セントーン王国の首都エルセントの中央に美しくそびえる王城エルガデール。その城にある王の執務室をバルトールのマスター・リケルが訪ねた。
レンゼン王は部屋の奥の机に一人で座っていた。薄暗い部屋に差す光が老王の横顔を影にして、光の中にはまるで金粉のような塵が舞っていた。両手で包み込むようにカップを持ってお茶を飲んでいたレンゼン王が、リケルに気付いて白い眉を上げた。
「この城にはすっかり人気が無くなってしまったね」
小柄で品の良いマスターは軽くうなずいた。
「そうですね。元気のいい連中ばかりだったので、いなくなると余計に静かになります」
「情勢を説明してくれ」
リケルが手にしていた紙の束をめくった。
「マスター・アントが発案した、ユマールの将が上陸出来そうな川と港の底への障害物の設置は完了しつつあります」
「ふむ。どの程度ライケンを防げるかな」
「残念ながら時間稼ぎにしかならないでしょう。完全な封鎖はできませんし、小舟でも上陸出来ます。ある程度兵を下ろせば船が軽くなるので船底が障害物にかからない所まで浮上してしまいます」
「やむをえんか。簡単には負けないぞ、と言うこちらの決意を見せつけるだけでも良い。そのアントンは今どこにいるんだ」
「フスツ達と共にダワにいます。いかにライケンとて、まさか守備が一番堅いエルセントを直接襲う事は無いでしょう。どこかに上陸して軍勢を整えるはずです。しかし、港の設備が無ければ艦隊も接岸出来ません。最初に上陸するのはおそらくある程度の規模の港があるダワかトルマリムという事になるはずです。ライケンの艦隊はマルバ海を一度南下してから北上してくる航路を取っていますので、南のダワに上陸する可能性が高いと思われます」
「なる程。しかしなぜザンプタやサシ・カシュウまで、アントンに付いて行ったんだね」
「ザンプタは、南のほうで水に関して何か嫌な予感がすると言っていました。この星の海に生まれた最初の生物ですから、水の異変を察知する能力があるのでしょう」
「サシ・カシュウは」
「歌を集めるそうです。セントーンの南方にはザイマンとは違った舟歌がたくさんありますので」
「ふうむ、どこまで行っても吟遊詩人というわけだ。さて、それでは東の将の様子を聞こう」
「ハダラを攻め落としたキルティアの軍は川を遡ってサガヤを包囲しました。ただ五十万の軍の全軍ではありません。キルティア軍の一部の二十万はすでにトラム川を渡ってルボン平原に入りました。さらに十万がダワに向かってます」
「ダワか、アントン達がいる所だな。しかしずいぶん思い切って軍を分けたものだ」
「はい。軍を分ければ当然弱い部隊からこちらの攻撃を受けます。往々にして全軍の崩壊に繋がりかねない行動ですが、それを承知で分けたという事はおそらく五十万の兵の食料が調達できないのでしょう」
レンゼン王はゆっくりと立ち上がると、窓越しに南の方角に目を向けた。
「トラム川を渡った軍を除くと、サガヤに二十万。ダワに十万の敵軍か。持ちこたえられるだろうか」
「ダワに敵が辿り着くにはまだ時間があります。十分な準備が出来ればおそらく大丈夫でしょう。しかしサガヤ陥落は時間の問題だと思われます。援軍を指揮しているゼリドル王子の元には十五万の兵が集まっていますが、トラム川を渡った二十万のキルティア軍に行く手を阻まれています」
レンゼン王が長い髭をしごきながら尋ねた。
「その二十万はどんな軍だ。東の将自らが指揮せぬ軍なら、五万人少なくともゼリドルで十分に戦えるはずだ」
「この二十万はソンタール本国からキルティアの元に送られた増援軍です。 複数の貴族が指揮していますが、志気はまだそれ程高くないようです。この貴族達はライケンの支持者で知られる者達ですので、おそらくライケンがやって来ればその指揮下に入るつもりでしょう」
「なる程、キルティアにしてみれば競争相手の手元にまわる可能性すらある軍だな。適当に死地に追いやったわけだ」
「はい。とにかくゼリドル王子の軍の兵を減らせれば良いといった所でしょうが、貴族達もそれは承知していますので、中々ルボン平原の中まで入って来ません」
「なる程。いつもの守りの戦いならゼリドルも相手にしない所だが」
「ええ、しかし相手にしなければサガヤを救えません。ゼリドル王子のほうから激しい攻撃を仕掛けています」
「うむ。それでサガヤはどうだ」
「サガヤの指揮官メッセルメ男爵は、文字通り背水の陣を敷いて激しい抵抗をしていますが、むしろ都市を捨てるべきでした。今のままでは住民ごと皆殺しになってしまいます。ハダラで黒の神官達が住民に行った虐殺はご存知でしょう」
レンゼン王の瞳に薄く涙が浮かんた。
「ああ、あれは痛ましい出来事だった。黒の神官は絶対に許せん。しかしメッセルメは大量の大砲を城壁に配備しているはず。サガヤは強い要塞都市だ。それでもゼリドルは間に合わんか」
「おそらく」
レンゼン王は悲痛な表情で目を伏せた。
そのサガヤが陥落したと言う知らせがエルセントに届いたのは数日後の事だった。
戦闘が終わった戦場の煙の中に東の将キルティアは立った。美しい頬にはかすかに擦り傷が付いている。キルティアは頬の傷についた血を手の甲でぬぐって舐めてみた。
(自分の血を舐めたのは何年ぶりだろう。若い頃、首都での訓練の時以来かもしれない。サガヤの抵抗は激しかった。これではエルセントに辿り着くまでに兵が疲弊しきってしまう。ダワに食料を奪いに行った軍が最後まで無傷で残ってくれれば良いが)
キルティアはすぐに水路の建設を部下達に指示した。トラム川とランスタイン山脈の麓まで敷かれている毒の水路を繋ぐためだ。そして山猫がこの事をレリーバに伝えるために要塞に走った。
(これでトラム川は毒の大河と化す)
数日後、トラム川を渡ったキルティアの大軍はついにルボンの大平原に踏み込んだ。見渡す限り草原が続く雄大な平野。そこでキルティアが最初に目にしたのは算を乱して退却してくる味方の軍隊だった。先にトラム川を渡った軍がゼリドルの軍に敗れたのだ。
キルティアはその敗残軍を収容して草原に進軍した。行く手には幾重もの陣を敷いて、ゼリドルのセントーン軍が待ちかまえているはずだった。
・・・・・・
マルバ海の大海原を、一隻の高速艇が猛スピードで進んでいる。船にはシャンダイアの三人の外交官、カインザーのアシュアン伯爵、サルパートのエラク伯爵、バルトールのマスター・モントとソンタールの皇子ムライアックが乗船していた。
その船の甲板の上で、今まさにアシュアン伯爵の怒りが爆発する所だった。アシュアンは頭上ではためく帆を指差して船長にどなった。
「いったいどうなってるんだこの船は」
オドオドする船長を見ながら、マスター・モントが顎をなでた。
「帆は何の役にも立っておらん。どうやら全く操船が出来ないらしい」
そして船長に尋ねた。
「それで、どっちに流されてるんだ」
中年の人の良さそうな船長が震えながら答えた。
「それが不思議な事に北に向かっています。このあたりにこんな海流は無いはずなんですが。しかも恐ろしく流れが速い」
「このまま北に進むと何処に着くんだ」
「たぶんセントーンの北方のソーカルスあたりだと思います」
「やれやれ。無事陸地に着いたとしても、首都エルセントまではかなり陸上を旅せねばならんな」
その時、蒼白な顔で船縁から海の中に吐き続けていたムライアックが振り向いた。
「みんな聞いてくれるかい」
モントがうるさそうに振り向いた。
「何だ。泣き事なら聞き飽きたぞ。エラクのように船室に入って寝とれ」
「そうじゃない。みんなこの数日の間に海面を見たか」
アシュアンが応じた。
「みんな方角を確認するための星と、操船に必要な風ばかり気にしとったよ。海面を見てたのはおまえさんだけだろう」
ムライアックは不機嫌そうに言った。
「だから私だけが気付いたんだ。しばらく前から黒いんだよ」
「何がだ」
「海面さ。青でも緑でもなくて黒いんだ」
皆が船縁に乗り出して見下ろすと、海面は真っ黒に見えた。 皆しばらく不思議そうに海面を見つめた。しばらくしてアシュアンがグッタリしているムライアックに尋ねた。
「なる程、私たちは気が付かなかった。それで、どう思う」
「どうって」
「一番長く海面を観察していたんだろう、なぜ黒いんだと思うかね」
ムライアックは苦しそうに甲板に仰向けに転がった。
「何か黒い物の上に乗っているみたいだ」
皆は顔を見合わせた。アシュアンが蒼白になって言った。
「これが原因か。何かが船を運んでいるんだ」
船は船上であわてる人々を無視するかのように、さらに速度を上げて北へ北へと進み続けた。
(第八章に続く)
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