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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第九章 ユマールの皇子

福田弘生

 アーヤ・シャン・フーイは闇の中に立っていた。
 カインザー大陸の大都市セスタにあるクライバー男爵邸の中庭で、レイナおばさんの時計を直そうと鎖に触った次の瞬間からアーヤはここにいた。明るい昼間から突然闇の中に放り込まれたので、少女には自分に何が起きたのか全くわからなかった。周りは何も見えなかったが、少女は気丈に何が次に起きるのかを待った。
 しばらくぼんやりと闇を眺めていると、いつの間にか黒い視界の一部が明るくなり、椅子に座った一人の人間の姿が浮かび上がった。ボウッと霞んで見えた姿が次第に明確になって来ると、それは一人の老人だった。
(マルヴェスターおじいちゃん)
 少女は一瞬そう思った。しかしその姿からは懐かしい暖かさは全く感じられず、くぼんで影になった眼窩から冷たい視線が突き刺さるようにアーヤを見つめている。
「おいで」
 老人が言った。
 アーヤは自分の胸から細い鎖が伸びて老人の手に繋がっているのに気が付いた。老人がその鎖をクイと引くと、アーヤの胸に激痛が走った。
「いやあー」
 アーヤは懸命に抵抗した。老人は残念そうに言った。
「あまり抵抗しないでおくれ。お前はまだ幼く、心も体もとても脆い。この鎖をこれ以上引いたら死んでしまうのだよ。おとなしくこっちにおいで」
 鎖に引かれて少し近づくと老人の姿が良く見えるようになった。
「あなたは誰」
 老人は笑みも浮かべずに答えた。
「ガザヴォック・ダルザボル」
 幼いアーヤは悲鳴を上げた。

 ・・・・・・

 夏の日の夕暮れ時、セントーンの首都エルセントに一隻の高速艇が着いた。白く塗られた低い甲板からアーヤを抱いたデクトと一緒に降り立ったアントンの目の前に、初めて見るエルセントの壮大な景観が広がった。アントンは思わず声を上げた。
「美しい都市ですね。アーヤはここに来たがっていた」
 大都市は夕陽に染め上げられ、橙色の山のように輝いている。デクトは悲しげに腕に抱いたアーヤを見下ろした。幼い少女の目はしっかりと閉じられている。
「この星で第二の都市だ。女王に見せてあげようでは無いか、いずれな」
 アントンは巨大な都市を見回した。
「これでも第二の都市ですか」
「そうだ。最大の都市はグラン・エルバ・ソンタール。そしてそここそが本来アーヤが治めるべきシャンダイアの首都カラマドールだ」
 船からアントンの部下が、アーヤの乗馬である栗毛のフオラの手綱を引いて出て来た。フオラは何日間も船に揺られても何とも無かったようで、首をプルプル振るとあくびをした。アントンは部下から手綱を受け取ると、デクトと一緒にゆっくりと都市の中に入って行った。夕方だが海の風がなま暖かい。にぎやかな町の中を歩いていると、どこからともなく豪華な馬車が現れて二人の横に停まった。そして窓が開き、中から一人の少年が顔を出した。
「アントン」
「ベリック」
 馬車の中のベリックは扉を蹴破るように開けると、アントンに抱きついた。
「港に見張りを置いておいたんだ。マルヴェスター様がアーヤが来るって言ったし、君も来るって聞いたから」
 アントンは頭をかいた。
「そうか、僕もマスターだったんだっけ。僕にもここで使える部下がいたはずなんだ。連絡を先に入れるべきだったんだね」
「この馬車の者は、カインザーのマスターの部下だよ。指示を頼む」
 そう言ってベリックはデクトと、その腕の中のアーヤに近づいた。
「また会えたねデクト。君の正体はマルヴェスター様に聞いた」
「立派になられましたね、ベリック様。今度は我らが女王を救う番ですよ」
「そうだね」
 ベリック、アントン、デクト、そして意識の無いアーヤはベリックが乗って来た馬車でエルガデール城に向かった。フオラはアントンの部下が引いて後から城に向かう事になった。
 四人を乗せた馬車は城の門をくぐり、美しい花が満開の花壇の中央に真っ直ぐに敷かれた石畳を進んだ。デクトは馬車の揺れがアーヤに伝わらないようにその頭を大事に抱いている。
 マルヴェスターは悲しげな表情で城の館の扉の前に立っていた。そして老魔術師は馬車から降りたデクトの腕から無言でアーヤを受け取ると、しっかり抱きしめた。アントンはマルヴェスターの前に立つと、青い瞳を曇らせて申し訳無さそうに頭を下げた。
「ごめんなさい、僕がうかつでした。バンドンがドラティの巣から魔法の鎖を見つけ出して来たんです。それをアーヤがうっかり触ってしまった」
 マルヴェスターの後ろに立っていた小柄な老人が優しく言った。
「仕方が無いさ。そんな事態を誰も予測する事は出来ない」
 アントンは不思議そうに老人を見た。
「わしはトーム・ザンプタ。後でベリックに長い話を聞くといい」
「セルダン王子はいますか。アーヤを守れって手紙をもらったんです。あやまらないと」
 マルヴェスターが答えた。
「いや、セルダンはエルネイアとちょっとした旅に出ている。お前もあまり自分を責めなくていい。アーヤの事はもう心配しなくていいよ、むしろ体を無事に届けてくれた事を感謝したいくらいだ。最悪の可能性さえあったのだから」
 アントンの隣にいたベリックが、アーヤの青ざめた顔を見つめながら首をかしげた。
「なぜアーヤは怪物達のようにガザヴォックに操られないのでしょう」
 マルヴェスターが口をゆがめた。
「良くわからん。しかしあの強引なガザヴォックがそうしていないのであれば、何か理由があるのだろう」

 アーヤを二人の老人とデクトにまかせると、ホッとしたアントンはベリックと一緒に美しく手入れされた庭を歩き出した。アントンは久しぶりに見るベリックの精悍な顔立ちに少し驚きを感じた。
「たいへんだったんだね」
「そうでも無いさ。マルヴェスター様もフスツも一緒だったからね。それより、マスターを引き受けてくれてありがとう」
「いや。君の役に立てるなら何でもするさ」
「本当」
「ああ」
「じゃ、こっちに来て」
 ベリックはアントンを厚手の絨毯が敷かれた部屋に連れて行った。そこにはタイツをはいた二人の男が待っていた。一人はフスツだった。ベリックはアントンが知らない男の方を紹介した。
「セントーンのマスター・リケルだ」
 彫りの深い顔立ちの男が軽くうなずいた。
「あ、ああ。初めまして。アントです」
「よろしく」
「君に用事があるのはフスツの方さ。バルトールの踊る戦陣って知っているかい」
 アントンは首をかしげた。
「えっと、クチュクにちょっと聞いたけど」
「君はカインザーのマスターだから、七舞の一つ火の舞を憶えてもらわなくちゃいけないんだ」
 そう言ってベリックは不吉に笑った。三時間ほど経った後。ヘトヘトになった二人は部屋をはい出た。そこに通りかかった白い衣のスハーラがびっしょりと汗をかいた二人の少年を見下ろした。
「池にでも落ちたの」
 ベリックは巻物の守護者を見上げると、息を切らして言った。
「凄く魅力的」
 スハーラは頬をおさえた。
「あら」
 二人の少年はその横を駆け抜けて、一目散に庭の池めがけて走って行った。

 ・・・・・・

 その頃、ユマール大陸の首府モンゼラットの中央部にある劇場では新作の演劇が上演されていた。初演の日には演劇好きのユマールの将ライケンが、戦争準備の合間を縫って観劇に訪れた程に話題の作品だった。劇の内容はライケンの好きな宮廷ロマンスと権力争い。ユマールの将は月光の将の流れを引くので、他の将と違って文芸の振興に熱心である。モンゼラットは華やかな文芸都市でもあった。
 ソンタールの先代皇帝の息子ムライアックのボックス席は、舞台を囲むように高い天井まで段状に続く客席の最上段にあった。豪華なつくりの椅子の中で、皇子は一人ポツンと劇を見ていた。灰色のクシャクシャの髪、小さな目、低い鼻。着こなしが悪いので豪華な襞のある服もだぶだぶに見える。風采の上がらない男だが、紛れもなくソンタールの皇位継承者の一人である。
 舞台の上では、二人の男が中央の女性を挟んで、歌い合っていた。
(つまらん劇だ)
  ムライアックはあくびをかみ殺した。十二年前、父のザンゼリル八世が死ぬと首都の貴族達は残された五人の息子をかついで血で血を洗う凄惨な権力争いに突入した。巨大な帝国の勢力争いは長期化の様相を見せ、八歳の少年だったムライアックは争いに抗し切れずに首都を逃げ出して、側近に連れられてここに逃げ延びた。他にはほとんど選択肢が無かったのだ。マコーキンの先代の西の将もやはりカインザーとの激戦の最中だった。北の将はその頃ですらほとんど風化した化石だったし、着任したばかりの東の将は誰かをかくまえるような性格では無かった。南の将という選択肢はあったはずなのだが、ムライアックの側近達は荒々し過ぎるグルバを嫌った。
 その点、五将の中で最大の勢力を持ち、家柄も教養も高いユマールの将ライケンは身を寄せるのに最適の相手だった。ライケンはムライアックを歓迎した。黒の神官になったムライアックの弟が暗殺された時も、ライケンは何も心配するなと皇子に笑ってくれた。
(さてと)
 ムライアックは椅子に沈み込んだ。つい数週間前まではこの席にも貴族の娘達や商人が押し掛けて、観劇もにぎやかで楽しい物だった。
(ソンタール皇帝が即位すると決まったとたんに、この席には誰も来なくなった。それどころか護衛すらもいなくなった)
 ライケンの世話になるままに大人になったムライアックだが、それなりに自分の置かれた状況はわかっているつもりだった。ソンタール皇帝が正式に即位する以上、皇位継承権を持つ自分はおそらく殺されるだろう。
 喉が渇いたムライアックが無意識に手酌をしようとワインの瓶に手を伸ばした時、後ろから別の手が伸びてワインの瓶を手にした。そしてグラスにワインを注ぐと皇子の耳にささやいた。
「ムライアック様、お客様がおいでになっております」 
「おお、行く」
 もうこれ以上甘ったるい劇に付き合うのに辟易していたムライアックは、何も疑わずに男の言葉に応じた。ただの給仕だと思ったのだ。給仕にしてはいかつい顔の大男だが、おそらく護衛も兼ねているのだろう。いくら何でも一人ぐらいは自分の世話に付いていても良いはずだ。劇場内と控えの間を区切る黒くて重いカーテンを開いて隣部屋に入ったムライアックを、貴族の装束をした三人の男が待っていた。ムライアックの後ろに先ほどの給仕が来て立つ。そこで皇子は三人の貴族のおかしさに気付いた。
(三人とも違う人種だ)
「お前達何者だ。ユマール人では無いな」
 三人がホウと感心した顔をした。中央の細身の人物が答えた。
「さすがにソンタールの皇子。優れた観察眼をお持ちでいらっしゃる」
 ムライアックは不機嫌な顔をした。
「俺が何年、命を狙われ続けてきたか知っているだろう。どんな馬鹿でもこのくらい用心深くなる。もっとも俺にはもう護衛すらついていないがな」
 そう言って二十歳らしからぬ大人びた目で、後ろに立っている大男をチラリと見た。
「ライケンの部下にしてはおかしいな。お前らは何者だ、泥棒ならばここには何も無いぞ」
 ムライアックの後ろに立っていた大男が太い声で言った。
「ご紹介いたしましょう。中央がサルパートのエラク伯爵。向かって左がカインザーのアシュアン伯爵。右がバルトールのマスター・モントでございます。そして私は同じくバルトールのマスター・ケイフ」
 それまで落ち着いていた皇子はとたんに怯えた顔をした。
「殺しに来たのか」
 エラク伯爵と紹介された男が答えた。
「いいえ。皇子にソンタールとシャンダイアの講和の仲立ちになっていただきたいのです」
「何だと」
「ソンタールとシャンダイアは長く戦い過ぎました。このあたりで終わりにしても良いでしょう」
 ムライアックは灰色の髪を激しくかきむしった。
「何を言っているんだ。お前達は正気か、それともこれはライケンの陰謀か。俺を謀反人にして殺すつもりなのか」
 皇子はわめき出した。
「そうだ。そうに違いない。グラン・エルバ・ソンタールで皇帝の即位式が行われるんだ。皇帝が即位すれば俺は用無しだ、だから殺すんだ」
 ケイフが素早く皇子の後ろに立って首に軽く手を当てた。
「静かに。この場面を誰かに見られただけで、ライケンに殺されかねません」
 ムライアックは蒼白になった。そして目を見開いてエラク達をまじまじと見た。
「本気なのか」
 そして三人を見て小声で言った。
「お前達は本当にシャンダイアの使節か。ならば証拠を持って来い、お前達の正体を証明する物を」
 エラクは渋い顔をしたが、モントが替わって答えた。
「よろしい。三日後、皇子のお屋敷に証拠を持ってうかがいましょう。ライケンがいつ出撃してもおかしく無い時期です。それ以上の時間はかけられません」
 ムライアックはコクリとうなずいた。その時、背後の場内から突然拍手が沸き上がった。ムライアックはビクリとして肩をすくめた。ケイフが促した。
「第二幕が終わりました。すぐに場内が明るくなるでしょう。皇子、席にお戻りください」
 ムライアックは怯えたように、そそくさと席に戻って行った。
 アシュアン、エラク、モント、ケイフの四人は劇場を抜け出すと、この大陸の豪商として活躍しているケイフの屋敷に向かった。気温は暑いくらいだったが、風が心地よく過ごしやすい。もう夜だというのに人通りは多く、都市は活気に満ちている。エラク伯爵が情け無さそうにため息をついた。
「にぎやかなものですね。ああ、サルパートは田舎なんだなあとしみじみ思ってしまう」
 ケイフが首を振った。
「モンゼラットは確かににぎやかな都市だが、この騒ぎはライケンの戦準備のせいだ。ユマールの将の出撃が近いので、ここにはもう夜が無いようなものなのさ。みんな一日中走り回っている」
 アシュアンがキョロキョロした後、海があるとおぼしき方角を眺めてケイフに聞いた。
「ユマールの将の勢力というのは、いったいどのくらいの数なんだ」
「兵船四百隻」
 カインザーの伯爵は仰天した。
「まさか、ザイマンやかつての南の将ですら二百がやっとだったと聞いたぞ」
「今度の相手は艦隊じゃありません。王国を一つ攻め滅ぼそうというのです。そのためにユマールの代々の将は懸命に戦艦を建造し続け、海兵を訓練し続けた。機会があるごとに面白がって潰し合いをしている南の将やザイマンとはいささかスケールが違うんです」
「ううむ、それではザイマン海軍にカインザーの兵船を加えた艦隊が無傷でも、くい止める事は不可能だったか」 
「いえ、さすがに三百近いザイマン、カインザーの連合艦隊が徹底抗戦すればライケンも先に進めません。しかし現在のところその艦隊は南の将との戦いで傷付いている」
 その夜、都市の西の港の近くにあるケイフの屋敷で、アシュアン達は今後の作戦を練った。並べられた食事を丁寧に選びながら、エラクがムライアックについての感想を述べた。
「いささか落ち着きが無い人物ですな。かなり臆病そうでもある」
 アシュアンがワインを手に、じっとその色を眺めながら応じた。
「仕方が無いだろう。幼い頃から命の危険にさらされ続けて来たんだ。まあまあの判断力を持っていると言っていいんじゃ無いか」
 モントがニヤリとした。
「ふと思ったんだが、今度即位する皇帝を暗殺してしまえば、あの男が皇帝だ。あの程度の人物ならば大ソンタールを崩壊させるのも可能じゃないか」
 エラクはむしろ心配そうだった。
「それよりもあの男で我々の役に立つのでしょうか。皇帝が即位してしまえば、彼の言う通りに役立たずになってしまうような気がいたします」
 ケイフが笑った。
「そう捨てたものでも無いでしょう。国家は安定している程、権力への欲望が育つ物です。問題なのは彼の血です。彼をかつごうとする貴族はグラン・エルバ・ソンタールに必ずいる。彼の言葉に耳をかす貴族がいると言う事です」
 モントが手をポンとはたいてパンの粉を払った。
「まあ、手なずけて損な相手でも無いか。しかし我々の正体をどうやって証明しようか、今更だが適当な王の書状を持って来なかったのが悔やまれるな」
 ケイフは焼いた肉を削って野菜に包むと、ムシャムシャと頬張った。
「ふと思ったのですが、放っておいてはいかがでしょう。ライケンは出撃の前におそらく彼を殺すでしょう。彼の命を助けられるのは俺達だけだ」
 アシュアンはモントと顔を見合わせて言った。
「なる程。その手で行くか、しかし彼を助けると我々がライケンの標的になってしまう。逃げ出す準備をしないとな」
「それはまかせてください」
 その時、おとなしいエラクが妙な顔をして口を挟んだ。
「私は気になる事は確かめないと気がすまないたちでして。せっかくここまで来たのです。ついでに名も無き魔法使いについて調べてみませんか」
 他の三人が唸った。アシュアンが首を振った。
「それはいささか危険過ぎないか」
 ケイフも気乗りしないようだった。
「私もずいぶん調べてみましたが、手がかりがつかめません。数日程度では無理でしょう」
 エラクはあきらめ切れない顔だった。
「とにかく私は調べてみます」
 モントがため息をついた。
「君は時々意固地になるな」
「サルパート人の特徴でしょう」
 そう言うとエラクはナプキンで口を上品にふいて席を立った。

 ・・・・・・

 テイリンが黒い巻物の魔法使いレリーバに捕まって三週間が経とうとしている。魔女が何を考えているのかがわからなかったが、東の将の兵達の数がみるみる減っていくのはわかった。決戦は間近い。
 ある日、テイリンは東の将キルティアの出陣式に出席させられた。要塞のぶ厚い城壁の門の前に数万の濃紺の鎧の兵が並んでいる。東の将と呼ばれる女将軍は強い風に立ち向かうように門の上に立った。その日のキルティアの姿は見とれる程に凛々しいものだった。すでに四十代半ばを過ぎているはずだが、妖艶と言っていい美しさはいささかも損なわれていない。これはレリーバの魔法にもよるのだろう。ザラッカがグルバの命を延命させていたのとは違う魔法がここにある。鮮やかな紅の胸当てに赤い房の付いた兜。兜と同じ色の豊かな髪の毛が風に吹かれて、複雑な模様で化粧された頬をなぶる。胸当ての下には精緻な黒の鎖帷子、腕には赤に金の模様が入った小手。その手には先が三つに分かれた黒い鞭が握られ、キルティアはそれを城壁の床に叩きつけて兵達に宣言した。
「我らはこれよりランスタイン大山脈を東に向けて駆け下りる。そしてここには戻らない。セントーン王国を滅ぼし、首都エルセントを私が支配する」
 そこで表情を引き締めた。
「ユマールの将ライケンも海からやって来る。セントーンの川にはあの男の海獣の旗印がたなびくだろう。しかし陸には上げない。セントーンを潰した後、陸に上がろうとするライケンの軍も敵である」
 さらに声に険しさを含ませて続けた。
「ハルバルト元帥から情報が入った。セントーンの北の海岸に西の将マコーキンがいる。セントーンの抵抗が激しく、我が軍とライケンの軍が傷付く時、あの男がやって来る。マコーキンを入れるな、わずかな兵力だがあなどるな。セントーンのレンゼン王とゼリドル王子を倒すのは我々でなければならない。そして」
 キルティアは残酷な笑みを浮かべた。
「憎きミルカの盾の守護者エルネイア姫を我が足元に届けよ。東の将三千年の憎しみを晴らしてくれる」
 レリーバと巨獣デッサ、戦闘獣マーバルはキルティアより後に要塞を出発する事になっている。キルティアは後ろに立っているレリーバを振り返ると言った。
「デッサを早く連れて来ておくれ。本当は一日でも離れていたくないくらいなの」
「わかりましたキルティア様。火口湖の毒を解き放ったらばすぐに」
「うむ」
 そして女将軍はテイリンに目を移して心地よい声で笑った。
「不思議な若者よ、レリーバと楽しんでゆくがいい。もし生きて再び会う日があるのならば、次は私も楽しませてもらおう」
 そして濃紺の鎧の戦士団は出撃して行った。要塞にはレリーバと神官達が残った。兵のざわめきの音が少なくなると、森の中の山猫の声が高くなった。
 その日からテイリンの部屋の前の護衛の兵の姿が消えた。いつの間にか鍵も開けられた。テイリンはガランとした要塞の中を数日歩き回った。そしてある夜、テイリンの研ぎ澄まされた聴力が山猫達の異常なまでに興奮した鳴き声を捉えた。
(ゾックが襲われている)
 離れた所からでもゾックに起きた事をかなり正確に知る事が出来るのは、生まれた時からゾックの監督官として育ったテイリンの能力の一つだった。テイリンはためらう事無くベランダから跳び降りると、要塞を抜け出した。荒れた火口を離れ、森の中に入ったテイリンは舌打ちした。
(夜を狙ったな。夜ではマーバルの方がゾックよりも行動力に優れている。何より猫は一人で戦えるが、ゾックは指導者がいなければ戦えない)
 森の中で山猫と人間型生物の格闘が続いている音がテイリンの耳を打ち続けた。その時、目の前の闇が一気に広がって月光が消えた。そして闇の中に金色の瞳の目が二つ浮かんだ。
「レリーバ。もう許さない」
 魔女の甲高い笑い声が響いた。
「それで良いテイリン。そなたの持つ力のすべてを吐き出してみるがいい。あたしの探す者が何者かを見せてみよ」
「何を言っているんだ」
「そなたは三つの要塞の攻防戦に参戦し、さっさと逃げ出したマコーキンとその部下の他ではただ一人生き残った。そなたは何者だ」
「私は小鬼の魔法使い。ガザヴォック様に見い出され、ソンタール帝国と皇帝のためにゾックを役立たせるために生きてきた」
 闇に浮かぶ瞳の金色が明るい赤に変わった。
「それは嘘では無いが、何か別の要素がそなたにあるのだ」
 テイリンはその言葉の奇妙さに気付いた。
(何かおかしいぞ)
 赤い瞳が問いただした。
「ゾックが変異している。そなたもあたしがこれまで得てきた情報よりははるかに能力が高い。成長を続けているのか」
 その言葉は知的な好奇心に満ちていた。凶暴で冷酷なレリーバらしく無い。テイリンは答えた。
「私にもわかりません。でもその前にとにかくマーバルにゾックを襲わせるのを止めさせてください」
 闇に浮かぶ瞳の色が黒くなった。
「マーバル。お止め」
 山猫の狂騒が止んだ。その時、レリーバの瞳の色が金、赤、黒と激しく入れ替わって最後に金色になった。
「マーバル、皆殺しにしておしまい」
 テイリンは驚いた。そしてザラッカの言葉を思い出した。
(レリーバは女の持つすべての魅力と悪を持っている)
「そうか、一人では無いのか。あなたは一人じゃ無いんだ」
 金色の瞳のレリーバが残酷な微笑みを浮かべた。
「そう、あたし達姉妹は三人で一人の体を持っているのさ」
 それを聞いたテイリンは両腕を水平に上げると、手を開いて十本の指に十本の光の針を出した。そして裂帛の気合いと共にレリーバに投げつけた。金の瞳のレリーバは両手でその光の針を掴むと、手の中で揉み潰した。
(このレリーバは危険だ)
 次にテイリンはレリーバの周りの闇の中にかすかに見える森の木々に呼びかけた。テイリンの意志を受けた木の枝がバサバサという葉音と共にレリーバに打ちかかった。レリーバの瞳が赤くなった。
「これは珍しい魔法だ」
 赤い瞳のレリーバは打ちかかる木の枝の一本一本に触れるとその動きを封じた。
(このレリーバは知的で洞察力に優れる。問題は最後の一人だ、三人の中で一番まともらしい黒い瞳のレリーバをどうやって引き出せばいいんだ)
 いつの間にか金色の瞳になったレリーバはためらう事無く木々に火を放った。テイリンはザラッカの助言を記憶の中から探した。
(お前の素直さが今度は役に立つかもしれないような気もする。ザラッカ様はそう言った) 
 テイリンは腕を降ろすと、殺気を捨ててレリーバの前に立った。
「ゾックを解放してください。私は彼らと共に故郷に帰る」
 レリーバの瞳が黒くなった。そして闇が薄れると月光の中に美しい魔法使いの姿が現れた。その体からはあの不思議な妖気のゆらめきが消えていた。
「マーバルを止めました。私がこの体を支配しているうちに早く」
 テイリンはうなずくと、その場を走り去りながら心で呼びかけた。
(私に何をさせたかったのですか)
(あの湖の毒をセントーンに流すのを止めて欲しかった。しかし無理だったようね)
(力が足りなくて申し訳ありません)
(良い。新たな可能性が見えた。また会おう)
 次の瞬間、森が爆発するように燃え上がった。金色のレリーバが支配を取り返したのだ。テイリンの明るい茶色の髪が炎の光を浴びて真っ赤に染まった。テイリンはゾックに叫んだ。
「逃げろ。とにかく北へ。マーバルは相手にするな」
 炎の熱波が吹き寄せて来る。やがてゾックとマーバルの姿が見えた。火灯りの中、木から木へ黒い山猫の影が踊る。狭い森の中の獣道を走り抜けるゾックの姿が見える。ドラティにもらったゾックの赤い足は文字通りの血に染まっていた。その時、山猫マーバルの影に打ち当たるように一回り大きな灰色の影が木々の間から次々に飛び出して来た。マーバルは新しい敵に混乱した。目をこらしたテイリンは驚いた。
「ルフー」
 ルフーの大群がマーバルに襲いかかった。獣達の鳴き声が交錯する混乱の中からルフーのリーダーがのっそりと歩み出た。
「お久しぶりです、テイリン様。マーバルを私達がくい止めている間にここを離れてください」
「ありがとう、助かる。だが君たちも無理をするな」
「何、私達にも少しは楽しませてください。だがあなたはとにかく無事に逃げていただきたい」
「なぜだ」
「父バイオンと私達を解放してくれた恩に報いるため。そしてもう一つ、あなたは大いなる意志に選ばれた者かもしれませんので。さあ」
 逃げようとしたテイリンの目の前を横切るように、森を分けて巨大な山猫デッサが現れた。そして心の声で唸った。
(待ちなさい)
 テイリンの前に素早くルフーのリーダーが立った。
「デッサ様。この方を行かせてください。あなたの境遇さえも変える人かもしれません」
(ならばむしろ我が元に置きたいもの)
 その時、デッサの顔めがけて空から小さな影が体当たりをした。デッサはギャンと鳴いて飛びすさった。デッサの目の前の空中に炎の灯りに照らされて小さな竜が浮かんでいる。デッサの瞳が驚きに開かれた。
(何者だ。竜なのか)
 デッサの声に驚きが加わった。
(ドラティか)
 デッサはまじまじとテイリンを見つめた。
(何をしたんだ小鬼の魔法使い)
「私にも良くわからないのです。それはドラティの仔です」
 デッサはしばしの沈黙の後に唸った。
(よし、良かろう)
 そして顔を上げて、巨獣の吠え声を上げた。そのスキにテイリンはゾックを集めて北に走った。ルフーが後に続く。さらに空をドラティの仔が追いかけた。燃える炎の森を背に金色の目の山猫と金色の毛皮の巨大な山猫が見送った。その前に金色の瞳の魔法使いが立った。
「どうして行かせたんだい」
(あの男の本当の姿を見てみたい。ここでは彼は成長できない)
「なる程」
 レリーバはしばらく黙ったままテイリンの去った森を見つめていたが、フイと要塞の方に顔を向けた。
「行くよ。キルティアがしびれを切らしている。まずはセントーンだ」
 その声に応えるように、ドール火山が夜空に怪しい火を噴いた。

 ・・・・・・

 ミルトラの泉はセントーンに無数にある大きな川の一つをさかのぼった上流にある。そこに向かう馬車の中でカンゼルの剣の守護者セルダン王子は、窓の外を流れるセントーンの景色をぼんやりと眺めていた。後ろに続くバリオラ神の馬車からは何の音も聞こえてこない。一週間の旅の間、マスター・メソルはほとんど外にさえ出なかった。向かいに座っていたエルネイア姫が膝でセルダンの膝をつっついた。
「ねえ、横に座っていい」
「え」
「馬車の進む方向に向かって後ろ向きに座っていると気持ち悪くなるの」
「じゃあ、僕がそっちに行くよ。僕は何とも無いから」
 次の瞬間、セルダンとエルネイアは同時に席を交換するように移動した。エルネイアが頬をふくらませた。
「どうして隣に座るのが嫌なの」
 セルダンは鼻をヒクヒクさせた。
「なんだかくしゃみが出るんだ」
 二人はこんな他愛も無い会話を一週間も続けている。エルネイアは怒った顔で窓の外の遠くに見える森を指差した。
「もう着いちゃったわ」
 セルダンは(それは良かった)と言いそうになったが、エルネイアの表情を見て止めた。さすがににぶい王子もエルネイア姫の表情を読む事くらいは勉強していたのだ。
 やがて泉に着いた三人の人間と一体の神は、その夜を王家の館で休み、翌朝泉がある洞窟に入った。メソルは驚く程の力で女神を抱き上げてセルダンとエルネイアの後に続いた。セルダンは無数の蝋燭と天井に開けられた小さな穴から差し込む光で青く輝く泉を不思議そうに見つめた。
「これからどうするの」
 バリオラを抱いたメソルが進み出た。バリオラが弱々しく言った。
「私を姉の泉に」
 メソルがバリオラ神の体を泉に浸した。やがて透明な水の色が徐々に白く濁ってきて、女神の姿が沈んで見えなくなった。メソルが顔を上げた。
「ミルトラの乳が満ちました。エルネイア様」
「ええ」
 メソルはうやうやしく頭を下げると、長い衣を体に巻き付けるようにして洞窟を出て行った。セルダンがつぶやくように言った。
「良くわからないや」
 エルネイアが真剣な眼差しで言った。
「わからなくてもいいわ。ミルトラ神はこのセントーンの大地そのものなの」
「ミルトラ神には他の神のように形が無いの」
「元々神には形なんて無いのよ。大切なのは私達人間がどうやって神の力を引き出すかという事。そしてここセントーンでは盾の守護者である私がそれをするの」
 エルネイアが泉に入ると、セルダンは渡されていたモッホの粉を取り出した。
「君がこんなに危険な事をしているなんて知らなかった」
 エルネイアが手に泉の水をすくい、セルダンに粉を落としてもらってにっこりと笑った。洞窟全体が輝くかと思われる程の微笑みだった。
「私が泉に入っている間はいたずらしちゃだめよ」
「そんな事しないよ」
 エルネイアは軽く笑い声を上げて手の平の水を飲み込むと、水の中に横たわった。

 セルダンは泉の中に沈むように浮かんでいるエルネイア姫をぼんやりと眺めた。薄いドレスが水に濡れて、何も着ていないようにすら見える。その無防備な盾の守護者の姿が、なぜかセルダンをホッとさせた。エルネイアが辛い思いをするのだろうと覚悟していたが、その姿は苦しそうには見えなかった。
 やがて泉の水が透明になった。少し青ざめたエルネイアがゆっくりと目を開けてセルダンに微笑みかけた。
「ありがとう、あなたがいたから今日はとても楽だった」
 そう言って立ち上がろうとしたが、水の中でよろけた。セルダンはあわてて泉の中に入ってエルネイアを抱きとめた。思ったよりずっしりと充実した女性の体を抱きながら、セルダンは目を落とした。
「僕が入っていいのかなあ」
 エルネイアはセルダンに腕を回して耳元でささやくように言った。
「大丈夫。以前にソンタールの若い男の魔法使いまでここに入ったもの」
 セルダンはエルネイアの体に回した腕に力を込めた。
「やはりテイリンはここに来たんだ。ごめんね、守れなくて」
「大丈夫よ、その時はミリアがいたから」
 エルネイアはそう言ってゆっくり浅い水の中に座った。セルダンもゆっくり腰を下ろした。水かさが減ってきた。エルネイアが天井を見上げた。ろうそくの炎が天井に反射してゆらめく。
「いまごろ外は大雨よ」
「そうだ、メソルが濡れている」
 セルダンはそう言って水面を見た。
「バリオラ神が消えた」
 エルネイアが水に手を浸した。もう手の甲がやっと隠れるくらいだ。
「帰ったのよ、ロッグに。メソルにはそれくらいわかるからたぶんもう館に戻ったわ」
 泉から水が消えた。
「来るわよ」
 エルネイアがいたずらっぽい目で笑った。次の瞬間、洞窟の天井から滝のように水が降って来て二人をズブ濡れにした。
「子供の頃、これが大好きだった。でも大人になるに連れて、この泉が恐くなった」
 泉の水はあっという間に二人の体を浸す程に満ちた。その水に広がったドレスをエルネイアは両手で頭から脱いだ。そしてセルダンの水色の服をもどかしそうにまくりあげた。不器用に裸になったセルダンはエルネイアに聞いた。
「この泉は恐いんじゃ無いの」
「今日、やっと恐くなくなったわ」
 セルダンはちょっと笑った。
「あのね、君はもうちょっと軽いかと思った」
「もう一度ためしてみて」
 二人は豊穣の女神の優しい水に包まれた。


 ・・・・・・

 月の門リナレヌナで、カインザーのロッティ子爵とロッグのマスター・トンイが指揮するバルトール軍は着々と戦闘の準備を進めている。ランスタイン大山脈からの街道の出口の両側にロッティ達は堅固な砦を築いた。さらに山道の各要所にも砦を築いて街道を完全に掌握した。そうした準備の最中に、待ちかねた騎馬部隊二万が到着した。そこでロッティは改めて作戦会議を開いた。
 主立った指揮官達が席に着くと、ロッティの腹心のエンストン卿が感心したように言った。
「さすがにリナレヌナ。戦闘に必要な物資は豊富です。これならば歩兵が到着して軍が膨れ上がっても、何の問題もありません」
 しかしロッティは浮かない顔だった。
「うむ。しかしせっかく馬が来たのだから、どこか駆けまわれる戦場が欲しかった」
 ロッグを治めるマスター・トンイが笑った。
「戦場を選びたいとは、さすがにカインザーの貴族は余裕がありますな。私共はただ敵が来ないのを願うのみです。しかしどうやらそうもいかないようです。グラン・エルバ・ソンタールを遠征軍が発進したという報告が入りました」
「数はどのくらいだ」
「ざっと十二万」
「こちらの倍か。手頃だな」
「敵が通ってくるのは山越えの街道。出口で叩けば、数の差はそれほど問題ではございません」
 ロッティがうなずいた。
「各地の戦場はどうだ」
 優れた諜報機関を持つバルトールの元締めとも言えるマスターは答えた。
「ここまでの情報では、東の将のセントーン攻めがもうすぐ開始されます。ユマールの将もおそらくは海からセントーンに押し寄せるでしょう。さらにマコーキンがセントーンの北部に向かったという情報もあります」
「三将による総攻撃か。ゼリドルは保つだろうか」
「極めて危険ですが、マルヴェスター様と聖宝の守護者の皆様が何か対抗策を考えている事を祈りましょう」
 次にトンイは机の上に広げられた世界地図のほぼ中央のあたりを、指揮棒で差した。
「ザイマン海軍が落としたかつての南の将の要塞に向けても、ソンタールの大軍が発進したようです。数はおよそ十八万」
 ロッティは驚いた。
「それは無理だ。いくらバイルン、ベロフ、クライバーといても兵の数が少な過ぎる」
「はいこちらも危ない状態です」
 痩身で小柄のロッティ子爵はきびしい顔で地図を睨んだ。
「もう一カ所、戦場になるとすればエルバナ河だな。トルソンとカイトの軍はこちらの最強部隊だが、エルバナ河沿いに攻め上るのはザイマン艦隊が無いときついな。マキア王は補給専門だ」
「そこにはソンタールのゼイバー提督の海軍が待ち構えております」
「そうだ、そうなるとどうしても俺達がここでソンタール軍を撃破して、セントーンへの救援に向かわなければならなくなる」
「はい。出来ればこの地をバルトールの若者達で守り、ロッティ様にはセントーンに向かっていただけるようにしたいものです」
 ロッティは立ち上がって砦の窓からランスタインの雄大な山並みを見上げた。
「ソンタール軍よ、早くやって来い。叩き潰してやる」

 ・・・・・・

 グラン・エルバ・ソンタールを発進したソンタールの遠征軍がいよいよ五日の距離に迫っているとの知らせが緑の要塞に届いたのは、要塞の諸将が作戦会議をしている最中だった。会議室で机を囲んでいたのは総大将のデル・ゲイブ、その婚約者で海軍指揮官のベゼラ・イズラハ、ザイマン側の船乗りを組織した陸戦隊指揮官のニガッソ男爵。要塞軍の総戦闘指揮官バイルン子爵、騎馬隊長レド・クライバー男爵と参謀のバンドンだった。作戦参謀のベロフ男爵からは所用で遅刻の連絡が入っている。
 報告の兵を下がらせたデルがううんと唸った。
「さすがに今タールも機敏に反応して来たな」
「遠征軍についての詳しい情報を頼む」
「ええ、総大将はジョールという貴族。侯爵家よ、大物だわ。他にも貴族が数人、クラウス・ゼンダという名前があるわね、クライバー」
 クライバーが思い出した。
「ああ、サムサラで蹴散らした貴族の息子の方だ。直接戦った事がある。親父より勇敢だったが、兵が弱い」
「あなた達より強い兵はそういないもの、その貴族の兵に傭兵を合わせて十八万という数だわ」
 バイルンが肘をついた。
「豪勢だ。セントーンを包囲していながらなおこっちにその数を振り向けて来る」
 デルが言った。
「兵は余っているくらいだろう。西、北、南の三将の兵が逃げ帰っているからな」
「なる程、希望的に言えば寄せ集めって事だ。もしかしたら、サムサラの時のゼンダ軍より弱いかもしれないな。あれは丸ごとゼンダ一族の兵だったんだろう」
 クライバーがうなずいた。
「そうだよ。指揮官さえしっかりしていたら危なかった。おそらく今回の軍の中では、そのゼンダの残党が一番まともな相手だろう。でも一番強いのは間違い無く傭兵の方だ」
 長髭の老男爵ニガッソが首をかしげた。
「なんで貴族の軍に傭兵がいるんじゃろう」
 バイルンが答えた。
「実戦経験を買ったのでしょう。ソンタールが本気である事は間違い無い。傭兵隊長についての報告はあるか」
「ええ、名前はガッゼン」
「あれ」
 クライバーが金髪の頭をかいた。
「サムサラ砦にいた時にロッティに聞いたんだけど、何とか言う傭兵隊長が来たらベロフに注意しろって」
「それじゃわからん」
「何だっけなあ、その時はあまり気にしてなかったんだ」
 そこにベロフが入って来た。
「遅れてすまん」
 部屋の皆が一斉にベロフを見た。
「何だ」
 机の中央にいたデルが答えた。
「いや」
「敵の最新情報は」
「グラン・エルバ・ソンタールの貴族達と傭兵部隊だ」
 ベロフの頬がピクリとした。
「貴族はどうでもいい、傭兵隊長の名前がわかるか」
「ガッゼンと言うらしい」
 それを聞くなりベロフは部屋を駆け出した。それを見たクライバーがケラケラと笑った。
「思い出した。酒の席でロッティと大笑いしたんだっけ。確か西の将の要塞軍との戦いの時、ガッゼンと言う傭兵隊長がベロフの髭を馬鹿にしたんだ。それでベロフは逆上して、一人でガッゼンの傭兵部隊に突撃しようとした」
 バイルンが太い腕を組んでうなった。会議室の窓の外からガチャガチャという鎧と馬が走る音が聞こえてきた。デルが聞いた。
「何が起きるんだ」
 立ち上がって窓から外を確認したバイルンが、座っているデルを見下ろした。
「敵も味方も準備が整わないうちに、ベロフがガッゼンの軍に突入するって事だ」
「おい、敵は十八万もいるんだぞ」
「抜刀隊が二百人もいるんだ、俺なら手を出さないね」
 クライバーが剣に手を置いて立ち上がった。
「追いかけます」
 若い貴族はあっという間に消えた。デルは隣に座っているベゼラを見た。
「作戦参謀のベロフがこの状態だ。最も賢い戦法は何だと思う」
「相手はこちらの十倍以上の数です。いくら要塞にこもっていても勝つ事は無理でしょう。むしろ要塞を捨てて海に出た方がいいと思います。敵が要塞に入った所で海から攻める」
「その方法がいいな。バイルン、クライバーとベロフは止められると思うか」
「いいえ。でも相手が多過ぎますので、適当に端をかじって十日もすれば帰って来るでしょう。良い偵察になります」
「どうしてよりによってあの二人がここにいるんだ」
「むしろトルソンがここにいない事を幸運だと思ってください。トルソンならかじる程度じゃすまなくなる」
「そうか、残念だが要塞を捨てる準備をするぞ、二人が戻ったらすぐに収容してくれ」
「海に出るのはいつでも出来るでしょう。敵には船が無い。引きつけて様子を見ましょう」
 そう言って部屋を出ようとしたバイルンは、扉の横にいるバンドンに気付いた。
「君はクライバーを追いかけなかったのか」
 バンドンは両手を開いた。
「追いつけねえもん。それより要塞を捨てるんならいい考えがある。ソチャプの船を引っ張ってきて港の中央に横付けして行っちゃあどうだい」
 デルが机を叩いた。
「名案だ」
 もと山賊の頭は、部屋の中の諸将を見回した。
「もう一つ気になる事があるんだ。敵に魔法使いは後何人残ってるんだ」
 デルが妻になる女性と顔を見合わせると、ベゼラはふむとうなずいて指を折った。
「盾と剣の魔法使いはセルダン王子が倒した、今でも信じられない気分よ。短剣の魔法使いは狼にかみ殺された。残るのは総帥のガザヴォック、巻物のレリーバ、謎の冠の魔法使い、そしてここから逃げて行った小鬼の魔法使い。四人ね」
 バンドンが薄い頭を叩いた。
「大物はそんなところだろう。問題は、その次のクラスの奴さ。下っ端の神官のちょいとした魔法はまあ何とかなる。しかしそれより少し高等な魔法使いがここにやって来ると面倒だと思う。ここには聖宝の守護者もいねえ、翼の神の弟子もいねえ、世界中の裏側の世界に通じているバルトール人もいねえ」
 バイルンが顎に手をやって不精髭をかいた。
「つまり、どういう事だ」
「まあ、戦士と船乗りだけって事だ。お天道様の下で大笑いしながら、力でぶっ叩く連中しかいないって事だよ。俺の部下の山賊達だって、海辺の要塞じゃあ出来るこたあタカが知れてるぜ」
 デルが頭をかかえた。
「どうして気付かなかったんだろう。トーム・ザンプタくらい、もう少しここに留まっていてもらえば良かった」
 ベゼラが書類を丸めて口をとがらせた。
「気付かないくらい私達は魔法と無縁だったって事ね。ガザヴォックの周りには何人かの長老の神官がいて魔法をこなすそうよ。他にも要塞から逃げ出した神官達の中にはそれなりの使い手がいたでしょう。確かにこれはまずいわ、伝令鳥をセントーンに飛ばしてザンプタに戻ってもらいましょう」
「そうだな。バンドン、他に意見は無いか、どうやらお前の言う通りここでは細かい事に頭が回る者がいないらしい」
「念のため、海賊王のドン・サントスに連絡を取っちゃあどうでしょう。あそこにいたシャクラでも、敵の魔法に気付くくらいは出来るでしょう」
 デルが嫌だなといった顔をした。
「サントスと手を結びたくは無い」
「そいつは最高指揮官のあんたが決める事だけど。負けたらおしまいだぜ」
 そう言ってバンドンは要塞の窓から外を指差した。そこには大型の猛禽の群が舞っていた。

 南の将の要塞を奪回するソンタール軍の怒濤のような戦士の波の先頭に馬を走らせながら。黒衣の魔法使いメド・キモツは懸命に空に向かって杖を振るった。空には混乱したように不規則にコッコの群が飛んでいる。すでに風は潮風だった。
「ザラッカの奴、なんでコッコをここまで獰猛にしたんじゃ。扱い辛くてしょうが無い」
 同じように隣で杖を振っていたメド・ドボーレが答えた。
「ザラッカに支配されているうちにこうなっちまったんだろう。あ奴はこの上無く獰猛で破壊的じゃった」
「しかしそれにしてもあっけない最後だったそうだぞ」
 メド・ドボーレはちょっと怒ったようにメド・キモツを睨んだ。
「わしの生徒の中では突出していたんだぞ」
「それがなぜ負けた」
「うむ。ザラッカは恐ろしく破壊的だったが妙に悟ったところもあった。相手がカンゼルの剣の守護者だったというのが悪かった。敵軍を倒すのでは無く、剣の守護者と戦う事だけを目的としてしまったんだろう。他の相手ならば大暴れしていたろうに」
「剣の技におぼれる者にありがちだな。あの真っ直ぐな剣の光を見ているうちに皆、用心深さを忘れてしまう。わしの教え子のギルゾンの方がよほど狡猾だったわい」
「あれはあれで問題があった。神官学校はじまって以来、あれ程他の生徒に酷い仕打ちをした者はいない」
「だが容赦の無い強さもあったぞ」
「それで容赦無く狼に食われたのだよ。その場にもカンゼルの剣の守護者がいた。出発の前にザラッカの魂に会ってきたが、今回の剣の守護者は強大だという話だ」
 メド・キモツは文句を言った。
「じゃあ、わしらに相手は無理だ。ガザヴォック様はなぜわしらをここに派遣したんじゃろう」
 後ろから三人目の魔法使いメド・パンハルが近づいてきた。これは元ゾノボートの教師だった者である。
「南の将の要塞にこもっている敵には聖宝の守護者がいないからじゃよ。要塞に潜入している神官からの報告があった。剣と冠と巻物の三人の守護者はセントーンに向かった。ついでに久々に現れたトーム・ザンプタも行ったそうだ」
「本当か。なぜ黙っとった」
 メド・パンハルは涼しい顔だった。
「とっくに知ってると思っていたよ」
「やれやれ。敵はただの海賊と狂戦士か。こっちは教え子を殺された魔法学校の教師が三人と十八万の大軍。これは勝てるな」
「間違い無く」
 メド・キモツは疲れた腕を降ろした。
「コッコを解放してしまおう。わしらが気を抜いたとたんにコッコはどこかに行ってしまう。こんな面倒な生き物を使う必要は無い」
 メド・ドボーレも腕を降ろした。
「わしもいささか疲れた」
 メド・パンハルが首を振った。
「ここまで引っ張ってきたんだ。要塞まで連れて行ってから放そう」
 頭を綺麗に剃り上げた似たような姿の三人の老魔法使いは、ぼやきながらも馬を進めて行った。その後ろに轟々たる土煙を上げて大軍勢が続いている。
 ジョール侯爵の十八万の軍勢は大きく五軍に分かれる。中央に六万の兵を鱗型に敷いて堂々と進むのが、総大将マング・ジョール。五十代後半の重厚な貴族である。左翼に息子のラムレスの兵三万、右翼には盟友のオルソート伯爵の軍が四万。ラムレスの隣には、ラムレスの推薦でその友人のクラウス・ゼンダの軍が二万。オルソート伯爵の横には傭兵隊長ガッゼンの部隊二万が進んでいた。さらに後方に神官兵の一万が続く。これに対し、要塞軍は一万五千に過ぎない。
 ソンタールの大軍は緑の要塞を押し流す勢いで進軍して行った。

 (第十章に続く)

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