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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第三章 道化の都

福田弘生

 そこは、徹底した破壊の後に築かれた、まるでおもちゃのような町だった。短い草がまばらに生えた広大な荒地に、砂混じりの風が吹いている。その荒地の上に、窓と扉が一つずつ付いた小さな丸い建物がまるでゴミでも捨てられたように乱雑に建てられていた。ザラ付いた風に吹かれてベリックは都市の入り口に立った。少年は最初にその都市を目にして息を飲み、唇をかみしめながら目前に広がる景色をグルリと見回した。すぐに気が付くのは、それらの建物がいくつかの色で塗り分けられている事だった。ベリックは問いかけるように後ろに立っているフスツを振り返った。左頬に傷のあるバルトールの暗殺者は小さな声で説明した。
「ソンタール帝国はロッグを統治しやすいように、すべての家を色で塗り分ける事を市民に命じました。一般の人々が住む家はオレンジ。青が商店。緑が宿と酒場。公共の施設は赤、病院は白。黒がソンタールの施設。そして黄色がバリオラ神の教会です」
 ベリックは驚いた。
「まだバリオラ神の教会があるの」
 フスツはうなずいた。
「はい。ソンタールの統治者達はバリオラ神信仰をやめさせようとしましたが、さすがにバルトールの人々が従いませんでした。やむなく死んだ者を葬る際にのみ教会の使用を許されています」
 少年は、子供である自分の大きさにさえ見合う程の建物が並んだ都市の景色を眺めて佇んだ。いつの間にか頬にとめども無く涙が伝っている事にも気付かなかった。それはこれまでに少年が見てきたすべての都市の中で最もさびれた街並みだった。
 海に取り囲まれた明るいザイマンの商業都市。大軍勢のために大ざっぱに整備されたカインザーの荒々しくも頑強な城塞都市。派手好きで不平屋のマキア王が治める、サルパートの冬の寒さをしのぐための機能的な家々。それらに比べて、ベリックの故郷は虐げられたみじめな印象が小さな家々に染みついていた。すでに季節は秋を迎えており、道を行き交う人々は皆茶色のマントをバルトールふうの幅広の帯で締め付けて道を急いでいた。その丸めた背には長年の苦労がしのばれる。それがバルトールのかつての都ロッグ、打ち捨てられた都の今の姿だった。
 ベリックの心に説明しがたい怒りがわいてきた。気が付くと、いつの間にかマルヴェスターがベリックの横に並んで立っていた。
「マルヴェスター様、バルトールの家は元々こういう造りなのですか」
 老魔術師は首を振った。
「いや、これはソンタールがロッグに住む者に許した家の建て方だよ。バルトールの物では無い。しかしすでにここより他にバルトール人だけが住む都市も無い」
 マルヴェスターは辛そうな目で、曲がりくねった道の向こうに見える塔を指差した。
「あれが、最後に残った昔のバルトールの建物だ。この都はかつて、塔の都と呼ばれた美しい都市だったのだ。大きな競技場もあった、音楽や踊りのための立派な劇場もあった。城壁もあった。運河もあった」
 マルヴェスターの声が徐々に小さくなって行った。ベリックはボコボコした家並の中央にそそり立つ優美な円筒形の塔を見上げた。塔は午後の陽光の中で薄紅色に染め上げられている。乾いた空気の中で、それはまるで濡れているようにさえ見えた。
「あの塔はなぜ残っているのですか」
「一時期ソンタールの執政官が住んでおった。バルトールに反抗の力が無くなった今ではその執政官もおらん。最後の建物さえも捨てられたのだ」
「今でも誰かが住んでいるのですか」
 これにはフスツが答えた。その声には怒りの響きが混じっていた。
「現在の支配者が住んでおります」
 少し後ろに立っていたサシ・カシュウが、愛馬の背を叩きながらそっと言った。
「どうやら、その人物の使いがやって来たようですよ」
 ベリックが目を向けると、数人の人影が町の中央の幅の広い通りの向こうに見えた。体をすっぽりと覆う色とりどりの衣装に身を包んだ者達。近付いてくると、皆顔に化粧を施しているのがわかった。女性も何人か混じっていたが、こちらはほとんど裸に近い体に色を塗りたくっている。十人近いその行列は絶えず体をくねらせて、何かの踊りを踊りながら近付いて来た。ベリックにはうまく表現できなかったが、大人ならそこに限りない猥雑さが込められていると表現しただろう。通りに出ていた市民達はうやうやしく道を空け、遠巻きにその一行とベリック達を見守った。やがてベリックの前で立ち止まった行列の中から、白と黒で左右に塗り分けられた服を着た二人の男が進み出た。長身の男と小柄で肥満型の道化師のような化粧の二人は声を合わせて高らかに叫んだ。
「これはこれはベリック様、お迎えに上がりましたぞ」
 フスツが進み出て厳しい声で応じた。
「王を迎えるのにこの行列は何だ」
 フスツの部下のビンネとクラウロがフスツの横に並び、バヤンとトリロはベリックの左右に移動した。長身の道化の顔に不快気な表情が浮かんだ。
「我々が歓迎するように言われたのはベリック王と名乗る男のみ。貴様とマルヴェスターはこの場で殺しても良いとマサズ様はおっしゃっている」
 これを聞いたフスツは凄みのある微笑を浮かべた。
「貴様達では俺一人さえ殺せまい。イサシは何処だ、いつぞやの決着を着けてやるぞ」
 迎えの行列に動揺が見えた。ベリック、マルヴェスターという名前を聞いてまわりで見守っていた人々の間にはざわめきが走った。それを眺めながらフスツがゆっくりと懐から短剣を取り出した。
「残念だがどうやら留守らしいな。と言う事はこの都に危険な者は誰も残っていない事になる」
 太った道化が唇を震わせて反論した。
「馬鹿を言うな。この都市のすべてのバルトール人がマサズ様の民だ。ここはマサズ様の都なのだ。お前達が何を言おうが、何をしようが勝ち目は無いぞ」
 フスツは片手に持った短剣をもう一方の手の平の上でポンポンと叩いた。
「試してみようか」
 ベリックがフスツを手で制して二人の道化に言った。
「マサズの所に連れて行ってくれ」
 道化達はさげすむような顔をして背を向けると、サッサと道を歩き出した。ベリックの一行はその後を速足で追いかけた。見物人が続々と集まって来ている。中には人の波に押されて転ぶ者もいた。今も黄色い衣の老人が転んでいる。サシ・カシュウが見回してフスツに尋ねた。
「この市民はどちらの味方ですか」
「言うまでも無いだろう。バザの短剣の守護者の味方さ」
 背の高い道化が振り返って笑った。
「その守護者が本物ならばな」
 曲がりくねった道をどう進んだのか良くわからないままに、一行はいつの間にか塔の前に立っていた。見上げるとまばゆいばかりの塔の表面は顔が映りそうなくらいに美しく磨き上げられている。案内の道化達は滑らかな壁面をなでるようにして扉の前に回り込むと、長身の道化が薔薇の紋章の扉を叩いた。すると縦長の小ぶりな扉はゆっくりと内側に開いた。道化と女達は踊りながら塔の中にベリック達を招き入れ、さらに一行を塔の上階に導いて行った。
 塔の中にはらせん階段が内壁に沿って作られており、部屋は常に建物の中央の円筒の中にあった。その部屋に巻き付くように付けられている階段と外側の壁の間にはわずかなすき間が空いている。サシが等間隔でやってくる開閉式の窓から外を覗いて不思議そうに言った。
「この外壁は何処で支えているのでしょう。内側の部屋に接している部分が無いのですが。階段で支えているわけでも無さそうだし」
 最後尾を歩いていたマルヴェスターが答えた。
「内側の建物では支えておらん」
「まさか」
「バルトールの建築技術は驚くほど高度だったのだよ。踊りの神バリオラ神は、この寒い地方でも民人が裸で踊れるようにと様々な建築方法を工夫して民を指導した。当時は土木のカインザー、建築のバルトール、そして装飾のセントーンと言われていたのだ。この建物は一つの建物の上からもう一つの建物をかぶせた形になっている。冬になれば一番下の階で火をたき、建物全体が暖まる」
「なんと。しかし」
 そう言って吟遊詩人は外を覗いた。
「外の家々にはその技術の片鱗もうかがえません」
 魔術師も外を覗いた。そろそろ陽が傾きかけている。下にはたくさんの人々が取り囲んでいた。
「ソンタールが奪って行った。バルトールの建築技術はグラン・エルバ・ソンタールの六角形の巨大な建築物に受け継がれている」
 道化達は最上階の部屋の扉の前に立ってその両側に並んだ。そして中央の長身と小太りの二人の道化が扉を開いてベリックに入るようにうながした。ベリックは顔を上げて躊躇する事無く狭い部屋の中に足を踏み入れた。そこには鼻をつく程の甘い匂いが漂っていた。続いて中に入ったフスツがベリックにささやいた。
「モッホと呼ばれる特殊な粉です。あまり大きく息をしないようにしてください」
 マサズという名で知られるバルトールマスターは、屋根が付いたクッションの上に沈み込みそうな巨体を横たえていた。張りを失った生白い肌、筋肉が落ちて垂れ下がるようになった腕の肉。白い化粧にほお紅で彩られた顔。はげ上がった頭には金粉が塗られてチラチラと光っている。ベリックは口元をゆがめた。
(ここにも怪物が一人)
 かつてベリックは黒い盾の魔法使いゾノボートという、怪物のような老人を見た事があった。カインザー大陸にあった西の将の要塞の地下にある、おどろおどろしい魔法の間にフスツと二人で捕まったのだ。しかしあのゾノボートには全身に邪悪な気が満ちていた。触れる者を地獄に落とす禍々しい妖気がその肉体の下に荒れ狂っていた。しかし目の前の老人にはその活力の気配が無い、あるのは薬で活性化された欲望のみの頭脳がまとう朽ちかけた肉体の残骸だ。
 マサズはベリックを見るなり転がるようにクッションから滑り降りて、床に頭をすりつけて歓迎の言葉を述べた。
「これはこれはベリック王」
 その声は薬で荒れた咽のせいか、ゴロゴロとした不快な音を伴っていた。老人は這いながらベリックの足にすり寄った。
「御帰還をお待ち申し上げておりました」
 マサズはベリックの足に頬をすりよせた。少年の足には赤と黒の化粧がすり着いた。少年は顔色一つ変えずにマサズを見下ろした。
「サルパートでお前の部下のイサシに会った。あの男は私を殺そうとしたよ」
 マサズはニコニコと少年王の顔を見上げた。
「しかし殺しませなんだ。お考えください、王。この二千五百年の間に、王の子孫と名乗る者は幾人となく現れました。しかしそのすべてが偽者でした。正直申し上げてこの私も王をお疑いしておりました。しかしその疑いもたった今御尊顔を拝して晴れましてございます」
 ベリックの声は厳しかった。
「お前の迎えの者はフスツとマルヴェスター様を殺すと言った」
 マサズは少年の足を離した。
「それは王とは関係の無い事でございます。フスツは我が部下イサシと不倶戴天の敵同士。魔術師マルヴェスターはバルトールを見捨てた者」
「フスツとイサシの間に何があったか知らないが、マルヴェスター様がバルトールを見捨てたのでは無い事は、ここまでの旅の途中で聞いている」
 マサズはヒョッ、ヒョッと気味の悪い声で笑った。
「騙されてはいけません、相手は三千年生きた魔術師ですぞ。若い王に嘘を信じ込ませる等たやすい事。しかしまあ今は良いでしょう、しばらくの間フスツとマルヴェスターの命は王にお預けいたします」
 そう言って手を叩くと部屋に二人の道化を呼び入れた。
「さて、歓迎の宴を開きましょう。とりあえず宿にお入りください。夜に迎えの者をうかがわせます」
 マサズがそう言うと、部屋に入って来た道化達が再びベリック一行を外に導き出した。塔の外に出ると、マサズの部下達が民衆を遠ざけて道を作っていた。その中を二人の道化に連れられたベリック達が進む。ベリックの横を歩いているフスツは長身の道化に話しかけた。
「ピスタン、貴様の親父はもうとっくに死んでいるかと思っていたぞ」
 ピスタンと呼ばれた道化は振り返りもせずに答えた。
「生憎だったな。親父は健在だ。あのモッホの粉がある限り」
 フスツはニヤリとした。
「生憎なのはお互い様だ、なあトンイ。さっさとマサズに引退して欲しいんだろう」
 今度は太った道化が答えた。
「つまらん事を言うな」
 ベリックは黙ってそのやり取りを聞いていた。やがて一行の前に現れた宿は、緑色で塗られた背の低い建物だった。だが地面を掘って建てられているため、中は驚く程に広かった。おそらく他の家々もこういう造りなのだろう。ベリックは他の地域のバルトールの建物と同じ様にここの廊下も曲がりくねっているのかと思っていたが、そうでは無かった。どうやらここ以外のバルトールの建物の廊下は、わざと迷路のように造られていたらしい。
 しばらくしてようやく落ち着いたベリック達は、用意された豪華な部屋の中で頭を寄せ合った。いつものようにサシ・カシュウが最初に口を開いた。
「あの二人の道化はマサズの息子ですか」
 フスツが答えた。
「そうだ。マサズが死ねばピスタンが後を継ぎ、トンイが参謀におさまる。二人とも。ささやかながら黒の神官達から取り入れた魔法を使う」
 ベリックが尋ねた。
「そうなるとイサシの立場はどうなるの」
「そこが問題なんです。明らかにイサシのほうがあの二人より能力が上です。おとなしく部下になるとは思えません」
 サシが納得した顔をした。
「なるほど、それであの二人にはマサズが必要なんだ。あの老人を戴いてロッグを支配している」
 フスツもうなずいた。
「そうで無ければとっくに隠居させているだろう」
 ベリックが酒のビンを手に椅子に座ってうつむいているマルヴェスターに声をかけた。
「マルヴェスター様、あのマサズがバルトール最大の実力者と言うのが理解できません。どう見ても、他のマスターのほうが優れているように見えます。それにイサシならば、マサズ親子をまるごと始末してマスターにおさまる事だって出来るでしょう」
 マルヴェスターはそのままの姿勢でモゴモゴと答えた。
「出来んのだよ」
「どうしてですか」
「マサズはバリオラ神の言葉を話すと言われているのだ」
「まさか」
「いや、わしも何度か聞いた事があるが確かにバリオラ神の声だった。お前が帰還するまで、わしがバリオラ神が滅びていないと思ってきた唯一の理由がそれだったのだ。マサズが何処から神の声を受け取っているのかわからんが、それが代々のロッグのバルトールマスターが持つ力なのだ」
 ベリックが身を乗り出した。
「どうやって神の声を話すのですか」
「モッホの粉によってもたらされる異常な興奮状態の中でだ。怪しいとは思うんだが、声は本物に聞こえる」
「実際にバリオラ神の声を聞いた事があるマルヴェスター様がそうおっしゃるのでしたら本物なのでしょう」
 サシが興味深々で尋ねた。
「ところで女神はマサズの口を借りて何を話すのですか」
 マルヴェスターは顔を上げた。その顔は悲しみに満ちていた。
「悲鳴だよ、延々と続く悲鳴だ」
「女神は、苦しんでいるのですか」
「どこかでな。しかしそう遠くでは無いという気がしておる」
 その夜、マサズの迎えが来て一行はまたあの塔に戻った。そして三階にある広い部屋でベリックの歓迎の宴が始まった。マサズは半透明の布の向こうのクッションにモッホの粉を水ぎせるで吸いながら沈み込んでいる。ベリック達はこの都にこれ程豊かな物があったのかと思われる程の御馳走を前に、鮮やかな模様が刺繍されたクッションに座らされた。
 歓迎の宴は音楽と踊りにあふれていた。半裸の女性達の踊りはまだ少年のベリックでさえ興奮させるものだったが、むしろそのリズムを取る手拍子と靴が床を叩く音のほうの印象が強烈だった。激しい音はいつ下がるのかと思われるほど延々と上がり続け、踊り子の後ろで太鼓を叩く男の手は見えない程に激しく動いた。それは技術と同時に並外れたスタミナをも意味している。やはりバルトールマスターの身近に仕える者達は色々な面でその能力が高い。激しい音楽に身をまかせているうちに、ベリックはふと違和感を感じた。
(これは違う)
 ベリックは音楽の専門家であるサシ・カシュウを見上げた。吟遊詩人はうなずいて少年の耳に口をよせてささやいた。いつも驚く事だが、サシのささやき声はどんな騒音の中でも聞く事が出来る。
「これは歓迎の踊りではありません。殺意のために旋律が乱れている」
 殺気は音と踊りの中に編み込まれていたが、人の心のままに反応すると言われる短剣の守護者ベリックはその殺意の糸をたどる事が出来た。部屋の奥の二隅に殺気がある。フスツも気が付いてベリックを見たが、ベリックは目でフスツを制すると立ち上がった。
「私が踊ろう」
 ベリックは着ていた服を脱ぐと上半身裸になって踊っている人々の真ん中に飛び込んだ。足を大きく開き、両手を広げて軽やかに少年は人々の間を舞い踊った。殺意の糸が少年を追って踊り子の間を縫う。
 部屋の中のランプの光が届かない陰で、魔術師マルヴェスターは壁に背をもたせてその糸を追ってみた。二本の糸は部屋の最奥の両隅から一本ずつ伸びている、その隅の衝立の陰には道化が二人。
(ベリックは道化の兄弟の魔法を封じている。もはやあそこまで絡んだ魔法の糸に殺傷の威力はあるまい。メソルは見事に育てた)
 やがて殺気の糸は静かに部屋の隅に消えた。それに気付いたベリックが踊りを終えると、部屋の中に何とも言えない沈黙が降りた。
 敏感なサシ・カシュウには部屋の中の者達が皆マサズに気兼ねしているのだとわかった。だがやがて控えめに拍手が起き、その音は次第に大きくなって部屋を満たした。マサズがいたはずの半透明の布の向こうにはいつの間にか人の気配が消えていた。やがて部屋の中の踊り子や楽団の男や女達が次々にベリックの元を訪れて賛辞を述べた。マサズと二人の息子が不在のまま宴がはけてベリック達は宿に戻った。
 宿に戻ると、宿の雰囲気も一変していた。人々はベリックが通り過ぎると深々と頭を下げ、王に手を握ってもらおうと少年の元に歩み寄った。ベリックは根気良く人々の握手に応えた。部屋に戻るとフスツと四人の部下がうやうやしくベリックの上着を受け取った。その時、男達の目には涙が浮かんでいるのが見えた。フスツが言った。
「王。見事な踊りでございました。暁の舞い、バルトール七舞の一つ」
 ベリックはきつい靴下を脱いでため息をついた。
「知らなかった。メソルおばさんが教えてくれたんだ」
「七人のバルトールマスターが一舞ずつ伝承しております。ロトフ様は火の舞を継いでおりました。モントは癒しの舞い、マサズは激情の舞、リケルは豊穰の舞」
 マルヴェスターが後を引き取った。
「ケイフは海の舞い、ジザレは大地の舞。王は七舞のすべてをこなす」
 ベリックは少しひるんだ。
「それはたいへんだ、一つ覚えるのに凄く苦労したんだから。ところでロトフの舞は今では誰が継いでいるの、アントンは踊れないよ」
 フスツはちょっと赤くなった。
「それは、私が。いずれアント様にお教えいたします」
「じゃ、その時一緒に僕にも教えてもらおう」
 サシがクツクツと笑った。
「これでいいでしょう。王はロッグの市民の心をマサズから盗みつつあります」
 ベリックは不満そうだった。
「だけど最初の目的は話し合いだったんだ。でもマサズを見ている内に、どうしても僕を支持するように話す気になれなくなってしまった」
 この正直な感想を聞いてマルヴェスターが笑った。
「お前はまだ若い。マサズは堕落しておるが、そう悪い者でも無い。あきらめるな」
「ええ、わかっています。少なくともゾノボートの時のような恐怖は感じなかった」
 ベリックがそう言った時、扉をノックする者があった。フスツが応対に出ると一人の黄色い衣の男が扉の外に立っていた。男は余程の高齢なのか、立っているのがやっとという様子に見える。しかしその声は練り上げた鉄のようにはっきりしていた。
「ベリック王にお会いしたい」
 フスツがその前に立ちふさがった。
「何の用だ」
 男は盲目とさえ思える落ちくぼんだ目を部屋の中のベリックに向けた。
「王にお渡ししたい使命があるのです」
 マルヴェスターが立ち上がった。
「ずいぶんと重い荷のようだな」
「おおマルヴェスターか。重いよ、二千五百年だ」
 マルヴェスターは目を見開いた。
「ナバーロか。おぬし生きておったか。早く部屋の中に」
 サシが進み出て老人を抱きかかえるように部屋に導き入れた。椅子に座らせた老人にベリックが歩み寄ってその手を取ると、老人は涙を流しながら王を見上げた。
「長うございました。バリオラ神がガザヴォックに拉致されて以来、私はバリオラ神の言葉をバルト−ルマスターに繋ぎ続けて参りました」
 マルヴェスターもその手を取った。
「ナバーロはバリオラ神の神官だ。そなたがマサズにバリオラ神の言葉を繋いでいたのか」
「そうです。しかしマサズはこの事を知りません。バリオラ神の存在は巫女に深く繋がっているが、巫女はどういうわけかこの国を去った。だから女神の言葉は私が繋ぎ続けたのです。それがバリオラ神が最後の力を振り絞って私に与えてくれた力でした。長かった、何回か王の偽者が現れたが、わしにはすぐに偽者だとわかった。もう王家は絶えたとさえ思った事がありました」
 ベリックが水の入ったコップを老人の口に運んだ。
「巫女はこの国を離れたけど、その子孫が僕の先祖を守り続けたんだ」
「ありがとうございます王。そうだったのですか、不思議な旅芸人の一座がボック公爵の軍を鎮めたという噂を聞いてこれはと思って山を降りて参りました。降りて来て良かった」
 マルヴェスターが驚いた。
「ランスタインの山の中におったのか」
「そうだ。バリオラ神はランスタイン大山脈の東のほうにいる。わしはそう感じ続けている」
 ベリックが顔を上げた。
「マルヴェスター様」
「うむ。お前が向かうのはここよりさらに東らしい」
 窓の外を覗いていたフスツが首を振った。
「問題はマサズが我々をすんなり行かせてくれるかです」
 窓の外には大勢の人の足音がしていた。どうやら完全に軟禁状態にされているらしい。一行は顔を見合わせた。

 月の門と呼ばれる大都市リナレヌナでマコーキンの動静をさぐっていたイサシは、早くベリック王を追いかけたくて気が気では無かった。もちろんマコーキンも先を急いでいるようだが、さすがに軍勢を率いていては急ぐ速度にも限界がある。バルトール人の経営する宿でイライラしながら待っているイサシの元に、マサズの使者がやって来た。イサシが部屋に通すと特徴の無い中年の男は口頭で報告をした。
「マサズ様はベリック王と名乗る男を始末してしまうおつもりです」
 イサシは舌打ちした。
(思った通りだ、馬鹿者が。単純に殺しただけで解決するものか。あの老人が愚かな事を始めないうちにロッグに戻らなければ。あの吸い込まれるような瞳の少年をマサズごときが殺せるわけが無い)
 だがマコーキンの動きを掴むまで、ここを動けないのも事実だった。バルトールの爪と言われた暗殺者はポケットの中のモッホの粉の入った袋を無意識にいじりながら考えた。その袋はグラン・エルバ・ソンタールを出る時にマスター・ジザレに渡された物だった。
(かつての首都をおさえているマサズには確かに勢力がある。だがジザレにはこれがある。黒の神官ですら一目置く力がここにある)
 イサシはマコーキンを使うしかないと思った。
 その夜。出発の準備の指示を終えたマコーキンが、リナレヌナの公館の部屋に戻ると部屋の中に人の気配がした。姿は見えないがマコーキンの感覚をごまかす事は出来ない。
「誰だ」
 カーテンの陰から窓の月光を受けて黒い服の小柄な男が歩み出た。
「さすがに将軍。私の気配を感じ取る事が出来るとは」
「私は将軍である前に戦士だ」
 イサシは嬉しそうに笑った。
「私はバルトールのイサシ。イサシである前に暗殺者かもしれない」
 マコ−キンは愛剣バゼッツ・アランに手をかけた。
「ほう、伝説の死に神の来訪か。しかし私はここで死ぬわけにはいかんぞ」
「もちろんです将軍。将軍に情報を一つ持って参りました」
 イサシはそう言ってマコーキンの前にひざまずくと、うやうやしく頭を下げた。
「情報の代価は何だ」
「率直に申しましょう。将軍の目的を知りたい、私はある用事で先を急ぐ身なのですが、あなたの目的を知るまではここを離れられないのです」
 マコーキンは部屋の中央の椅子に座った。そして小さなテーブルの上に用意してあったグラスに、ワインを注いで一つをイサシに差し出した。その落ち着いた姿を見てイサシは心の中でうなった。
(なる程、北の将ライバーとはモノが違う)
「このあたりの物だが味は中々だ。かつてのバルトール地方にはうまい酒もあったのであろう」
 イサシはワインを口に運んでみた。
「良く見つけましたね、このあたりでも珍しい物だ。しかしこれは」
「ああ、バルトールの地下商人が扱っているのだろう。街中の酒場で買った。バーンがバルトールの宿の一つだと言うので行ってみたのさ」
 イサシはこの将軍とその部下に対する評価をさらに高く修正した。
「あなたをあまりここには置かないほうが良さそうだ。バルトールの拠点も含めて都市ごと奪われてしまいかねない」
 マコーキンはフッフッと笑った。
「やはりそう思うか。ここに来る将軍は謀反の疑いをかけられるとバーンが言っている。皇帝陛下やハルバルト元帥が心配を始めないうちに俺も出発したほうが良さそうだな」
 イサシもうなずいて言った。
「気が変わりました、私も早くあなたに出発して欲しい。代価はいりませんので、情報をお教えいたします」
「それはありがたい」
「カインザーにかくまわれていたベリック王と名乗る男と魔術師マルヴェスターが、バルトールの旧都ロッグに潜伏しております」
 マコーキンの顔に複雑な表情が浮かんだ。イサシにはその意味が読めなかった。
「将軍、ただちにロッグにお向かいください」
 マコーキンは不思議そうな表情をした。
「君達の王だろう」
 イサシは首を振った。
「我らにとって王はすでに遠い過去の存在です。今のバルトールを支配しているのは七人のマスター。その筆頭のマサズ様が今の私の主です」
 マコーキンは剣を手に取ると、子供のようにその柄に顎をついた。
「だがロッグには行かないよ」
「なぜです」
 マコーキンは顔を上げてイサシを見た。
「俺の目的地はその向こうのクリルカン峠だ」
「クリルカン峠ですと」
「目的の内容までは言うわけにはいかない。見たかったらついて来てもかまわないが、理解出来まい」
 イサシは首を振った。
「残念ながらクリルカン峠までお供するわけには参りません。しかしロッグに立ち寄ってベリックを捕獲すれば大手柄でしょう」
「使命の遅れに繋がる手柄などいらない」
 イサシはしばらく黙って将軍を見つめた。そしてあきらめたように言った。
「そうですか。それではいずれまたどこかでお会いいたしましょう」
 バルトールの暗殺者背を向けかけたが、ふと動きを止めてマコーキンに問いかけた。
「将軍、カインザー大陸で将軍の元にいたテイリンという魔法使いは、今どうしていますか」
 マコーキンは初めて大きく表情を変えた。
「テイリンか、どうしてあの男を知っている」
「北の将ライバー様の元でお会いした事がごさいます」
「なる程、君はライバー殿にも手を伸ばしていたんだな。さすがに油断のならない男だ。テイリンならば南の将グルバ殿の元に行ったはずだよ。あそこは小鬼のゾック向けの戦場では無いと思うのだが、何か彼なりの理由があるのだろう」
「そうですか。ふと気になったものですから。あの魔法使いは他の黒の神官とはどこかが違っていました」
 マコーキンは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「彼を思い出させてくれた礼を言う」
「それはどうも」
 そうしてイサシは窓から外の闇に消えた。
 イサシが消えた窓をしばらく見ていたマコーキンはバーンを呼んだ。遅い夜に突然呼び出された参謀はあわてて駆けつけた。
「どうなさいました」
 マコーキンは大きく手を振りながら部屋の中を歩き回った。
「今、ここにイサシと名乗るバルトール人がいた」
「何と、有名な暗殺者ではございませんか」
「だが俺は無事だ。そのイサシが二つの情報をくれた。一つはバルトールのベリック王と魔術師マルヴェスターがロッグにいるそうだ」
 バーンはうめいた。
「ううむ。これは微妙な相手、手を出しますか」
 マコーキンは首を振った。
「いや、俺の目的はまずザークだ。それよりもう一つの情報のほうが面白い。イサシはテイリンの事を思い出させてくれた。ザークの捕獲には間に合わないが、この地方ではあの男の力が十分に発揮出来ると思う。グルバ殿の元に使いを出してマコーキンが必要としていると伝えてくれ」
「かしこまりました」
 マコーキンは明るい茶色の髪をした若い痩せっぽちの魔法使いの姿を思い出して微笑んだ。
「よし、明日ここを立つ」
 翌日、マコーキンはバーンとバルツコワを従えて出撃した。率いる兵の数は一万である。流々と旗をなびかせ、ゴウゴウと地響きと土煙を上げて黒い鎧の軍勢が出立して行く姿をイサシは道端で見送った。そしてそばにいた部下に命じた。
「マサズ様に伝えてくれ。ソンタールのマコーキン将軍がそちらに向かったと」
 もちろんイサシはマコーキンの目的地がロッグでは無い事を知っていたが、これでマサズは混乱する事だろう。ベリックに手を出すのをしばらくは延ばす事が出来るかもしれない。イサシはその場で馬に乗ると東に向かった。まずはマコーキンの後をついて旧月光の要塞へ、そしてロッグへ。

 無敵の豪傑トルソン公爵が頑張っているポイントポート城の西の平野で、カインザー王国の機動部隊の隊長ロッティ子爵はバルトール人の若者達を集めて訓練をしていた。セスタ近郊に集まっていた者達とポイントポートに集まっていた者を合わせると万余の軍勢になる。小柄な子爵は平野を縦横に駆け巡っては、行進の仕方、隊列の組み方、休息、補給等と言った基本的な事柄を細かく教え込んでいった。
 今日も蒼天の下、ロッティは茶色のマントを翻しながら一日中尾花栗毛の愛馬を走らせた。気分がのるとロッティは何時間でも馬にまたがったまま過ごす。太陽が中天に差しかかる頃、馬上で食事をしているロッティの元にブラム城から呼び寄せられたエンストン卿が、これも馬で駆け寄って来た。
「お館様、新しい参加者を編成して来ました」
 ロッティは馬の上でうなずいた。
「御苦労」
 いつもは落ち着いた物腰のエンストンも、今日は日に焼けた精悍な表情をしている。卿は顔の汗を手でぬぐった。
「しかし、どこにこれだけの数のバルトール人がいたのでしょうね。もうすぐ二万になります」
「驚くばかりだな。しかし、彼らは体形的には騎馬戦に向いている」
「馬を知らない者が多いですが、教えればその騎乗センスは抜群ですな。カインザー人よりうまいかもしれません。昔はどういう戦い方をしていたのでしょう」
「踊る戦陣と呼ばれる陣立てだったようだ。バリオラ神は踊りの神だから、なにか宗教的な意味合いがあったのだろう」
「そうですか。彼らはこれから北に向かってランスタイン大山脈の北に布陣する事になるはずです。その伝統的な陣立てを調べておいたほうが良いかもしれませんね」
「しかし二千五百年も前の戦い方だ。俺は全く知らんぞ。マスター・モントの部下にでも聞いてみよう」
 その踊る戦陣のおぼろげな姿を翌日ロッティは知る事になる。早朝、けたたましいドラとラッパの音が訓練場のほうでかき鳴らされた、驚いたロッティが駆けつけると、数百人の黄色い衣装のバルトール人達が踊るようにしながら楽器をかき鳴らしていた。
「なんだこれは」
 そのロッティの元に一人の老人が訪れた。
「おはようございますロッティ様、マスター・モントの部下のリビトンと申します。踊る戦陣の訓練を行っておりました」
 ロッティは楽器を持った若者達を見渡した。
「おい、本当にこれがそうなのか」
 リビトンは少し困ったような顔をした。
「おそらく」
「おそらくだと」
「なにぶん、遠い昔の陣ですので、我々には残された資料が少なく」
 ロッティは頭に手をやると、もう一方の手を目の前でパタパタと振った。
「いかんいかん。それならばやめておけ。あんな物を鳴らして行った所で狙い撃ちされるだけだ」
「いえ、音だけでは無いのです。バルトールの七人のマスターが伝承している七舞にちなんだ戦い方があるのです」
「その踊りは知っているのか」
「いいえ」
「それでは当面役に立つまい」
 ロッティは教練に参加している士官達を集めた。
「軍を三つに分ける。一隊はこれまで通り馬術を。もう一隊は歩兵戦の教練をする。最後の一隊はサルパートの山を縦断する」
 士官達は一斉にオオ、という声を上げた。
「バルトール軍が敵と戦う時はランスタイン大山脈を利用した戦いになる可能性が高い。今の内に訓練しておこう。エンストン、馬術のほうを頼む。俺は一隊を連れて山を登る」
 エンストンが不思議な顔をした。
「お館様は山登りが得意でしたっけ」
「いや」
 ロッティはすずしい顔で否定した。
「山道の歩き方の指導はモントの部下に頼む事にしている。俺は途中で離れて巫女の学校に行くつもりだ」
「巫女の学校ですか」
「そうだ」
「なぜそのような所に」
 ロッティは嬉しそうな顔をした。
「エレーデだ。馬と会話が出来る娘とよく話をしてみたい。北の将の要塞攻めの時にはほとんど挨拶すら出来なかったから」
 そう言ったロッティ子爵の姿は、今にも駆け出しそうに部下達の目に映った。

 かつてロッティ子爵とクライバー男爵がソンタールのゼンダ軍を迎え討って死闘を繰り広げたサムサラ砦も、今では王城にも匹敵する程の壮大で堅固な造りの城塞になっている。まだ細かい所には荒削りな造りが残るが、元々カインザー人はそんな事など気にしない。
 その城の城代カイト・ベーレンスはオルドン王の使者を送り返して会議室に戻った。そこにはカインザーのアシュアン伯爵、サルパートのエラク伯爵、そしてバルトールのマスター・モントの三人の外交官が、ワインのグラスを片手に同じような姿勢で人形のように並んでいた。それを見たカイトはちょっとゾッとした。
「いいんですか、オルドン王に知らせないで」
 ぽっちゃりしたアシュアン伯爵がチーズに手をのばしながら答えた。
「良い、良い。オルドン王に知れたら護衛の軍勢を連れて行けと言われてしまう。それでは平和を呼びかける使節にはならん」
 カイトは立ったままグラスにワインを注いだ。
「しかしシャンダイアの王の書状も持たない使節など、ソンタール側が相手にしないでしょう。誰の書状をもらうおつもりですか」
 背の高い細身のエラク伯爵と落ち着いた雰囲気を持つ老人のモントが顔を見合わせた。エラク伯爵がグラスをコンと机に置いて言った。
「我らがマキア王は書状を書くのが抜群にうまい。しかし文章が巧み過ぎて何が書いてあるのか相手にわからんという問題がある」
 モントも顔をしかめた。
「ベリック王の書状をもらうには、マルヴェスター様達を追いかけねばいかんぞ。わしの部下ならば可能だが、王の邪魔になってしまっては困る」
 アシュアンがチーズをモグモグしながら言った。
「王はまだ他に二人いる。ザイマンのドレアント王と、セントーンのレンゼン王だ」
 エラクが首を振った。
「ドレアント王は好戦的過ぎる。和平を申し入れる書状をもらっても、彼の名前ではソンタールに信じてはもらえまい、残るはレンゼン王だ」
「しかし、セントーンは遠いぞ」
 そこでモントが妙案を出した。
「サルパートには王と同格の指導者が後二人いるでしょう」
 エラクはうなずいた。
「うむ。一人は巻物の守護者だが、現在の守護者のスハーラ様はブライス王子と一緒にザイマンへの航海中だ。もう一人はエイトリ神の神官長エスタフとなるが」
 そこで外交官達は黙り込んだ。あの偏屈な神官長に平和交渉の書状など書かせられるだろうか。そこまでの議論を聞いていたカイトは内心これは前途多難だと思った。
「どうです、しばらくこの計画は置いておいて各勢力の様子を見ながら牙の道に温泉でも建設してませんか。いずれにしても傷ついた兵達を養生させる場所は必要なんです」
 しかしアシュアンはきっぱりと首を振った。
「それはマキア王に頼んでおこう。立派な物を造ってくれるはずだ」
 そこまで言ってアシュアンは眉を上げた。
「いささか我々への協力に消極的だなカイト、育毛剤がまた必要になったのか。心なしか髪の毛に厚みが出たような気がするが」
 カイトは少し嬉しそうに頭に手をやった。
「ああ、ありがとう。少しは効いてきたのかな。いいえ、薬はもう充分なんです。ただこの計画はとても難しい」
 そしてカイトは質問を変えた。
「ところで、アシュアン。いったいソンタールの誰と交渉するつもりなんですか、それなりの実力者で無ければ話にならないでしょう」
 アシュアンは飲んでいたワインの瓶をかかげた。
「それはわしらが最初に話し合って決めた事だ」
 モントが後を継いだ。
「ゼイバー提督だ」
 カイトは驚いた。
「ゼイバーですか。これは意外な名前が出てきた。僕は適当な貴族でも相手にするのかと思っていた」
 アシュアンが椅子に座り直した。
「ソンタールの力は四人の人物に集中している。皇帝、陸軍元帥、海軍提督、そして黒の神官の総帥だ」
 エラクが指を折った。
「黒の神官の総帥ガザヴォックは論外、陸軍元帥ハルバルトも事実上のこの戦争のソンタール側の総大将です。和平を申し入れる相手として適当では無いでしょう。そこで私達の相手は海軍提督ゼイバーだという事になったんです」
 モントもうなずいた。
「ソンタールの宮廷に距離を置いているという変わり者だ。接近するにしても適当な相手だと思う」
 カイトは考え込んだ。
「それならばグラン・エルバ・ソンタールまで行く必要はありませんね。エルバナ河に沿って北上して、エルバン湖のゼイバー提督の海上要塞を訪ねればいい」
「そうなるな」
 カイトはもう一つ尋ねた。
「ソンタールの残る最後の実力者、ソンタール皇帝と言うのがどんな人物か知っていますか」
 これにも情報通のモントが答えた。
「不思議なくらいに奥に隠れた人物だ。先代のザンゼリル八世が死んだのが十二年前の事だった。当時皇帝には五人の息子がいたが、内二人は早々に権力闘争を避けて野に下った。一人はユマール大陸に逃げ、一人は黒の神官になった。しかし神官になった一人はすぐに暗殺されている。残る三人の内赤ん坊が一人いたが、これもすぐに消息が絶えた。残る二人がしばらくの間権力闘争をしていた形跡があるんだが、結局どちらが帝位についたのかはわからん。現在まで皇帝の即位式は行われていないんだ。何らかの取引があって両者生き残っているのかも知れん。あるいは両者共に死んで、残る三人の大老が協議して帝国を支配している可能性もある。わしはその後者では無いかとにらんでいる」
「でもそれではいつまでも統治を続けられないでしょう。次の代の事もある」
「その時にはユマールに逃げた皇子の子供でも連れてくればいい。帝室の種が一人生き残っていればいいんだ。ユマールの将が逃げてきた皇子を殺していない唯一の理由がそれだろう」
 カイトは部屋の壁に掛けてある世界地図を眺めた。
「そのユマールに逃げた皇子に連絡をつけると言うのはどうですか」
 モントがニヤニヤした。
「実に魅力的な提案だ。ソンタールを割るのならばそのほうがいい。ユマールの将ごとそそのかして、ソンタール、シャンダイアに次ぐ第三勢力にしてしまうんだ。アシュアン、政治家の腕の見せどころではないか」
 慎重なエラクが首を振った。
「戦闘が広がるだけだよ。だが、皇子を利用すると言うのは悪く無い考えだ」
 カイトは残念そうに息をついた。
「ところでモント、ソンタール皇帝が実は空位であるかもしれないと言うのは本気で言ってるんですか」
「もちろんだよ。事実新皇帝の姿を誰も見ていないんだから。ソンタールの貴族達ですら見ていないんだ」
 カイトは不満そうだった。
「しかし現在の皇帝には名前がある。空の椅子に名札だけという事は無いでしょう」
 モントは眉を上げた。
「そうだ。名前がある、この十二年間。わしらはその名前と戦い続けてきた」
「そう、セルダン王子も、レド・クライバーも、私も。ソンタール皇帝と戦うためにベロフ男爵の厳しい訓練を受けてきたんだ」
 そう言ってカイトは剣に手をかけた。
「ハイ・レイヴォンと戦うために」

 (第四章に続く)

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