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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第八章 小鬼の獣道

福田弘生

 マコーキンに向かって踏み出したミリアの後ろから、大鬼ザークが轟くような声で叫んだ。
「気を付けろ翼の神の娘。その戦士がいかに優れた人間とは言え、我らとまともに戦っては勝ち目が無い。あえて戦いを挑むにはそれなりの手段を持っているはずだ」
 次にザークは低い声でマコーキンに向かって呼び掛けた。
「将マコーキンよ、これは間違った行為だ。魔法使いは元々聖なるバステラ神を奉る者達。しかしガザヴォックはいささかその道を踏み外そうとしている。バステラ神では無く自らの力でこの星を支配しようとしているのだ」
 マコーキンは大鬼を見上げた。
「私はソンタール皇帝に仕える者だ。ガザヴォックが何者で何をしているのであれ、皇帝のために働いているのであればその命令を聞く」
 ため息をついたミリアは、振り返って軽く気合いを付けるとザークの巨体を一気に駆け上ってその肩に立った。そして自分の体程の大きさがある巨大な耳に話しかけた。
「ザーク、私が魔法で兵を攪乱するわ。その隙にこの谷を逃げ出してセントーン領に駆け込みましょう。私がレンゼン王とセントーン軍の総大将のゼリドル王子に話をつける」
 ザークは今度は心で答えた。
(将マコーキンはガザヴォックのくびきの鎖を持っている。その魔法の鎖を投げつけられればそれで俺の魂は絡め取られる)
 ミリアは下にいるマコーキンをチラリと見た。そしてその鋭い視力はマコーキンの左の拳に鎖が巻き付けられているのを確認した。
「そう、あの鎖があなた達始祖の生き物を縛っていたのね。ならばやはり私がマコーキンを阻止するしか無いわね」
 ミリアはザークの肩からポーンと飛び降りてザクッと湿った地面に立った。マコーキンが笑った。
「話はついたか」
「ええ。やっぱり私があなたと戦う事にしました。あなたをしばらく動けなくしてあげる。それから」
 そう言ってザークを見上げた。
「その次にザークをどこかで水浴びさせなきゃ、もの凄い匂いよ」
 ザークの鉄色の顔が心無しか青ざめた。マコーキンは視線を戻したミリアを見て剣を握り直すと、あっという間に間合いを詰めた。ミリアは以前にテイリンにかけた事のある力の網をマコーキンに放ってみた。するとマコーキンの左手の拳に巻き付けた鎖がシュッと伸びて力の網を絡め取るように回転して吸い込み、素早くマコーキンの手に戻った。ミリアは鼻を鳴らした。
「ふん。さすがにガザヴォックの魔法の鎖、それだけでも難物」
 マコーキンは次の瞬間、一気にミリアの横を駆け抜けようとした。
「ザーク気を付けて」
 そう叫んでマコーキンを追おうとしたミリアに、マコーキンは左手の鎖を投げつけた。鎖はミリアの細い右手に絡まった。ミリアがあわてて腕にぶら下がった鎖を見つめると、鎖は一瞬光ってミリアの手の中に吸い込まれた。
「ばかな。これはザークへの鎖のはず」
 マコーキンは剣を地面に突き刺すと、右のポケットからもう一つの鎖を取り出して素早くザークの足下に駆け寄ると巨大な足に投げつけた。鎖はザークのゴツゴツした足の甲に落ちてその中に消えた。
「オオオオオオオッ」
 ザークが壮絶な叫びを上げた。ガザヴォックが鬼の魂を捕らえたのだ。ショックから醒めたミリアは振り向いてマコーキンに駆け寄ろうとした。しかしマコーキンが左手を握るようにして胸の前に引き絞ると、ミリアの体が浮くようにマコーキンの足下に引き寄せられた。ザークのあえぐような声が降ってきた。
「マコーキン、そなた鎖を二つ持って来ていたのか」
 マコーキンは頭上でうめいている鬼を見上げた。
「一つはザーク、そなたへの物。もう一つは私の自由になるはずの鎖だ」
 ミリアが黄色いズボンの膝の汚れをはたきながら立ち上がった。
「つまり私の魂はあなたの自由になるというわけ」
 ザークがうめいた。
「そんな単純なものでは無い。そなた達二人はお互いに呪われた運命で繋がれた」
 ミリアはザークを見上げた。
「それは私とマコーキンの魂がガザヴォックの意のままになるという事なの」
「いや、魔法を操る糸口になるべき鎖の両端はガザヴォックの手にあるわけでは無い。だからもはやガザヴォックの意志ですらその鎖を外す事は出来ないだろう。ソンタールの将マコーキン、翼の神マルトンの弟子魔術師ミリア、お前達の行く先は俺にも見えない」
 ミリアは美しい顔を振り向けてマコーキンを睨みつけた。
「この事を知っていたの」
 マコーキンも驚いたようだった。
「いや、この鎖については良く知らないのだ」
 マコーキンは左手の手の平をしばらく見つめた。しかしすぐに目を上げると、その目には澄んだ光が宿っていた。
「終わった事は仕方ない。あなたには私に同行してもらうしか無さそうだ。後の事はそれから考えよう、ザーク」
 マコーキンが叫ぶと。ザークは咆吼して岩のようなこぶしを振り下ろした。しかしその拳はマコーキンの目の前で止まった。マコーキンは瞬き一つせずに言った。
「たとえ何かに縛られていても、命も魂も一つだけだ。お互い大事にしようでは無いか」
 マコーキンは坂の下で控えているバーンに向かって叫んだ。
「グラン・エルバ・ソンタールに戻ろう」
 その時、大鬼が苦し気な声を上げた。
「マコーキン、ガザヴォックが話したがっている」
 マコーキンがザークを見上げると、ザークの声がやがてしわがれたガザヴォックの声になった。
「マコーキン、良くやった。ザークの魂は確かにわしが支配した」
 ザークの血走った目がマコーキンの隣に立つミリアに移った。
「我が予感は予想外の成果をおさめたようだな。何とミリアを捕らえたか」
 ミリアが地団駄を踏んでいきり立った。
「この悪魔。グラン・エルバ・ソンタールで待っていなさい、ただじゃおかないから」
「いや、来る必要は無い。ザークは一人でグラン・エルバ・ソンタールまでわしが引き寄せる。マコーキン、ハルバルト元帥からセントーンの北の海岸にまわれとの指令だ。もうすぐ東の将が山から、ユマールの将が海からセントーンに総攻撃をかける。北で待機していろ、そなたの軍への補給は海から行う」
 マコーキンの顔に喜色が浮かんだ。
「私もセントーン攻めに加われるのですか」
「いや、最初から参戦しては両将が許すまい。彼らは時間をかけてセントーン攻めの準備をしてきたのだ。しかし戦いは必ずや激戦になるはず、混乱の中にそなたの出番がやって来る」
 マコーキンの横にやって来たバーンが言った。
「マコーキン様、これはまたと無い指令です。北でじっと気配を殺して戦況を見極めるのです。我ら一万の兵が最後にこの戦いを制するかもしれません」
 マコーキンは腕を組んでザークを見上げた。
「承知いたしました、ガザヴォック様。ところで魔術師ミリアはいかがいたしましょう」
「好きにするが良い。もうその鎖はわしの手を離れている」
 ザークは魔法使いの声で笑うと、叫びながら山に駆け込んで行った。ミリアはそれを見送ると、振り向いてマコーキンの頬をパシンと力一杯張った。マコーキンは口の中の血の味をかみしめながら、山を降りるよう全軍に指示を下した。

 ・・・・・・

 マルバ海の北の海域、守りの平野セントーンと智慧の峰サルパートのほぼ中央の海上にユマール大陸は位置している。この星で四番目に大きい大陸の東岸にあるホーン港に、カインザーの外務大臣アシュアンをはじめとする一行が着いたのは、カイト・ベーレンスのいるサムサラ城を出発してから実に半年後の事だった。モントが用意したバルトールの船から桟橋に降り立ったアシュアンは、ガクガクする膝に両手を当てて大きくため息をついた。
「やれやれ、マルヴェスターの気持ちが良くわかるわい。船などは乗り物では無い」
 しかしアシュアンはまだマシなほうだった。サルパートのエラク伯爵に至っては蒼白のまま声も出ない放心状態で、呆然と港町を見つめていた。首を軽く振って肩を叩いたマスター・モントが部下に軽く指示を出した。そしてしばらくすると、二台の馬車がガタガタと港の敷石の上をやって来て三人の前に止まった。そして馬車から格闘家のような大柄な男が出て来て、笑いながらモントを抱きしめた。
「まだ生きていたのか老いぼれ」
 モントは大男の胸で窒息しそうになりながら答えた。
「当たり前じゃケイフ。わしが死んだら誰がベリック王の元にバルトールをまとめるんじゃ」
 短い黒髪、綺麗に髭をそり上げたいかつい顔のマスター・ケイフは腕を組んでうなった。
「マサズはやはり駄目か」
「うむ。わしらがサルパートを出る時にはまだベリック王に従ってはいなかった」
 モントは後ろで辛そうにしている二人の友人を振り返った。
「ケイフ、カインザーのアシュアン伯爵とサルパートのエラク伯爵だ。二三日休ませてやってくれ」
「おおもちろん。お二方ユマールにようこそ」
 ケイフは三人を馬車に乗せて小さな船宿に案内した。見かけは質素だったが、三人が通された部屋は豪勢な調度品で飾られていた。食事の頃になるとさすがにアシュアンは元気を取り戻したようだったが、エラク伯爵はぐったりと椅子に横になったままだった。
「死ぬんじゃないだろうか」
 そう心配したアシュアンにケイフが笑って答えた。
「船酔いで死んだ人間を俺は知りません。それよりあなた達を待ちかねていました、ユマールは大変な事になっている」
「どうした」
 モントが口の中に食べ物を入れたまま、モグモグと尋ねた。
「ついにユマールの将ライケンが出撃する。東の将と呼応してセントーンを挟み撃ちだ」
「何と。状況はそこまで来ていたか」
「ライケンと東の将キルティアの仲が悪いので、これまでセントーンは海から攻められた事が無かった。しかし今回はソンタール本国から厳命が下りたらしい。すでに艦隊の準備はほぼ完了している」
「ソンタールの情勢は」
「うむ。南の将グルバがイクス海でザイマンに敗れた。現在弟のザラッカが要塞で防戦中だが陥落は時間の問題という情報だ。もしかしたらもう落ちているかもしれん」
 アシュアンが飛び上がった。
「それは本当か。わしらは海の上にいたので情報が入って来なかった」
「間違いありません。南の将はもうおしまいです」
 アシュアンは急に元気になって歩き回った。
「よしよし。あそこにはセルダン王子とベロフ。バイルンとクライバーもいるはずだ。これで海上から兵を直接ソンタール大陸に輸送出来る」
 温かい肉を噛み千切りながらケイフがうなずいた。
「確かにソンタール大陸に侵攻するにはあの要塞は重要です。しかしザイマンも傷だらけで戦う力は残っていないでしょう。おそらくは当面南の将の要塞を確保するのが精一杯のはず。ライケンは無傷でセントーンに攻め込む事が出来ます」
 船に関しての知識が少ないアシュアンにはよくわからなかった。
「しかし戦いは陸の上だろう。セントーンのゼリドルは東の将の攻撃さえ撃退していれば大丈夫なんじゃないのか」
 モントが説明した。
「いや、かなり影響があるんだ。今までは東の将に囲まれていても海には自由に出て行く事が出来た。そこが封鎖されるとまずセントーンの人々の士気が落ちる。さらにはセントーンに数多くある川に侵攻されれば、ゼリドルは思うように兵を移動出来なくなる」
 ケイフが続けた。
「さらに、名も無き魔法使いとその巨獣がセントーンに進入する」
 横になっていたエラク伯爵が薄く目を開けて体を起こした。
「それが心配だったんです。謎の魔法使いと巨獣ですよね。正体をご存知ですか」
「いいえ、私も知りません。我々は黒の神官の中にも情報源があるが、彼らですらその正体を知らない」
 ケイフはモントを見た。
「もう一つ情報があるんだ。ソンタール皇帝が即位する」
「まさか、今頃か」
「西の将、北の将、南の将とやられたからな。どうやらセントーン攻めを契機に大攻勢に出るらしい。そのためだと思う」
 アシュアンがうめいた。
「見当違いだったかな、やはりソンタール皇帝は存在したんだ。これは落ち延びた皇子では無く海軍提督ゼイバーの元に行くべきだったか」
 ケイフが拳を唇に当てて考え込んだ。
「いや、逆にいい機会かもしれない。ユマールに逃れて来ている皇子ムライアックはあせっている。うまく話を持ちかければ乗ってくると思う」
 モントはケイフと顔を見合わせて笑った。
「面白い。実に面白い事態だ」
 学者肌のエラク伯爵はオドオドとしてケイフに尋ねた。
「皇子ムライアックとはどんな人物ですか」
「先代皇帝ザンゼリル八世の五人の息子の三男です。今年二十歳になる。神官になった弟と一番下の赤ん坊は死んだはずなので、今度帝位に着くのは残る二人の兄の内のどちらかでしょう。ムライアック自体は特にどうと言う事も無い普通の男です」
「でも、ユマールの将ライケンに大切にされているのでしょう」
「されていたと言う事になりますね。帝位が空っぽの時にはそこに送り込んでライケンが後ろ盾となって実権を握る事が出来る可能性があった。しかし皇帝が正式に即位してしまえば、むしろライケンに謀反の疑いをかける絶好の口実になってしまう」
 アシュアンが困った顔をした。
「ソンタールも複雑だなあ。むしろ一枚岩であったほうが扱い易い。これでは誰と同盟を結んでも、他が離反してしまってラチがあかない」
「お国とは違いますからね。カインザーはまとまり過ぎていてむしろ異常なほうなんです。政治なんて大抵こんなものです。こんな相手と本当に講和を望んでいますか」
「もちろんだ」
「それならば提案させてください。あなたは表に立たないほうがいい。各戦線の先頭にいるのはすべてカインザーの九諸侯です。この使節はサルパートのエラク伯爵を代表とすべきです」
 太ったカインザーの外務大臣はうなずいた。
「うむ、もっともだ。エラク、モントそれで良いか」
 モントはうなずいた。
「もちろんだ」
 エラク伯爵は唇を震わせていたが、しぶしぶとうなずいた。
「いいでしょう」
 ケイフが膝を叩いて立ち上がった。
「よし、明日、首府モンゼラットに向かって出発します。しばらく馬車に揺られますので今夜はゆっくり休んでください」
「なに、船より良いだろう。早くこの星をマルトン神に渡して、翼の生えた乗り物でも作ってもらいたいものだ」
 アシュアンがそう言うと、モントが小太りの友人をまじまじと見た。
「海より空のほうがいいと思うか」
「いや、知らん。だが空では波の揺れは無いだろう」
「しかし落ちそうではないか」
 二人は顔を見合わせた。エラクがブツブツとつぶやいた。
「どっちにしろ、土の中よりいいだろう」
 翌朝、アシュアン達は座席にクッションをたくさん敷いた馬車で、ユマールの首府モンゼラットに向けて出発した。

 ・・・・・・

 南の将の要塞の陥落を見ずに脱出したテイリンは、ランスタイン大山脈の南に延びた峰に沿って北上していた。付き従うのは二千のゾック。故郷を出てからすでに五年近くになろうとしている。
 若い魔法使いは汗に濡れた明るい茶色の髪を掻き上げた。
(なんだかいつも山の中を走り回っているような気がする。思えば激しい戦役の中でこの弱い種族がこれだけ生き延びた事を驚くべきなのかもしれない)
 季節は春の真っ盛りで、山は濃い緑に覆われていた。獣道を器用に縫いながら魔法使いとゾックは進んだ。テイリンの腕の中にはしばらく前まで竜の仔が抱かれていた。しかしその仔は今では、一行の上空をパタパタと飛んでいる。テイリンは空を見上げたが、今は木立の枝に遮られてその姿は見えなかった。しかしあの仔がテイリンから離れて行かない事はこの一か月の間に良くわかっている。
 テイリンがふと視線を降ろした時、木漏れ日に斑になった山道の暗い木陰のさらに暗い部分が動いたような気がした。テイリンはあわててゾックを止めた。
 木立の闇の中に細長い白い物が浮かび上がった。良く目をこらすとそれは人間の白い足だった、やがてその足は闇を引きずるように光の下に歩み出た。そこには漆黒の真っ直ぐな髪を長く垂らし、黒い衣を着た女が立っていた。黒い衣は細長い布で、足や腕が動くたびに白い肌がチラチラと見え隠れする。しかしその体のはっきりした輪郭は黒い粉のような妖気がゆらめいて良く見えなかった。妖気の中から金色の猫のような瞳がきらめいてテイリンに話しかけた。
「ここに立ち入ったら、殺すと言っておいたはずだけどねえ」
 テイリンの後ろで、ゾックがぼそぼそと警告の声を上げた。ふと気が付くと森の中いっぱいに金色の目が光っている。テイリンは内心しまったと思った。
「レリーバ様ですね。私は小鬼の魔法使いテイリンです。東の将のキルティア様の領域を侵すつもりはございません。遙かに北の故郷に帰るためにここを通りかかっただけでございます」
 レリーバは細い声で笑った。
「東の将の支配地域に言い訳はいらない。何者であってもキルティア様とあたしの思うがままなんだよ。マーバル」
 レリーバが呼び掛けると、森の中の金色の瞳が流れるように動いて木々の幹や枝に貼り付くようにテイリン達を囲んだ。それは背中に黒い斑がある濃い茶色の毛皮を持つ山猫の群だった。テイリンは迷った。
(今のゾックならばこの囲いを突破出来るだろう。しかし自分はレリーバを出し抜けるだろうか。まだまだ要塞付きの魔法使いと自分との間には力の差があるのでは無いか)
「来てもらおうかテイリン」
 テイリンはあきらめた。
「はい。しかしゾックを要塞に連れてゆく事は出来ません。二千のゾックは問題を起こすでしょう。この山の中に置いておいていただけないでしょうか」
 レリーバは気にしていないようだった。レリーバは初めてゾックを見たのでこの数年の間に変異した事に気付いていないらしかった。また新しく生えた羽もボロボロの革の服の下に隠されていたのだ。
「かまわないよ、小鬼に用は無い。用があるのはお前だけだ」
 テイリンはゾックにこの付近で待機しているように言い含めるとレリーバの後に従った。上空で奇妙な鳴き声がして、レリーバが空を見上げた。出てこないでくれとテイリンは祈ったが、どうやら竜の仔は賢明にも危険を察知したらしく上空には何の気配も感じられ無くなった。その時、ドンという轟音がして大地が揺れた。実はしばらく前からテイリンはこれに気付いていたのだが、土地に不案内なために何事なのかわからなかったのだ。テイリンは前を行く魔法使いに尋ねた。
「この音と振動は何ですか」
 レリーバは振り返った。
「知らなかったのかい。ドール火山だ」
「私の故郷には火山がありませんでした。サルパートには温泉はありましたが、大地を揺らす火山は無かった」
「ならばいずれ要塞から見る事が出来るはずだ」
 黒い巻物の魔法使いに導かれるままにテイリンは山道を登った。相変わらずレリーバの姿は黒い妖気のゆらめきではっきり見えない。やがて獣道を抜けると突然目の前に巨大な噴火口跡が現れ、その底に明るい緑色の水をたたえた火口湖が見えた。湖の遙かに向こうに煙を上げる山が見える、あれがドール火山だろう。そして噴火口跡の鉢の縁を半周ほどした所に尖った塔の立ち並ぶ要塞が建っていた。
 テイリンはこれ程要塞の近くに寄っていたつもりは無かった。もしかしたら、レリーバが魔法で自分達をここに導いてきたのでは無いかという疑問がテイリンの心に浮かんだ。おそらくそうなのだろう。
 二人の魔法使いは鉢の縁の切り立った崖の上を歩いた。風が強い。一瞬、レリーバの体を包む妖気が顔の部分だけ晴れた。魔法使いは肩越しに振り返った。小さな顔だった、金色の鋭い目、小高い鼻、小さく真っ赤な唇。少し笑うと白い歯が光った。真っ黒く長い髪が一房、顔にかかって揺れる。それは凄絶な美しさだった。
「どうしたテイリン」
「いえ」
 レリーバはフフフと笑った。
「見事だね。大抵の男はこの顔をみただけで我が意のままになるのだが。美しい女に縁のある生い立ちとは聞いていないが、どこかで美しい女に会ったか」
 テイリンは口ごもった。
「遠慮無く言ってみるがいい」
「おそらく二人。セントーンの王女エルネイア姫と魔術師ミリアに会った事があります」
 レリーバの口元に残酷な笑みが浮かんだ。
「なる程、それで私を含めてこの世で五人の美女の内三人に会った事になるね。しかしそれもじきに二人になる」
「もう少しお言葉をください」
「フフフ、私とキルティア様が残り。エルネイア、ミリア、女神エルディが消えるのさ」
 テイリンはゾッとする寒気に襲われた。レリーバはまた妖気を顔にまとった。
 脆い大地の上に堅牢に構築された要塞の中には、おなじみの黒い衣装の神官兵と濃紺の鎧の要塞兵がびっしりと配備されていたが、神官の中に巫女が数多くいるのにテイリンは気付いた。やがてテイリンは噴火口跡を覗き込むように大きく窓が作られた大広間に案内された。
 東の将キルティアは、窓の正面の巨大なクッションの上に豊満な体を寝そべらせていた。真っ赤な髪、頬に複雑な模様を施した化粧、体には真っ赤な薄衣と金と宝石を散りばめた装飾をまとっている。その奔放な姿にテイリンは頭がおかしくなりそうになってきた。
(レリーバとどっちが魔法使いなのかわからない。これでも将なのか)
 キルティアはうっとりするような低い声でテイリンに話しかけた。
「お前がテイリンかえ。とてもソンタールの将の疫病神には見えないが」
 テイリンはあわてて否定した。
「私は疫病神ではありません。私を受け入れてくれた要塞は皆辺境にありました。それらがカインザー軍の手にかかっただけの事です。将を倒した最大の敵はカインザー王国とその戦士達です」
 キルティアは白い喉を見せて笑った。
「ホホホホ、敵の敵は味方とも言う。グルバとザラッカを始末してくれたカインザーに礼を言いたいくらいだね」
 その時、キルティアの後ろの壁に貼られた毛皮かと思われた大きな模様が動き出した。テイリンはギョッとした。キルティアがまた嬉しそうに笑った。
「私の愛しいデッサに驚いたようだね」
 それは巨大な山猫だった。金色に光る毛皮を持つすべての猫の始祖は物憂げな目でテイリンを見た。デッサがじっとテイリンを見つめているのにイラだったキルティアが突然持っていた扇で床を叩いた。
「下がらせなさい」
 テイリンの後ろに立っていたレリーバがクスリと笑って小声で言った。
「キルティアを嫉妬させると恐いよ」
「猫にですか」
 レリーバはそれには答えず、部下にテイリンを部屋に案内するように命じた。
 テイリンが引き下がった後、巨大な山猫デッサはゆっくりとキルティアの部屋を抜け出して、要塞の外の噴火口跡に立って湖を見つめているレリーバの元に行った。レリーバは妖気と長い黒髪を揺らしながら立っていた。デッサは心で尋ねた。
(あの不思議な若者は何者なの)
「テイリン。ソンタールの将の疫病神と呼ばれている小鬼の魔法使い」
(その男をなぜわざわざ連れて来たの)
「何かがあるのよ。ソンタールの将と魔法使いが次々に倒れる戦いにすべて参加しているのに、ただ一人生き残っている。私ならば彼からその不思議な何かを奪い取れるかもしれない」
(気を付けたほうがいいわ。かつて出会った事の無い魔法を持っている。一刻も早く追い出したほうがいい)
 レリーバは美しい体を擦りつけるようにしてデッサの背中によじ登った。そしてボロボロと脆い石の欠け落ちる崖を駆け回った。いつの間にか現れたマーバルの群が後から主人達を追いかける。レリーバはマーバルに指示した。
「ゾックを一体連れておいで」
 その声でマーバルがワッと崖の斜面に散った。

 テイリンは通された部屋でベッドに腰掛けると、自分の手の平をじっと見つめた。どうしても越えられない要塞の魔法使いとの力の差。しかし自分はドラティ、バイオン、デルメッツという三体の巨獣の血を浴びて成長しているはずだった。どこかでこの力を試してみなければならない。
 テイリンは要塞のベランダから外の景色を見下ろしてみた。東の将の兵と黒の神官達があわただしく動き回っているが、すでにほとんどの兵はランスタイン山脈の東面に展開してセントーンへの総攻撃に備えているはずだった。残った者達は湖の火口跡の東側で何かの工事をしている。テイリンはザラッカの言葉を思い出した。
(レリーバは女が持つすべての魅力とすべての悪を持っていると、ザラッカ様は言った。レリーバの持つ力は他の魔法使いとは別の種類の恐怖だ)
 外で山猫が鳴いている。
(ゾノボートは底なしの盾、ギルゾンはねじくれた凶気の短剣、ザラッカ様は圧倒的な破壊の剣。レリーバは巻物の魔法使いだ。アイシム神の巻物が知恵ならば、レリーバの巻物の力は何だろう。巻物の力は知恵のはず、いったい何の知恵なのか)
 やがて日は傾いた。早めの食事が神官によって届けられたが、誰も訪ねては来なかった。夜が来て要塞は沈黙に包まれる。月光に呼び寄せられるようにテイリンが部屋からベランダに出てみると、眼下に広がる火山湖が月光でキラキラと輝いていた。その水の色を見てテイリンはギョッとした。まるで血のように真っ赤だったのだ。若い魔法使いは、昼間要塞の兵達が工事をしていた方角に目を向けた。
(セントーンの方角)
 テイリンはかつて行ったセントーンの豊かな大地を思い出してハッとした。
(毒だ。レリーバの力は知恵では無い、アイシム神の巻物の癒しの力に対抗する毒の力だ。この火口湖いっぱいの毒をセントーンの川に流すつもりなのだ)
「気が付いたかい」
 テイリンの後ろの闇の中に声がした。テイリンは振り向かなかった。
「あなたは何をしようとしているのかわかっているのですか」
 闇の中に小さな白い顔が浮かんだ。
「もちろんだよ」
 怒りの声を上げて振り向いたテイリンめがけて、闇の中から長い髪の毛が触手のように伸びた。あっという間にテイリンの手足は髪に巻き込まれてレリーバに引き寄せられた。テイリンの目の前にレリーバのゾッとする程美しい顔があった。レリーバの裸の胸がテイリンに押しつけられる。テイリンは懸命に抵抗した。闇の中、レリーバの髪の毛の檻の中で二人の男女の格闘が始まった。レリーバが笑った。
「何を抵抗する。底知れぬ快楽を与えてやれるに」
「そんなものはいらない」
 テイリンはレリーバの柔らかい腹を蹴り上げた。レリーバは猫のような敏捷さで避けるとさらに髪の毛でテイリンの四肢を締め上げた。
「やはり何かあるね。魔法使いとは言え、ここまでの抵抗は難しいはず。夕方解剖したゾックもおかしいとデッサが言っていた。いったいあの生物は何だい」
 テイリンの怒りが爆発した。
「ゾックに何をした」
「なに一体くらいいいじゃないか、バラバラにしてみたのさ。爪と牙がおかしいねえ、翼なんかゾックにあるとは聞いた事が無かったが」
 テイリンは怒りにまかせてレリーバの髪の毛に炎を放った。レリーバの顔が炎に包まれる。かつてテイリンは西の将の要塞の地下でブアビットと呼ばれる魔法使いをこれで焼き殺した事がある。しかしレリーバは炎に包まれても涼しい顔だった。やがて炎は消え、さらなる闇がやって来た。そしてさらなる沈黙が訪れ、部屋の中にはテイリン一人が残った。
 テイリンは涙を止める事が出来なかった。
(絶対にレリーバを許さない)

 ・・・・・・

 暑い海風が吹いている。南の将の要塞から緑の要塞と名前が変えられた城塞と港の周りの地形を調べていたクライバーとバンドンは、緑色のザイマン王旗がたなびく要塞を遙か彼方に眺めた。要塞の各所から生活の煙が上がっている。兵達は忙しく行き交い、港には船が次々に出入りしていた。その港から少し離れた入り江では、ソチャプの巨大な触手が揺れているのが見える。このソチャプは海でしか生息出来ないのだ。バンドンがクライバーに声をかけた。
「見事なもんだな、デル・ゲイブと言う男は。要塞が陥落してからほぼ一か月だが、ここまでの指揮は文句の付けようがねえ。ほとんどこの要塞は戦えそうじゃねえか」
 クライバーはうなずいた。
「ああ、明らかにブライス王子より戦闘時以外の統率力は上だ。だが、どんなにデルが見事に要塞をまとめ上げてもこの戦力ではどうにもならん」
 そう言ってクライバーも緑の要塞を見上げた。要塞にはバイルンが指揮する弓兵を中心とする軍が配備されている。カインザー軍は先の海戦と要塞戦でそれ程戦力を減らさなかったが、その数はあまりにも少ない。バイルンの要塞兵三千、クライバーの騎馬部隊が千二百という状態である。ベロフの抜刀隊は精鋭ながら二百人に満たない。
 ザイマン海軍の指揮はデルの婚約者のベゼラ・イズラハが執っているが、こちらの艦隊もグルバとの決戦の後で傷だらけだった。すでにドン・サントスとマスター・メソルの船団が離脱しており、要塞に残ったのは傷付いた艦船が約百六十隻。現在懸命の修復作業が進んでいる。押収したグルバ艦隊の残り八十隻は兵員輸送のためにカインザーに向かっていた。
「グルバからの捕獲船を使った兵員輸送船がようやっと十日前に援軍を迎えに出たばかりだ」
「あれが戻るまでには二月はかかる。ここは西や北の要塞のような辺境じゃねえ、すぐにもソンタールの大軍が押し寄せるぜ。ニガッソ男爵の指揮する船乗りどもがもうちょっと役に立つといいんだが。どうして船の上であれだけ勇猛な連中が、陸に上がると臆病になっちまうんだか」
 クライバーは涼しい顔だった。
「陸の上じゃ、海に飛び込んで逃げられないからさ。しかし俺は少人数で大軍を相手にするのには慣れている。ここはサムサラ砦に比べれば比較にならないくらいの大要塞だ」
「冗談じゃねえ。あんな経験は二度とごめんだぞ」
 その時、バンドンはふと背中に寒いものを感じて内陸の方角を振り返った。
「本当にすぐに来やがるぞ、ソンタールは」
 このバンドンの言葉が現実となる時が迫っていた。南の将の要塞陥落の報告を受けたソンタールは、奪回のために大軍を繰り出す事を決定していたのだ。

 ・・・・・・

 サルパートの聖王マキアの統治する赤の要塞を出発したロッティ子爵は、ソンタール軍の小さな駐屯地を縫うように攻撃しながら東に進み、経験の無いバルトールの若者達に実戦経験を積ませていった。そしてほぼ一月後に月の門リナレヌナを包囲した。リナレヌナの大都市を囲む壁を眺めて馬上のロッティは隣に馬を並べているエンストン卿に相談した。
「カインザーから呼び寄せる騎馬部隊が到着するまであとどのくらいだ」
「二週間程」
「待つか」
「はい。リナレヌナにはソンタールの大部隊はおりませんが、経験の無い兵で攻めては混乱を起こすだけで都市をボロボロにしてしまうでしょう」
「そうだな。ここはベリック王に無傷で進呈したい都市だ」
 ロッティは都市の数か所の出口を外から封じて都市の城門の正面に野営を張った。そして三日目の夜、野営地が夜の眠りに着こうとする頃、突然リナレヌナの城門が内側から開かれた。門からは見る間にかがり火があふれ出し、中央に数騎の人影が現れた。知らせを受けたロッティが駆けつけてみると。小太りの不格好な鎧姿の男が中央に馬を進めて来て、ロッティの前に降り立った。男が部下に指示をすると、後から数人の男の死体が運ばれて来てロッティの足下に並べられた。男はロッティに深々とおじぎをして名乗った。
「ベリック王からロッグをまかされております、マスター・トンイと申します。これはリナレヌナにいたソンタールの守備隊の指揮官達です。わずかな兵達はすでに降伏の意を固めております」
 ロッティは腰の半月刀に手をかけた。
「ロッグのマスターの名はマサズと聞いていたが」
「父マサズ、後継者である長男ピスタンは共に亡くなりました。私はマサズの次男でございます。すでにベリック王はロッグに支配を確立され、現在バリオラ様をご回復させるためにエルセントに向かっております」
 後ろでエンストン卿が嬉しそうな声を上げた。ロッティもさすがにホッとした顔をした。
「そこまで知っているのならば信じて良かろう。それで、ここリナレヌナの状況は」
「リナレヌナに住むのは元よりバルトールの民。ソンタール兵さえいなくなれば、ベリック王に服する事でしょう」
「よし、マスター・トンイ。カインザーに集まっていた二万人のバルトール人の若者達をロッグのマスターにお返ししよう。戦闘訓練は積んである。小規模な実戦も経験している」
 トンイは丸い体を揺らして喜んだ。
「これは嬉しい。訓練された万余の兵をバルトールが持つのはロッグ陥落以来でございます。私共のロッグにも兵は七千程おります」
 ロッティが感心した。
「ほう、さすがだな。俺の騎馬軍団二万ももう二週間程で着く。あわせて四万七千。久しぶりにまともな戦力で戦えそうだ」
 エンストン卿が付け加えた。
「歩兵の二万も一月ほどでやって参ります。それで六万七千。敵の動静はどうですか」
 トンイが説明した。
「今のところランスタイン大山脈を越える街道にはソンタール軍はおりませんが、リナレヌナが奪われたと知ればすぐにやって来るでしょう」
「マコーキンはどうした」
「東に向かいました。どうやら山の中でザークを追跡しているようです。発見した後、どこに向かうのかは不明です」
「ふうむ。マコーキンの兵の数は」
「約一万」
「それならば歩兵の到着を待たずとも勝てるな。さて、戦うならばかつての月光の要塞という事になるだろうが、山脈からの出口にあたるここを守り抜きたいものだ」
 トンイもうなずいた。
「マコーキンが戻って来ないのであれば、ランスタインの山を越えてきた敵をこの出口で叩くほうが良いでしょう。しかし私はバルトールの事情には通じておりますが戦闘の指揮は得意ではありません。出来れば子爵に王が戻られるまで、全軍の指揮を執っていただきたいのですが」
 ロッティはうなずいた。
「わかった。だがバルトールの二万七千は君が率いてくれ」
 トンイは少しとまどったようだったが、コクリとうなずいた。ロッティは感心した。
(さすがに肝が座っている)
 そこへロッティが率いて来たバルトール軍の世話役のようになっているリビトン老人がやって来て場違いな大声を上げた。この老人はいつでもそうだ。
「おお、おお、トンイ様」
 トンイはちょっと驚いた。
「リビトンじゃないか。マスター・モントは無事か」
「さあて、ユマールに向かってからはまだ連絡が参りません。まあ、あのお方の事ですから大丈夫でしょう」
 ロッティがトンイに言った。
「兵の詳細に関してはリビトンに聞いてくれ。カインザー人の俺にはわからん事を良く知っている」
「了解しました。明日の朝にはリナレヌナに入れるはずです」
「よし」
 こうして世界中に離散していたバルトール人は、久しぶりに軍団として戦線に参加出来る事になった。

 ・・・・・・

 セントーンの宝石と美しさを賞賛される盾の守護者エルネイア姫にとって、この夏の初めの数週間は特別な期間だった。驚く程たくさんの人々がエルセントの王城エルガデールを訪れたのだ。
 まず南からマスター・メソルの船団で到着したのは、おなじみの三人の守護者達だった。出迎えの馬車から降りる客をエルネイア姫は父のレンゼン王と兄のゼリドル王子と共に城の扉の前で出迎えた。
 先頭にやって来るのは水色の服の剣の守護者セルダン王子。そして似合わない冠をかぶった冠の守護者ブライス王子。相変わらず少女のように清楚な巻物の守護者スハーラ。エルネイア姫はセルダンのヨレヨレの格好を見て飛び出して行って抱きしめたい衝動にかられたが、王女のたしなみで何とかおさえた。
(取りあえずこの男の件は後回しにしよう。聞く事と話す事と調べる事が山盛りなのだ)
 エルネイア姫の興味はセルダン王子の護衛のアタルス三兄弟の前を歩いている二人の男女に移った。女性のほうは額にきらめく宝石から、一目でマスター・メソルとわかった。しかし横の男。
(あれがトーム・ザンプタなのかしら)
 それは王国の学者達から聞き出したホックノック族の姿では無く、ただのしわくちゃで小柄な老人のようだった。エルネイア姫が観察しているうちに、セルダン王子達は十か月ぶりのエルガデールの綺麗な石畳に靴音を響かせて近づいて来た。そして細身の王子はレンゼン王に向かって大きな声で挨拶した。
「守りの平野の王家に栄えあれ、聖なる盾に光あれ」
 レンゼン王はにこやかに笑った。
「良く無事だったなセルダン、ブライス、スハーラ。ゆっくりと休むが良い。おっつけ他の者達もやって来る」
 ゼリドルがブライスに笑いかけた。
「南の将を倒してくれた礼を言うぞ。いよいよ決戦はここセントーンに移りそうだな」
「ああ、いよいよだ」
「そうだ、スゥエルトが待ってるぞ」
「おお。そうだった。あいつ元気でしたか」
「頭のいい馬だ。手際よく種付けをこなしていたよ」
 スハーラとエルネイアが赤くなった。

 セルダン一行が着いた六日後、北から馬と馬車でやって来たのは魔術師マルヴェスターをのぞくと、エルネイア姫には初対面の人ばかりだった。まず先頭で門をくぐったのが、頬に深い傷のある鋭い表情の男だった。その後ろから小柄な馬に乗って城門をくぐったのが、二千五百年ぶりに帰還したバルトールの王ベリック。利発そうな黒い瞳にキビキビとした物腰、新しい時代の王にふさわしい。その後に相変わらずヨレヨレのマルヴェスター、魔術師は乗り手のいない年老いた馬を引いている。魔術師の後ろには質素な馬車が続き、御者台に大柄なバルトール人。そして三人の馬に乗ったバルトール人が馬車の周りを警備していた。
 馬車が止まると、銀髪の男が降り立った。これが伝説の吟遊詩人だろう。サシ・カシュウがやって来るという噂はすでにセントーンの宮廷の大きな話題になっている。そして馬車の中には横たわった女性の姿。さすがにその姿を見た時にはエルネイアの心は驚きに満たされた。
(あれが女神)
 出迎えに出ていたマスター・メソルが馬車に駆け寄って女神の姿を認めると、大声を上げて泣き伏した。ベリック王がすぐに駆け寄ってメソルの肩を抱いた。
「おばさん。おばさんのおかげでバリオラ様を救い出す事が出来たよ」
 メソルは震えながらベリックの手を取った。
「ありがとうベリック」
 その横で馬を降りたマルヴェスターにトーム・ザンプタが近付いて声をかけた。
「ほい、久しぶりだな」
 マルヴェスターは顔をクシャクシャにして喜んだ。
「おお、来とったか。やれやれ、偏屈なお前の事だから中々ブライス達に手は貸さんかと思った」
「そう思ったがソチャプの事で気が変わったんだ。ジンネマンにソチャプがいたのか」
 マルヴェスターはうなずいた。
「いた。驚いたわい」
「花にしたそうだが」
「ベリックが持っとるよ」
 そう言って馬車の横で、育ての親との再会を喜んでいるベリックのほうに顎をしゃくった。
「後で見せてもらうといい」

 その夜、エルセントに集合した者達は、王の会議室で大きな机を囲んだ。机の上座の短い辺の向かって左にレンゼン王、右にゼリドル王子。レンゼン王の側にエルネイア姫、ベリック、フスツ、サシ・カシュウが座った。向かい合うようにゼリドルの側にセルダン、ブライス、スハーラ。そしてセルダンの後ろにアタルス達兄弟が立ち、ベリックの後ろにはフスツの四人の部下が立った。レンゼン王の後ろにベッドが置かれ、メソルに付き添われてバリオラ神が横になっている。
 トーム・ザンプタは飲み物のテーブルの横に立ち、定期的に水を飲んでいた。マルヴェスターはいつものように席に着かずにウロウロと歩き回っている。そしてピタリと止まると、振り向いて長い髭を二つの束にして顎の下で握りながら言った。
「ミリアは何をしているんだ」
 セルダンがうさんくさげに見た。
「何ですかその格好は」
 マルヴェスターはちょっと残念そうな顔をした。
「いかんか、ロッグではけっこう好評だったんだが」
 ベリックが笑いをかみ殺した。エルネイア姫が答えた。
「ミリアの事をマルヴェスター様に相談しようと思っていたんです。実は出かけているんです」
「出かけた、いつだ」
 ゼリドルが引き取った。
「もう三か月以上も前です。ランスタイン大山脈にザークとソンタール軍が出没するという噂があって、確かめに行ったんです」
「確かにあそこにザークはいる」
 そこでベリックがバリオラ神を解放した一部始終を皆に説明した。ゼルドルがうなった。
「ザークとマコーキンか。これで北にも十分な備えをしないといけなくなった」
 マルヴェスターの顔は険しかった。
「ミリアから連絡が無いのがおかしい。ザークとマコーキンだけならば報告くらいは出来るはずだ」
 セルダンは後ろに立っているアタルス達に緊張が走るのを感じた。マルヴェスターが続けた。
「ミリアの件は取りあえず置いておこう。今、ここに五人の守護者がいる。もうじき最後の一人がやって来る」
 セルダンが驚いた。
「最後の一人。えーと」
 エルネイア姫がそっと教えた。
「アスカッチの指輪の守護者よ」
「ああ、いったい誰なんですか」
 マルヴェスターがセルダンを見た。
「アーヤだよ。あのアーヤだ」
 ゼリドルやエルネイア姫が驚きの声を上げた。スハーラがやはりと言った顔をした。
「マスター・メソルからアーヤの正体を聞きました。指輪の守護者がいるのならばアーヤ様だと思っていた」
 エルネイアが尋ねた。
「アーヤの正体って何なの」
 マルヴェスターが答えた。
「アムロリラ・シャンダイア・フーイ。シャンダイア王の子孫だ」
 レンゼン王も驚いた。
「生きておったのか、王家の子が」
「そうです。しかし大変な事が起きた。アーヤの魂がガザヴォックの手に落ちたのです」
 会議室に沈黙が降りた。ブライスがつぶやいた。
「どうして」
「魔法使いガザヴォックが、始祖の生き物達の魂を捕縛した魔法は鎖の形を取っている。かつてカインザーで巨竜ドラティを繋いでいた鎖が洞窟に残っていた」
 セルダンが思い出した。
「そうだ、マスター・メソルもそれを手に入れるためにベリックを送り込んだんだっけ」
 ベリックがメソルを見た。
「そうだったんですか」
 メソルがうなずいた。
「そうだよ。だから鎖を見つけても直接触らないように教えただろう」
 ベリックが頭に手をやって舌を出した。
「忘れてた。その鎖にアーヤが触ったんですね」
「どうやらそうらしい、セスタのアントンが持っていたんだ」
「どうしてまた」
「知らん。とにかくアーヤとアントンを連れてデクトがやって来る」
 メソルが尋ねた。
「デクトとは何者ですか。私も時々指示を受けたり、魔法で助けてもらったりしていましたが、正体を知らないのです」
 マルヴェスターが答えた。
「クラハーン神の神官だ」
 ブライスが机を叩いた。
「繋がった。この数年のシャンダイア反撃の源はクラハーン神だ」
 スハーラがちょっと首をかしげた。
「私は何となくそんな気がしていました。すべての聖宝を連動させて操れるのは、おそらくクラハーン神のみでしょうから。それでマルヴェスター様、アーヤ様をどうやって助ければ良いのでしょう」
「クラハーン神の元に連れて行く。アーヤも含めた六人の守護者全員でだ」
「全員行く必要があるのですか」
「ああ、クラハーン神の協力を得るにはそうしなければならない」
 エルネイア姫が困った顔をした。
「でも、私は」
 マルヴェスターがうなずいた。
「そうだ。その前にミルトラの泉に行って来なさい。アーヤ達はその間にやって来るだろう。戻って来たらすぐに出発だ」
 エルネイア姫は不安そうな顔をした。スハーラが興味を持った。
「ミルトラの泉には何があるのですか、差し支えなければ教えてください」
 ベリックも思い出した。
「そうだ、盾の守護者について教えてくださるって言ってましたよね」
「ふむ。ミリアがいれば説明し易いのだが、ようするにエルネイアがミルトラ神の力をセントーン全土にゆき渡らせる手助けをするのだよ。モッホの粉も使うのだが、精神力が必要な辛い作業だ。三月に一度はこれをやらねばならない」
 セルダンが心配そうな顔をした。
「知らなかった」
 エルネイア姫の目がすこし潤んだ。
「でもいつも助けてくれるミリアがいません。私一人ではとても無理。それで困っているのです。実は前回、ゼリドル兄さんと姉のシリーに助けてもらってやってみましたが、ひどかった。もうたくさん」
 美しい娘は肩を抱いて身震いした。マルヴェスターが髭をしごいた。
「どうもわしの役目でも無い気がするなあ。スハーラならば可能だろうが、セルダン」
「えっ」
「エルネイアと一緒に行って来い。どうだエル、セルダンでは不安か」
 エルネイアの目がいたずらっぽく光った。
「これ以上の助けは無いわ。頼むわねセルダン」
 セルダンは助けを求めて周りを見回した。
「僕は断れるんですか」
 ブライスが背中を叩いた。
「行って来い」
 マルヴェスターはメソルに目を向けた。
「バリオラ神もお連れしたほうがいい」
 その声でバリオラ神が目を開いた。
「ミルトラに会えるのね」
「そうです。あなたの神力は現在微妙な所にあります。このまま消えてしまうか、徐々に復活して行くのか。もちろん消えてしまっては大変ですし徐々に復活しても今回の戦役には間に合わない。何とかミルトラ神の力をお借りして一刻も早く復活してください」
「わかったわ」
 ブライスがビールにちょっと口を付けてから一息ついて質問した。
「ミルトラの泉に行って帰って来るまで、どのくらいかかるんだ」
 ゼリドルが答えた。
「早くて三週間。まあ一月といった所だろう」
「クラハーン神の所と言うと、当然シムラーですよね。いったい誰と誰が行くんですか」
 マルヴェスターもビールに手を伸ばした。
「六人の守護者、わし、デクト、それだけだ。ブライス、高速艇を一隻貸してくれ」
 海洋民族ザイマンの王子は首をかしげた。
「泉から三月。セルダンとエルネイアがここに帰って来てからだと、二月少々で往復しなければなりませんね。けっこうきついなあ」
「ミッチ・ピッチの力を借りる。ホックノック族に驚かない船員にしてくれ」
 ブライスはため息をついた。
「またか。大丈夫、一度トンポ・ダ・ガンダまで降りた連中がいますから」
 それまで黙って話を聞いていたトーム・ザンプタが言った。
「わしは行かんでいいのか。海の事なら役に立つぞ」
「いや、ミリアがいない以上、おぬしにはセントーンの留守番をしてもらわんといかん」
 ザンプタは不安気な顔をした。
「わしは留守番は苦手だ。バリオラ神にもどうやって謝れば良いのか」
 バリオラが薄目を明けて笑った。
「かまいません。あれは私の失敗です。力が戻ったらガザヴォックに思い知らせてやる」
 そう言った厚い唇には少しかつての活力が戻ったように見えた。
「よし、後の者はここ、エルセントでソンタールに備えてくれ」
 バリオラがマルヴェスターに声をかけた。
「姉に力をもらったら、私とメソルはロッグに戻って良いかしら」
「もちろんです。ナバーロが待っている。彼に寿命を戻しましたね」
「ええ、そろそろ休ませてあげましょう。急いで戻らないといけないわね」
 そこでセルダンの後ろに立っていたアタルスが王子に耳打ちした。セルダンはうなずいた。
「ああ、いいと思う。マルヴェスター様、僕がミルトラの泉とクラハーン神の元に行っている間、アタルス達がミリア様の消息を探ってみたいと言うのですが」
「良いだろう」
 ゼリドルも顔色を明るくした。
「軍でも何でも貸すぞ。ミリアを探し出して来てくれ」
 その夜の内にアタルス達兄弟はエルガデール城から姿を消した。

 翌日の朝、ブライスに誘われてベリックはスゥエルトを見に行った。厩の中で雄大な葦毛の牡馬は王者然と干し草をはんでいたが、ブライスを認めると嬉しそうにバフバフとじゃれついた。
「ようし、お楽しみはおしまいだぞ。シムラーじゃやっぱり馬が必要らしい、少し太ったみたいだからきっちり絞ってやるぜ」
 スゥエルトは今度は不満気にいなないた。ベリックがふと目をそらすと、そこにトーム・ザンプタが立っていた。ベリックはブライスを残してザンプタの元に行った。
「おはようございます」
「おはようベリック王。わしに恨みは無いかね」
「どうしてですか」
「ロッグの陥落の原因の一つは、わしが見張りを怠った事だ」
「ああ、マルヴェスター様に聞きました。でも仕方が無かったのだという事でしたね」
「まあ、気付いていてもわしに何が出来たかもわからんがな。それより一つ頼みがある。サルパートのジンネマンの洞窟でソチャプに遭遇したそうだな」
「ええ」
「そのソチャプをマルヴェスターが花に変えたと聞いた。それを見せてくれないか」
 ベリックは短剣の横に下げていた筒からピンク色の薔薇の花を取り出した。ザンプタの目に何とも言えない憧れが浮かんだ。
「見せてくれてありがとう。確かにソチャプだ。わしにはわかる」
 ベリックは寂しそうに薔薇を見た。
「サルパートにいるある人にこれを送る約束をしていたのですが、一か所に止まっている事が無いので育てる事が出来ません。もう約束をして一年以上にもなるのに送っていない」
 ザンプタが首をかしげた。
「イクス海の海戦でわしがソチャプを種から成体にするまで四か月ほどだった」
 ベリックの顔が輝いた。
「これは小さな花です。三か月でもう一輪育てられますか」
「たぶん出来ると思う」
 ベリックは花を差し出した。
「お願いします」
「いいのか、大切な花だろう。わしにあずけてもいいのか」
「あずけられるのは、あなたしかいないでしょう。あなたのソチャプに対する愛情は誰よりも深い」
 ザンプタの頬に涙が流れた。
「ありがとう。あずかるとしよう」
 ザンプタと別れたベリックは次に出発の準備をしているセルダンを訪れた。ベリックが支度をしているセルダンの横でダラダラしていると、扉にノックがあってエルネイア姫が部屋に入って来た。その胸にはきらびやかな服が大事そうに抱かれている。それを見たセルダンが警戒した。
「それって」
「そう、前回来た時に作ったものよ。ずっと用意して待ってたの」
「まさか、それを着て行くの」
「そうよ」
 セルダンは泣き出しそうな顔をした。
「しかしそれじゃ馬に乗れない」
「何を言ってるの、私やバリオラ神に馬で行けって言うの。馬車で行くのよ、二人で馬車に乗るの」
 エルネイア姫はきっぱり言い切った。ベリックがこっそり逃げ出そうとすると、扉の所にスハーラと見慣れない男が立っていた。セルダンが声を上げた。
「やあ、リケル」
「え」
 ベリックは驚いて男を見上げた。品の良い彫りの深い顔立ちのその男は、部屋に入って来てベリックの前にひざまずいた。
「お待ちいたしておりました王」
 ベリックは少しとまどいながらも挨拶を返した。
「ああ、はじめまして。これからよろしく」
 エルネイア姫とスハーラがきょとんとした。
「どうしたの、ベリック。この人は王宮に出入りの商人よ。服を作ってもらおうと思ったの」
 セルダンが笑った。
「知らなかったのか、セントーンのマスター・リケルだよ」
 二人の美女は驚いた。リケルは鞄から巻き尺を取り出した。今度はベリックが警戒した。
「何するの」
「王にふさわしい服を。私の手で王の寸法を測れるとは光栄の極み」
 リケルはベリックの体の寸法を丁寧に測った。スハーラとエルネイアがひそひそと話をしながら見ている。ベリックは女の子に囲まれると、いつも子供扱いだった。やっとの事で部屋を出たベリックの後をリケルがついて出た。
「王、もう一か所用事がございます」
 ベリックは不吉な予感を感じた。
「こちらへ」
 ベリックは広大な王宮の廊下を通って厚手の絨毯が敷き詰められた部屋に連れて行かれた。そこにはフスツが待っていた。
「何をするんだ」
 フスツが答えた。
「もちろん、バルトールの七舞を憶えていただくのです。メソルの暁の舞はすでにご存知のはず。私はカインザーのマスターに伝わる火の舞を。リケルが豊穰の舞を伝授いたします。セルダン王子達が戻るまでの一か月みっちりと指導させていただきますぞ」
 ベリックは蒼白になった。
「それってどうしても僕が憶えなきゃいけないの。七つの部隊のすべてに僕が立つ事は出来ないんだし、七人のマスターがそれぞれ踊ればいいじゃない」
「王はその七人を指揮しなければなりません。舞の真髄を知るのです」
 ベリックは天井をあおいだ。カインザーの単純な戦い方がうらやましかった。

 翌朝早くセルダンとエルネイア、バリオラ神とマスター・メソルを乗せた二台の馬車がエルセントを出発した。馬車の窓から見えるセルダンの顔は、まるで護送車に乗せられた囚人のようだった。ブライスと一緒に冗談を言いながら見送ったベリックは、後ろにフスツの気配を感じて振り返った。フスツは妙なタイツをはいて踊る気満々で立っている。
「やっぱりやるの」
「もちろんでございます。アーヤ様と一緒にマスター・アントが着いたら、一緒に憶えていただきます」
 ベリックは意地の悪い笑みを浮かべた。
「それは楽しみだ」
「さあ、こちらへ」
 そしてバルトールの国王は、父親に連れられる子供のようにフスツに腕を取られて練習場に引きずられて行った。

 (第九章に続く)

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