支配下の地域です。最上の宿はマサズの手の中も同じ」
「いいさ、ガザヴォックに比べれば」
 マルヴェスターもポツリとつぶやいた。
「たまには良いか。どうせわしらの行動については、とっくにマサズの耳に入っているはずだ」
 その夜の宿は、久しぶりに宿らしい食事とベッドを旅人達に提供してくれた。部屋に運ばせた豪華な食事の後、マルヴェスターは酒の瓶を抱えて部屋の隅のソファーに沈み込んだ。ベリックはテーブルの上の残り物をつつきながら何かを考え込んでいる。フスツと四人の部下は部屋の扉と窓の前に分かれて腰を降ろした。竪琴を磨いていたサシ・カシュウがマルヴェスターに話しかけた。
「マルヴェスター様。あの魚に気が付いたのはセリス師でしたよね。セリス師自身が、自分がアイシム神の魔法使いであると思い込んだ可能性はありませんか」
 マルヴェスターはソファーに横になって眠そうに答えた。
「セリスは賢い若者だった。智慧の峰の王家の血を引き、博学で判断力に優れていた。そんな勘違いはせんだろう」
「だからこそ、何か方法を思い付いたのかもしれません」
 マルヴェスターはちょっと体を起こして酒をあおってから、吐きだすように言った。
「神に選ばれた者になる方法をか。それがルドニアの霊薬を持ってマルバ海に沈む事か」
「あるいは本当にアイシム神の魔法使いだったのかもしれません」
 マルヴェスターはカッと目を見開いて天井を見つめた。サシ・カシュウがあらためて尋ねた。
「アイシム神の魔法使いについてですが、テイリンとセリス師、そしてもう一人の候補者がベリック王がおっしゃった指輪の守護者という事になりますね。ここに連れて来ようと思った事は無いのですか」
「危険過ぎる。ベリックだって連れて来たくなかったんだからな」
 その時ベリックが、嫌いな野菜の下に小さなソーセージを見付けて喜びの声を上げた。そしてキッとフスツを見た。
「フスツ、宿の者にマサズ宛の伝言を伝えてくれ。出迎えを頼むと」
 フスツの顔に驚きと喜びが交互に走った。
「はい」
 マルヴェスターが片方の眉を上げた。
「どうする」
「まずは王として、バルトールの首都に帰還しましょう」
「マサズが明け渡さなかったら」
 ベリックはソーセージをポリポリ噛んで飲み込んだ。
「アーヤがセスタのクライバー邸で、僕の事を何と呼んでいたか知っていますか」
「いや、知らん。だがおおかた盗賊とでも呼んでいたんだろう」
「その通りです。さすがはマルヴェスター様。僕はアーヤに盗賊王と呼ばれていました」
 サシ・カシュウがクツクツと笑った。
「盗みますか」
「友達は大切だから、たまには期待に応えるのもいいでしょ」
少年王はそう言って悪戯っぽい声で笑った。

 かつての西の将マコーキンの銀の龍の将旗は、ランスタインの大山脈を越えようとしている。バーンが先導した山越えの街道は古くから整備されていた旧道で、大軍の行軍にも支障は無かった。空気は薄くてひんやりとしていたが、広大なソンタールの高原は見渡す限りの平地で、山を越えている感覚すら無い程だった。遠くにそびえる高峰は白い雪をいただき、時に馬で渡河する川の水の冷たさには歴戦の軍馬でさえひるむ素振りを見せた。
 それにしても山脈の南と北を結ぶ街道は、マコーキンが思っていた以上に交通の量が多くて今更ながらソンタール帝国の繁栄振りをうかがわせている。道行く商人から買った瓜の甘い味は、生涯忘れないだろうとさえ将軍は思った。
 やがて山脈の頂点を越えて下りにかかった軍勢の前には、ここまでの苦労を吹き飛ばすような素晴らしい景色が広がった。ランスタインの高峰から見下ろすソンタール大陸の北側の風景は絶景の一語に尽きた。マコーキンの軍はやや足を速めながら街道を下りにかかった。そしてある日、マコーキンは自分達が巨大な都市を見下ろしている事に気が付いた。
 マコーキンはバーンとバルツコワに合図をして、三騎で都市を見下ろす崖の上に立った。マコーキンはこの都市を初めて見た。黄色い屋根の家々が円形の巨大な城壁に包まれ、まるで月のように見える。その都市の郊外には緑と赤と黄色の畑が広がり、大地を彩っていた。
「これがリナレヌナか」
 バーンが答えた。
「月の門と言われる都です。ここから先がかつての月光の将の支配地域でした」
 マコーキンはその豊かな都市を見下ろした。
「月光の将はなぜこれ程豊かな土地を離れてセントーンに向かったのだろう。セントーン攻略など、東の将にまかせておけば良かったでは無いか」
 バーンの声がこころなしか低くなった。
「理由は二つございます。一つはセントーンはここより遥かに豊かだという事。もう一つは月光の将が謀反をたくらんだという疑いがあった事でございます」
 無口なバルツコワが驚いた。
「まさか」
 バーンはバルツコワに向かってうなずいた。
「あまり知られてはいないのだ」
 そして人差し指を東の要塞の方角に向けた。
「ガザヴォックが要塞に度々出入りしていたのです。かの魔法使いが、武勇に優れた月光の将をそそのかす可能性はございました。むしろその疑いがかかる前に自ら領地を捨てて東に向かったと言っても良いかもしれません」
 マコーキンも遠く東に目を向けた。
「難しい物だな」
「マコーキン様もお気を付けください。今回もガザヴォックから直に命令を受けているのです」
「ハルバルト元帥も同席していた。それにこれは皇帝陛下のための使命だ。行くぞ」
 マコーキンはそう言って馬首を翻した。
 黒い鎧の軍隊は、大都市の姿に力付けられて急になりだした下りの道を意気揚々と進んで行く。その数キロ後方を一頭の馬に乗った小柄な男が追うように走っていた。イサシである。
 バルトールの死神と呼ばれる暗殺者は、グラン・エルバ・ソンタールからマコーキンを追跡して来ていた。しかしさすがのイサシもマコーキンの突然の北進の理由が掴めないでいる。
(なぜマコーキンは北に向かうんだ。北には何も無いだろう、まさか今更ロッグを絞め上げても仕方あるまい。一番考えられるのは昔の要塞を復活させて、サルパートに占領された北の将の要塞を取り返すための拠点を築く事だが、さて)
 そうなるといささか面倒だとイサシは思った。ランスタイン大山脈の北は軍事的には空き地でなければならない。イサシは向きを変えると、マコーキンの軍を追い越しすために急な斜面をリナレヌナに急いだ。
 リナレヌナに着いたイサシは二つの準備に着手した。一つはマコーキンに会う準備である。かつての北の将は話にならない頑固者であったが、マコーキンは違うだろう。しかし、側近のバーンという切れ者には気を付けねばなるまい。そしてもう一つは、さらに北を移動しているベリック王への準備である。マスター・マサズとどうやって対決させるか、そして自分自身はフスツとどうやって決着を付けるか。イサシは胸に手を当てた。
(フスツの頬に深い傷を付けた時、奴のナイフがもう少しで俺の心臓をえぐり出す所だった)
 イサシはその時の事を思い出して怒りに震えた。そして、フスツが守り続けるベリック王を思い、サルパートの夜空を覆った薔薇の星座と、星座を中心に無数に散った流れ星を思い出した。
(バルトールの王が帰る時、薔薇の星座が花開く。あの少年をどうにかしなければならない)

 大鬼ザークは首を握り潰したトナカイを手にぶら下げながら、セントーンの方角を見て首をかしげた。デルメッツが降ろして行った奇妙な魔法の持ち主が翼の神の弟子と戦っているらしい。だがそこにもう一つ別の魔法が介入して両者は別れた。そこには確かに三つの魔法が存在していた。
 鉄色の肌の怪物はトナカイの角をへし折って取り去ると、頭からバリバリ噛み砕いた。そして類まれな知覚力でセントーンの各魔法を探ってみた。一つは翼の神の弟子、おそらくはセントーンにいるはずの魔術師ミリアだろう。もう一つは何者か判らぬが何か懐かしい魔法。そして最後に感じたのは聖宝神の物であった。ザークは大地を踏みしめて踏ん張った。
(何かが起きつつあるぞ)
 次にザークは西を見た。そして近付きつつある聖宝神の小さな剣の向こうに、身に覚えのある恐ろしい魔法がやって来たのを知った。ガザヴォックの鎖だ。
 大鬼は肉の残骸を地面に叩き付けて咆哮を上げた。あの呪うべき魔法使いがまた自分を捕らえに来たのだ。恐怖と怒りがザークの全身に満ちた、そしてその怒りにあわせて背中の苦痛が体を貫いた。闇の超獣ザークと正反対の魔法が背中に背負わされているのだ。
(いったいいつ、自分はこの棺を背負わされたのだろう)
 あの日、自分は月光の将の軍と黒い冠の魔法使いと共にロッグに攻め込んでいた。戦いは惨烈を極め、黒い冠の魔法使いが連れて来た小さいゾックは、バルトールの踊る戦陣と呼ばれる独特の陣立ての前にバタバタと倒れた。さすがに冠の魔法使いはあきらめて小鬼を退却させた。事態が急展開したのは、あのガザヴォックがバリオラ神の力を消してからだ。そこから、月光の将による圧倒的な殺戮が始まった。一国が滅びる姿は、恐ろしい程に壮大で驚く程多くのドラマを抱えている。
 自分はロッグの尖塔を、家を、城壁を思うがままに破壊していた。その時だ、突然の目がくらむ程の痛みに自分は咆哮を上げた。目の前が白くなり、気が付くと地面に顔をめり込ませるように倒れ込んでいた。そこはランスタインの山の中だった。
 どうやってロッグからランスタインまで来たのかすらわからない。しかしその時にはすでに、背中にこの棺を背負っていたのだ。そしてしばらくして、これまで自分を月光の将の要塞に縛り付けていたくびきの鎖が消えている事にも気が付いた。
 やったのはガザヴォックに違いあるまい、鬼は今その事に確信を持った。黒い指輪の魔法使いの力は底知れぬ。その魔法使いのくびきの鎖が近付いて来ている。ザークはわめきながら大地を叩いた、何度も、何度も、何度も、何度も。強靱な皮膚が裂けて、指先が血にまみれるまで叫びながら荒れた地面を叩き続けた。

 (第三章に続く)

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