シムラー第三の島は、大人の男が三十人で手を繋いでも囲みきれない程の大木が、ほぼ同じ間隔を置いて一面に立ち並ぶ不思議な光景の島だった。木々は遙か上空に枝を張って濃い緑の葉をつけていたが、木と木の間隔が開いているため、地上は明るい日差しに照らされて白く光っているように見えた。聖宝の守護者達はその木の下を黙々と島の中央部に向かって馬を進めた。やがて一本の大木の下でクラハーン神の神官デクトが馬を降り、地面に張り出した自分の背丈程もある太い根に手を当てると、真っ直ぐに幹を見上げた。木漏れ日が幾筋も差す中に立つデクトのその姿には、聖宝の最高神の神官にふさわしい神々しさが備わっている。その姿にだんだんと力が溢れてきたように見える事に、他の者達は気が付いた。
デクトは微笑みながら言った。
「この木の上に宿があります」
馬を飛び降りたベリックと、馬の背から優雅に滑り降りたエルネイアが手を叩いて喜ぶと一緒に叫んだ。
「面白ーい」
一行はそこまで乗って来た馬を緑の下生えの地上に放ち、大木に螺旋を描いてからみつく驚く程に太い蔦の上を歩いて木の上に登り始めた。
デクトが意識の無いアーヤを両腕に抱いて先頭に立った。続いてエルネイアとスハーラの二人の若い女性がスカートの裾を気にしながら続く。エルネイアはかかとの高い靴を手に持っていたが、太い蔦の表面は滑らかだったので、繊細な足の裏を傷つける事は無かった。その後に続いた二人の戦闘タイプの守護者、身軽なベリックと鍛え抜かれた肉体を持つセルダンはその登坂を大いに楽しんだが、守護者達のしんがりを受け持った巨漢のブライスは肩で息をして友人達の後を懸命に登って行った。すり切れた赤いチョッキは埃と汗で茶色に変色している。最後尾にいたマルヴェスターがブライスの尻を杖でつついた。
「しっかりせい」
ブライスは汗だくで振り返った。
「ああ。わかってんだが、足が言う事をきかねえ。まったくとんでも無い所に宿をつくったものだ」
やっと辿り着いた大木の上の太い枝の間には、平たい屋根の小屋が建っていて、中には乾いた木を組んで作られた暖かい空間があった。小屋の中を覗いたスハーラが嬉しそうに微笑んだ。
「快適そうね」
ブライスは肩で息をしながら部屋に入ると、カツカツと足音を立てながら真っ直ぐに大きな窓に歩み寄って下の林を見下ろした。
「デクト、暁の座ってのはどこにあるんだ」
アーヤをソファーに寝かせたデクトがブライスに並ぶと、腕を水平に伸ばして前方を指差した。その指の先にはやはり巨大な木が立っていた。
「もちろん木の上です」
「どうやって行くんだ」
デクトは今度は床を指差した。
「もちろん、一度降りてあの木の下まで行って」
そして指を上に向けた。
「また登るんです」
ブライスは腕を組んでデクトを睨み付けた。
「なぜ先にそっちに連れて行かなかった」
デクトはすずしい顔をして答えた。
「クラハーン様が、あなたを夜に寄こせとおっしゃいましたので」
ブライスはがっくりと肩を落とした。
「やっぱりなあ。世の中は俺が望まない方にばかり動くのさ」
長身のデクトが自分と同じ高さのブライスの顔を見つめた。
「あなたは変わった方だ。聖宝の守護者の中のあなたの役目は道を差し示す事です。皆の先頭に立つべき人なのに、いつも否定的な意見ばかり言われる」
床に置かれた大きなクッションに座り込んだマルヴェスターがクツクツと笑った。
「不思議だな。どういうわけかエルディ神はそういう者ばかりを守護者に選び続けてきた」
窓に近寄ったスハーラがブライスをかばうようにそっと言った。
「たぶん、そういう用心深い人が、導き手としてふさわしいのでしょう」
ブライスはどさりと窓に腰掛けた。さすがに堅固に組まれた木もギニュッと苦しげな音を立てた。
「それがいつも疑問だったんだ。俺は皆を導いたという経験なんて無いぞ」
部屋の中央で、テーブルに置かれたカゴに入ったお菓子をつついていた他の守護者達が振り向いた。これまでずっとブライスと一緒に旅をしてきたセルダンが首を振った。
「いや、何度もあるよ。カインザーでも、サルパートでも、ザイマンでも。君はいつも僕達を案内してくれた」
「そうだったかなあ。でも誰でも一度くらいは先頭に立った事があるぜ」
デクトが言葉を挟んだ。
「おそらく、この先にあなたの出番があるのでしょう。しかしこれまでにあなたと他の守護者の方々の成し遂げた事は偉大と言っても良いと思いますよ。三つの要塞を落とし、二人の将と三人の魔法使いと三体の巨獣を倒したのですから」
ブライスは寂しそうな目をした。
「その中心にいたのはセルダンだ」
セルダンが少し強い口調で反対した。
「違うよ。みんなで成し遂げたんだ。ドラティはベリックが短剣で倒した。ギルゾンはスハーラさんの魔法で解放されたルフーが、デルメッツはバイルン達が倒した」
ブライスはセルダンを見つめた。
「だが戦いの中心は常に剣だった。剣が無ければ誰もソンタールの攻撃に抵抗し続ける事は出来なかった」
セルダンが見つめ返した。
「どうしたんだブライス。何だかおかしいぞ」
スハーラがブライスの肩に手を置いた。
「疲れているんだわ」
スハーラはデクトに尋ねた。
「暁の座の場所はわかったわ。夜になったら私がそこまで送って行っていいかしら」
「ええ。もちろんです」
その夜、カードゲームを始めた他の守護者達を残して、カスハの冠を無造作に手にしたブライスとスハーラは木を降りた。地上で馬達が薄闇の中に静かに立っていた。ブライスの乗馬のスウェルトの葦毛の巨体が馬達の中央でひときわ目立つ。そんな中でフオラだけが、待っていたかのように歩き出した二人の後に従ったが、
ブライス達は気にもとめなかった。
月と星の光は太陽の光と違って均等に木々の間の地面を照らし、夜の森は静謐な静けさに満たされている。ブライスは突然それが不思議に感じられた。
「恐怖を感じない夜の森というのはこんなにも安らぐものなのか」
スハーラがブライスの腕に自分の腕をからめた。
「おそらく、バステラ神の夜というのはこういう安らぎに満ちた時間だったのよ。それをガザヴォック達が恐怖に変えてしまったんだわ」
二人は暁の座のある木の下に着くと、ゆっくりと蔦で作られた螺旋の道を登り始めた。フオラは器用に蔦を登って付いて来た。中程まで登ると薄い霧があたりを包み、やがて栗毛の馬が前を行く二人の人間に声をかけた。
「憶えてるかいスハーラ」
スハーラが振り向いてフオラの鼻面をポンと叩いた。
「うーん、あなたが話す事が出来るのは憶えてる。でも、浄化の座で何があったのかは憶えてないわ」
ブライスがギョッとした。
「おい、フオラ、お前は話せるのか」
馬はブフゥと鼻息をブライスに吹きかけた。
「もちろん話せるよ。君達に僕の言葉がわからないだけさ。この魔法の霧のおかげで君たちにもわかるんだ。ベリックとスハーラの試練は僕が見届けた」
「ほう、霧を出てもお前には記憶が残るのか」
「ああ、もちろん」
スハーラとブライスが顔を見合わせた。スハーラが言った。
「馬と会話が出来るエレーデだけが、ここで起きたすべての事をフオラから聞き出す事ができるわけ」
ブライスがうなずいた。
「そのために、クラハーン神はエイトリ神を通してエレーデに能力を授けたんだ」
「いずれ、ここに来る守護者達のためにね。おそらく各世代ごとにいつもエレーデのような子がいたのよ」
二人と一頭は長い道を登り切った。
大木の上には巨大な切り株のような円盤があり、その円盤の中央にがっしりとした体格の男が背を向けて立っていた。月光に縁取られたその姿を見た時、ブライスは父親を思い出した。ブライスとフオラが円盤の中央に進み、スハーラは暁の座の外に残った。
クラハーン神が顔を向けて低い声で話しかけた。
「どうしたブライス」
ブライスは正直に答えた。
「親父を思い出しました。もうこの世にはいないのでしょうが」
クラハーン神がブライスに向き直った。ブライスは月光を背にした神の姿を確かめようと目をこらした。その時、人影が三つになった。
(なにっ)
三つの人影の中央の一つが後ろに下がった。そして左側の一つが一歩踏み出した。ブライスには踏み出した人物の顔がわかった。自分を少し小型にしたような体格、潮と海風にさらされた荒れた頬、真っ白な髪。
「親父」
ブライスは父親がこれ程年老いて、自分より小さくなっていた事にあたためて気付いた。後ろに下がった人影が言った。
「ミッチ・ピッチに言って、魂をよこしてもらった」
そこでなぜか月光の角度が変わり、三つの人影がはっきり見えるようになった。左にザイマンのドレアント王、右に侍従長のロタス。そして中央の一番後ろに重厚な貴族然とした人物が立っていた。ブライスはそれがクラハーン神だとわかった。
「ミッチ・ピッチがあなたの配下だとは知りませんでした」
クラハーン神は軽く手を振った。
「まさか、友人だよ。彼女達は私より古い存在だ」
ブライスは姿勢を正すと父に手を差し伸べた。しかしドレアントは手を上げて遮った。
「触れる事は出来ん。俺とロタスの肉体はトンポ・ダ・ガンダにある」
ブライスの瞳に涙が溢れた。
「よく戦いましたか」
ドレアントが顔いっぱいに笑みを浮かべた。白い歯が印象的だった。
「存分に戦った。ライケンの戦艦を三十隻も沈めた」
「それはありがたい。セントーンのゼリドルが喜ぶ」
「残念だがライケンの艦隊はまだ三百七十隻も残っている。もうそろそろセントーンに押し寄せる頃だ。早く帰れ」
「わかっているさ。アーヤの魂を取り戻したらすぐに帰る」
ブライスは次にロタスに声をかけた。
「親父に付き合って死ぬ必要は無かったぞ」
華奢な侍従長がお気に入りの白い帽子を手に微笑んだ。 白い宮廷衣装が月光に柔らかく光って見える。
「私はドレアント王の侍従長ですので。ブライス様、あなたもまたご自分の宮廷を作り、良き王におなりなさい」
「そいつはどうかな」
ブライスはクラハーン神に向き直った。
「俺は何をすれば良いのですか」
「冠を出しなさい」
ブライスが手の中の冠を差し出した。
「あなたには似合うと思いますよ」
「私はまだいらん。父に預けてみよ」
「持てるのか、親父」
ドレアントが笑って息子の手から冠を受け取った。そして大きなマントの下からすすけた感じの汚れた冠を取り出した。クラハーン神が言った。
「私の冠だ」
「交換ですか」
「かぶってみるがいい」
ブライスは父の手から冠を受け取ると頭にかぶってみた。すると目の前に立つ父親の姿が二重に見えた。だぶった二つの姿の一つは光に、一つは薄汚れた闇に包まれている。ブライスは突然恐怖に襲われた。クラハーン神が尋ねた。
「どんな感じだ」
「何ですかこれは、何かとても恐ろしい」
「私がバマラグの声に振り返って以来、見続けている光景だ」
「なんと。どうしてこう見えるのでしょう」
「そなたも光の守護者だからだ。完全な光に不完全な闇が重なっている」
ブライスはクラハーン神の姿を見つめた。そこにもやはり闇が錆びたような影を落としていた。
「どうすればいいのですか」
「闇を取り払うか、闇も完全にして光と闇の両面を見られるようにするかだ」
しばしの沈黙が降りた。ブライスが耐えきれなくなったように聞いた。
「外していいですか」
「ああ」
ブライスは冠を手に持った。
「難しい問題ですね」
「だから三千年間も迷っているのだよ」
ドレアント王がカスハの冠をブライスに手渡した。ブライスは二つの冠を持った。
「もう一度聞きましょう。 俺は、何をすれば良いのですか」
「そなたも悩みを抱えているな。まず、そなたの悩みを聞かせてくれ」
ブライスがチラリと父親を見て咳払いした。
「お見通しですね。ええ、悩みの種はこの冠です」
ブライスはカスハの冠を目の高さに持ち上げた。
「カスハの冠は常に先頭に立つ者の勇気のあかし。道をひらく冠なり。しかしシャンダイアの聖なる冠の守護者として、皆をどこに導けばいいのかわからないのです」
「そなた自身はどこに行きたいのだ」
「未踏の大陸」
ブライスはふと顔をあげた。
「未踏の大陸こそが皆を導く先という事があるでしょうか」
クラハーンは首を振った。
「それは無い。私が知っているすべての力はあの大陸の外にある」
「ならばそこに行く時にはすべての力を投げ出して行くという事ですね」
「そうだ。そなたの行く道は遠き道ぞ」
「人生ってのはとどのつまり、一本道でしょう。行くしかない」
それを聞いたドレアント王がブライスを睨み付けた。
「俺はそんなふうに教えたか」
そこでブライスはハッと気づいて、汚れた冠を見つめた。
「黒い冠の特性は何ですか」
三つの人影は沈黙したままだった。ブライスは独り言のように言った。
「そういえばエルディ神が言っていたなあ。未来はいくつもあって、自分はその予兆を感じるだけだと。後は人が努力をして自分が望む道をつかむのだと」
そして二つの冠を持ち上げた。
「光の冠がいくつもの未来を見せるなら、闇の冠が見せる未来は」
そして光の冠を下ろした。
「ただ一つ、闇の未来」
クラハーン神がうなずいた。
「しかしそれだけでは無い。それを見つけ出すのがお前の試練だ」
「その試練はこの場で終わるのでしょうか」
「時間は無いよ」
夜が流れ、ブライスは月光の下に立ち尽くした。
考え疲れてブライスがふと目を上げると、侍従長のロタスの姿が消えていた。ブライスはあわてて父の姿を探した。ドレアント王はまだ静かに立っていたが、しかしその姿もやがて薄れて消えていった。そしてさらに時間がたち、あたりが明るくなってきた。
ブライスが途方に暮れかけた時、クラハーン神が木の上からシムラーを取り巻く北の海の水平線を指差した。
「暁だ」
その時、強い光がブライスの目を射るように差し込んだ。 ブライスが逆光で真っ黒い影になった神に並んで立つと、太陽が低く昇って来た。
ブライスは闇を取り払って水平線に輝く太陽を見て気が付いた。
「黒い冠は過去も消すのです。黒い冠の道は前に一つ、後ろには何も無い」
ブライスの手の中で錆びた冠が消えた。クラハーン神の顔に嬉しそうな皺がたくさん寄った。
「感謝するぞ。お前が皆を導く道の答えもそこにある」
「黒い冠にあるのですか」
クラハーン神は黙って姿を消した。ブライスの後ろでフオラが優しくいなないた。
「今は迷わなくていいよ。どうせ忘れちゃうんだから」
ブライスはフオラの首を軽くなでると、ゆっくりと暁の座を出た。
・・・・・・
旧バルトール王国の首都ロッグ。ようやく復興の途に着いたロッグに、二人の女性がやって来た。一人は東から馬で、もう一人は西から馬車で。打ち捨てられた都ロッグは人々の目指す都になりつつあった。
マスター・メソルは乾いた風の中をトクトクと馬に揺られていた。 頭巾を取り払った黒い豊かな髪は風のままに吹かれて都のほうにたなびき、額では宝石が柔らかく光っている。夏の大地は埃っぽい。土の中で白く見えるのは何が混じっているのだろう。メソルはそんな事をふと考えた。
やがてバルトールの女指導者の目は地平線の中央に、ロッグの象徴でもある塔の姿をとらえた。夕陽を受けた塔はとても美しい。その時、塔のまわりに無数の輝きが見えた。それが新しく建てられた建物の窓ガラスだとわかった時、メソルは涙で前が見えなくなった。
(いつもは光を受けて輝く建物はただ一つだったのに。まるで大地に星が咲いたようだ)
ゆっくりと近付いて行くと、かつて均一な色で塗り分けられていた小さな家々は思い思いの色で塗られ、煉瓦づくりの家の建築も始まっている。
メソルは馬に運ばれるようにロッグに入った。もう夕暮れだというのに街は華やいでいる。都市の中央の塔は明るく輝き、その近くの王宮の跡には壮大な整地が施され、巨大な櫓の上に黄色い旗がはためいていた。街の中を進むと一軒の宿の屋根にも黄色い旗が立っている。ここがおそらくベリック王がマサズに軟禁されていた時に宿泊していた宿だろう。行き交う人々の間を進んだメソルは、次に建築中の立派な教会に目をとめた。
(これは)
立ち止まったメソルの目に小柄な黄色い衣の神官の姿が映った。かなりの高齢と思われる神官が染み入るような笑顔を見せた。
「メソルよ遅かったな」
メソルはそれが伝説の神官である事に気づいた。
「ナバーロ様ですね。初めまして、メソルです」
メソルはゆっくりと馬から降りて尋ねた。
「どうしてここに教会を」
「ベリック王の指示だ。ここはボック侯爵の屋敷跡、ボックの妻と息子の最期の場所なんだよ」
「そう、でしたか」
ナバーロの横にいつの間にか黒い髪の美しい女性が立っていた。
「バリオラ様」
「お帰りメソル。そなたとナバーロにはしてもらう事がたくさんあるよ」
「はい。お望みのままに」
「世界中からバルトールの民が戻って来ている。マスター・トンイは、この先当分の間戦場で暮らす事になるだろう。ロッグの再建は神官と巫女達の手によってなさねばならぬ」
「はい。しかし」
メソルはナバーロの様子をうかがった。
「ナバーロ様は大丈夫ですか。具合が悪いとエルセントでうかがって参りましたが」
「ああ、大丈夫だよ。まだ死ねん。もうすぐ後継者がやって来る」
「後継者ですか」
「ああ、一時期ベリック王の身替りをつとめていたダンジという少年だ。エレーデ様と一緒にやって来る」
メソルはそれを聞いて嬉しそうに言った。
「ついに来ますね」
バリオラ神が晴れ晴れとした顔で笑った。
「そうよ、バルトールの王家が復活するの」
そして女神は淡い光を残して消えた。
その数日後、馬車に揺られてクチュクとダンジ、エレーデが着いた。エレーデはサルパートを離れて、初めて見る大きな都市に黒く綺麗な瞳をまるくして驚いた。不格好な家々が残る作りかけの都市でも、山で育ったエレーデには驚きだったのだ。
少女は旅の始めの頃はサルパートの巫女の白い服を着ていたが、今では動きやすいバルトールの商人風のゆったりとしたズボンと幅広の帯をしめている。その姿で止まった馬車からポンと飛び降りた。
「ここがロッグなの。面白い家ね」
クチュクはちょっと辛そうな顔をした。
「今はこんな家しか見せられません。しかしすぐに立派な家々が建つでしょう。ベリック王の治める都です」
「素敵だわ」
エレーデは誇らしげに顔を紅潮させた。
やがてマスター・メソルとナバーロが数人の巫女の見習達を連れて迎えに来た。クチュクはメソルとナバーロに困ったような声で報告した。
「どうにも道が物騒で遅くなりました。ここまでの途中の町々はバルトールの兵でいっぱいです。私達は安全な村を縫うようにしてここまで辿り着きました」
「リナレヌナで戦っているからでしょ」
「それはそうなんですが。バルトール人は本来血気盛んな国民ですから、兵が増えてなんとなく人々の心が荒々しくなってきているようですよ。治安もあまり良くない」
ナバーロがメソルに言った。
「そろそろバルトールの再編をしなければならんぞ。ロッグを中心にきちんとした体勢を敷かねば」
その夜、都市の中心の塔の最上階の部屋に、ロッグの復興を担う者達が集まった。神官長のナバーロと巫女の長マスター・メソル。そしてクチュクとダンジ、エレーデである。
メソルが皆を見回して口を開いた。
「ベリック王は他の聖宝の守護者達と一緒に戦いを終わらせるために努力しています。マスターと、巫女と神官で王が戻られるまでにしっかり組織固めをしなければなりません。私はここで巫女を組織いたします」
ナバーロがうなずいた。
「わしは神官達を鍛える」
そしてダンジに目を移した。
「どうだね。バリオラ神の神官になってみる気は無いか」
これまでずっとベリック王や、マスター達の姿を遠い階級の者として接してきたダンジ少年はびっくりした。
「私は、バリオラ神の神官になるなんてこれまで考えた事もありません」
ナバーロは笑った。
「もちろんだろう。 二千五百年もの間、バリオラ神ご自身が囚われの身だったのだから。神官など何の用も無かった。だがこれからは違う。神官は神と、王家と、民衆を繋ぐ大切な役目を負う事になるのだ」
ダンジは困ったように隣に座っているクチュクを見た。
「クチュク様はどう思われますか」
クチュクはダンジの肩にやさしく手を置いた。
「ポイントポートで、エイトリ神の訪問を受けたろう。あの時、私がエイトリ神に尋ねたのがお前の将来の事だったんだよ。 エイトリ神はロッグに行けばわかるだろうとおっしゃった」
ナバーロがダンジに言った。
「それがこの事だろう。はっきりとは決めなくて良い。しばらく私を手伝って欲しい」
「はい」
ダンジは少し嬉しそうな顔でうなずいた。少年も自分の行く先に不安を感じていたのだ。ナバーロは机をポンと叩いた。
「よし、民衆の精神的な支えは我々で頑張ろう。しかし政治の中心はやはりトンイであろう」
メソルが不信な顔をした。
「大丈夫でしょうか。マサズやピスタンの影に隠れていたので、私にはあの男の力がよくわかりません」
「中々の男だよ。王が信じたのならば我らが信じないわけにはいくまい」
「それはそうですが。で、他のマスターは」
「さて、わしはランスタインの山の中にいたためによく知らない事が多い。クチュク」
小太りの男は楽しそうに後を引き継いだ。
「モント様は成り行きで外交担当という事になりました。おそらく、適任でしょう。リケル様は宮廷内の切り盛りにうってつけだと思われます」
「でしょうね。でもケイフは根っからの商人だから、ユマールを離れる事は無いと思うわ」
ナバーロは肩をすくめた。
「ふむ。そういう男も必要だ。もしかしたら他のマスターの空いた所の儲けを全部持っていかれるかもしれんな」
「それは困ります」
クチュクがあわてて両手を振った。
「サルパートとカインザーは私が根回しをした者達の商売がうまくいきつつありますので」
「なる程。まあいいだろう。アントという少年はカインザー人だと言う事だが」
メソルが答えた。
「エルセントで会いました。王ともダンジとも仲が良いのですが、カインザーの男爵の跡取りでもあります。バルトールの中ではなく外からの助けになるでしょう」
ナバーロがメソルに尋ねた。
「ふむ。グラン・エルバ・ソンタールのマスターはどのような男だ」
メソルの目が鋭くなった。
「おそらく、ベリック王を除けば全バルトール人の中で最も人の心を惹きつける男でしょう。雄大な体格、整った顔、黒く長い髪。深い目」
クチュクが笑った。
「お詳しいですな。」
メソルがちょっと赤くなった。
「若い頃によく知っていたの。死んだマスター・マサズはロッグの支配を背景に旧バルトール勢力の中心にいました。しかし、ジザレは新しいバルトールを作ろうとしているのです」
ナバーロが興味を示した。
「どんなバルトールなんだね」
「それは」
メソルは口ごもった。
「言ってみるが良い」
「はい。神無きバルトールだと言っております」
「バリオラ様が復活しないと思っていたわけだな」
「はい。王も女神も、もう帰ってこないと言っておりました」
「ベリック王が戻り、バリオラ様が復活された兆しにも人々が気が付き始めている。その今になってもか」
「それがわからないのです。いっそ女神の復活をナバーロ様か、私が宣言してしまってはいかがでしょう」
「いや、まだ早い。王が戻られてからだ。そうしなければむしろ民衆が混乱するかもしれない」
クチュクが薄い口ひげをなでた。
「もう一人いますよ。問題を起こしそうな男が」
メソルが眉をひそめた。
「誰」
「イサシの死が確認されていません」
その頃、カインザーのロッティ子爵はバルトール兵を引き連れてランスタイン大山脈の山岳地帯に兵を展開していた。太ったトンイは見かけによらず素早く山の斜面を動き回って兵を指揮していったが、身軽なはずのロッティのほうが先に息を乱した。たまらず一休みしたロッティの隣にトンイが座った。
「ソンタール軍は街道の降り口にあるベルターンのオアシスを中心に展開しています。街道沿いに長々と駐屯していますので、側面から攻撃を仕掛ければ襲撃は成功するでしょう」
「よし。山を降りて来たくないのならこなくてもかまわん。こっちはカインザー人だけじゃないという事を思い知らせてやろうぜ」
その日の夕方から夜にかけて、トンイの指揮するバルトール軍がソンタール軍に攻撃を仕掛けた。
バルトール軍はソンタールの大軍の後方から全軍を追い立てるように矢を仕掛け、浮き足だったソンタール兵達の側面から襲いかかって長蛇の陣を寸断した。バルトール軍はロッティの指揮の元で十分に訓練を積んでいたので、その攻撃は予想以上に見事に行われ、ソンタールの大軍はまたたく間に大混乱に陥った。
小一時間の激しい戦闘の後、さすがにトンイがヒイヒイいいながらロッティの元にやって来た。
「どんな感じでしょう」
「よくやってるぞ」
「それは良かった。しかし、まだまだ未熟で、敵を圧しきれません」
「ふむ」
ロッティは鋭い目で、山道の各所で行われている戦闘を見渡した。
「この敵は強いぞ。普通のソンタール軍じゃない」
「まずい状況ですか」
「こんな隊列で側面から攻撃を受けたんだ。普通ならボロボロになっていいはず。それが必死に踏みとどまって戦っている。よし、このあたりで引いておこう。今日の戦果は十分だ」
バルトール軍は一斉に山に引いた。ソンタール軍は山の中までは追いかけてこなかった。ロッティは山道を歩きながら各部隊の指揮官を集めるようにトンイに頼んだ。そして指揮官達が集まると尋ねた。
「誰か敵の指導部に攻撃を仕掛けたか」
指揮官達は首を振った。
「いいえ、相手にしたのはただの兵達だけです」
ロッティはトンイを見た。
「どう思う」
「これ程の大軍をまかされている将の本陣が見あたらないのはおかしいですね。嫌な予感がします」
「そうだ。すぐに探り出してくれ」
その夜、たき火を囲んで食事をしていたロッティの元にトンイが戻って来て言った。
「わかりました。ソンタール軍から兵士を適当にさらってきて口を割らせました」
「それで」
「どうやら一万の兵を連れて山の中を東に向かったそうです」
「東か」
「冬ならば無理でしょうがこの季節ならば」
「東には何がある」
トンイは首をかしげた。
「まさか月光の要塞では」
ロッティは舌打ちした。
「まずいぞ。からっぽだ」
その時、給仕をしていたリビトン老人がボソリと言った。
「思い出したんだがなあ」
「なんだいリビトンじいさん」
「鬼がいるっちゅう話だよ」
「鬼だと」
「ああ、山ん中に鬼がたくさんいるっちゅう伝説があるだ」
トンイがうなずいた。
「そういえばそんな話がありました。おとぎ話の世界ですが」
ロッティは首を振った。
「いや、ゾックの繁殖地がランスタインの山奥だと聞いた事がある。トンイ、やはりパール・デルボーンについて徹底的に調べてくれ」
「わかりました。月光の要塞はどうなさいます」
「しばらくは手の打ちようが無いだろう。リナレヌナから兵を動かせば、山の上の大軍が降りてくる。しかし一万くらいの兵で月光の要塞に入った所で身動きは出来ないはずだ。いざとなれな俺の騎馬部隊が一気に駆けつけて叩き潰してやる」
そう言って、トンイを安心させたものの、ここに至ってロッティは自分達が相手にしているのが尋常な敵では無い事に気が付いていた。
(第九章に続く)
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